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⚾今日の和歌山大会会新人戦試合結果(4日目 2・3回戦)
紀三井寺球場・・・和 智 弁12-1初芝橋本(7回)・田 辺10-0県和歌山(5回)・向 陽8xー7海 南(10回タイブレーク)
サンナンタンランド球場・・日高中津1-0桐 蔭・和歌山東10x-0粉 河(6回)
⚾明日の和歌山大会新人戦組み合わせ(5日目 3回戦)
紀三井寺球場
☆ 10:00~ 和歌 山北-高 野 山
12:30~ 田 辺 工-智弁和歌山
👣「生きがい」「選手のそばで」審判の大槻さんと北田さんが甲子園引退
https://news.yahoo.co.jp/articles/b0ba126ea0fb5d0dce1b4b7a79a92526a63e4d7e
高校野球で春夏の甲子園大会を支えてきた2人の審判委員が、今夏を最後に甲子園でのジャッジを終えた。21日の準決勝、大槻康彦さん(54)は第1試合で、北田直也さん(52)は第2試合でそれぞれ一塁塁審を務めた。
■甲子園決勝も、地方大会1回戦も同じ
大槻さんは30年前、職場の先輩にお願いされ、京都府の高校野球の審判を引き受けた。球歴は中学まで。「当時は野球の細かいルールを知らなかったし、続かないと思った」
選手の真剣なプレーを見て思いが変わった。「やるなら真剣に」。複雑なプレーは公認野球規則を読んで復習し、先輩に相談もした。第85回大会(2003年)で初めて甲子園の土を踏み、今春の選抜大会は決勝で球審を務めた。
「甲子園の決勝も、地方大会1回戦も同じ」と1球、1プレーに集中してきた。これからも京都府内でジャッジし続ける。「審判はもう一つの人生。生きがいになりました」
■基本を大事にしていた
北田さんは第90回記念大会(2008年)で派遣審判としてデビューした。「自分の判定で高校生たちが現役を終えるかもしれない」と、常に怖さがつきまとった。
印象深いのは18年の第100回記念大会、星稜(石川)―済美(愛媛)だ。十三回、済美の矢野功一郎選手が放った右翼ポール直撃の逆転満塁サヨナラ本塁打で、一塁塁審として腕を回した。「絶対にボールから目を切らないという基本を大事にしていたからこそきっちり判定できた」
審判の醍醐味は「一生懸命な選手たちに、そばで寄り添えること」。今後は地元の和歌山で若手の育成に携わりながら、審判と甲子園の素晴らしさを伝えていく。
📝「ブルペンには草、グラウンドは荒れ果てて」甲子園春夏16回出場・九州の古豪はなぜ“消えた”のか「これじゃ、100年経っても強くならんよ」
https://news.yahoo.co.jp/articles/454b59ecab7cdd436c66a4efd4a11eb8883a73eb
かつて甲子園に春夏16回出場した福岡の名門、柳川。古くはかの江川卓との熱戦が名高く、多くのプロ選手も輩出してきた古豪だ。しかしこの20年ほどは甲子園に縁遠くなっている。名門はなぜ「消えた」のか。現地に、熱い思いを秘めたOB監督を訪ねた。
福岡県の南部に位置する柳川市。国民的詩人である北原白秋を生んだこの街は、縦横無尽に走る全長約930キロに及ぶ掘割を、どんこ舟で下る名物の「川下り」でも知られる水の都だ。江戸時代には柳川藩主立花家の城下町として栄え、「立花氏庭園」「戸島氏庭園」「水郷柳河」と、3件もの国指定名勝を抱える景勝の地でもある。
真弓明信らを輩出した名門
その柳川市の中心に、高校野球ファンにはお馴染みの柳川高校がある。かつて九州屈指の難攻不落の城と謳われた柳川城跡に建てられた校舎敷地内にあるグラウンドから、これまで真弓明信(太平洋、阪神など)、久保康生(近鉄、阪神)、立花義家(西武、阪神など)、中島輝士(日ハム、近鉄)ら、数多の名選手が巣立っていった。
現在、歴史と伝統ある野球部を率いるのは、64歳OBの御所(ごしょ)豊治(とよはる)監督だ。すでに始動している新チームの2年生以下に向け、「この秋に夏のチームを作るんやぞ!」と鼓舞激励。響き渡る蝉の大合唱を全身に浴びながら、練習が始まった。「今までのチームは、翌年の夏までに仕上げていました。秋、春と真剣じゃなかったわけですよ。新チームが始まるこの時期は、以前であれば体力作りや1000本ティーをさせていましたが、今年は走塁や守りの細かいミスをなくすために、ゲームを多くさせています」
甲子園で繰り広げた名勝負
柳川は前身の柳川商時代を含め、これまで春8回、夏8回の甲子園出場を誇る。1973年夏、作新学院(栃木)の怪物・江川卓を揺さぶったバスター攻撃はあまりにも有名。2000年にはエースの香月良太(オリックス、巨人など)を擁し、春夏ともに8強入りを果たした。同年夏の準々決勝、智弁和歌山戦で延長11回、6対7と敗れはしたが、177球を投げ抜いた姿に心を打たれたファンも多いのではないだろうか。
しかし、その名門校も2005年夏を最後に、聖地から20年間遠ざかっている。今夏の福岡大会は3回戦敗退と、往時の勢いはもうない。ただ、優勝候補の一角に挙げられた福岡大大濠を相手に、9回2点差を追いつくと、延長10回タイブレークを戦い5対6と、復活の足がかりをつかむことはできた。
「初戦を突破してから大濠戦までの3日間、朝9時15分からの試合開始時間に合わせるために6時からバッティングをやらせました。そのためには5時前には起きて準備をしなければなりません。相手投手の研究もしていたので、ある程度の自信はありました」
不祥事をきっかけに低迷が
毎年部員の入れ替わりを繰り返す高校野球において、その強さを維持し続けるのは至難の業だ。さらに監督が交替すれば、それまでの指導方針や中学生のスカウト事情などに影響を及ぼす。2005年夏の甲子園後、部員の不祥事でOBの末次秀樹さん(現真颯館高監督)が監督を退いたことをきっかけに、チームは指揮官を定着させることができず、低迷の一途を辿っていった。
2012年。御所さんは、コーチとして33年ぶりに母校へ戻ってきたときの衝撃を昨日のことのように覚えている。
「部員の前でコーチ就任挨拶をした時です。片足重心で蝉を見たり、隣と話している選手もいて、誰も話を聞いていないんですよ。昼間の1時やったから、最初は熱中症かと思って心配しました(笑)」
甲子園出場からわずか7年で……
ブルペンには膝丈まで草が生え、グラウンドも荒れ果てていた。最後の甲子園出場からわずか7年で、ここまでチームは衰退するのかと愕然とした。そこから、これまで歴代の先輩たちが築き上げてきた歴史を一通り説明した後、ナインに謝罪した。
「今までの大人が何をしよったとかという話ですよ。僕もOBだから申し訳ないと謝りました。福岡大会で西日本短大付や九州国際大付、東福岡、福岡工大城東と勝ち上がってくるけど、柳川の名前がないので、おかしいなと思っていて、母校に戻ってみたら、やっとその理由が発覚しました。『さっきまでの態度を取っとったら、100年経っても強くならんよ』という話からスタートしました」
ユニホームに一目惚れして
御所監督は福岡県浮羽郡(現うきは市)出身。左胸に縦文字で「柳川」と書かれたクリーム地のユニホームに一目惚れした。中3時の1976年夏。甲子園3回戦でPL学園(大阪)に0対1と接戦を演じた高校に目が釘付けとなった。
「PLが出るということでテレビをつけたら相手が柳川商だったんです。久保さん、立花さん、末次さんら先輩方が着ていたユニホームをパッと見た瞬間、『うわ、かっこいい! 』となって。福岡にあることすら知りませんでした(笑)。あのユニホームを着てみたくて、受験して入学することができました」
当時の柳川商は、県内屈指の強豪校。一学年50人ほどが在籍し、競争も熾烈を極めた。1年夏の新チーム始動初日。福田精一監督から、二塁の守備に就いてノックを受けるように指示された。「守備には自信がありました」と言うように、2年生に負けない動きでアピールしていると、どこからともなく「チッ」と舌打ちが聞こえてきた。その夜、先輩から寮の屋上に呼び出しを食らった。
「なん調子に乗っていいプレーしよるんか」
「『お前、なん調子に乗ってノック受けて、いいプレーしよるんか』と説教されました。ノックを受けただけで怒られるんかと思いましたね。次の日は捕れるボールを捕らない、わざと暴投したりと、あれだけ演技がうまいとは自分でも思っていませんでした(笑)。それを3日間続けたら、ノックから外され、翌春に出場した選抜にもメンバーに入ることができませんでした。あそこでレギュラーを張るぐらい一生懸命やっていたら、甲子園ボーイでしたね」
初めてメンバーとして伝統のユニホームに袖を通したのは2年秋。それまで二塁しか守ったことがなかったが、背番号6を渡された。福田監督に恐る恐る「背番号4じゃないんですか」と尋ねると、「お前はボールを捕ってからが早いから、ショートで十分成立する。心配せんでいい」と説明を受けた。それから遊撃一筋で社会人まで現役を続けることになる。名将として鳴らした福田監督の先見の明には、驚かされることばかりだった。
身長150センチ台で登録しておけ
「2年秋の福岡大会で優勝して神宮大会に出場した時です。私の身長は163センチで、マネージャーには公称165センチでお願いしたのですが、福田先生がそれを消して159センチでパンフレットに載ったわけですよ。福田先生に文句を言いにいったら『御所、150センチ台のショートはおらんぞ。目立つからこの身長でいけ』と言うんです。そうしたら、開会式が終わった後、神宮で囲み取材を受けました。こういうことか! と腑に落ちましたね」
1978年の神宮大会では、1学年下でエースの座を獲得した中島輝士が投打で大活躍。御所さんも決勝の市立神港高(兵庫=近畿地区代表)戦で3安打2打点と奮起し、12対2で初出場初優勝に輝いた。
もちろん、その後に行われる九州大会でもダントツの優勝候補。翌春の選抜出場圏内となるベスト4以上は堅いと思われていた。しかし、大きな落とし穴が待ち構えているのを、この時はまだ知る由もなかった。
〈つづく〉
📝「あの郭泰源と対戦して台湾の新聞1面に」名門・柳川高の甲子園復活に懸けるOB監督「修学旅行で宇宙旅行と甲子園、どちらが先か勝負(笑)」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9c51c6384676024f952f0341abd9e19a00b9b628?page=1
福岡高校野球界の古豪である柳川高は、2005年夏以来、20年もの間、甲子園から遠ざかっている。母校の再建へ手腕を振るう64歳OBの御所豊治監督は、現役時代の高2秋、神宮大会で初出場初優勝を果たしながらも、甲子園の土を踏む夢は叶わなかった。「当時の神宮大会は九州各県の持ち回りで、あの年(1978年)は福岡県の優勝チームが出場できました。ただ、その後に行われた九州大会では、1学年下でエースの中島(輝士)がケガで本来の投球ができず、鹿児島実に1対8、8回コールドで初戦敗退して翌年の選抜に出場することはできませんでした」
日本一の大学を完封した台湾の高校生の名は……
ただ、神宮大会で優勝したことによって、得難い経験を積むことができた。大学の部優勝校の同志社大と同年末に台湾へ遠征し、現地チームと対戦する機会が与えられた。ちょうど同志社大の試合を観戦していた時だ。日本一の大学をシャットアウトした台湾投手に目を奪われた。
「福田精一監督が『おい御所、台湾の投手は今度試合をする相手だぞ』と言うんです。高校生が一人、大学の試合に入って投げよったんです」
その投手の名は郭泰源。「オリエンタル・エクスプレス」の愛称で知られ、のちに西武で活躍した右腕は、高校生当時で150キロを超える直球を連発していた。その郭を擁する長栄高と後日、交流試合を行った。郭は柳川を相手に投げる予定はなかったが、試合中、福田監督が相手監督に頼み込み、9回の1イニングだけ登板することが決まった。
郭泰源のボールが「見えんばい……」
「『ピッチャー郭』とアナウンスされた瞬間、グラウンドキーパーが3人ほど出てきてマウンドの整備を始めたんです。そこにスタスタと歩いていく郭泰源という男は、まさしく台湾のスーパースターでした」
右腕から放たれるボールは、凄まじい切れ味だった。御所さんの前の打者2人はいずれも三振。あきらかにボールが捕手のミットに吸い込まれた後にスイングをしていた。
感想を聞くと、「御所、見えんばい……」。その意味は、初球、外角の直球を見送った時に悟った。近づいてくるボールが、あまりの速さに小さくなっていく感覚は、後にも先にもこの時だけだった。
「郭が打たれた」台湾の新聞1面に
ただ、見えなくなるほどではなかった。次の内角直球をボール球としっかりと見極めることができ、「打てるかもしれん」と自信が芽生えた次の瞬間、主審が「デッドボール」の判定を下した。ユニホームの袖にわずかに触れていたのだ。打ちたかった気持ちを抑え、渋々一塁へ歩くと、次打者の中島が中堅の頭上を越える打球を放った。本塁でのクロスプレーをかいくぐり、一塁から長駆ホームインすると、翌日、台湾の新聞1面で「郭が高校生にタイムリーヒットを打たれる」と大きく報道された。
「中島はそのときの感覚がよくて、プロで郭が西武にいる時も結構ヒットを打っていましたね」
そんな経験ができたのも、福田監督がいたからだ。全盛期の柳川商を10年(69〜79年)、そして校名が変わった柳川を12年(80、83〜94年)率い、春5度、夏3度の甲子園出場に導いた名将は、時代に合わせてその指導法を柔軟に変化させてきた。
「福田先生に監督を2回やられて、変化があったか聞いたことがあります。すると『お前たち(柳川商)の卒業生と会社を経営したら、そりゃあ儲かったやろう。右向けっていったら全員が右を向く。でも、後半(柳川)の卒業生は、右向けっていったら、全員が上や下を向くので破産しとる』って言うんです。指導や教育も変わったので、やり方を変えていったそうです。ただ、『目標は甲子園出場、目的は人間形成』という指導理念だけは譲らなかったそうです」
母校に戻って指導者になるまで
御所さんは3年夏の福岡大会3回戦で東海大五(現東海大福岡)に敗れ、高校野球を引退。進路を決める際、福田監督からは「コーチとして残らないか」と打診を受けた。
もちろん、選手を続けたい気持ちが強かったため、卒業後は当時静岡で活動していた社会人の関東自動車(現トヨタ自動車東日本)に入社。5年の現役生活を全うした後、監督からのコーチ要請を断り、福岡へと戻った。その後も請われて中学硬式野球の朝倉ボーイズの監督や、祐誠高のコーチを務めた。指導者としての適性があったことを、福田監督は誰よりも早く見抜いていたのだ。
「50歳になったら高校野球に携わりたいなと思っていました。そうしたら、46歳で祐誠のコーチ、そして2012年、50歳で柳川のコーチに引っ張られて、5年前から監督になりました。こうして野球に携われているのも、福田先生のお陰です」
母校に戻って13年の月日が経過した。御所さんが指導を始めてから、2021年夏の福岡大会8強が最高。甲子園はおろか、九州大会にも出場できていない。あの強かった頃の柳川を取り戻すべく、今は再建の道半ばだ。選手には「夢だけは絶対に捨てたらいかん」と繰り返し言い続けている。
「修学旅行で宇宙旅行と甲子園、どちらが先か勝負(笑)」
「柳川に戻ってきてミーティングをした時です。小学生で野球を始めた時にプロ野球選手になろうと思った人はと尋ねると、全員が手を挙げるんです。それが、中学生の時は半分に減って、今思っている人は1人しかおりませんでした。それじゃあ甲子園には行けないし、夢は貫き通さないといけないんですよ。ウチの校長・理事長(古賀賢さん)は面白い人で、2030年の修学旅行で宇宙旅行の夢をぶち上げていますが、それと甲子園出場、どちらが先か勝負しています(笑)」
野球部が練習するグラウンドのスコアボード上部には「啐啄同時」という四字熟語が刻まれている。雛が卵から孵化する際に、内側から殻をつつく「啐」と、親鳥が外側から殻をつつく「啄」が、絶妙なタイミングで行われることを指す。「子供は宝物、ダイヤの原石です。卒業するまでにピカピカに磨かないと、石ころになって蹴飛ばされます。私はヒントを与えるだけで、あとは自分で磨いていくしかありません。そうやって人間を磨いたその先に、甲子園はあると思っています」
御所さんの思いと、ナインの呼吸がピッタリと合致した時、柳川は殻を破り、名門復活の咆哮を上げる。オールドファンもその時を静かに待ち望んでいる。
⚾岩手さんへ
そうなんですね。新チーム結成直後で合同練習も数日だったと思われますが、健闘虚しくですか・・・。やはり最低でも9回までやってほしいですよね。。。
まだ敗者復活戦があるだけ岩手県は優しいですね。近畿だと和歌山・兵庫以外は基本的にトーナメント一本勝負なんで最悪、8月末に1敗しただけで長すぎる冬に突入します・・・・・。
球審・前坂は紀三井寺でよく名前を聴きますね。あとは若手の向陽OB西岡もこの夏何度も甲子園でアンパイアしてました。
やはり近畿中心で審判員は構成されていると思います。たまに他県から派遣審判が数名来られますが、、、、、岡山のように選手の足を引っ張るのは勘弁してほしいです。先月、マスカットでショートゴロをさばこうとするプレーヤーに猛然とタックルかまして致命的な失点を与え50分間試合が止まりましたから・・・・・。
コロナ前にも広島で迫田監督の弟さんが広島新庄時代に1時間を超える猛抗議をされたらしいですが、、、、、リプレー検証が現状ないので予選だと抗議が長時間に及びますね!
最近は分かりませんが、大阪桐蔭や京都外大西あたりは細かいところでタイムを取って球審に確認して、相手投手などにプレッシャーかけてきますから。
ちなみに今日の紀三井寺は第2・第3試合の3塁塁審が和歌山大学の野球部員さんでした。
P・S 昨日、大観衆の甲子園で決勝が行われ一応の幕切れとなりましたが・・・・・。入場料高騰して立錐の余地もない甲子園よりもある程度好きな座席を取れる紀三井寺の方が僕は性に合ってますね!
早朝4時起床して雨雲レーダー見たら和歌山市界隈かなり怪しく、道中JR阪和線の日根野~和歌山で雨降ってました!あるいは全試合雨天中止だったらどうしようと悩みましたが、球場は座席も濡れてなかったし、2度散水していたので大丈夫だったかと。
悲しいかな案の定、和智弁は7回コールド勝ち。エースが2年生・和気でした。旧チームからのスタメンをクリーンアップに並べてソツなく加点していき、6回裏1死2・3塁で初芝橋本がコールド回避のためにスクイズ敢行も外された?というよりも外角にスッポ抜けたのか???3塁走者挟殺されて無得点でエース交代したらエラーも絡んで1イニング7失点でコールドで粉砕。。。
初橋のエースがやたら間合い長く7回で終わったが2時間12分と粘りました。
田辺は部員11人の県和歌山に容赦なく襲い掛かり監督の息子さんが4番を任され1回裏から7得点であっさり5回コールド勝ち。。。
メチャクチャ熱かったので昼ご飯はいつも通り陸上競技場の屋根下で食べましたが、ラグビーの試合してましたね。
最後は向陽ー海南の古豪対決ですが、向陽は部員12人と寂しかった・・・。前2試合の味気なさを覆す熱戦で、なんだかんだシーソーゲームとなり、4-4で延長タイブレーク突入。
10回表海南が3点を奪い勝負ありと思いきや、向陽も粘ってというよりも相手投手の制球難に乗じてあの県岐阜商ー横浜の試合を見ているようで・・・。2点を返し6-7。2死満塁フルカウントからファースト左を襲う痛烈な打球をファーストがライト方向に大きく弾き2者生還で3点差逆転サヨナラゲームと。
最後の試合だけ面白かったなあと。まだ負けても一次予選があるのでセンバツへの希望はありますが、、、、、やはり和歌山では和智弁が群を抜いているようで。甲子園でもこれくらい打ってほしかったですね。
そして帰りはなんば駅が土砂降りで・・・京阪電車は大雨と落雷の影響で全線ストップとか!!僕はなんとか無事に自転車で帰れましたが紙一重でしたね。。。いつどこでゲリラ豪雨が発生するか分からないので戦々恐々でした。
紀三井寺球場・・・和 智 弁12-1初芝橋本(7回)・田 辺10-0県和歌山(5回)・向 陽8xー7海 南(10回タイブレーク)
サンナンタンランド球場・・日高中津1-0桐 蔭・和歌山東10x-0粉 河(6回)
⚾明日の和歌山大会新人戦組み合わせ(5日目 3回戦)
紀三井寺球場
☆ 10:00~ 和歌 山北-高 野 山
12:30~ 田 辺 工-智弁和歌山
👣「生きがい」「選手のそばで」審判の大槻さんと北田さんが甲子園引退
https://news.yahoo.co.jp/articles/b0ba126ea0fb5d0dce1b4b7a79a92526a63e4d7e
高校野球で春夏の甲子園大会を支えてきた2人の審判委員が、今夏を最後に甲子園でのジャッジを終えた。21日の準決勝、大槻康彦さん(54)は第1試合で、北田直也さん(52)は第2試合でそれぞれ一塁塁審を務めた。
■甲子園決勝も、地方大会1回戦も同じ
大槻さんは30年前、職場の先輩にお願いされ、京都府の高校野球の審判を引き受けた。球歴は中学まで。「当時は野球の細かいルールを知らなかったし、続かないと思った」
選手の真剣なプレーを見て思いが変わった。「やるなら真剣に」。複雑なプレーは公認野球規則を読んで復習し、先輩に相談もした。第85回大会(2003年)で初めて甲子園の土を踏み、今春の選抜大会は決勝で球審を務めた。
「甲子園の決勝も、地方大会1回戦も同じ」と1球、1プレーに集中してきた。これからも京都府内でジャッジし続ける。「審判はもう一つの人生。生きがいになりました」
■基本を大事にしていた
北田さんは第90回記念大会(2008年)で派遣審判としてデビューした。「自分の判定で高校生たちが現役を終えるかもしれない」と、常に怖さがつきまとった。
印象深いのは18年の第100回記念大会、星稜(石川)―済美(愛媛)だ。十三回、済美の矢野功一郎選手が放った右翼ポール直撃の逆転満塁サヨナラ本塁打で、一塁塁審として腕を回した。「絶対にボールから目を切らないという基本を大事にしていたからこそきっちり判定できた」
審判の醍醐味は「一生懸命な選手たちに、そばで寄り添えること」。今後は地元の和歌山で若手の育成に携わりながら、審判と甲子園の素晴らしさを伝えていく。
📝「ブルペンには草、グラウンドは荒れ果てて」甲子園春夏16回出場・九州の古豪はなぜ“消えた”のか「これじゃ、100年経っても強くならんよ」
https://news.yahoo.co.jp/articles/454b59ecab7cdd436c66a4efd4a11eb8883a73eb
かつて甲子園に春夏16回出場した福岡の名門、柳川。古くはかの江川卓との熱戦が名高く、多くのプロ選手も輩出してきた古豪だ。しかしこの20年ほどは甲子園に縁遠くなっている。名門はなぜ「消えた」のか。現地に、熱い思いを秘めたOB監督を訪ねた。
福岡県の南部に位置する柳川市。国民的詩人である北原白秋を生んだこの街は、縦横無尽に走る全長約930キロに及ぶ掘割を、どんこ舟で下る名物の「川下り」でも知られる水の都だ。江戸時代には柳川藩主立花家の城下町として栄え、「立花氏庭園」「戸島氏庭園」「水郷柳河」と、3件もの国指定名勝を抱える景勝の地でもある。
真弓明信らを輩出した名門
その柳川市の中心に、高校野球ファンにはお馴染みの柳川高校がある。かつて九州屈指の難攻不落の城と謳われた柳川城跡に建てられた校舎敷地内にあるグラウンドから、これまで真弓明信(太平洋、阪神など)、久保康生(近鉄、阪神)、立花義家(西武、阪神など)、中島輝士(日ハム、近鉄)ら、数多の名選手が巣立っていった。
現在、歴史と伝統ある野球部を率いるのは、64歳OBの御所(ごしょ)豊治(とよはる)監督だ。すでに始動している新チームの2年生以下に向け、「この秋に夏のチームを作るんやぞ!」と鼓舞激励。響き渡る蝉の大合唱を全身に浴びながら、練習が始まった。「今までのチームは、翌年の夏までに仕上げていました。秋、春と真剣じゃなかったわけですよ。新チームが始まるこの時期は、以前であれば体力作りや1000本ティーをさせていましたが、今年は走塁や守りの細かいミスをなくすために、ゲームを多くさせています」
甲子園で繰り広げた名勝負
柳川は前身の柳川商時代を含め、これまで春8回、夏8回の甲子園出場を誇る。1973年夏、作新学院(栃木)の怪物・江川卓を揺さぶったバスター攻撃はあまりにも有名。2000年にはエースの香月良太(オリックス、巨人など)を擁し、春夏ともに8強入りを果たした。同年夏の準々決勝、智弁和歌山戦で延長11回、6対7と敗れはしたが、177球を投げ抜いた姿に心を打たれたファンも多いのではないだろうか。
しかし、その名門校も2005年夏を最後に、聖地から20年間遠ざかっている。今夏の福岡大会は3回戦敗退と、往時の勢いはもうない。ただ、優勝候補の一角に挙げられた福岡大大濠を相手に、9回2点差を追いつくと、延長10回タイブレークを戦い5対6と、復活の足がかりをつかむことはできた。
「初戦を突破してから大濠戦までの3日間、朝9時15分からの試合開始時間に合わせるために6時からバッティングをやらせました。そのためには5時前には起きて準備をしなければなりません。相手投手の研究もしていたので、ある程度の自信はありました」
不祥事をきっかけに低迷が
毎年部員の入れ替わりを繰り返す高校野球において、その強さを維持し続けるのは至難の業だ。さらに監督が交替すれば、それまでの指導方針や中学生のスカウト事情などに影響を及ぼす。2005年夏の甲子園後、部員の不祥事でOBの末次秀樹さん(現真颯館高監督)が監督を退いたことをきっかけに、チームは指揮官を定着させることができず、低迷の一途を辿っていった。
2012年。御所さんは、コーチとして33年ぶりに母校へ戻ってきたときの衝撃を昨日のことのように覚えている。
「部員の前でコーチ就任挨拶をした時です。片足重心で蝉を見たり、隣と話している選手もいて、誰も話を聞いていないんですよ。昼間の1時やったから、最初は熱中症かと思って心配しました(笑)」
甲子園出場からわずか7年で……
ブルペンには膝丈まで草が生え、グラウンドも荒れ果てていた。最後の甲子園出場からわずか7年で、ここまでチームは衰退するのかと愕然とした。そこから、これまで歴代の先輩たちが築き上げてきた歴史を一通り説明した後、ナインに謝罪した。
「今までの大人が何をしよったとかという話ですよ。僕もOBだから申し訳ないと謝りました。福岡大会で西日本短大付や九州国際大付、東福岡、福岡工大城東と勝ち上がってくるけど、柳川の名前がないので、おかしいなと思っていて、母校に戻ってみたら、やっとその理由が発覚しました。『さっきまでの態度を取っとったら、100年経っても強くならんよ』という話からスタートしました」
ユニホームに一目惚れして
御所監督は福岡県浮羽郡(現うきは市)出身。左胸に縦文字で「柳川」と書かれたクリーム地のユニホームに一目惚れした。中3時の1976年夏。甲子園3回戦でPL学園(大阪)に0対1と接戦を演じた高校に目が釘付けとなった。
「PLが出るということでテレビをつけたら相手が柳川商だったんです。久保さん、立花さん、末次さんら先輩方が着ていたユニホームをパッと見た瞬間、『うわ、かっこいい! 』となって。福岡にあることすら知りませんでした(笑)。あのユニホームを着てみたくて、受験して入学することができました」
当時の柳川商は、県内屈指の強豪校。一学年50人ほどが在籍し、競争も熾烈を極めた。1年夏の新チーム始動初日。福田精一監督から、二塁の守備に就いてノックを受けるように指示された。「守備には自信がありました」と言うように、2年生に負けない動きでアピールしていると、どこからともなく「チッ」と舌打ちが聞こえてきた。その夜、先輩から寮の屋上に呼び出しを食らった。
「なん調子に乗っていいプレーしよるんか」
「『お前、なん調子に乗ってノック受けて、いいプレーしよるんか』と説教されました。ノックを受けただけで怒られるんかと思いましたね。次の日は捕れるボールを捕らない、わざと暴投したりと、あれだけ演技がうまいとは自分でも思っていませんでした(笑)。それを3日間続けたら、ノックから外され、翌春に出場した選抜にもメンバーに入ることができませんでした。あそこでレギュラーを張るぐらい一生懸命やっていたら、甲子園ボーイでしたね」
初めてメンバーとして伝統のユニホームに袖を通したのは2年秋。それまで二塁しか守ったことがなかったが、背番号6を渡された。福田監督に恐る恐る「背番号4じゃないんですか」と尋ねると、「お前はボールを捕ってからが早いから、ショートで十分成立する。心配せんでいい」と説明を受けた。それから遊撃一筋で社会人まで現役を続けることになる。名将として鳴らした福田監督の先見の明には、驚かされることばかりだった。
身長150センチ台で登録しておけ
「2年秋の福岡大会で優勝して神宮大会に出場した時です。私の身長は163センチで、マネージャーには公称165センチでお願いしたのですが、福田先生がそれを消して159センチでパンフレットに載ったわけですよ。福田先生に文句を言いにいったら『御所、150センチ台のショートはおらんぞ。目立つからこの身長でいけ』と言うんです。そうしたら、開会式が終わった後、神宮で囲み取材を受けました。こういうことか! と腑に落ちましたね」
1978年の神宮大会では、1学年下でエースの座を獲得した中島輝士が投打で大活躍。御所さんも決勝の市立神港高(兵庫=近畿地区代表)戦で3安打2打点と奮起し、12対2で初出場初優勝に輝いた。
もちろん、その後に行われる九州大会でもダントツの優勝候補。翌春の選抜出場圏内となるベスト4以上は堅いと思われていた。しかし、大きな落とし穴が待ち構えているのを、この時はまだ知る由もなかった。
〈つづく〉
📝「あの郭泰源と対戦して台湾の新聞1面に」名門・柳川高の甲子園復活に懸けるOB監督「修学旅行で宇宙旅行と甲子園、どちらが先か勝負(笑)」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9c51c6384676024f952f0341abd9e19a00b9b628?page=1
福岡高校野球界の古豪である柳川高は、2005年夏以来、20年もの間、甲子園から遠ざかっている。母校の再建へ手腕を振るう64歳OBの御所豊治監督は、現役時代の高2秋、神宮大会で初出場初優勝を果たしながらも、甲子園の土を踏む夢は叶わなかった。「当時の神宮大会は九州各県の持ち回りで、あの年(1978年)は福岡県の優勝チームが出場できました。ただ、その後に行われた九州大会では、1学年下でエースの中島(輝士)がケガで本来の投球ができず、鹿児島実に1対8、8回コールドで初戦敗退して翌年の選抜に出場することはできませんでした」
日本一の大学を完封した台湾の高校生の名は……
ただ、神宮大会で優勝したことによって、得難い経験を積むことができた。大学の部優勝校の同志社大と同年末に台湾へ遠征し、現地チームと対戦する機会が与えられた。ちょうど同志社大の試合を観戦していた時だ。日本一の大学をシャットアウトした台湾投手に目を奪われた。
「福田精一監督が『おい御所、台湾の投手は今度試合をする相手だぞ』と言うんです。高校生が一人、大学の試合に入って投げよったんです」
その投手の名は郭泰源。「オリエンタル・エクスプレス」の愛称で知られ、のちに西武で活躍した右腕は、高校生当時で150キロを超える直球を連発していた。その郭を擁する長栄高と後日、交流試合を行った。郭は柳川を相手に投げる予定はなかったが、試合中、福田監督が相手監督に頼み込み、9回の1イニングだけ登板することが決まった。
郭泰源のボールが「見えんばい……」
「『ピッチャー郭』とアナウンスされた瞬間、グラウンドキーパーが3人ほど出てきてマウンドの整備を始めたんです。そこにスタスタと歩いていく郭泰源という男は、まさしく台湾のスーパースターでした」
右腕から放たれるボールは、凄まじい切れ味だった。御所さんの前の打者2人はいずれも三振。あきらかにボールが捕手のミットに吸い込まれた後にスイングをしていた。
感想を聞くと、「御所、見えんばい……」。その意味は、初球、外角の直球を見送った時に悟った。近づいてくるボールが、あまりの速さに小さくなっていく感覚は、後にも先にもこの時だけだった。
「郭が打たれた」台湾の新聞1面に
ただ、見えなくなるほどではなかった。次の内角直球をボール球としっかりと見極めることができ、「打てるかもしれん」と自信が芽生えた次の瞬間、主審が「デッドボール」の判定を下した。ユニホームの袖にわずかに触れていたのだ。打ちたかった気持ちを抑え、渋々一塁へ歩くと、次打者の中島が中堅の頭上を越える打球を放った。本塁でのクロスプレーをかいくぐり、一塁から長駆ホームインすると、翌日、台湾の新聞1面で「郭が高校生にタイムリーヒットを打たれる」と大きく報道された。
「中島はそのときの感覚がよくて、プロで郭が西武にいる時も結構ヒットを打っていましたね」
そんな経験ができたのも、福田監督がいたからだ。全盛期の柳川商を10年(69〜79年)、そして校名が変わった柳川を12年(80、83〜94年)率い、春5度、夏3度の甲子園出場に導いた名将は、時代に合わせてその指導法を柔軟に変化させてきた。
「福田先生に監督を2回やられて、変化があったか聞いたことがあります。すると『お前たち(柳川商)の卒業生と会社を経営したら、そりゃあ儲かったやろう。右向けっていったら全員が右を向く。でも、後半(柳川)の卒業生は、右向けっていったら、全員が上や下を向くので破産しとる』って言うんです。指導や教育も変わったので、やり方を変えていったそうです。ただ、『目標は甲子園出場、目的は人間形成』という指導理念だけは譲らなかったそうです」
母校に戻って指導者になるまで
御所さんは3年夏の福岡大会3回戦で東海大五(現東海大福岡)に敗れ、高校野球を引退。進路を決める際、福田監督からは「コーチとして残らないか」と打診を受けた。
もちろん、選手を続けたい気持ちが強かったため、卒業後は当時静岡で活動していた社会人の関東自動車(現トヨタ自動車東日本)に入社。5年の現役生活を全うした後、監督からのコーチ要請を断り、福岡へと戻った。その後も請われて中学硬式野球の朝倉ボーイズの監督や、祐誠高のコーチを務めた。指導者としての適性があったことを、福田監督は誰よりも早く見抜いていたのだ。
「50歳になったら高校野球に携わりたいなと思っていました。そうしたら、46歳で祐誠のコーチ、そして2012年、50歳で柳川のコーチに引っ張られて、5年前から監督になりました。こうして野球に携われているのも、福田先生のお陰です」
母校に戻って13年の月日が経過した。御所さんが指導を始めてから、2021年夏の福岡大会8強が最高。甲子園はおろか、九州大会にも出場できていない。あの強かった頃の柳川を取り戻すべく、今は再建の道半ばだ。選手には「夢だけは絶対に捨てたらいかん」と繰り返し言い続けている。
「修学旅行で宇宙旅行と甲子園、どちらが先か勝負(笑)」
「柳川に戻ってきてミーティングをした時です。小学生で野球を始めた時にプロ野球選手になろうと思った人はと尋ねると、全員が手を挙げるんです。それが、中学生の時は半分に減って、今思っている人は1人しかおりませんでした。それじゃあ甲子園には行けないし、夢は貫き通さないといけないんですよ。ウチの校長・理事長(古賀賢さん)は面白い人で、2030年の修学旅行で宇宙旅行の夢をぶち上げていますが、それと甲子園出場、どちらが先か勝負しています(笑)」
野球部が練習するグラウンドのスコアボード上部には「啐啄同時」という四字熟語が刻まれている。雛が卵から孵化する際に、内側から殻をつつく「啐」と、親鳥が外側から殻をつつく「啄」が、絶妙なタイミングで行われることを指す。「子供は宝物、ダイヤの原石です。卒業するまでにピカピカに磨かないと、石ころになって蹴飛ばされます。私はヒントを与えるだけで、あとは自分で磨いていくしかありません。そうやって人間を磨いたその先に、甲子園はあると思っています」
御所さんの思いと、ナインの呼吸がピッタリと合致した時、柳川は殻を破り、名門復活の咆哮を上げる。オールドファンもその時を静かに待ち望んでいる。
⚾岩手さんへ
そうなんですね。新チーム結成直後で合同練習も数日だったと思われますが、健闘虚しくですか・・・。やはり最低でも9回までやってほしいですよね。。。
まだ敗者復活戦があるだけ岩手県は優しいですね。近畿だと和歌山・兵庫以外は基本的にトーナメント一本勝負なんで最悪、8月末に1敗しただけで長すぎる冬に突入します・・・・・。
球審・前坂は紀三井寺でよく名前を聴きますね。あとは若手の向陽OB西岡もこの夏何度も甲子園でアンパイアしてました。
やはり近畿中心で審判員は構成されていると思います。たまに他県から派遣審判が数名来られますが、、、、、岡山のように選手の足を引っ張るのは勘弁してほしいです。先月、マスカットでショートゴロをさばこうとするプレーヤーに猛然とタックルかまして致命的な失点を与え50分間試合が止まりましたから・・・・・。
コロナ前にも広島で迫田監督の弟さんが広島新庄時代に1時間を超える猛抗議をされたらしいですが、、、、、リプレー検証が現状ないので予選だと抗議が長時間に及びますね!
最近は分かりませんが、大阪桐蔭や京都外大西あたりは細かいところでタイムを取って球審に確認して、相手投手などにプレッシャーかけてきますから。
ちなみに今日の紀三井寺は第2・第3試合の3塁塁審が和歌山大学の野球部員さんでした。
P・S 昨日、大観衆の甲子園で決勝が行われ一応の幕切れとなりましたが・・・・・。入場料高騰して立錐の余地もない甲子園よりもある程度好きな座席を取れる紀三井寺の方が僕は性に合ってますね!
早朝4時起床して雨雲レーダー見たら和歌山市界隈かなり怪しく、道中JR阪和線の日根野~和歌山で雨降ってました!あるいは全試合雨天中止だったらどうしようと悩みましたが、球場は座席も濡れてなかったし、2度散水していたので大丈夫だったかと。
悲しいかな案の定、和智弁は7回コールド勝ち。エースが2年生・和気でした。旧チームからのスタメンをクリーンアップに並べてソツなく加点していき、6回裏1死2・3塁で初芝橋本がコールド回避のためにスクイズ敢行も外された?というよりも外角にスッポ抜けたのか???3塁走者挟殺されて無得点でエース交代したらエラーも絡んで1イニング7失点でコールドで粉砕。。。
初橋のエースがやたら間合い長く7回で終わったが2時間12分と粘りました。
田辺は部員11人の県和歌山に容赦なく襲い掛かり監督の息子さんが4番を任され1回裏から7得点であっさり5回コールド勝ち。。。
メチャクチャ熱かったので昼ご飯はいつも通り陸上競技場の屋根下で食べましたが、ラグビーの試合してましたね。
最後は向陽ー海南の古豪対決ですが、向陽は部員12人と寂しかった・・・。前2試合の味気なさを覆す熱戦で、なんだかんだシーソーゲームとなり、4-4で延長タイブレーク突入。
10回表海南が3点を奪い勝負ありと思いきや、向陽も粘ってというよりも相手投手の制球難に乗じてあの県岐阜商ー横浜の試合を見ているようで・・・。2点を返し6-7。2死満塁フルカウントからファースト左を襲う痛烈な打球をファーストがライト方向に大きく弾き2者生還で3点差逆転サヨナラゲームと。
最後の試合だけ面白かったなあと。まだ負けても一次予選があるのでセンバツへの希望はありますが、、、、、やはり和歌山では和智弁が群を抜いているようで。甲子園でもこれくらい打ってほしかったですね。
そして帰りはなんば駅が土砂降りで・・・京阪電車は大雨と落雷の影響で全線ストップとか!!僕はなんとか無事に自転車で帰れましたが紙一重でしたね。。。いつどこでゲリラ豪雨が発生するか分からないので戦々恐々でした。