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2025年宿泊野球観戦第3弾は福井大会in敦賀&セーレン・ドリームスタジアム(福井県営)となります。
北陸新幹線が敦賀まで延伸したあおりをモロに受けて、帰りは福井からサンダーバード一本で京都まで帰れない憂き目に遭いますが・・・・・。
福井といえば思い出すのは前回2年前の10月。降水確率80%で前日夕方から雨が降り絶望的な状況が朝起きると奇跡的に朝日が出ており、フェニックス2時間遅れ(12時開始)~県営4時間遅れ(14時開始)となり、まさかのナイターハシゴ観戦!!
今となっては最終日だったら、終電との戦いがあるのでもうできませんが・・・・・。
ちなみに福井宿泊観戦は通算10回目。夏は10年ぶり2度目となります。
今日は晴れ時々曇り 明日は晴 の予報です。
日本海側の夏は山陰もそうですが、関西よりもメチャクチャ熱いので熱中症に気を付けて観戦&散策を楽しめたらと。
今日はルートイン福井にヤドを取っておるので、試合後は気比の松原を歩いて、気比神宮参拝後に喫茶店でくつろいでからの福井市入り。明日は駅リンくんでサイクリングして試合終了後にダイスキな『ふち中央公園』で休憩して鈍行でノンビリ帰宅。
みなさんの投稿は即時掲載されますが、レスは早くても21日の夜以降となるのであしからずご了承下さい。
それでは行ってきます!!
⚾明日の和歌山大会組み合わせ(9日目 3回戦)
☆☆ 09:00~ 耐 久 - 星 林
11:30~ 日高 中津- 粉 河
☆☆ 14:00~ 桐 蔭 -市和 歌山
📝「厳しい道を選んだほうがいい」イチローから助言も…「ハンパなく勉強して」アスレチックスからドラフト指名の21歳が“アメリカ進学”を選んだナゼ
https://number.bunshun.jp/articles/-/866562?page=1
2020年に智弁和歌山高に入学した当初の武元は、典型的なお山の大将だった。紅白戦で3年生の主戦ピッチャーからホームランを放つなど、すぐに力を発揮できていたことから不遜となる。先輩から注意されても「何がいけないんですか?」と怪訝な態度を見せる場面も散見され、その度に監督の中谷仁から叱責され、チームメートからも言動を戒められていたのだという。
武元が至らなかった自分を回顧する。「1年生のときは、天狗の状態で『敵なし』くらいに思っていて。自分のことしか考えていませんでした」
ただ、だからといって傍若無人に場をかき乱していたわけではない。
同級生が振り返る「武元評」
そこにはどこか憎めない側面もあるのだと、にやにやしながら教えてくれたのが、高校でバッテリーを組んでいた同級生の渡部海である。
「監督から怒られて、教わって、よくなったと思ったら、次の日にはちょっと違うことをやってまた怒られる、みたいな。そういうことが結構あったので(笑)。高校時代のあいつは変わっていたというか、怒られキャラだったのは間違いないです」
放埓というより、奔放。そんな振る舞いに見え隠れするのが、武元が抱えていた悩みである。1年時は特にそうだった。他の指と比べて中指がひときわ長く、そのせいでボールにうまく力を加えられず、ストレートがナチュラルにスライドしてしまう“真っスラ”に苦心していた。きれいな回転で投げなければ、と思えば思うほど右腕は萎縮し、本来の力のあるスピードボールが失われ、自信が持てなくなっていく。
ポテンシャルを解放しきれずにいた武元に転機が訪れたのは1年生オフ。20年12月である。高校生を初めて指導するため智弁和歌山を訪れたイチローからの助言だった。
「真っすぐがちょっと指に掛かり気味なんですけど、どうしたらいいですか?」意を決し、武元が尋ねる。すると通算3089安打を記録したメジャーリーグのレジェンドから、あっさりとこう返された。
「そのままでいいよ。自分を伸ばしなよ」
それまで悪癖だと懊悩してきた真っスラを、イチローは個性と認めてくれたのである。心を覆っていた霧が晴れていくのを、武元は感じた。
「イチローさんがそう言ってくれたことで、少し自信を持てるようになりました」
否定をしないイチローの教えは、捉え方によっては最も厳しい指導でもある。自分を伸ばすということとはつまり、妥協を許されないわけだ。イチローは「練習のための練習」ではなく、ブルペンでのピッチングのみならず、キャッチボールやノックなどの一球、一球に意味を持たせる感覚を養うことの重要性を説き続けてきた。
ふたつの道なら「厳しい道を選んだほうが…」
だからこそ、武元にとってイチローから授かったこの訓示は座右の銘となった。
「目の前にふたつの道があったら、厳しい道を選んだほうがいい」
高校時代を振り返る過程で「まだまだ未熟だった」と武元が言うように、奔放さは残りながらも少しずつ地に足がついていく。2年夏に控えピッチャーとして日本一を経験し、3年夏には甲子園の先発マウンドに立った。1年のときに自信を持てなかったストレートは最速を151キロまで伸ばし、バッターとしても通算20本のホームランを記録した187センチ、86キロの二刀流は、プロ注目と評価される選手へと成長を遂げた。だが、そんな武元にとってもそれは思いがけない提案だった。
当時の彼も「プロを目指すのならば日本」という「王道」を志していたなか、監督の中谷から勧められた進路はハワイ大だった。
「今の一輝はプロに行っても一軍レベルには届かない。ハワイ大学は技術面も精神面でも伸び伸びできる環境だと思うし、今よりもっと輝けると思う。一輝にはほとんどの人が挑戦したことがない道を進んでもらいたい」
あまりにも予想外の展開だったこともあり、このとき武元の脳裏には、イチローから授かった座右の銘は降りていなかった。しかし、アメリカの大学という選択肢が皆無だったなか心を揺さぶられたのは、監督からの「道」という言葉があったことも確かだった。
「人と違う道で、自分を強くしたい意志を示した武元は、家族と中谷から「必ずメジャーに行け」と背中を押され、正式にハワイ大への進学を目指した。
ユニフォームを着て野球をする前から、武元の過酷な挑戦は始まっていた。最低基準の語学力が必須のアメリカの大学入試において、英語がまったくできなかった武元は一から勉強することが必要となった。
「ほんと、やばいっすよ!」顔を歪ませながら教えてくれた、受験勉強に励んでいたおよそ1カ月半のタイムスケジュールはこうだ。
「食事と睡眠以外は猛勉強」の毎日
8時に起床して朝食を摂る。9時から10時半までオンラインで授業や小テストを受け、英文をスムーズにタイピングするためにパソコンの操作を指に馴染ませる。昼食を済ませた12時から17時までは、語学学校でみっちりと勉学に精を出す。そして、夕食を噛みしめる間もなく19時から2時間、家庭教師の個人レッスンが待っている。それらが終わっても、膨大な宿題をこなさなければならないため、就寝は0時を回っていたという。
食事と睡眠時間以外は机に向かう。それまで野球に打ち込んできた武元が、「ハンパなかった」と連呼しながら人生初の猛勉強をしてきた自分を省みる。
「受かろうと思ってやったんですけど『きついんちゃうかぁ……ちゃんとやらないと』と思って、合格するためにとにかく勉強しまくって。何時間やったかわからないくらいハンパなく勉強したんですけど、それも『アメリカに行く』って自分を律して、厳しくできた結果かなって思っています」
そして、武元はハワイ大に合格してから、より自分を律することの意味を痛感する。文武両道に重きを置くNCAA所属の大学での生存競争は苛酷だ。授業は月曜から金曜までみっちり入っており、武元のような外国人を悩ませるのがプレゼンテーションだという。資料を作成して説明するだけならまだしも、引用元など相手から聞かれたことに対し明確に答えられないと及第点を与えられない。
なにより厳しい現実を突きつけられるのが野球である。メジャーリーグのようにロースターが設けられており、40人の枠に入れなければチームどころか大学にすらいられなくなる。なかには“レッドシャツ”と呼ばれる、練習生のような立場で1年間の猶予期間をもらえる選手もいるが、そこにすら入れなかった場合は野球を辞める者もいるのだという。
「アメリカって自分に甘くすれば甘くやれるんですけど、実力主義なんで結果にすぐ出るというか。そういう生活のなかで自分と向き合う時間は増えたと思います」
この弱肉強食の世界で武元がハワイ大で生き残り、主力として立ち位置を築けた背景にも、重要な出会いがあった。
新たなコーチとの出会いもプラスに
大学生活2年目を迎えた24年5月。元アメリカンフットボール選手で、ハワイ在住のパフォーマンスコーチとして活動している栗原嵩に師事するようになってから、武元のなかに大きな変化が生まれた。
「それまで、体の一つひとつの動きを理解できていなかったんですけど、栗原さんからいろいろ学んで。運動力学を勉強することによって、『体のどこを動かせば、この筋肉が動く』とか『体のどこを支点にして投げればいいのか』とかを考えられるようになりました」
身体を探求していった成果は、最速154キロと数字にも表れる。さらには、ピッチングへの深い解釈にも連動していった。アメリカでは大学でもパワーヒッターが顔を揃える。最初は真っ向勝負を挑むが、打たれることもある。そうなれば次は違うボールで様子を窺うこともあるし、打たれても相手の反応次第では「同じボールで攻めたら違う結果になるかもしれない」と再度、試す。こういった分析によって、精神面が鍛えられていったのだと、武元は手応えをにじませた。
「とにかく頭を使うようになりましたね。打たれたとしても、気持ちの面で引かずに勝負できるようになりました」
武元の名が全米に知れ渡ったのはこの年の夏。大学野球のサマーリーグで「最高峰」と謳われるケープコッドリーグだった。ヤンキースのアーロン・ジャッジなど、多くのメジャーリーガーを輩出しているハイレベルなリーグで、武元は9試合に登板し3勝1敗、防御率0.71と圧巻のパフォーマンスを披露。最優秀投手に選ばれた。明確な実績を手にした武元が、嬉々として昨年の夏に思いを馳せる。
「ハワイだったらめちゃめちゃ二刀流でやれるんですけど、ケープコッドリーグはマジでヤバい! ドラフト候補しか招待されないんで。そういう相手に対しても攻めのピッチングを続けられた結果、ほとんど無失点に抑えられて、最優秀投手になれました」
メジャーからドラフト候補と認められても、猛者が集うリーグでタイトルを獲得しても、武元は自分を見失わない。より、厳しい道へ。武元にとってそれは、今や自然なことであり、自己探求には欠かせないエネルギーとなっている。彼の言葉がそれを物語る。
「正直、自分の現在地とか意識していなくて。賞を獲ったとか球速をもっと上げたいとかじゃなくて、『これから自分はどうなりたいのか』しか考えてないです」
「世界で活躍する、トップを取れる選手に」
自分はどうなりたいのか?志は常にアップデートされる。真っ先に見据えていた「MLBドラフトで指名される」ことは達成された。次になりたいものはもちろん、メジャーリーガーである。
「『最高峰のレベルでやりたい』という思いは変わらないので。世界で活躍する、トップを取れるような選手になりたいです」
MLBのドラフト指名選手で実績を挙げた日本人は、まだいない。前例のない、険しき道。だからこそ挑戦し甲斐があるのだと、武元はきっと今を楽しんでいる。
北陸新幹線が敦賀まで延伸したあおりをモロに受けて、帰りは福井からサンダーバード一本で京都まで帰れない憂き目に遭いますが・・・・・。
福井といえば思い出すのは前回2年前の10月。降水確率80%で前日夕方から雨が降り絶望的な状況が朝起きると奇跡的に朝日が出ており、フェニックス2時間遅れ(12時開始)~県営4時間遅れ(14時開始)となり、まさかのナイターハシゴ観戦!!
今となっては最終日だったら、終電との戦いがあるのでもうできませんが・・・・・。
ちなみに福井宿泊観戦は通算10回目。夏は10年ぶり2度目となります。
今日は晴れ時々曇り 明日は晴 の予報です。
日本海側の夏は山陰もそうですが、関西よりもメチャクチャ熱いので熱中症に気を付けて観戦&散策を楽しめたらと。
今日はルートイン福井にヤドを取っておるので、試合後は気比の松原を歩いて、気比神宮参拝後に喫茶店でくつろいでからの福井市入り。明日は駅リンくんでサイクリングして試合終了後にダイスキな『ふち中央公園』で休憩して鈍行でノンビリ帰宅。
みなさんの投稿は即時掲載されますが、レスは早くても21日の夜以降となるのであしからずご了承下さい。
それでは行ってきます!!
⚾明日の和歌山大会組み合わせ(9日目 3回戦)
☆☆ 09:00~ 耐 久 - 星 林
11:30~ 日高 中津- 粉 河
☆☆ 14:00~ 桐 蔭 -市和 歌山
📝「厳しい道を選んだほうがいい」イチローから助言も…「ハンパなく勉強して」アスレチックスからドラフト指名の21歳が“アメリカ進学”を選んだナゼ
https://number.bunshun.jp/articles/-/866562?page=1
2020年に智弁和歌山高に入学した当初の武元は、典型的なお山の大将だった。紅白戦で3年生の主戦ピッチャーからホームランを放つなど、すぐに力を発揮できていたことから不遜となる。先輩から注意されても「何がいけないんですか?」と怪訝な態度を見せる場面も散見され、その度に監督の中谷仁から叱責され、チームメートからも言動を戒められていたのだという。
武元が至らなかった自分を回顧する。「1年生のときは、天狗の状態で『敵なし』くらいに思っていて。自分のことしか考えていませんでした」
ただ、だからといって傍若無人に場をかき乱していたわけではない。
同級生が振り返る「武元評」
そこにはどこか憎めない側面もあるのだと、にやにやしながら教えてくれたのが、高校でバッテリーを組んでいた同級生の渡部海である。
「監督から怒られて、教わって、よくなったと思ったら、次の日にはちょっと違うことをやってまた怒られる、みたいな。そういうことが結構あったので(笑)。高校時代のあいつは変わっていたというか、怒られキャラだったのは間違いないです」
放埓というより、奔放。そんな振る舞いに見え隠れするのが、武元が抱えていた悩みである。1年時は特にそうだった。他の指と比べて中指がひときわ長く、そのせいでボールにうまく力を加えられず、ストレートがナチュラルにスライドしてしまう“真っスラ”に苦心していた。きれいな回転で投げなければ、と思えば思うほど右腕は萎縮し、本来の力のあるスピードボールが失われ、自信が持てなくなっていく。
ポテンシャルを解放しきれずにいた武元に転機が訪れたのは1年生オフ。20年12月である。高校生を初めて指導するため智弁和歌山を訪れたイチローからの助言だった。
「真っすぐがちょっと指に掛かり気味なんですけど、どうしたらいいですか?」意を決し、武元が尋ねる。すると通算3089安打を記録したメジャーリーグのレジェンドから、あっさりとこう返された。
「そのままでいいよ。自分を伸ばしなよ」
それまで悪癖だと懊悩してきた真っスラを、イチローは個性と認めてくれたのである。心を覆っていた霧が晴れていくのを、武元は感じた。
「イチローさんがそう言ってくれたことで、少し自信を持てるようになりました」
否定をしないイチローの教えは、捉え方によっては最も厳しい指導でもある。自分を伸ばすということとはつまり、妥協を許されないわけだ。イチローは「練習のための練習」ではなく、ブルペンでのピッチングのみならず、キャッチボールやノックなどの一球、一球に意味を持たせる感覚を養うことの重要性を説き続けてきた。
ふたつの道なら「厳しい道を選んだほうが…」
だからこそ、武元にとってイチローから授かったこの訓示は座右の銘となった。
「目の前にふたつの道があったら、厳しい道を選んだほうがいい」
高校時代を振り返る過程で「まだまだ未熟だった」と武元が言うように、奔放さは残りながらも少しずつ地に足がついていく。2年夏に控えピッチャーとして日本一を経験し、3年夏には甲子園の先発マウンドに立った。1年のときに自信を持てなかったストレートは最速を151キロまで伸ばし、バッターとしても通算20本のホームランを記録した187センチ、86キロの二刀流は、プロ注目と評価される選手へと成長を遂げた。だが、そんな武元にとってもそれは思いがけない提案だった。
当時の彼も「プロを目指すのならば日本」という「王道」を志していたなか、監督の中谷から勧められた進路はハワイ大だった。
「今の一輝はプロに行っても一軍レベルには届かない。ハワイ大学は技術面も精神面でも伸び伸びできる環境だと思うし、今よりもっと輝けると思う。一輝にはほとんどの人が挑戦したことがない道を進んでもらいたい」
あまりにも予想外の展開だったこともあり、このとき武元の脳裏には、イチローから授かった座右の銘は降りていなかった。しかし、アメリカの大学という選択肢が皆無だったなか心を揺さぶられたのは、監督からの「道」という言葉があったことも確かだった。
「人と違う道で、自分を強くしたい意志を示した武元は、家族と中谷から「必ずメジャーに行け」と背中を押され、正式にハワイ大への進学を目指した。
ユニフォームを着て野球をする前から、武元の過酷な挑戦は始まっていた。最低基準の語学力が必須のアメリカの大学入試において、英語がまったくできなかった武元は一から勉強することが必要となった。
「ほんと、やばいっすよ!」顔を歪ませながら教えてくれた、受験勉強に励んでいたおよそ1カ月半のタイムスケジュールはこうだ。
「食事と睡眠以外は猛勉強」の毎日
8時に起床して朝食を摂る。9時から10時半までオンラインで授業や小テストを受け、英文をスムーズにタイピングするためにパソコンの操作を指に馴染ませる。昼食を済ませた12時から17時までは、語学学校でみっちりと勉学に精を出す。そして、夕食を噛みしめる間もなく19時から2時間、家庭教師の個人レッスンが待っている。それらが終わっても、膨大な宿題をこなさなければならないため、就寝は0時を回っていたという。
食事と睡眠時間以外は机に向かう。それまで野球に打ち込んできた武元が、「ハンパなかった」と連呼しながら人生初の猛勉強をしてきた自分を省みる。
「受かろうと思ってやったんですけど『きついんちゃうかぁ……ちゃんとやらないと』と思って、合格するためにとにかく勉強しまくって。何時間やったかわからないくらいハンパなく勉強したんですけど、それも『アメリカに行く』って自分を律して、厳しくできた結果かなって思っています」
そして、武元はハワイ大に合格してから、より自分を律することの意味を痛感する。文武両道に重きを置くNCAA所属の大学での生存競争は苛酷だ。授業は月曜から金曜までみっちり入っており、武元のような外国人を悩ませるのがプレゼンテーションだという。資料を作成して説明するだけならまだしも、引用元など相手から聞かれたことに対し明確に答えられないと及第点を与えられない。
なにより厳しい現実を突きつけられるのが野球である。メジャーリーグのようにロースターが設けられており、40人の枠に入れなければチームどころか大学にすらいられなくなる。なかには“レッドシャツ”と呼ばれる、練習生のような立場で1年間の猶予期間をもらえる選手もいるが、そこにすら入れなかった場合は野球を辞める者もいるのだという。
「アメリカって自分に甘くすれば甘くやれるんですけど、実力主義なんで結果にすぐ出るというか。そういう生活のなかで自分と向き合う時間は増えたと思います」
この弱肉強食の世界で武元がハワイ大で生き残り、主力として立ち位置を築けた背景にも、重要な出会いがあった。
新たなコーチとの出会いもプラスに
大学生活2年目を迎えた24年5月。元アメリカンフットボール選手で、ハワイ在住のパフォーマンスコーチとして活動している栗原嵩に師事するようになってから、武元のなかに大きな変化が生まれた。
「それまで、体の一つひとつの動きを理解できていなかったんですけど、栗原さんからいろいろ学んで。運動力学を勉強することによって、『体のどこを動かせば、この筋肉が動く』とか『体のどこを支点にして投げればいいのか』とかを考えられるようになりました」
身体を探求していった成果は、最速154キロと数字にも表れる。さらには、ピッチングへの深い解釈にも連動していった。アメリカでは大学でもパワーヒッターが顔を揃える。最初は真っ向勝負を挑むが、打たれることもある。そうなれば次は違うボールで様子を窺うこともあるし、打たれても相手の反応次第では「同じボールで攻めたら違う結果になるかもしれない」と再度、試す。こういった分析によって、精神面が鍛えられていったのだと、武元は手応えをにじませた。
「とにかく頭を使うようになりましたね。打たれたとしても、気持ちの面で引かずに勝負できるようになりました」
武元の名が全米に知れ渡ったのはこの年の夏。大学野球のサマーリーグで「最高峰」と謳われるケープコッドリーグだった。ヤンキースのアーロン・ジャッジなど、多くのメジャーリーガーを輩出しているハイレベルなリーグで、武元は9試合に登板し3勝1敗、防御率0.71と圧巻のパフォーマンスを披露。最優秀投手に選ばれた。明確な実績を手にした武元が、嬉々として昨年の夏に思いを馳せる。
「ハワイだったらめちゃめちゃ二刀流でやれるんですけど、ケープコッドリーグはマジでヤバい! ドラフト候補しか招待されないんで。そういう相手に対しても攻めのピッチングを続けられた結果、ほとんど無失点に抑えられて、最優秀投手になれました」
メジャーからドラフト候補と認められても、猛者が集うリーグでタイトルを獲得しても、武元は自分を見失わない。より、厳しい道へ。武元にとってそれは、今や自然なことであり、自己探求には欠かせないエネルギーとなっている。彼の言葉がそれを物語る。
「正直、自分の現在地とか意識していなくて。賞を獲ったとか球速をもっと上げたいとかじゃなくて、『これから自分はどうなりたいのか』しか考えてないです」
「世界で活躍する、トップを取れる選手に」
自分はどうなりたいのか?志は常にアップデートされる。真っ先に見据えていた「MLBドラフトで指名される」ことは達成された。次になりたいものはもちろん、メジャーリーガーである。
「『最高峰のレベルでやりたい』という思いは変わらないので。世界で活躍する、トップを取れるような選手になりたいです」
MLBのドラフト指名選手で実績を挙げた日本人は、まだいない。前例のない、険しき道。だからこそ挑戦し甲斐があるのだと、武元はきっと今を楽しんでいる。