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📝第79回国民スポーツ大会(滋賀)高校野球競技 組み合わせ抽選結果
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💢〈広陵・暴力問題〉コーチが正座をさせて謹慎3か月…終わらないトラブル、被害者親族は「謝罪してほしい」学校は前監督の今後について「貢献した方ですが…」
https://news.yahoo.co.jp/articles/b3ad31f09b1f038508c9470925d4891bddad5564?page=1
暴力事案をめぐり、今夏の甲子園を大会途中に出場辞退した広陵高校。前代未聞の事態の引き金となったのは野球部内での複数の暴力事案がSNSで発信されたことだった。いまだ暴力事案をめぐる問題に関しては被害生徒らと関係者の証言が食い違うなどしており、解決の糸口を見いだせない状況が続いている。そんな中、9月4日には広陵高校の野球部のコーチが日本学生野球協会から不適切指導を行なったなどとして3か月の謹慎処分を言い渡されていたことが一部メディアで報じられた。甲子園出場辞退から約1か月、改めて広陵高校の野球部をめぐる問題を取材した。
ネット上では厳しすぎるのではないかという声も…
今年の4月、当時52歳だった野球部のコーチが寮の清掃時間に廊下で騒いでいた2年生の部員を指導した。その際、およそ1分間、廊下に正座させたことが不適切指導だったとされ、日本学生野球協会から3か月、広陵高校からは6か月の謹慎処分を言い渡されている。
不適切指導が発覚した経緯について広陵高校の支部長が説明する。
「8月20日に野球部員の1、2年生に対して部員の中で暴力やイジメについてのアンケート調査を行いました。このアンケートでは3年生が2年生に対して行なった最初の暴力事案に関わっていたかどうか、それからこの件に関わらず暴力やイジメを受けたり加担したことはあるか、またはそうした事をされている部員を見たり聞いたことがあるかなどを調査しました。しかし、いずれも『ある』という回答はありませんでした。
その翌日に個人で何か気になることがあれば言ってほしいとヒアリングをしました。ヒアリングは野球部と関係のない教頭や学年主任が行いましたが、そこで『正座をさせて指導しているのを見ましたよ』という目撃証言が出ました」
その後、目撃証言を元に、コーチと正座をさせられた生徒から事情を聞いたという。
「廊下で大声を出して騒いでいた部員に対し、『ちょっと落ちつけ。ちょっとここに座れ』と言って正座をさせたという説明を受けております。例えばですが、立ったままの指導ですとか、場所を移動して食堂などでお互い椅子に座っての指導が適切だったのではないかと思います」
この指導によりコーチは謹慎処分となったわけだが、ネット上では、この処分が厳しすぎるのではないかという声も散見される。
これに対し、広陵高校の支部長は、「武道や茶道などでの礼節という意味での正座であれば礼儀の話だと思いますが、注意や指導をする上で正座をさせるというのは懲罰的な意味を含んでいるのではないかと。それで今回は不適切な指導だと学校としては捉えたということです。処分としては謹慎6か月です。
謹慎というのは野球部の指導ができないという事であり、学校の職員としては普通に勤務してもらうので給与が支払われないということはないです。甲子園を辞退したのが暴力事案がきっかけになっております。これから学校ないしは野球部や寮内のルールを変えていこうという取り組みを行なっていくわけですが、やはり大きいのは暴力の根絶だと思っておりまして、その中でこういった事案が発覚したので学校の姿勢としても厳しい処分にするべきだ、となったわけです」と回答した。
「前代未聞の甲子園の途中辞退を招いた方」
これまで野球部内で行なってきたアンケートやヒアリングで、暴力やイジメに関して出てきた“新しい事実”はこのコーチの一件のみだという。今年1月に起きた、寮で禁止されているカップラーメンを食べた1年生を複数の2年生が殴るなどした暴力事案や、2023年に寮内で元部員が複数の部員から下半身を触られたり、中井哲之監督らコーチ陣からの暴言や暴力を受けたという事案について学校としてはどのように考えているか改めて尋ねた。
「今年1月の暴力事案については報道されている通り、内容について相違があるというのが学校としての見解です。今現在は第三者委員会を設置するところで今後調査をしてもらいます。
2023年の暴力事案については、被害生徒の聞き取り時にはどこで誰に何をされたかということについては言っていたのですが、記憶にあやふやな部分があり、人物や場所や時間を特定できる証言ではありませんでした。名前があがった監督、コーチ、生徒にも聞き取りはしましたが、否定したという形でした。なので学校としては暴力事案があったという事実が認定できなかったという状況です」(広陵高校の支部長)中井前監督の進退については、どのような状況なのだろうか。
「2023年の暴力事案については中井前監督の名前もあがっております。学校としては事実として認定できなかったとはいえ、現在第三者委員会で調査してもらっておりますのでそのあたりの結論が出た時点で再度考えるということになろうかと思います」(同前)
とはいえ、今年1月の暴力事案は中井前監督の時に起きたもので、監督責任を問われてもおかしくない。そのことについても支部長に尋ねた。
「暴力事件が起こった時の監督であり、息子(中井部長)さんも含めてこういう事態を招いた責任もあろうということで指導から外れていただいております。ただ、30年以上、ここまで広陵を強くして有名にし、学校に貢献した方というのもあります。
一方で前代未聞の甲子園の途中辞退を招いた方でもあり、難しい問題ではあります……。ですから今の時点では、第三者委員会の結果を踏まえてからのことですし、未定としか言えない状況です」(同前)
暴力事案について学校側としては、被害者たちの証言は事実と異なるというこれまでの姿勢のままのようだ。
「謝罪をしてほしいのと、行なった行為に対して償いをしてほしい」
だが、平行線のままでは被害者や被害者の親族の苦しみは決して終わらない。集英社オンラインでは♯4で2023年の暴力事案について報じた。ここで登場する元野球部員のAさんはSNSに「広陵高校の硬式野球部で在籍時に性被害に遭いました。〈中略〉寮の風呂では水の中にしずめられたり熱湯や冷水をかけられたりする殺人行為にも遭いました」と投稿しており(投稿は保護者が代理で行った)、当時の野球部内での“イジメ”を今も訴え続けている。Aさんの母親があらためて胸中を語った。
「詳しい内容については話せませんが、8月末に2度目の第三者委員会が開かれました。ウチの子どもは第三者委員会のメンバーの方たちにも不信感をいだいており『話したくない』と言い出しました。話をしても信じてもらえないと感じたようです。性的なことも話したくないのか、お風呂場で熱湯をかけられたという話はしましたが、その他については時間的にも話ができず、あまり進んでいません」
Aさんの母親によれば、8月30日にAさんは長期のストレスからか『自分が苦しんでるのにのうのうと始業式をやるなんて許せない。学校の始業式を阻止する』などとおかしな言動をしており、心身ともに不調だという。さらにAさんの母親はこう訴えた。
「いくら第三者委員会を開こうが、何をしようが最終的に加害者側が認めない限りは事態は進展しないですから。(加害者側に行なっている)アンケートについてどういう形式の物なのかも一切聞いておりませんし、本当のことを答えるかもわかりません。子どもの望みとしては、謝罪をしてほしいのと、行なった行為に対して償いをしてほしい、そのように思っているとのことです」
第三者委員会は12月をめどに検証を終える予定とのことだったが、場合によってはもう少し時間がかかるかもしれない。
📝「親父は相当怖かったですよ」甲子園4回優勝、奇跡の公立校…箕島高校の名将・尾藤公とは何者だったのか? 息子が証言「態度が悪い選手シバいてた」
https://news.yahoo.co.jp/articles/f8b54fd8656fbfd798ba90ffb9e950e0139f87b4
和歌山県立箕島高校からほど近いカフェレストランで、野球部前監督の尾藤強は慣れた調子で質問に答えていった。ときおり義務的にアイスコーヒーを口に含みながら、つとめて淡々と、あるいは飄々と。父は箕島の全盛期を築き上げた名将・尾藤公。息子の強は1980年代中盤の箕島でエースを任され、2013年から19年まで同校監督を務めた。就任1年目には、29年ぶりの夏の甲子園出場へと導いている。箕島の親子鷹として注目を集めた高校時代から監督時代まで、取材は飽きるほど受けてきた。そんな印象を与える振る舞いだった。
「親父も笑いながらしばいてた」
「入学したときから新聞社がいっせいに来ましたからね。それが面白くない先輩もおるし。どこの取材やねん、とかよく聞かれました。自分が高校のときの親父との関係は100%、選手と監督。親父という感覚は1ミリもない。親父も付き合いで家にいないですし、顔合わすこと自体ほとんどなかった。入学しても、『あ、尾藤監督や』って。それだけでしたね」
どこまで聞いていいのかと距離を測りかねているこちらの緊張をほぐすかのように、尾藤強はうっすらと笑みを浮かべていた。父が甲子園のベンチで見せた「尾藤スマイル」とは違う、かすかに諦念を帯びた笑顔。選手目線で見る監督・尾藤公は、スマイルの印象とは裏腹に「怖かったですよ」と明かす。
「怖さは相当、相当やね。エラーに怒るとかやなくて、選手の姿勢とか態度とかね。サインに対して『バントですかぁ』みたいな顔したら死ぬ目にあってたね。そういうのには厳しかった。ただ、大抵は親父の前にいって一発しばかれたら終わり。選手はそれで切り替えるし、親父も笑いながらしばいてた」
「智弁だけはやめてくれ!」
漁師町の荒くれ者たちの息子や、みかん農家の息子、建設業の息子。尾藤公はさまざまな環境で生まれ育った気性の激しい生徒たちの力を引き出し、かけ合わせ、地方のいち公立校にすぎなかった箕島を全国屈指の強豪校へと育て上げた。当時の強豪野球部の多くがそうだったように、間違いなく暴力は存在した。一方で、試合中、練習中の水分補給や栄養補給を1970年代にいち早く取り入れる先見の明があった。その集大成が1979年の春夏連覇だった。当時10歳だった強が振り返る。
「あのころが全盛期でしょうね。強いのが当たり前みたいなところがあったんで。当時はそもそも和歌山の全体的なレベルが高かった。箕島もちょくちょく予選で負けていたから。監督になって思いましたけど、どこもいまとは気概が違う。いまはもう智弁和歌山を見上げてしまっているでしょ。そら勝たれへん」
智弁和歌山。80年代後半から和歌山の覇者となった同校は、箕島の歴史を語るうえで避けて通れない存在だ。「1987年。僕の現役のときの最後の夏が、智弁の初めての甲子園やったんですよ」。いつしか背中が見えなくなったライバルは、強の目にどう映っていたのか。
「そのころの箕島は県内で一番人気。もう飛び抜けてた。有田市でも特に海のほうの漁師町は昔からガチガチに箕島高校応援で、漁を休んででも甲子園に来るくらい。そこらへんの子が智弁に行くとなったら、『表歩けへんから、智弁だけはやめてくれ! 』って言うてたくらいですよ。ただ、高嶋(仁)さんのスカウトがすごかった。公立校の箕島が勉強に力を入れようかというときに、智弁は野球だけで勉強がダメな子も取りはじめた。その間に逆転していったんです」
甲子園効果で毎年30人ほどが入部したが…
地元で建設業に就いた強は、母校が智弁和歌山に追い抜かれ、引き離される様子を外側から見ていた。2013年、OBたちに背中を押されるかたちで箕島の監督に就任し、内側の現実を知る。
「智弁和歌山や市立和歌山に行きたい選手が、うちに向いてくれるかなと。実際はそうじゃなかった。指導者未経験だったので、そこが考えの甘いところというか……。(箕島が)甲子園に出ようが、智弁に行きたいって選手、親の気持ちは変えられない。20年くらい野球から離れている間に、そこまで強いもんになってるんやなと愕然としました。チーム力どうこうより、智弁ブランドの強さに驚きましたね」
それでも、甲子園出場後の3年間は毎年30人ほどが入部した。志望者全員が入学できたわけではなく「断って、断って」の数字だったという。少なくとも10年前まで、箕島の野球部は県内で人気だったのだ。2014年には秋季和歌山大会で優勝し、近畿大会でベスト8に入る。センバツ出場は逃したものの、和歌山勢ではトップの成績だった。さらに2016年の夏は県大会決勝に進出。市立和歌山に0対2とリードされた9回表、ノーアウト一・二塁のチャンスで一塁線を抜いた打球が審判に跳ね返ってアウトになる不運もあり、甲子園出場を逃した。
「OBに死ぬほど怒られました」
父の公や現監督の北畑清誠とは異なり、強はあまり怒らない監督だった。箕島の輝かしい歴史を伝え、選手に名門であることを意識させることもしなかった。「僕と北畑の間くらいでちょうどええのにな、とOBには言われてるみたいですね」と強は笑った。
「僕が高校生のとき、春夏連覇からたかだか7年くらいしか経ってなくても『いつまで言うとんねん』と思いましたから。生まれてもいない子たちが四十何年前の星稜戦とか、伝統とか歴史とか言われても、実感わかないでしょ。知らんがなと。頭ごなしにうちは伝統校や、自覚あんのか、って言っても届きませんよ。別になんのために野球やってもええと思います。健康のためでも、親に言われたからでも」
そしてなかば呆れたような口調で、辛辣な言葉を繰り出した。
「OB含めて関係者が『公立で春夏連覇してるのはうちだけや』とものすごく言うんですよ。『公立で』って言うてる時点で言い訳してるのと一緒やんか。智弁にコールドで負けました、公立やからね、って恥ずかしくないですか? 公立やったら5点もらえんのかと。人に言われるのはええけど、自分らで言うたらあかんやろ。一度、うちなんて70年代にぱっと出てきて、ぱっと散った“なんちゃって伝統校”やん、と言ったら『輝け甲子園の星』に載った。なんちゅうこと言うてんねん、とOBに死ぬほど怒られました。いやいや、実際そうやんけ、と」
単なる皮肉や韜晦ではなかった。尾藤強は「本当のこと」を話そうとしている。手のひらがじんわりと汗ばむのを感じた。
<続く>
📝阪神以外なら早大希望 ドラフト翌日に知ったパ4位指名「あぁ」も…説得に「仕方ない」
https://news.yahoo.co.jp/articles/7b4bd80cce76f308bf3a601b947db3d760ccb9b8
羽田耕一氏は高3の夏、準々決勝で敗れて甲子園出場ならず
兵庫・三田学園で1年秋から遊撃レギュラーで4番打者だった羽田耕一氏は1971年のドラフト会議で近鉄から4位指名され、プロ入りした。近鉄との縁がスタートしたが、当初は意中球団の阪神以外なら、早稲田大進学を希望していたという。それが覆ったのは元三田学園監督で恩師の日下隆氏に「近鉄に行った方がいいぞ」とアドバイスされたから。「そう言われたら、行かな仕方ないでしょ」と振り返った。
羽田氏は1970年の三田学園2年春に選抜出場し、準々決勝で鳴門(徳島)に敗れた。結局、甲子園はその1回だけ。2年秋の近畿大会準優勝で1971年春の選抜出場を確実にしていたが、在校生の暴力事件で選抜推薦を辞退し、3年夏は兵庫大会準々決勝で津名に0-2で負けた。「あの時は(エースの)甲斐(富士男投手)が体調不良で駄目だったんです。何かガリガリに痩せてね。だから、あの夏は僕も何試合か投げたんですよ」。
尼崎市立若草中ではエース右腕だった羽田氏は三田学園入学前のブルペン投球で当時の日下監督に「ピッチャーはもうええ」と野手転向を指令されたが、3年夏の時には監督が代わっていたこともあり、再び投手も兼務していたそうだ。「僕らのライバルは報徳(学園)だったんです。当時、三田学園と報徳が試合すると、お客さんも多かったんですよ。(3年)夏も下馬評ではウチと報徳で決勝という感じだったんですけどねぇ」。
エースが不調でも準々決勝で敗退するとは思っていなかったそうだ。「津名のピッチャーのコントロールがよかったんですよねぇ。ちょっとなめていた? それはあるかもしれません。僕ももうバテバテだったですしね。結局、あの年は報徳が甲子園に出たんですよね」。こうして高校野球は終わった。羽田氏はすでに上のレベルで野球を続けることを決めていたが、進路をプロ1本に絞っていたわけではなかった。
「プロは球団次第でした」。意中の球団は少年時代からファンだった地元の阪神だけ。それ以外なら早稲田大進学を希望していた。「三田学園からは法政に行く人が多かったんですけど、1級上の報徳学園(出身)の人が早稲田にいて『来いやぁ』って言われて……。完全に決まりではなかったですけど、セレクションとかも行って、早稲田の帽子ももらってね。気持ちは早稲田に行きかけていた」。
当然、プロスカウトたちも羽田氏をマークしていたはずだが「どうだったのかは詳しくは知らなかったです」と話す。「広島のスカウトが来られていたのは分かりましたね。ボールを持ってきてくれたんでね。(ボールを)見たらカープってあったので……。近鉄も最後の方に来られていたのかなぁ」。肝心の阪神については「全く分からなかったです」。それでも密かにタイガースからの指名を心待ちにしていた。
近鉄から4位指名、恩師から勧められたことが入団の決め手に
「(元三田学園監督で恩師の)日下さんにいろいろ相談していたんです。日下さんは元近鉄(パールス外野手)ですけど、阪神の人のこともよく知っておられた。何か、そういうつながりもいろいろあってね。阪神かなぁって思っていたんですけどね」。1971年のドラフト会議は11月19日に東京日比谷日生会館で開催されたが「どこに指名されるかなっていうのは少しありましたが、今みたいに学校の部屋で待機とか全くないですからね。普通に学校に行っていました」と話す。
もちろん”阪神から指名されればいいな“の気持ちで、その日を迎えた。「もう野球部を退部して寮も出て、(尼崎市内の)家から学校に通っていたんですが、確か(ドラフトの)結果を知らないまま家に帰ったと思う。その日のうちだったか、翌日だったか(近鉄スカウトから)電話があった。電話に僕は出ずに親父が対応していたんですけどね」。そこで初めて近鉄4位指名を知ったそうだ。「ああ、近鉄かぁって、ただそれだけの感想でした」。
指名順位に全くこだわりはなかったが、阪神以外なら早稲田大進学の方針。「あの時はもう半分以上、大学に傾いていました」。そんな状態からの“大逆転”での近鉄入りだった。「近鉄のスカウトとの交渉は日下さんがほとんどやってくれたんですけど『近鉄は年がいっている選手が多いから、チャンスがある。近鉄はいいぞ』って。日下さんにそう言われたら行かな仕方ないでしょ」。恩師に勧められたのが決め手となって、一転して首をタテに振ったのだ。
そこから話は急ピッチで進んだ。「まぁ、夢はプロやったわけですからね」と阪神への思いも、早稲田大への思いもすべて断ち切って、気持ちを切り替えた。「(近鉄と)契約したのもけっこう早かったと思いますよ」。とはいえ、もしも元近鉄の恩師との出会いがなければ、この時「近鉄・羽田」は誕生していなかったかもしれない。“バファローズ愛”にあふれるレジェンド内野手の野球人生は違ったものだったかもしれない。まさに運命が変わったドラフトでもあったようだ。
⚾岩手さんへ
まず、広陵問題ですが・・・なぜ訴えられるはずの暴力事件の加害生徒が告訴するのか???理解に苦しみます。これがいわゆる“逆ギレ”というやつでしょうか。
アメリカだとそういうケースも多々あるらしいですが、下級生をいじめる行為も犯罪に等しいですが、そのうえ告訴とは・・・余計に広陵高校及び野球部に傷がつくと思います、、、
さて、盛岡大付はここ数日ネット記事でよく取り上げられているので分かりました。ホンマに澤田監督がいた頃のチームは甲子園7戦全敗で可哀そうな気も半分ありつつ、近畿勢と当たってくれないか!という気持ちも半分でした。
ただ、安田学園がサヨナラ負けして潮目が大きく変わりましたね!あの当時の安田は安部慎之介の母校で、東京代表だし監督は社会人野球で名を馳せたらしいので、ネット裏で8連敗を期待しつつ・・・やたらバントにこだわり、走者がいなくともセーフティーをかまし、ファールやアウトの積み重ねでメイデンの劣化版みたいでしたね!挙句の果てに3-4だったか?サヨナラ負けで、あれ以来盛岡大付は甲子園初戦連勝が続き、東海大相模にも勝ちましたね!
花巻東はここで何度も述べた通り、累積警告が積もりまくっているので・・・ただ、案外負けるときは大阪桐蔭に0-17だったか?完敗したし、今春も米子松蔭に10-2と圧倒して8強入りするも健大高崎相手にエース温存して1-9で惨敗。昨夏は滋賀学園に0-5とおとなしかったですね。。。監督の息子さんの時も仙台育英に4-10だったか?最後猛追するも序盤から圧倒されてました。
盛岡大付は生活学園という校名で、かっこいいネーミングでしたが初出場時のエースが徳島出身だったはずでずいぶん力を入れたんですね。そして学校の名前を売り出して進学校路線経営の安定を図る狙い通りの戦略ですね。
野球留学に関してはアカンとまでは思わないが、なんでもかんでも遠方から乱獲するのはどうかと・・・。関東のチームが北海道から沖縄まで手を出すのはいい気がしませんね。そんなもん勝って当たり前やんと。広陵だって昨夏のエース・高尾は福岡から来ていたし、、、あんまりやりすぎたら甲子園に来ても自軍のアルプス以外は完全アウエーになりますよ!!
どことは言いませんが、乱獲して評判の高い割には初戦か2戦目でコロっと負けて早い段階でクニに帰ってマスコミの評価にケチがつくだけで・・・・・。
そういうチームに勝ったチームは思いっきり株が上がるので、早い段階で対戦しても闘志むき出しでぶつかり、下馬評を覆して関西人の溜飲を下げる試合が何度かありましたね。
昨夏の大社旋風のように、全くのノーマークから甲子園8強入りしてフィーバーするチームを大会前から発掘するのがマスコミの仕事だとは思いますが、、、1勝どまりの大阪桐蔭に特Aつける新聞雑誌は数あれど、大社に特AどころかAもなかったはずで、たいがいCときどきB評価だったはず。
https://www.jhbf.or.jp/topics/images/shiga_tournament_koushiki.pdf
💢〈広陵・暴力問題〉コーチが正座をさせて謹慎3か月…終わらないトラブル、被害者親族は「謝罪してほしい」学校は前監督の今後について「貢献した方ですが…」
https://news.yahoo.co.jp/articles/b3ad31f09b1f038508c9470925d4891bddad5564?page=1
暴力事案をめぐり、今夏の甲子園を大会途中に出場辞退した広陵高校。前代未聞の事態の引き金となったのは野球部内での複数の暴力事案がSNSで発信されたことだった。いまだ暴力事案をめぐる問題に関しては被害生徒らと関係者の証言が食い違うなどしており、解決の糸口を見いだせない状況が続いている。そんな中、9月4日には広陵高校の野球部のコーチが日本学生野球協会から不適切指導を行なったなどとして3か月の謹慎処分を言い渡されていたことが一部メディアで報じられた。甲子園出場辞退から約1か月、改めて広陵高校の野球部をめぐる問題を取材した。
ネット上では厳しすぎるのではないかという声も…
今年の4月、当時52歳だった野球部のコーチが寮の清掃時間に廊下で騒いでいた2年生の部員を指導した。その際、およそ1分間、廊下に正座させたことが不適切指導だったとされ、日本学生野球協会から3か月、広陵高校からは6か月の謹慎処分を言い渡されている。
不適切指導が発覚した経緯について広陵高校の支部長が説明する。
「8月20日に野球部員の1、2年生に対して部員の中で暴力やイジメについてのアンケート調査を行いました。このアンケートでは3年生が2年生に対して行なった最初の暴力事案に関わっていたかどうか、それからこの件に関わらず暴力やイジメを受けたり加担したことはあるか、またはそうした事をされている部員を見たり聞いたことがあるかなどを調査しました。しかし、いずれも『ある』という回答はありませんでした。
その翌日に個人で何か気になることがあれば言ってほしいとヒアリングをしました。ヒアリングは野球部と関係のない教頭や学年主任が行いましたが、そこで『正座をさせて指導しているのを見ましたよ』という目撃証言が出ました」
その後、目撃証言を元に、コーチと正座をさせられた生徒から事情を聞いたという。
「廊下で大声を出して騒いでいた部員に対し、『ちょっと落ちつけ。ちょっとここに座れ』と言って正座をさせたという説明を受けております。例えばですが、立ったままの指導ですとか、場所を移動して食堂などでお互い椅子に座っての指導が適切だったのではないかと思います」
この指導によりコーチは謹慎処分となったわけだが、ネット上では、この処分が厳しすぎるのではないかという声も散見される。
これに対し、広陵高校の支部長は、「武道や茶道などでの礼節という意味での正座であれば礼儀の話だと思いますが、注意や指導をする上で正座をさせるというのは懲罰的な意味を含んでいるのではないかと。それで今回は不適切な指導だと学校としては捉えたということです。処分としては謹慎6か月です。
謹慎というのは野球部の指導ができないという事であり、学校の職員としては普通に勤務してもらうので給与が支払われないということはないです。甲子園を辞退したのが暴力事案がきっかけになっております。これから学校ないしは野球部や寮内のルールを変えていこうという取り組みを行なっていくわけですが、やはり大きいのは暴力の根絶だと思っておりまして、その中でこういった事案が発覚したので学校の姿勢としても厳しい処分にするべきだ、となったわけです」と回答した。
「前代未聞の甲子園の途中辞退を招いた方」
これまで野球部内で行なってきたアンケートやヒアリングで、暴力やイジメに関して出てきた“新しい事実”はこのコーチの一件のみだという。今年1月に起きた、寮で禁止されているカップラーメンを食べた1年生を複数の2年生が殴るなどした暴力事案や、2023年に寮内で元部員が複数の部員から下半身を触られたり、中井哲之監督らコーチ陣からの暴言や暴力を受けたという事案について学校としてはどのように考えているか改めて尋ねた。
「今年1月の暴力事案については報道されている通り、内容について相違があるというのが学校としての見解です。今現在は第三者委員会を設置するところで今後調査をしてもらいます。
2023年の暴力事案については、被害生徒の聞き取り時にはどこで誰に何をされたかということについては言っていたのですが、記憶にあやふやな部分があり、人物や場所や時間を特定できる証言ではありませんでした。名前があがった監督、コーチ、生徒にも聞き取りはしましたが、否定したという形でした。なので学校としては暴力事案があったという事実が認定できなかったという状況です」(広陵高校の支部長)中井前監督の進退については、どのような状況なのだろうか。
「2023年の暴力事案については中井前監督の名前もあがっております。学校としては事実として認定できなかったとはいえ、現在第三者委員会で調査してもらっておりますのでそのあたりの結論が出た時点で再度考えるということになろうかと思います」(同前)
とはいえ、今年1月の暴力事案は中井前監督の時に起きたもので、監督責任を問われてもおかしくない。そのことについても支部長に尋ねた。
「暴力事件が起こった時の監督であり、息子(中井部長)さんも含めてこういう事態を招いた責任もあろうということで指導から外れていただいております。ただ、30年以上、ここまで広陵を強くして有名にし、学校に貢献した方というのもあります。
一方で前代未聞の甲子園の途中辞退を招いた方でもあり、難しい問題ではあります……。ですから今の時点では、第三者委員会の結果を踏まえてからのことですし、未定としか言えない状況です」(同前)
暴力事案について学校側としては、被害者たちの証言は事実と異なるというこれまでの姿勢のままのようだ。
「謝罪をしてほしいのと、行なった行為に対して償いをしてほしい」
だが、平行線のままでは被害者や被害者の親族の苦しみは決して終わらない。集英社オンラインでは♯4で2023年の暴力事案について報じた。ここで登場する元野球部員のAさんはSNSに「広陵高校の硬式野球部で在籍時に性被害に遭いました。〈中略〉寮の風呂では水の中にしずめられたり熱湯や冷水をかけられたりする殺人行為にも遭いました」と投稿しており(投稿は保護者が代理で行った)、当時の野球部内での“イジメ”を今も訴え続けている。Aさんの母親があらためて胸中を語った。
「詳しい内容については話せませんが、8月末に2度目の第三者委員会が開かれました。ウチの子どもは第三者委員会のメンバーの方たちにも不信感をいだいており『話したくない』と言い出しました。話をしても信じてもらえないと感じたようです。性的なことも話したくないのか、お風呂場で熱湯をかけられたという話はしましたが、その他については時間的にも話ができず、あまり進んでいません」
Aさんの母親によれば、8月30日にAさんは長期のストレスからか『自分が苦しんでるのにのうのうと始業式をやるなんて許せない。学校の始業式を阻止する』などとおかしな言動をしており、心身ともに不調だという。さらにAさんの母親はこう訴えた。
「いくら第三者委員会を開こうが、何をしようが最終的に加害者側が認めない限りは事態は進展しないですから。(加害者側に行なっている)アンケートについてどういう形式の物なのかも一切聞いておりませんし、本当のことを答えるかもわかりません。子どもの望みとしては、謝罪をしてほしいのと、行なった行為に対して償いをしてほしい、そのように思っているとのことです」
第三者委員会は12月をめどに検証を終える予定とのことだったが、場合によってはもう少し時間がかかるかもしれない。
📝「親父は相当怖かったですよ」甲子園4回優勝、奇跡の公立校…箕島高校の名将・尾藤公とは何者だったのか? 息子が証言「態度が悪い選手シバいてた」
https://news.yahoo.co.jp/articles/f8b54fd8656fbfd798ba90ffb9e950e0139f87b4
和歌山県立箕島高校からほど近いカフェレストランで、野球部前監督の尾藤強は慣れた調子で質問に答えていった。ときおり義務的にアイスコーヒーを口に含みながら、つとめて淡々と、あるいは飄々と。父は箕島の全盛期を築き上げた名将・尾藤公。息子の強は1980年代中盤の箕島でエースを任され、2013年から19年まで同校監督を務めた。就任1年目には、29年ぶりの夏の甲子園出場へと導いている。箕島の親子鷹として注目を集めた高校時代から監督時代まで、取材は飽きるほど受けてきた。そんな印象を与える振る舞いだった。
「親父も笑いながらしばいてた」
「入学したときから新聞社がいっせいに来ましたからね。それが面白くない先輩もおるし。どこの取材やねん、とかよく聞かれました。自分が高校のときの親父との関係は100%、選手と監督。親父という感覚は1ミリもない。親父も付き合いで家にいないですし、顔合わすこと自体ほとんどなかった。入学しても、『あ、尾藤監督や』って。それだけでしたね」
どこまで聞いていいのかと距離を測りかねているこちらの緊張をほぐすかのように、尾藤強はうっすらと笑みを浮かべていた。父が甲子園のベンチで見せた「尾藤スマイル」とは違う、かすかに諦念を帯びた笑顔。選手目線で見る監督・尾藤公は、スマイルの印象とは裏腹に「怖かったですよ」と明かす。
「怖さは相当、相当やね。エラーに怒るとかやなくて、選手の姿勢とか態度とかね。サインに対して『バントですかぁ』みたいな顔したら死ぬ目にあってたね。そういうのには厳しかった。ただ、大抵は親父の前にいって一発しばかれたら終わり。選手はそれで切り替えるし、親父も笑いながらしばいてた」
「智弁だけはやめてくれ!」
漁師町の荒くれ者たちの息子や、みかん農家の息子、建設業の息子。尾藤公はさまざまな環境で生まれ育った気性の激しい生徒たちの力を引き出し、かけ合わせ、地方のいち公立校にすぎなかった箕島を全国屈指の強豪校へと育て上げた。当時の強豪野球部の多くがそうだったように、間違いなく暴力は存在した。一方で、試合中、練習中の水分補給や栄養補給を1970年代にいち早く取り入れる先見の明があった。その集大成が1979年の春夏連覇だった。当時10歳だった強が振り返る。
「あのころが全盛期でしょうね。強いのが当たり前みたいなところがあったんで。当時はそもそも和歌山の全体的なレベルが高かった。箕島もちょくちょく予選で負けていたから。監督になって思いましたけど、どこもいまとは気概が違う。いまはもう智弁和歌山を見上げてしまっているでしょ。そら勝たれへん」
智弁和歌山。80年代後半から和歌山の覇者となった同校は、箕島の歴史を語るうえで避けて通れない存在だ。「1987年。僕の現役のときの最後の夏が、智弁の初めての甲子園やったんですよ」。いつしか背中が見えなくなったライバルは、強の目にどう映っていたのか。
「そのころの箕島は県内で一番人気。もう飛び抜けてた。有田市でも特に海のほうの漁師町は昔からガチガチに箕島高校応援で、漁を休んででも甲子園に来るくらい。そこらへんの子が智弁に行くとなったら、『表歩けへんから、智弁だけはやめてくれ! 』って言うてたくらいですよ。ただ、高嶋(仁)さんのスカウトがすごかった。公立校の箕島が勉強に力を入れようかというときに、智弁は野球だけで勉強がダメな子も取りはじめた。その間に逆転していったんです」
甲子園効果で毎年30人ほどが入部したが…
地元で建設業に就いた強は、母校が智弁和歌山に追い抜かれ、引き離される様子を外側から見ていた。2013年、OBたちに背中を押されるかたちで箕島の監督に就任し、内側の現実を知る。
「智弁和歌山や市立和歌山に行きたい選手が、うちに向いてくれるかなと。実際はそうじゃなかった。指導者未経験だったので、そこが考えの甘いところというか……。(箕島が)甲子園に出ようが、智弁に行きたいって選手、親の気持ちは変えられない。20年くらい野球から離れている間に、そこまで強いもんになってるんやなと愕然としました。チーム力どうこうより、智弁ブランドの強さに驚きましたね」
それでも、甲子園出場後の3年間は毎年30人ほどが入部した。志望者全員が入学できたわけではなく「断って、断って」の数字だったという。少なくとも10年前まで、箕島の野球部は県内で人気だったのだ。2014年には秋季和歌山大会で優勝し、近畿大会でベスト8に入る。センバツ出場は逃したものの、和歌山勢ではトップの成績だった。さらに2016年の夏は県大会決勝に進出。市立和歌山に0対2とリードされた9回表、ノーアウト一・二塁のチャンスで一塁線を抜いた打球が審判に跳ね返ってアウトになる不運もあり、甲子園出場を逃した。
「OBに死ぬほど怒られました」
父の公や現監督の北畑清誠とは異なり、強はあまり怒らない監督だった。箕島の輝かしい歴史を伝え、選手に名門であることを意識させることもしなかった。「僕と北畑の間くらいでちょうどええのにな、とOBには言われてるみたいですね」と強は笑った。
「僕が高校生のとき、春夏連覇からたかだか7年くらいしか経ってなくても『いつまで言うとんねん』と思いましたから。生まれてもいない子たちが四十何年前の星稜戦とか、伝統とか歴史とか言われても、実感わかないでしょ。知らんがなと。頭ごなしにうちは伝統校や、自覚あんのか、って言っても届きませんよ。別になんのために野球やってもええと思います。健康のためでも、親に言われたからでも」
そしてなかば呆れたような口調で、辛辣な言葉を繰り出した。
「OB含めて関係者が『公立で春夏連覇してるのはうちだけや』とものすごく言うんですよ。『公立で』って言うてる時点で言い訳してるのと一緒やんか。智弁にコールドで負けました、公立やからね、って恥ずかしくないですか? 公立やったら5点もらえんのかと。人に言われるのはええけど、自分らで言うたらあかんやろ。一度、うちなんて70年代にぱっと出てきて、ぱっと散った“なんちゃって伝統校”やん、と言ったら『輝け甲子園の星』に載った。なんちゅうこと言うてんねん、とOBに死ぬほど怒られました。いやいや、実際そうやんけ、と」
単なる皮肉や韜晦ではなかった。尾藤強は「本当のこと」を話そうとしている。手のひらがじんわりと汗ばむのを感じた。
<続く>
📝阪神以外なら早大希望 ドラフト翌日に知ったパ4位指名「あぁ」も…説得に「仕方ない」
https://news.yahoo.co.jp/articles/7b4bd80cce76f308bf3a601b947db3d760ccb9b8
羽田耕一氏は高3の夏、準々決勝で敗れて甲子園出場ならず
兵庫・三田学園で1年秋から遊撃レギュラーで4番打者だった羽田耕一氏は1971年のドラフト会議で近鉄から4位指名され、プロ入りした。近鉄との縁がスタートしたが、当初は意中球団の阪神以外なら、早稲田大進学を希望していたという。それが覆ったのは元三田学園監督で恩師の日下隆氏に「近鉄に行った方がいいぞ」とアドバイスされたから。「そう言われたら、行かな仕方ないでしょ」と振り返った。
羽田氏は1970年の三田学園2年春に選抜出場し、準々決勝で鳴門(徳島)に敗れた。結局、甲子園はその1回だけ。2年秋の近畿大会準優勝で1971年春の選抜出場を確実にしていたが、在校生の暴力事件で選抜推薦を辞退し、3年夏は兵庫大会準々決勝で津名に0-2で負けた。「あの時は(エースの)甲斐(富士男投手)が体調不良で駄目だったんです。何かガリガリに痩せてね。だから、あの夏は僕も何試合か投げたんですよ」。
尼崎市立若草中ではエース右腕だった羽田氏は三田学園入学前のブルペン投球で当時の日下監督に「ピッチャーはもうええ」と野手転向を指令されたが、3年夏の時には監督が代わっていたこともあり、再び投手も兼務していたそうだ。「僕らのライバルは報徳(学園)だったんです。当時、三田学園と報徳が試合すると、お客さんも多かったんですよ。(3年)夏も下馬評ではウチと報徳で決勝という感じだったんですけどねぇ」。
エースが不調でも準々決勝で敗退するとは思っていなかったそうだ。「津名のピッチャーのコントロールがよかったんですよねぇ。ちょっとなめていた? それはあるかもしれません。僕ももうバテバテだったですしね。結局、あの年は報徳が甲子園に出たんですよね」。こうして高校野球は終わった。羽田氏はすでに上のレベルで野球を続けることを決めていたが、進路をプロ1本に絞っていたわけではなかった。
「プロは球団次第でした」。意中の球団は少年時代からファンだった地元の阪神だけ。それ以外なら早稲田大進学を希望していた。「三田学園からは法政に行く人が多かったんですけど、1級上の報徳学園(出身)の人が早稲田にいて『来いやぁ』って言われて……。完全に決まりではなかったですけど、セレクションとかも行って、早稲田の帽子ももらってね。気持ちは早稲田に行きかけていた」。
当然、プロスカウトたちも羽田氏をマークしていたはずだが「どうだったのかは詳しくは知らなかったです」と話す。「広島のスカウトが来られていたのは分かりましたね。ボールを持ってきてくれたんでね。(ボールを)見たらカープってあったので……。近鉄も最後の方に来られていたのかなぁ」。肝心の阪神については「全く分からなかったです」。それでも密かにタイガースからの指名を心待ちにしていた。
近鉄から4位指名、恩師から勧められたことが入団の決め手に
「(元三田学園監督で恩師の)日下さんにいろいろ相談していたんです。日下さんは元近鉄(パールス外野手)ですけど、阪神の人のこともよく知っておられた。何か、そういうつながりもいろいろあってね。阪神かなぁって思っていたんですけどね」。1971年のドラフト会議は11月19日に東京日比谷日生会館で開催されたが「どこに指名されるかなっていうのは少しありましたが、今みたいに学校の部屋で待機とか全くないですからね。普通に学校に行っていました」と話す。
もちろん”阪神から指名されればいいな“の気持ちで、その日を迎えた。「もう野球部を退部して寮も出て、(尼崎市内の)家から学校に通っていたんですが、確か(ドラフトの)結果を知らないまま家に帰ったと思う。その日のうちだったか、翌日だったか(近鉄スカウトから)電話があった。電話に僕は出ずに親父が対応していたんですけどね」。そこで初めて近鉄4位指名を知ったそうだ。「ああ、近鉄かぁって、ただそれだけの感想でした」。
指名順位に全くこだわりはなかったが、阪神以外なら早稲田大進学の方針。「あの時はもう半分以上、大学に傾いていました」。そんな状態からの“大逆転”での近鉄入りだった。「近鉄のスカウトとの交渉は日下さんがほとんどやってくれたんですけど『近鉄は年がいっている選手が多いから、チャンスがある。近鉄はいいぞ』って。日下さんにそう言われたら行かな仕方ないでしょ」。恩師に勧められたのが決め手となって、一転して首をタテに振ったのだ。
そこから話は急ピッチで進んだ。「まぁ、夢はプロやったわけですからね」と阪神への思いも、早稲田大への思いもすべて断ち切って、気持ちを切り替えた。「(近鉄と)契約したのもけっこう早かったと思いますよ」。とはいえ、もしも元近鉄の恩師との出会いがなければ、この時「近鉄・羽田」は誕生していなかったかもしれない。“バファローズ愛”にあふれるレジェンド内野手の野球人生は違ったものだったかもしれない。まさに運命が変わったドラフトでもあったようだ。
⚾岩手さんへ
まず、広陵問題ですが・・・なぜ訴えられるはずの暴力事件の加害生徒が告訴するのか???理解に苦しみます。これがいわゆる“逆ギレ”というやつでしょうか。
アメリカだとそういうケースも多々あるらしいですが、下級生をいじめる行為も犯罪に等しいですが、そのうえ告訴とは・・・余計に広陵高校及び野球部に傷がつくと思います、、、
さて、盛岡大付はここ数日ネット記事でよく取り上げられているので分かりました。ホンマに澤田監督がいた頃のチームは甲子園7戦全敗で可哀そうな気も半分ありつつ、近畿勢と当たってくれないか!という気持ちも半分でした。
ただ、安田学園がサヨナラ負けして潮目が大きく変わりましたね!あの当時の安田は安部慎之介の母校で、東京代表だし監督は社会人野球で名を馳せたらしいので、ネット裏で8連敗を期待しつつ・・・やたらバントにこだわり、走者がいなくともセーフティーをかまし、ファールやアウトの積み重ねでメイデンの劣化版みたいでしたね!挙句の果てに3-4だったか?サヨナラ負けで、あれ以来盛岡大付は甲子園初戦連勝が続き、東海大相模にも勝ちましたね!
花巻東はここで何度も述べた通り、累積警告が積もりまくっているので・・・ただ、案外負けるときは大阪桐蔭に0-17だったか?完敗したし、今春も米子松蔭に10-2と圧倒して8強入りするも健大高崎相手にエース温存して1-9で惨敗。昨夏は滋賀学園に0-5とおとなしかったですね。。。監督の息子さんの時も仙台育英に4-10だったか?最後猛追するも序盤から圧倒されてました。
盛岡大付は生活学園という校名で、かっこいいネーミングでしたが初出場時のエースが徳島出身だったはずでずいぶん力を入れたんですね。そして学校の名前を売り出して進学校路線経営の安定を図る狙い通りの戦略ですね。
野球留学に関してはアカンとまでは思わないが、なんでもかんでも遠方から乱獲するのはどうかと・・・。関東のチームが北海道から沖縄まで手を出すのはいい気がしませんね。そんなもん勝って当たり前やんと。広陵だって昨夏のエース・高尾は福岡から来ていたし、、、あんまりやりすぎたら甲子園に来ても自軍のアルプス以外は完全アウエーになりますよ!!
どことは言いませんが、乱獲して評判の高い割には初戦か2戦目でコロっと負けて早い段階でクニに帰ってマスコミの評価にケチがつくだけで・・・・・。
そういうチームに勝ったチームは思いっきり株が上がるので、早い段階で対戦しても闘志むき出しでぶつかり、下馬評を覆して関西人の溜飲を下げる試合が何度かありましたね。
昨夏の大社旋風のように、全くのノーマークから甲子園8強入りしてフィーバーするチームを大会前から発掘するのがマスコミの仕事だとは思いますが、、、1勝どまりの大阪桐蔭に特Aつける新聞雑誌は数あれど、大社に特AどころかAもなかったはずで、たいがいCときどきB評価だったはず。