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☝「従来の9イニング制を推奨」 宮崎県高野連が日本高野連に意見報告へ
https://news.yahoo.co.jp/articles/ede0e13778f157e595dc25818dad2c55c4f3ea0f

高校野球で導入が検討されている7イニング制について、宮崎県高校野球連盟は、県内各校のアンケート結果から、従来の9イニング制を推奨したいとする意見を日本高校野球連盟に報告する方針であることが分かりました。

高校野球での7イニング制の導入を巡っては、部員数の減少や選手への負担軽減の観点から、今年1月、日本高野連が検討会議を発足し、議論が進められています。
こうした中、県高野連は、8月の県新人大会で全国で初めて公式戦で7イニング制を試験的に導入し試合を実施。大会後に、参加した各校の監督や部長らから、7イニング制についての意見をアンケートで集約しました。

県高野連によりますと、集約した意見のうち、メリットとしては、「試合時間の短縮でゲーム展開がスピーディになる」、「熱中症のリスク軽減やケガ防止につながる」などの意見が寄せられたということです。一方、デメリットとしては、「選手の打席数や控え選手の出場機会が減る」、「終盤の攻防の魅力がなくなる」、「試合を楽しむ時間が短くなる」といった声がメリットよりも多かったということです。

これを受け、県高野連は、7イニング制のメリットはあるものの、「選手の出場機会が減るのは大きな問題であり、9イニング制を推奨したい」とする意見を近く日本高野連に報告するということです。

📝仙台育英が能登半島地震のあった石川県へ 25、26日に珠洲市営野球場改修記念交流試合
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/db126ac5bace0384332176be5f3a5c299107085a

仙台育英(宮城)が今月25、26日に石川県珠洲市の珠洲市営野球場で石川県の高校と試合を行う。

2024年1月1日に能登半島地震が発生。仙台育英はその2ヶ月後に輪島市の輪島と珠洲市の飯田を宮城に招いて交流をはかった。今年3月にも輪島と金沢市の金沢桜丘が仙台育英を訪れ、練習試合で対戦。昨夏の宮城大会や今夏の甲子園では現地で応援を受けるなど、交流が続いている。
そして今回、仙台育英が初めて石川県を訪れる。震災の影響による復旧工事を行っていた珠洲市の市営野球場の完成を記念した交流試合で、星稜、飯田、輪島、門前の4校と対戦。被災地の見学や野球教室も企画されている。

宮城県名取市で育った仙台育英・今野琉成(2年)は「いろんな縁があって石川県で試合をするので、相手選手の名前も覚えるなどして交流を深め、よりよい試合をしたいと思います」と意気込む。東日本大震災の発生当時は2歳で、「うっすらと記憶がある」という。同市の閖上地区は壊滅的な被害を受け、701名が犠牲になった。小、中学校では3月だけでなく、毎月11日に震災の教訓を学んで育ってきた。

「自分が住んでいる地域は津波の被害がなかったのですが、津波で家族や家を失った知り合いがいます。今も3月11日の震災学習で野球ができる有り難さを感じることができています。石川県でも大きな被害を受けた人がいると思うので、勇気や希望、元気を与えられるような試合をしたいと思います」

24年3月に仙台育英で交流をした際、輪島、飯田の選手たちは仙台育英の部員や須江航監督の自宅でホームステイした。「うちに泊まった飯田の子たちが節目で連絡をくれています。彼らが生まれ育った街を見て感じたいですね」と須江監督。今回の遠征について「野球をしに行く遠征ではない」と言い、「東日本大震災から場所と時を変えて、感じたことや学んだことを大切にしてほしい。今後の人生の糧になる遠征にしたいですね」と意義を語る。

日程は下記の通り。場所は珠洲市営野球場。

【10月25日(土)】

9:30 飯田 対 仙台育英
12:30 星稜 対 仙台育英

【10月26日(日)】

8:30 野球教室

10:00 輪島 対 仙台育英
13:00 門前 対 仙台育英

📝藤浪世代の大阪桐蔭に入部した「10年にひとりの逸材」はなぜ甲子園のマウンドに立てなかったのか?
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2025/10/21/10_161/

10月初旬から1カ月、さらに12月にも入院。投薬と食事療法を続ける間に、大阪桐蔭は大阪大会を制し、近畿大会でもベスト8進出を果たし、選抜出場をほぼ確実にした。平尾奎太は取り残されていく焦りを感じながらも、グラウンドへの復帰をあきらめなかった。

【高校野球をやりきって甲子園に出たい】
 
両親の協力を得てセカンドオピニオンを求め、複数の病院を回るなかで、希望を示してくれる医師に出会う。

「薬をきちんと飲み、こまめに検査を受けながら、徐々に体を動かしてみましょう。数値が悪化しなければ......」

そう語る医師の言葉に光を見いだした平尾は、その後、紹介を受けて関西医科大学附属病院へ転院。マウンド復帰を明確な目標に治療を続けるなかで、新たな担当医からひとつの注文が出された

「来年の夏まで高校野球をできたとして、3年の夏が終わったところからは1年、野球はもちろん、運動をストップするように」

医師の言葉は、高校で野球人生が終わる可能性を含んでいた。平尾も、「大学で野球ができなくてもいい。高校野球をやりきって甲子園に出たい」という思いのみだった。

地道な療養生活を重ね、年が明けてからようやく練習に参加できるようになった。とはいえ、ウォーキングやストレッチ、球拾い程度で、短時間で切り上げて寮に戻る。戻るとすぐに入浴、夕食、洗濯を済ませ、ほかの選手が帰ってくる頃には自室にいた。
藤浪晋太郎、澤田圭佑と3人で過ごしていた部屋から、少し離れたひとり部屋へ移動。練習に復帰したとはいえ、選抜を目標に厳しい冬の練習に励む仲間たちとの間には、どこか距離を感じる日々だった漠然とした不安も抱えながら、平尾のなかには日に日にある思いが抑えられなくなっていた。

「これじゃ、なんのために戻ってきたかわからん。大学で野球ができなくてもいい。再発してもいいから、思いきり高校野球をやりたい」

両親、医師にも思いを伝え、練習の強度と量を少しずつ上げていくよう再考。1月末には立ち投げからブルペン入りすると、慎重にペースを上げ、選抜では藤浪、澤田と1年下の網本光佑と共にベンチ入り。念願の甲子園出場を果たしたが、チームが5試合を戦い春の頂点に立ったその大会で、平尾の登板機会はなかった。つづく春の大阪大会、近畿大会でも大阪桐蔭は負けなしの快進撃。だが、平尾の状態はなかなか上がってこなかった。

「6月に高知での招待試合で、ストレートの球速が128キロの時があって。藤浪は楽々140キロ台半ばを出しているのに。見ていた後輩も『これでメンバー?』って思っていたでしょうね。まだどこかでセーブしながらやっている感じが抜けていないと思って、『病気のことは完全に忘れよう』と気持ちを入れ直したんです。そこから真っすぐだけで200球の投げ込みをしたり......。この夏で野球人生が終わってもいいくらいの気持ちでした」

【甲子園のマウンドに立つことは叶わず】
 
一方、チームでは夏の大会が迫るなか、藤浪の調子が上がってこなかった。股関節を痛め、6月の近畿大会で戦列復帰をするも、その後の練習試合、紅白戦でも打ち込まれた。

「チームが『藤浪、大丈夫か?』っていう空気になっていたのは覚えています。紅白戦で藤浪がメッタ打ちを食らって、3回で10点くらい取られたんです」

その藤浪が、夏の大会に入ると一変。特に甲子園では4試合で完投し、36イニングを投げて自責点2。藤浪の活躍もあって、チームが史上7校目の春夏連覇を達成した。

「大阪大会もほとんど藤浪と澤ちゃんで投げて、甲子園では完全にふたり。特に藤浪は、甲子園準々決勝の天理戦から準決勝の明徳義塾、決勝の光星学院とほんとに打たれなかった。『あの紅白戦はなんやったんかな』と思うくらいすごくて。チームとしても苦しんだのは大阪大会決勝の履正社くらいで、ほんと強かったですね」

平尾は春に続き、夏も甲子園のマウンドに立つことはなかった。夏の登板は、大阪大会2回戦でのリリーフ2イニングと、5回戦の生野工業戦での先発5イニングのみ。振り返れば、その生野工戦が夏のラスト登板となった。平尾は「あれが3年間のベストピッチ......ですかね」と笑みを浮かべた。5回コールド勝ちとなった試合で、平尾は2安打、5奪三振の好投を見せた。

「もちろん、甲子園で一度は投げたかったっていう気持ちはあります。どの試合だったか、西谷先生のところへ行って、『ブルペンで準備したほうがいいですか?』って、普段なら聞かないようなことを聞いてアピールしたこともあったんですけど、ふたりがよすぎましたね」

ひとつ思ったのは、平尾はチームの偉業を心の底から喜べたのだろうかということだった。すると平尾は、少し強い口調で返してきた。

「登板はなくても、自分が戦いに参加していないとは思っていませんでした。あの夏のいつだったか、144キロが出たことがあって、スピードという点では、病気前の自己最速138キロを超えたんです。状態も上がっていたのに、出番はなくてチームは勝った。ということは、単純に自分の力不足だったということです。

自分なりにやれることはすべてやったという思いはありますし、出番はなかったですが、ベンチに座っていただけという気持ちではなかった。いつ声がかかってもいいように、毎試合しっかり準備はしていました。だから勝った時は、心からみんなと喜び合えたんだと思います」

春夏連覇の歓喜が少し落ち着いた10月、岐阜で国体が行なわれたが、平尾は向かわずに医師との約束どおり野球から離れた生活をスタート。来るべき勝負の時に備えた。
「プロ側としたら、『絶対大丈夫』と思えなかったんでしょう」

当日の記憶をたどると、指名が進むなかで苛立ちを募らせていたチーム関係者とは違い、平尾自身は意外に冷静だった。

「あの状態でプロに行くことに不安があったんだと思います」

万全でない状態で、勝負できるほど甘い世界ではない。どこがホッとした気分もあったのだろう。その一方で、「状態を整えて、来年もう一度」という思いも確かにあった。ただ、3年目、4年目とシーズンを重ねても、周囲の目を再び引きつけるような、あの1年目の投球は戻ってこなかった。

            つづく>>

📝大阪桐蔭「藤浪世代」の大型左腕は社会人で覚醒 指名確実と言われ、ドラフト特番にも出演したが...
https://news.yahoo.co.jp/articles/a492745a347a487238fa9d1aca9665f5ba757a3c?page=1

高校卒業後の進路について、平尾奎太は通院のことも考えて関西圏の大学を検討。最終的に同志社大学への進学が決まった。学業面でも優秀だったことから、高校在学中に1型糖尿病を患いながら関西大学へ進学した大阪桐蔭の先輩・岩田稔(元阪神)と同様に、指定校推薦枠を活用しての入学だった。

【大学4年秋にベストナイン】

大阪桐蔭監督の西谷浩一が振り返る。「平尾のご両親にも、岩田の話はしました。僕としては、1年は体を休めて、2年目で戻して、3年で大学デビュー。そして残り2年間でしっかり投げて、うまくいけば社会人までつなげられるかどうか。そんな見立てでした。勉強ができる子だったので、卒業の心配はまったくしていませんでしたし、たとえ野球が思うようにいかなかったとしても、きちんと就職できる。そういう信頼はありました。実際に教員免許も取得して、野球以外のことにも真剣に取り組んでくれました」

医師と相談のうえ、入学後の1年間は運動を控え、その間に数値が安定すれば、2年目からグラウンド復帰を目指すというプランを立てた。大学の野球部関係者も平尾の事情を理解し、1年目はチームの試合時にスタンドから声援を送るのみで、練習には参加しなかった。ただ、本人は自覚症状がなく、漠然とした不安を抱えながらも、次第に「早く体を動かしたい」という衝動を抑えきれなくなっていった。

「いつになったら野球ができるんかなっていう気持ちがどんどん強くなって。だから先生には『まだ歩きしかやっていません』『指示どおりにやっています』って言いながら、実際にはジョギングをしたり、坂道を自転車で上ったりして、指示より一歩先のことをやっていました。

でも、そうした途端にいくつかの数値が下がらなくなってしまって......。通院の回数も増えて、結局、グラウンドに復帰できるまでに、当初の予定の倍、丸2年もかかってしまったんです」
それでも「また投げられる時が来る」と信じて耐え抜き、2年のオフから練習に参加。徐々に感覚を取り戻し、3年春には公式戦で初登板を果たした。リリーフで3試合、計2回1/3を投げ、そして本格復帰した秋には初勝利を挙げた。

4年になると、春に3勝(3敗)、秋は4勝(1敗)をマーク。特に秋は、45回2/3を投げて防御率1.38、43奪三振という堂々たる成績を残し、ベストナインにも輝いた。これが春の活躍であれば、プロのスカウトの目にも留まっていたかもしれない。しかしドラフト候補の絞り込みが進む秋の時期だった。それでも、4年時の結果で自信を取り戻し、一度は遠のいたプロへの夢を再び抱きながら、社会人のホンダ鈴鹿へと進んだ。

「もちろん、ドラフト解禁となる2年後でのプロ入りを目標にしていました。澤ちゃん(澤田圭佑)が高校3年の夏を終えた時に、『いまプロに行けるとしても、藤浪(晋太郎)の2番手と言われて行くより、大学でエースになって、みんなに力を認められてから行きたい』って言ってたんです。そのとおり、立教大でエースになって、しっかり結果(東京六大学通算21勝)を残してプロへ行きましたよね。だから、藤浪が高卒、澤ちゃんが大卒で、自分は社会人からのプロ。そこだけを見ていました」

【充実の社会人野球1年目】

1年目から主戦として起用され、社会人野球の最高峰の大会である都市対抗でも完封勝利を挙げるなど、計14イニングを無失点。上々の滑り出しを見せた。
長身から投げ下ろすストレートは140キロ台半ばを計測し、キレも一段と増していた。そこにチェンジアップ、スライダー、スクリューを織り交ぜたコンビネーションで、社会人の舞台でも堂々たるピッチングを披露した。

そんな教え子の活躍を、西谷もある時、耳にした。「社会人1年目の6月に、ウチが中京大中京(愛知)と練習試合をしたんです。その時、顔なじみのプロのスカウトに会ったんですが、『昨日、平尾が投げた試合を見てきたけど、めちゃくちゃよかった。今年がドラフト解禁なら上位候補になりますよ』って絶賛してくれて。苦労してきたヤツなんで、社会人でいいスタートをきれて本当によかったな、とうれしくなってね。思わず本人に電話したのを覚えています」

10月には台湾で行なわれたBFAアジア選手権に日本代表として出場。リリーフで3試合に登板し、いずれも無失点に抑えて日本の優勝に貢献した。この頃には最速も146キロまで上がり、その年の終わりには6年間続いた服薬も終了。医師からは「寛解」の言葉を告げられた。プロ解禁の2年目を迎えるにあたり、目の前にはいくつもの可能性が広がるはずだった。

【ある球団からの指名内定の知らせ】

しかしドラフト解禁のシーズン、1年目のような投球ができなかった。あの試合が......今も平尾の脳裏に残る一戦がある。
シーズン開幕直後、3月上旬に行なわれたオリックス二軍とのオープン戦。プロへのアピールには絶好の舞台で、平尾は先発を任された。4回まで無失点と完璧な立ち上がりを見せ、自信に満ちた投球は、前年の好調を彷彿とさせるものだった。

しかし5回、二死二塁からセンター前へ打球が抜け、ホームカバーへ走り出した瞬間、軸足の左太腿裏に痛みが走った。走者は三塁でストップ。次打者を一塁ゴロに打ちとり、何とかいい形でこの回を終えた。ベンチ裏に戻り、足の状態を確かめていたその時、「6回もいくぞ」と声がかかった。
まだ社会人2年目。自ら交代を申し出ることは憚(はばか)られ、マウンドへ上がった。だがその6回、満塁から宗佑磨に左中間を破られ、走者一掃の一打を浴びる。結局、この回の途中4失点でマウンドを降りた。

以降2カ月、実戦のマウンドから離れ、コンディション調整に努めた。都市対抗予選で復帰し、初戦と3回戦で先発勝利を挙げるも、第2・第5代表決定戦では勝ちきれず。第6代表決定戦で完封し、チームはようやく本戦出場の切符をつかんだ。しかし、かつてのような球威は戻らなかった。都市対抗本戦では三菱日立パワーシステムズ戦に先発したが、初戦敗退。ストレートの勢いもキレも1年前とは何かが違っていた。

「コーチからは『左足の蹴りが弱い』と言われたこともありました。無意識に左足をかばう投げ方が身についてしまったのか、ボールの勢いが戻ってこなかったんです」

調子が上がらないままシーズンは進み、ドラフトが迫ってきた。それでも「状態さえ戻れば」と期待を込めて、足繁く練習場に姿を見せるスカウトが複数いた。秋口にはホンダ鈴鹿のチーム関係者に対し、NPBのある球団がドラフト指名の意思を伝えてきた。少なくとも、会社側はそう受け取った。その翌日、平尾が練習に顔を出すと、指導者たちが笑顔で声をかけてきた。

「よかったな。厳しい世界だけど頑張れよ」

まるで実感は湧かなかったが、和やかな空気は"プロ入り内定"を伝えていた。しばらくすると、今度はドラフト当日の生放送を恒例としているテレビ番組の制作担当者が訪れ、指名後に生出演することまで決まった。病を乗り越え、社会人で大きなチャンスをつかんだサウスポー。しかも大阪桐蔭出身で、藤浪晋太郎の同期でもある。テレビ関係者が飛びつかない理由はなかった。流れは完全にできあがっていた。

【テレビ番組出演予定もまさかの指名漏れ】

ドラフト当日。午前の練習を終え寮へ帰ると、番組担当者が明るく声をかけてきた。

「4位か5位で指名されるようですね。おめでとうございます。のちほどよろしくお願いします」

会見場にはテレビカメラが2台、新聞記者やカメラマンがずらりと並んでいた。指名が進むにつれ、平尾とチーム関係者も席に着き、その瞬間を静かに待った。
ところが、濃厚と見られていたある球団からの指名がない。なんともいえない重たい空気が流れ、やがて12球団の選手選択が終了。その時、一転して神妙な表情を浮かべた番組担当者が、平尾のもとへ歩み寄ってきた。

「しんどいとは思いますが、1時間後に出演していただきますのでよろしくお願いします」

まじか......。番組恒例の"お母さんへの手紙"も事前に平尾が書き、準備されていた。さすがにこれはカットとなったが、出演は時間を短縮し予定どおり行なわれた。

「たぶん僕の出演時間が減った分、吉田輝星の尺が長くなったと思います(笑)」

まさかの指名漏れ──よく耳にするドラフト話だが、その当事者となってしまったわけだ。

「プロ側としたら、『絶対大丈夫』と思えなかったんでしょう」

当日の記憶をたどると、指名が進むなかで苛立ちを募らせていたチーム関係者とは違い、平尾自身は意外に冷静だった。

「あの状態でプロに行くことに不安があったんだと思います」

万全でない状態で、勝負できるほど甘い世界ではない。どこがホッとした気分もあったのだろう。その一方で、「状態を整えて、来年もう一度」という思いも確かにあった。ただ、3年目、4年目とシーズンを重ねても、周囲の目を再び引きつけるような、あの1年目の投球は戻ってこなかった。

           つづく>>

⚾岩手さんへ
泉大津さんま祭りですか・・・・・お察しの通り全然興味ありませんが、、、、、当掲示板の閲覧者の誰かが興味持って雨が予想される中、サンマを求めて遊びに行かれたら嬉しいですよね!
たしか、かつての職場のすぐ近くにある船場センタービル(大阪市中央区本町)あたりでも同じような祭りをかつてやっていた記憶が・・・・・。

泉大津は南海沿線で紀三井寺球場の帰りに通過してますが、日没後は真っ暗だし、しんどかったら小一時間ほど車内で寝ているので・・・・・。堺より南側はもう地名は分かりますが位置関係が分からないので!!関空よりもかなり北にあると思われます。関空のあるのが泉佐野なんで泉大津と混同しがちですが、だいぶん距離離れているはずで間に岸和田などあったはず。

21世紀枠は趣旨としてはセンバツ特有のものだし、和歌山でも向陽・海南・桐蔭・田辺が救済され全試合観戦に行きました!ただ、ここ10年近く初戦敗退ばかりだし、わざわざ一般枠を削ってまで特別枠をする必要はないかなと・・・・・。
なぜかしら32校に固執するきらいがありますが、最近の記念大会は36校なんで一般枠32校+21世紀枠2校の34校でもエエんちゃうんかなあと思いますね。

あと平尾投手に関しては全く知らなかったですね。。。。。藤浪-森のバッテリーはよく覚えてますが、あとは田端ブラザーズのお兄ちゃんくらいしか思い出せないですね・・・。14年前になりますよね。
彦根東出身の平尾は知りませんが、報徳の主島投手はサウスポーでけん制上手かったですね。1試合で4回ほど1塁けん制死がありました。近畿8強入りして滋賀学園に延長14回の末0-1で負けたのでセンバツ当確と思いきや、明石商に0-7でコールド負けした市和歌山がまさかの選出で甲子園に縁がなかったですね。。。。。

P・S 春と違って秋は橿原にべったり張り付いているので、他地区の動向はまるで興味なしといったきらいですが・・・・・。三重県では久しぶりに三重高がボーダーラインに入ってきましたね。
旧チームから投手陣が全員残留のはずだし、沖田監督が復帰して3~4年経つのでボチボチなんとか。東海の4番目がどこになるか予想困難ですね。

聖隷は高部投手がいるので、負けてもロースコアの接戦で選考委員の顔色を伺いたいですね!
2025/10/22(水) 22時44分26秒 No.2083 編集 削除