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💢高野連、7回制アンケート実施の狙い 反対多数の荒波を乗り越えられるか
https://news.yahoo.co.jp/articles/e88dde8aea34683c91159722f927a7f85ec22776

日本高野連は5月21日の理事会で、「7イニング制」についてのアンケートを実施することを発表しました。注目のポイントは、各都道府県の高野連や加盟校だけでなく、高校野球ファンにも広く意見を求めるという点です。

アマチュア野球の取材歴が長い、スポーツライターはその背景をこう語ります。
「高校野球の7回制は今秋の国民スポーツ大会から導入されます。高校野球は“教育の一環”。近年の猛暑は決して看過できるものではなく、夏の甲子園で選手たちの健康を害するようなことがあってはならないというのが、高野連や主催する朝日新聞社の基本的な考え方とされています」
「クオリティーペーパーとして社会問題解決に取り組む朝日新聞社として、何らかの対策が必要と考えるのは自然でしょう。持続可能な選手権大会の運営へ、7イニング制は最後の切り札とされています」

すでに高校野球の国際大会などでは7イニング制が導入され、特に違和感なく進行しています。一方、野球というスポーツにおいて「終盤の攻防」こそ醍醐味と、堀内恒夫さんら球界の大御所も提言しており、世論は「9回制維持」に傾いているのが実情です。

前述のライターは続けます。「一昔前の高野連なら、『決定事項』ということで7回制の強行導入もあり得たでしょう。しかし、今回はアンケートの門戸をファンに開放するなど、丁寧な議論を尽くそうとしている姿が印象的です。何よりも加盟校の指導者、選手たちが9回制を望んでいる。彼らの本音は『普段はもっとしんどい練習をこなしているのだから、2時間ちょっとの試合はむしろラク』というもの。高野連内にも何とか9回制を存続できないものかという声もあると聞きます。正直なところ、7回制は苦渋の決断。できることなら誰もが9回制でやりたいわけですから」

アンケートは6月中にも実施の方向性。指導者や選手、ファンからはどんな意見が集まるのか。
世論の動向も見つめながら、持続可能な夏の甲子園大会を目指して、議論は続いていくことでしょう。

📝「自分が監督でいいの?」27歳で“超名門”PL学園の監督に…“ベンチ入りギリギリ”だった男が母校の指導者になったワケ「最初は全然、ピンと来なくて」
https://news.yahoo.co.jp/articles/ee15ff70e32aec43d596837585d0112cdd38db6d?page=1

甲子園に8度チームを導いた名伯楽がこの春、ユニホームを脱いだ。名門・PL学園出身の藤原弘介氏だ。不祥事に揺れる母校や、縁もゆかりもない新天地での高校での指導など、様々な環境で結果を出してきた同氏。その背景には一体何があったのだろうか。

気がつけば、監督生活は人生の半分近くになっていた。母校のPL学園でコーチとして約4年、監督として6年半、さらに佐久長聖で13年。指導者として高校野球の第一線を歩んできた藤原弘介氏は、この春、佐久長聖の監督を退任し、家族が待つ地元の大阪に戻った。
PL学園ではコーチ時代に春夏計4度、監督としては春夏計3度、佐久長聖では就任1年目の夏に学校として10年ぶりの甲子園に出場を決めるなど計5度、夏の大舞台に立った。

高校野球界「かつての名門」はいま
 
かつて高校野球界の“盟主”として一時代を築いたPL学園。春は3度、夏は4度の優勝を数え甲子園では数多くの伝説を残した名門も、16年夏を最後に野球部が休部し、17年の大阪府高野連を脱退。学校経営に関しても様々な噂が流れ、教団の方針とはいえ、野球部再建に関して明るいニュースがなかなか聞こえてこないのが現状だ。

それでも藤原の心に染みついているのは“PL魂”だ。あの頃の思い、そして勝負への執念。すべてはPLで過ごしたひとつひとつの経験が起点になっている。

「自分としてはここまで(高校野球の)指導者をやって来られるとは思いませんでした。PLは今こんな状況ではありますけど……僕はPLでやってきて良かったって、今でも思っています」

藤原氏はPL学園のある富田林市の南に位置する大阪府河内長野市出身。ソフトボールから白球に触れるようになり、中学生になると河内長野ボーイズでプレーした。
藤原が野球少年だった時代はPL学園が甲子園で驚異的な強さを見せつけており、幼い頃からPL学園は憧れだった。その後、89年に元木大介(元巨人)を擁してセンバツは準優勝、夏の甲子園でも8強まで勝ち進んだ上宮や、同じくセンバツ8強に進出した近大付など、大阪の覇権争いが戦国時代に突入した頃でもあった。

地元という土地柄だけでなく、色んな縁が結びつき、藤原はPL学園の門を叩くことになった。入学に至った経緯については「ちょっと甘い考えだったと思うんですけど」と前置きし、苦笑いを浮かべながらこう明かす。

「自分が小学校の時は清原(和博・元西武など)さんや桑田(真澄・元巨人)さんが甲子園で活躍されて、中学1年生の時に立浪(和義・元中日監督)さんらで春夏連覇して、その間に上宮や近大付が甲子園に出て、PLが少しだけ甲子園に出られなかった年があったじゃないですか。その時期、僕はちょうど中学3年くらいで(進路を決める時期だった)。だから少しでも試合に出られる可能性はあるのかなと思って……」

だが、入学してそれは浅はかな考えだったことを痛感することになる。

「入学して1年上に坪井さん(智哉・元阪神など)や2年上に入来(祐作・元巨人)さんがいて、予想以上にレベルが高かったです。1年下には松井(稼頭央・元西武)もいましたしね」

厳しい寮生活も覚悟して入学したつもりだった。PL学園では1年生が3年生の回りの世話する付き人制度が敷かれていた。今まで自分でやったことがなかった洗濯は、自分の分だけでなく先輩の分もこなすことが日課だった。「ユニホームの素材が今のようにメッシュ素材ではなくてあの頃は分厚い素材だったので、なかなか乾きにくくて。何気にそこも大変でした」

慣れない環境に厳しい練習の毎日。でも、とにかく必死だった。さらに藤原は厳しい寮生活以上に先輩たちのハイレベルなプレーに練習のたびに目を奪われ、何とも言えない不安にも苛まれていた。

「寮生活は確かにしんどかったです。でも外野のノックで先輩の矢のような送球を見ていたら、こんなレベルのところでやっていけるのかなと。毎日そればかり考えていましたね」

高校時代の悩みは…「太れない」
 
当時は携帯電話などなく、主な連絡手段は手紙だった。寮のそばに公衆電話はあったが、3年生が優先的に使うため、1年生が公衆電話を使えるわけがなかった。授業の合間に手紙をしたため、職員室に呼ばれた時に近くにある事務室からこっそりと家族や友達に手紙を出すことが、当時の心の支えだった。

何より当時の藤原の悩みはなかなか太れないことだった。1年生は練習後も先輩周りの整理整頓をはじめ、炊事や風呂当番、道具磨きなどに明け暮れ、寮でゆっくり食事をとる時間を確保するのは難しかったのだ。

「あの頃は本当にガリガリでした。入学して体重が一気に落ちても今ならトレーニングや食事で戻るじゃないですか。でも僕は60キロ以上あった体重が一気に54キロまで落ちて、3年生になってやっと60キロに戻りましたが、なかなか体重が増えなかったですね」

それでもがむしゃらになれたのは、せっかくPLに入れてくれた親への感謝と、絶対にレギュラーになってやるという強い執念だった。挫けて途中で辞めて家に帰っても何も残らない。自分にお金をかけて高校野球の名門校に入れてくれた以上、3年間やり遂げなければという使命感も心のどこかにあった。

初めてベンチ入りしたのは意外にも早く1年生の夏だった。大阪大会の浪商(現・大体大浪商)戦で負傷した先輩に替わり、急きょセンターでスタメン出場。だが、守備でトンネルするという痛恨のミスを犯してしまう。

「そこから試合に出る機会は減りました。今思うと“試合に出られるかも”なんて、本当にとんでもない考えでしたね(苦笑)」

だが、3年春に出場したセンバツにはベンチ入りを果たした。当時の甲子園のベンチ入り人数は15人で、背番号は15だった。「自分は寮長をしていて、野球よりも寮長としてチームをまとめる立場でもありました。そういうところを(中村順二)監督が見て、ギリギリに入れてもらえたのかもしれないです」

高校卒業後は大学でも野球を続けることを望むも、有名大学から進路の話が来るのはマネージャーとしてのオファーばかりだった。それでもプレー続行に強くこだわり、地元大阪の大阪経済法科大学へ進学。大学では2年春からレフトでレギュラーを務め、秋からセンターも守った。その秋にベストナインを獲得。上級生になると主将も務めた。4年生になると教員免許を取得したが、これには理由があった。

「父親との約束だったんです。大学では野球ばかりではなく卒業してから職につくための武器となるものも取得するようにと。ウチは両親ともに高卒でしたから、大学に行く以上は……というのもあったみたいです。野球をして教職を取るのは大変でしたけど、こうやって指導者になれたのも、あの時に頑張ったお陰だと思っています」

同級生にはドラ1候補も…進路は?
 
大学卒業後、実はある社会人野球チームから内定をもらっていた。だが、PL学園時代の同級生の今岡誠(現・真訪、元阪神、当時は東洋大)がドラフト1位候補になり、しのぎを削ってきたかつての仲間たちが一流企業に内定していた。彼らが卒業後も第一線でプレーしていく情報を耳にしていた。自分も同じ土俵でまたプレーをしたいという密かな思いも抱き、理想と現実のギャップの間に苛まれていた。

その後、社会人野球チームに一旦断りの連絡を入れた。だが、その後就職先を探すも自分の望むチームには進むことが出来ず、現役続行を断念。一般企業に就職することになった。就職先は電機部品メーカーの営業職だった。だが、入社して8か月後の1997年12月、翌年から就任が決まっていたPL学園の河野有道監督から連絡があった。

母校からまさかの「コーチ打診」

「(指導スタッフとして)来てくれないか、という電話でした。自分は教員免許を持っているので、寮にも入って(寮監をして)もらいたいという話でした」

当時、現在の妻と付き合っていて近々結婚する予定もあり、すぐに決断していいものか思い悩んだ。さらに藤原自身、実は当時は指導者という言葉にあまりピンと来ておらず、コーチは何をするのか、母校のために何ができるのか考え込んだこともあった。それでも熟考の末、会社を辞めることを決意。母校に戻った98年の1年間は学校職員採用で寮監も兼ねて後輩の指導にあたることになった。

その年はチームがちょうどセンバツ出場を決めていた。エース上重聡(現フリーアナウンサー)、主将に平石洋介(元楽天監督)らが主となっていたチームだ。この年は松坂大輔(横浜→西武など)という“平成の怪物”と呼ばれた大エースがおり、夏の甲子園ではPL学園と延長17回の大熱戦を演じた歴史的な年でもある。そんな歴史的な世代にいきなり居合わせたことも、藤原の指導者としての運命めいたものを感じていた。

「母校に帰らせてもらったらいきなり甲子園に行かせてもらって。タイミングが良かったというか、ありがたいというか……。あの年はグラウンドではノックよりバッティングピッチャーをよくやっていました。コーチになったばかりでしたけれど、”本当に甲子園に出ているのか“という錯覚みたいなものがありました」

だが、PL学園として最大の危機が01年に訪れる。部内で暴力事件が発生し、夏の大会を出場辞退するという衝撃的なニュースが高校野球界を駆け巡った。当時、プロも注目する有望な選手が多く在籍していたチーム。甲子園に出場すれば優勝候補に挙げられてもおかしくなかったが、半年の対外試合禁止の処分が下された。

野球部の指導者陣が一掃される中、野球部監督を打診されたのが、まだ27歳になったばかりの藤原だった。

                 <次回へつづく>

📝元監督が振り返る「PL学園vs.大阪桐蔭」20年前“超名門対決”の記憶…延長15回→再試合で現れた1年生投手の衝撃「100%桐蔭が勝つと言われたけど…」
https://news.yahoo.co.jp/articles/b3321e0df02e1433399a13e6c7ed0940c9f48a83?page=1

2001年に部内の暴力事件が発覚し、夏の大会を出場辞退したPL学園。衝撃のニュースの結果、従来の首脳陣は一掃されることになった。そこで次の監督として白羽の矢が立ったのが、当時コーチを務めていた藤原弘介だった。PL学園OBでもある藤原は、もちろん「母校を何とかしなければ」という思いも強かったが、当時はまだ27歳。お世話になった指導陣が離れていく中、「自分が監督になって良いのか」という葛藤もあった。

27歳で監督就任…翌年夏の甲子園に出場
 
そんな中、福留孝介選手(元中日など)と同級生で正右翼手だった諸麦健二氏がコーチとして藤原のサポートを行うことに。2002年2月に監督に就任し、直後の春の府大会でいきなり優勝。翌年には夏の甲子園にも出場した。その翌年の04年にはのちに大リーガーとなる前田健太(広島→ドジャースなど)が入学し、野球部は徐々に活気づいていった。

「最初は“こんなにもうまくいくものなのか”と思いましたけど、あの頃はとにかく再建するために必死でした。試行錯誤することもありましたけれど、コーチ時代にやってきたことをどう指導に生かすか。それだけを考えていました」

もう、自分の前に立ち手を差し伸べてくれる指導陣はいない。それでも若いコーチと二人三脚でやり繰りする指導で、チームは少しずつ上昇気流に乗り始めていた。
PL学園が不祥事で揺れていた頃、大阪府大会での上位進出が増え始めた学校があった。のちに平成から令和にかけて甲子園で“常勝軍団”として君臨することになる大阪桐蔭だった。

大阪桐蔭は、91年の全国制覇以降、02年の夏に11年ぶりに聖地に戻り、西岡剛(元ロッテなど)などの有能な選手も輩出。創部当時からチームを率いていた長澤和雄氏の後任として、西谷浩一監督が就任していた。藤原が監督となったPL学園と大阪桐蔭は、上位進出するたびに対戦する機会が増えていった。02年春の決勝も、相手は大阪桐蔭だった。

「03年の夏に(PLが)甲子園に行った時も大阪桐蔭とは5回戦で対戦してウチが逆転勝ちしました。あの頃の大阪桐蔭は戦力が充実していて、本当に手強かったんですよ」

2004年の夏…大阪桐蔭と延長15回の死闘
 
04年夏にはPL学園と大阪桐蔭が対戦した決勝で4-4のまま延長15回になっても決着がつかず、引き分け再試合となり、翌日の再試合にもつれ込む大阪大会史に残る激戦もあった。
当時の大阪大会のメイン球場だった藤井寺球場には多くの高校野球ファンが詰めかけ、両雄の意地と意地がぶつかった熱戦が繰り広げられた。

「あの夏、大阪桐蔭は(2年生だった)辻内(崇伸・元巨人)君が投げて、ショートに生島(大輔)君がいて、下級生に平田(良介・元中日)君もいて。あとは……思い出すとキリがないくらい、本当にレベルの高い選手が揃っていました」

その夏、「2番・左翼」でスタメン出場していたのが、現在大阪桐蔭でコーチを務める橋本翔太郎氏だ。橋本コーチは当時をこう回顧していた。

「あの年のPLとの対戦は、ウチが優勢って言われていたんです。でも引き分け再試合になった試合はPLのエースが完投して、再試合は誰が投げるの? となっていたら、1年生のピッチャーということが分かって。それで、“自分たちは勝てる”みたいな雰囲気になって。まぁ、舐めていたのかと言われれば……そう思われてしまいますよね(苦笑)」

その1年生の投手こそが前田だった。実は前田とは大阪大会の開会式で話す機会があったのだという。

「PLと大阪桐蔭は中学の出身チームが同じ仲間も多かったですし、すごく仲が良かったんです。開会式の待ち時間に仲の良い者同士で話をしていて、PLに1年生がベンチ入りしていると聞いて、彼らが連れてきてくれたのが前田でした。1年生でしたし、あの時は上級生に囲まれて大人しそうにしていましたけれど、いざ試合となったら……良いボールを投げていました」

藤原氏も橋本氏のことはよく記憶していた。「再試合で、確か橋本君には8-2の中盤だったかな(6回)。満塁ホームランを打たれて追い上げられたのを覚えています。あの1本は本当に怖かったですね。

でもあの試合、引き分けの試合でエースを15回投げさせて、ウチは正直ピッチャーがいなかったんです。そんな中で、(試合を)託したのが前田でした。でも、あの時、色んな人に言われていたんですよ。(勝つのは)100%(大阪)桐蔭やろって(苦笑)」

だが、蓋を開けると序盤から小刻みに加点したPL学園が何とか逃げ切り、13対7で勝利し、2年連続の夏の甲子園切符を掴んだ。前田は難敵を相手に7失点しながらも完投。大阪桐蔭有利の前評判を覆し、当時の“新鋭校”を“伝統校”が押し切った格好となった。

後も続く大阪桐蔭との「ライバル関係」
 
大阪桐蔭の西谷監督は当時のPL学園について「何度も何度も挑戦したけれど跳ね返され続けてきた厚い壁だった」と以前話していたことがある。それからPL学園と大阪桐蔭は覇権を争うライバル同士となっていった。実は藤原は西谷監督とはほぼ同じ時期に監督になり、縁深い間柄でもあった。ただ、当時は球場で言葉を交わすことは少なかったという。

「自分は不祥事後に監督になって、何とかPLを復活させようと必死で。“PLは終わったな”と言われるのが当時は一番嫌でした。だからチームのことを考えるのが精いっぱいで、試合で西谷先生と顔を合わせても話す余裕がなかったんです。それは西谷先生に限らず、他校の監督さんともです。挨拶はしても話すことはほとんどなかったですね。あの頃の自分は、もう前を見るだけでいっぱいいっぱいで」

かつてのPLを取り戻したい。その一心で“負けないPL”の姿を試合で体現し続けた。以降、07年秋、08年春、秋、09年春、夏と立て続けに大阪桐蔭と対戦するも、そのほぼすべてで勝利。甲子園で70勝を挙げる名将となった西谷監督も、大阪を勝ち抜くことに苦労した時期があった。それが常勝軍団となるチームの基盤となり、全力プレーを徹底する源となっている。

PLの監督となって丸4年となった藤原は06年春のセンバツでエース前田健太を擁し、ベスト4へ進出した。だが、藤原が指導者としてPLを甲子園に率いた大会はこれが最後となった。08年夏に部内で再び暴力事件が明るみになり、藤原は監督を引責辞任することに。翌年、副部長という立場で野球部には残ったが、担任をしていた生徒が卒業したタイミングで母校を離れ、12年春に佐久長聖の監督に就任した。

未知の土地でもあった長野。当初は家族4人で長野に移住したが、諸事情で家族は数年後に大阪へ戻ったため「最後の何年かは単身で長野にいたんですよ」と藤原は振り返る。実は佐久長聖も不祥事が起きた野球部の再建を託されての監督就任だった。始まりはPLと同じだったのだ。

「僕の高校野球の監督のスタートはいつもそうでした。PLは辞める時も暴力事件が絡んでいましたけれどね」

教え子には「医学部へ進んだ子やパイロットになった子も」
 
何も知らない土地だからこそ、佐久長聖ではまっさらな気持ちで指導者人生をスタートさせた。PL学園は少数精鋭で1学年は20人にも満たなかったが、佐久長聖では多くの部員を受け入れた。関西圏からも中学生が集まり、1学年が50人近くにのぼることも珍しくなかった。3学年で150人以上の大所帯となることも多かったが、持ち前の熱血ぶりで生徒と向き合いながら選手らの意欲を掻き立て、7年連続で県の決勝に進出するなど、佐久長聖を常勝チームに育て上げた。

「教え子に医学部へ進んだ子やパイロットになった子もいます。そうやって色んな世界で頑張る子がいることがすごく嬉しくて」

地元に戻った今は、生活の全てが新鮮に感じている。2人の息子も成人し、長男はこの春社会人になった。息子らと飲みに行く機会もでき、指導者時代はほとんど過ごせなかった妻との時間も、かけがえのないものだと感じている。

カブスとのマイナー契約が報道された前田健太を始め、教え子の現在を気にしながら「今はいったん野球から離れたい」と、バットやボールを手にしない日々を送る。それでもまだ50歳、老け込む年齢ではない。むしろ高校野球の監督としてはこれからさらに脂が乗ってくる年齢だ。もし再度指導者のオファーがあれば、今後もどこかで指揮を執る可能性はあるのだろうか。

「今はゆっくりしていますが、そういう話があれば前向きに考えていきたいと思っています。今のところは何もないですけれどね」

2校で足跡を残した“名将”でもある。この春で小休止している野球人生は、まだまだ続きが描かれていきそうだ。
2025/06/04(水) 22時15分43秒 No.1805 編集 削除