EDIT FORM
📝「高校側と中学生の接触は禁止にしては…」高校野球の名門校監督が「規定違反で無期謹慎」の衝撃…過熱する青田買いにベテラン記者が考える“解決策”
https://news.yahoo.co.jp/articles/ec59bcb8903d7fe9d3ddaa748b81e5bf76322fdd
今年1月、高校野球の名門である早大学院の野球部監督に無期謹慎処分が下った。中学生のリクルートに関する規定違反が理由とされる。なぜ、このような事態が起こってしまったのか。同校OBのベテラン野球記者が提言する解決策とは?
「早大学院野球部監督、中学生の練習参加規定違反などで無期謹慎処分」
1月下旬にあったこの報道には驚いた。
報道によれば、高野連の規定を認識していたにもかかわらず、手続きを経ずに中学生を練習に呼んでいたのだという。さらには規定で禁止されていることを知りながら、中学生への家庭訪問も長年にわたって行っていた。
昨秋のドラフト会議で、早大学院OBの早稲田大・山縣秀内野手が日本ハムに5位指名され、66年ぶりのプロ入りと祝賀ムードの年の暮れだったが、そこから1カ月もたたないうちに、今度は真逆の残念なニュースとして再び「早大学院野球部」の文字が流れたから、余計にショックが大きかった。
私はその早大学院、つまり早稲田大学高等学院・野球部のOBである。無期謹慎……わかりやすく言い換えれば、実態は「追放」であろう。
中学生の“青田買い”を巡る事件は過去にも…
チームを強くしようと考えた指導者が、しかるべき申請と許可がないままに、有望な中学生を練習に参加させたり、ご家族にお願いをしに家庭訪問をするというルール違反は、高校球界にはこれまでも何度もあった。
そのたび数カ月や1年程度の謹慎というペナルティが科せられたが、それが今回、無期という「重罪」になったのは、それが何年にもわたって常態化していたのが、高野連の逆鱗に触れたからではないか。
つまり、ルールを「無視」していたと解釈されても仕方ない行為を長く続けていたことへの重いペナルティと考えれば、なるほど……と思える。
この報道に接しながら、ハッとしたことがある。
こういう仕事をしているから、高校野球関係者の方から、特定の中学チームの関係者を紹介してほしいと頼まれることがあった。最近でも、昨年の秋あたりから、何度か間に入ったことがある。
皆さん、甲子園にも出場している高校のベテランばかりなので、当然それなりの手続きを踏んだ上での接触であろうと、ご縁をつないできた。そうは言っても、いちいち確認もできないから、もしルールを「スルー」して中学生に接触した方がおられたら、こちらもその「ルール違反」の片棒を担いだことになるのではないか。漠然とした不安感がいつも残る。
中学野球の現場で、こんなシーンを見ることがよくある。
練習や試合を見に訪れた高校野球関係者が、「これは!」という選手を見つけ、中学チーム指導者にそれを伝える。
「せっかく遠くから来てくれたのだから」と指導者が選手を呼んで、高校関係者との間で、ちょっとした会話がなされる。
今は中学野球の現場にも試合・練習を問わず親御さんがいらっしゃっていることが珍しくない。
「あ、そういえば、今日はお父さんが来ていますね」と中学指導者が気を利かせ、親御さんにも引き合わせる。すると選手、親御さん、高校関係者の「三者面談」みたいなことになる。
これ、行われている場所はグラウンドでも、行われていることは禁止されている「家庭訪問」とどこが違うのだろうか。
「ルール違反」をなくすためにはどうすればいいのか
車のスピード違反も警察に発見されなければ、おとがめなし。不公平感なしにするには、「手続きをしてお許しをいただければ」などとハンパなことを言っていては仕方ない。取り締まるのが事実上不可能なのだから、ちょっと極論にはなるがここは思いきって、高校側と中学生との接触は全て禁止にしてはいかがだろうか。
一方で、中学生と接触したい高校側に「接触禁止」という大きな不便を課すのだから、高野連も組織として骨を折る。ルールを作って、作りっぱなしじゃ、大人の組織として芸がないだろう。
ここに、1つのつたない「私案」を挙げてみたい。
<次回へつづく>
📝高校野球の名門校監督が規定違反で無期謹慎…「有望な中学生を探すことにエネルギーを割かれて…」激化する“勧誘合戦”に疲弊する現場のホンネ
https://news.yahoo.co.jp/articles/c2677b8a71f982147a54510082b2dcf54277074f
今年1月、高校野球の名門である早大学院の野球部監督に無期謹慎処分が下った。中学生のリクルートに関する規定違反が理由とされる。なぜ、このような事態が起こってしまったのか。同校OBのベテラン野球記者が提言する解決策とは?
高校側からの有望な中学生選手のリクルート活動は、もちろん高野連の規定はあるといえど、現実的にはなかなか規制が難しい。ここに1つ「私案」を挙げてみたい。
中学生に高校野球関係者がプレゼン大会?
都道府県単位の高野連が主催して、高校野球を志す中学生を大きなホールに集めて、高校野球関係者に「我がチーム」のプレゼンを行ってもらうのだ。それを中学-高校の限られた接触の場とする。時期は、中学3年夏の大会が終わったあたりの夏休みではどうか。
中学球児へのプレゼンを希望する高校チームは、興味を持つ都道府県の「プレゼン集会」へ出かけて行って、「おらがチーム」の有りようを伝える。
たとえば、東京都高野連主催の「プレゼン集会」の会場に、北海道の高校の監督さんがやって来る。東北の高校からは野球部長がやって来る。名古屋からも、関西からもやって来るかもしれない。
1日に10校でも20校でもよい。エントリーしたすべての高校野球部の関係者たちがプレゼンを行い、中学球児たちは、興味を持つ高校を選んでプレゼンを拝聴すればよい。すでに、志望校を心に決めている生徒さんは参加しなくてもよい。そのへんは、本人の「判断」である。
説明者は誰なのか、グラウンドで実際に自分たちと接してくれる人なのか、それとも「スカウト」みたいな人なのか、プレゼン上手な「専門家」なのか。どんな言葉を持っている大人なのか、熱は伝わってくるのか。そんなところから、中学生たちの感性が働くはずだ。
「有望な中学生を探し、誘うことに時間とエネルギーを割かれてグラウンドに立つ時間が減ってしまう」
以前、そう嘆いていた高校指導者の方がおられたが、プレゼンできる都道府県の数を限定したり、同じような時期にわざと重なるように行うことで、高校指導者たちがグラウンドに立てる時間を増やしてあげることもできよう。
高校側が中学選手を知る機会も、そりゃあ大切かもしれない。だが、それ以上に大切なのは、中学選手の高校野球や高校チームを知ろうとする努力のほうであろう。
中学選手が自ら高校野球と高校チームを知ろうとし、興味を抱いた高校があればちょっと遠くても、自ら試合や練習に足を運んで、自ら感じ、考え、確かめて決める。
自分の目で見て、考えて、自分で決めて、この高校に来ました。これ以上に健全なモチベーションが、ほかにあろうか。選手たちが、前向きなメンタルで高校野球を続けていく上で、これほどに頼もしい「動機」は他にない。
どうすれば中学生が能動的に進路を選べるか
高校側からのアプローチによって決まる進路の多くは、残念ながら「大人が決めた進路」であることが多い。高校野球生活がなかなか思い通りにいかなくなった時、人のせいにして逃げたくなるのは、その多くがこのパターンではないだろうか。
高野連主催の「プレゼン集会」。
粗けずりで、未完成で、難点だらけ、アラだらけのアイディアと承知で挙げてみた。この手の提言は、読み手の方たちにボコボコに叩かれるのが昨今のお約束。だが、私はその「ボコボコ」を期待している。
コテンパンに叩かれる中で、もしかしたらとんでもない妙案が発信されるかもしれない。それが新しく、健康的で合理的な中学生と高校球界との付き合い方を追求する突破口になってくれれば良い。そのための、文字通りの「叩き台」になれたら本望だ。
コロナ禍真っ最中の2020年。甲子園大会が中止になってアピールの場を失ったプロ志望の高校球児たちのために、甲子園球場と東京ドームを会場にして日本高野連とNPBが開催した「プロ志望高校生合同練習会」。日本高野連とNPBが垣根を越えて実施したあの催しは、高野連の「快挙」だと考えている。
あれだけ、莫大なエネルギーを必要とする催しを成し遂げた高野連なのだから、「プレゼン集会らしきもの」なんて実現できないわけがない。むしろ、長年培った「腕」の見せどころがやってきたというものであろう。
「早大学院のような“名門”でも…」
「早大学院のような“名門”でも練習参加やら、家庭訪問やらいろいろやらないといけないんですか? 選手なんて、黙っていても集まって来るんじゃありませんか?」
今回の騒動が起こってから、こんな素朴な疑問をいただいた。確かに、「生徒」は集まってくる。毎年、募集人数の5倍も6倍もの受験生がやって来るが、だからこそ「選手」は集まりにくい。受けたって、受かりっこないと思われてしまう。だから監督は「ぜひ受験してください」と、頭を下げねばならなかったのではないか。
15年も高校野球の指導の現場にいた以上、ルールを知らないわけはないだろう。旺盛な意欲と情熱も、ちょっと過ぎると「ひとりよがり」になってしまう。特に指導者であればこそ、その線引きは常に意識しておかねばならない。
昨年の交通事故で負った頭の傷の回復が思うにまかせず、結局、これから先の現場復帰は難しいと、監督続行を断念したのが、暮れに近い頃だったと聞いている。名門校で高校野球の経験のある若い先生が指導を引き継ぐことも決まり、OBの間では慰労会も企画されていた矢先の処分だった。
最後は幸薄い結末になってしまった。「高校野球」と「甲子園」に魅入られることの怖さを、垣間見たような気がした。
📝〈消えた天才〉大阪桐蔭・中田翔を泣かせた「甲子園史上最高のセカンド」地獄の時間で守備職人→センバツ優勝も…1年経たず早大中退していた
https://news.yahoo.co.jp/articles/64a7e44859b85d75ea46d17f35d2f7d01e3e0607
センバツ優勝を経験した「甲子園史上最高のセカンド」と呼ばれた名手は今、児童福祉の道へ……23歳で野球を引退した町田友潤さん(34歳)に話を聞いた。
美しい守備…しかし自己評価は高くなかった
観客の視線を集めた夏から17年の時が経った。だが、高校野球ファンの記憶には今も深く刻まれている。
「甲子園史上最高のセカンド」その称号にふさわしい美しい守備だった。
2008年夏の甲子園で、静岡県代表の常葉菊川(現:常葉大菊川)は準優勝を果たした。1983年創部と歴史の浅い常葉菊川の名前はこの夏、一気に全国区となった。常葉菊川が注目された理由は決勝に進出したチームの強さに加えて、ある選手の存在が大きい。セカンドを守っていた町田友潤さん。「セカンドに打ってしまえば望みはありません」の名実況が生まれたほどの守備だった。
町田さんが野球を引退してから10年以上経っているにもかかわらず、その名前や甲子園でのプレーは語り継がれている。ただ、本人は当時も今も「甲子園史上最高のセカンド」の評価に恐縮する。
「同世代でも上手いセカンドは他のチームにいたので、自分が一番と思ったことはなかったですね。横浜の松本幸一郎選手(現:東芝コーチ)や大阪桐蔭の森川真雄選手の方が上手かったですから。最近の選手たちを見ていても、守備位置を後ろに取れるだけの肩の強さを持っています。当時の自分よりも明らかに守備力は上だと感じています」
町田さんは謙遜するが、その守備はチームの窮地を何度も救った。外野に抜けそうな打球をグラブに収め、難しいバウンドも柔らかくさばく。常葉菊川応援席の悲鳴を大歓声に変えた。
大阪桐蔭相手に出た「最高の守備」
ファンの記憶に最も強く残っているのは、浦添商との準決勝だろう。5点リードの6回、常葉菊川は1死満塁のピンチを招く。浦添商の打者が放った強烈なライナーは二塁ベース上を襲う。センターへ抜けると思われた打球を町田さんがダイビングキャッチして、そのまま二塁ベースにタッチ。試合の流れを奪われかねない場面を併殺で切り抜け、チームを勝利に導いた。
町田さん自身が「最高の守備」と振り返るのは、試合には敗れた決勝の大阪桐蔭戦で処理したゴロだった。
2回1死一、二塁から大きく弾んだ打球をショートバウンドで合わせて、体を反転させて素早く二塁に送球してアウトにした。反転した時はセカンドベースの位置が全く分からなかったが、これまで練習してきた感覚を信じて送球したという。
町田さんが聖地に立つと、不思議と大事な場面で打球が飛んできた。そして、相手のチャンスの芽を摘む守備で球場を沸かせた。だが、周囲の驚きとは対照的に町田さんやチームメートは冷静だったという。
「難しい打球が多いなとは感じていましたし、結果的には自分が持っている力以上を甲子園で出せたと思っています。ただ、普段通りのプレーができているという気持ちでした。日頃の練習で同じような守備をしてきたので、チームメートも特別びっくりしていなかったです」
もともとは打撃がウリ…中田翔から殊勲打も
神懸かっているように見えた町田さんの守備は常葉菊川にとって、いつもと変わらない光景だった。決して特別ではなく、普段通りのプレーを大舞台でも披露しただけだったのだ。中には、高校を卒業して初めて、自分たちの守備力の高さを知る選手もいたという。町田さんは「大学や社会人の野球部に進んでから、菊川の内野陣は上手かったんだなと実感したチームメートもいました」と話す。
実は常葉菊川入学当時、町田さんは打撃をウリにする選手だった。例えば07年のセンバツ準々決勝、大阪桐蔭戦の8回に同点タイムリーを放ち、2-1の勝利に貢献した。なお町田が対戦した投手の名は、中田翔。試合後、中田が涙にくれる姿も話題となった。
その一方、守備では中学時代からショートを守っていたが、苦手意識があったという。小学生の頃はソフトボールとサッカーの“二刀流”で、中学生で所属していたシニアのチームも強豪ではなかった。
「常葉菊川に入学していなかったら、間違いなく守備で注目される選手にはなっていなかったですね。あのノックが全てでした。中学生の頃は自分には無縁と思っていたので、テレビで甲子園もほとんど見たことがないくらいの選手でしたから」
あのノック――。町田さんが充実感としんどさの交錯した表情で振り返ったのは、当時監督を務めていた森下知幸さんのノックだった。そのノックは「芸術」とも言われ、森下さんのノック目当てに球場やグラウンドを訪れる指導者もいたほどだ。
地獄の時間から「守備に自信が持てるように」
町田さんが常葉菊川に入学した年の夏、チームは静岡大会で初戦敗退した。このタイミングで新チームがスタートし、町田さんはセカンドでレギュラーとなる。公式戦は秋季大会までない。長い夏休みは守備を強化する“地獄の時間”となった。
町田さんを含む内野陣は午後からの全体メニュー前に、朝から昼までノックを受ける。ノッカーの森下さんがバットを置く時間はない。選手の力を試すように、グラブが届くか届かないかの絶妙な場所へ打球を飛ばす。町田さんが回想する。
「ギリギリのところに打つ森下監督の技術はすごかったです。あのノックで球際の強さが鍛えられました。ノックが上手い人はグラブに吸い付くような質の打球を打ってくるので、捕る方も気持ち良さがあります。全体練習前にクタクタになりましたが、守備に自信が持てるようになりました」
中学時代のショートからセカンドに転向したこともあり、最初はエラーする試合も少なくなかった。だが、森下さんは町田さんに実戦の経験を積ませるために起用を続けた。町田さんは「試合で打球を捕る経験は練習では補えない重要な要素があります。1年生の秋から使い続けてもらったことが、甲子園という舞台でも不安なくプレーできた理由だと思っています」と語る。
センバツ優勝…早大は1年足らずで中退
町田さんはレギュラーとして2年春にセンバツで優勝し、3年夏は甲子園で準優勝した。常葉菊川での実績をひっさげ、早稲田大学に進学。このまま順調にアマチュア野球界の中心を歩んでいくと予想された。ところが、1年も経たずに大学を中退した――。
〈つづく〉
📝消えた天才〉「理由は…いじめではないです」なぜ甲子園史上最高のセカンドは早大中退→23歳引退の半年後ヤマハ退職→福祉の道に進んだか
https://news.yahoo.co.jp/articles/38fea899454a6c3033766bd5dddfd6558b1dcf2e
早大を1年足らずで退学…なぜ?
センバツ優勝、夏の甲子園準優勝を果たした中で、町田友潤さんは守備力に優れた二塁手として大きく注目された。しかし進学先の早稲田大学を、1年も経たずに中退した。一体、なぜか――。
新しい環境に適応できなかった最大の理由は“文化の違い”だった。
ノーサイン野球やフルスイング打線で知られる常葉菊川野球部は、選手に一定の自由度を与えるスタイルを特徴としていた。一方、伝統のある早大は厳格なスタイルだった。町田さんは環境の大きな変化に戸惑いや息苦しさを感じていた。
「あらゆることを真正面から捉え過ぎました。何でも取り入れようとしたり、自分で処理しようとしたりしてしまい上手く順応できませんでした。ある程度は聞き流す器用さが必要でしたね。精神的に未熟だったと思っています」
一部では先輩からのいじめが中退の原因と噂されたが、町田さんは「それは全くないです」と否定する。大学を離れてからも連絡を取っている先輩も多いという。
プレーする場所を失った町田さんの頭の中には、野球を辞める選択肢も浮かんでいた。しかし、常葉菊川時代のチームメートから声をかけられたこともあり、浜松市を本拠地とする社会人野球のヤマハへ進んだ。
名門ヤマハではケガ、そして23歳での引退
ヤマハでは怪我に苦しんだ。そして、自らの限界も感じていた。聖地で見せた捕球に陰りはなかったものの、社会人、さらにプロを目指すには致命的な弱点があった。
「上のレベルでプレーするには肩の強さが足りませんでした」
カテゴリーが上がっていくほど、アウトを取るハードルは高くなる。高校時代はアウトにできていた打球も、社会人の試合ではセーフになってしまう。捕球から送球までの動きで無駄を省くために試行錯誤を重ねたが、弱点を補うまでには至らなかった。
「社会人野球のレベルの高さを感じました。最後の1年くらいは持病の腰痛の影響もあって全体練習さえできない状況で苦しかったですね」
ヤマハは毎年のように“大人の甲子園”とも言われる都市対抗野球に出場し、プロも輩出している社会人野球の強豪だ。レギュラーをつかむのは簡単ではない。競争に勝てないと悟った町田さんは潔くユニホームを脱ぐ覚悟を決めた。23歳だった。
周囲からは引退には早すぎると言われる年齢にも「自分にできることはやり切りました」と後悔や未練はなかった。
経理担当したが周囲との能力差は歴然
社会人の選手は野球部を退くと、他の社員と同じように社業に専念する形となる。それまでの午前中は仕事、午後から野球の練習という生活サイクルは大きく変わり、会社側から求められる業務も当然増える。町田さんは本社で経理を担当した。
野球一筋の人生を歩んできた町田さんには簿記や会計の知識はない。高校も大学も勉強に時間を割き、就職活動にも力を注いできた周囲の社員と能力差は歴然。町田さんは会社の戦力になれない心苦しさでいっぱいだった。
「ヤマハは海外とも取引のある企業なので、社内では日常的に英語が飛び交っていました。自分が働く場所ではないと、すぐに分かりました。私は野球で貢献しようと思ってヤマハに入社したので、引退と同時に『自分は何のためにヤマハに残るのか』とも感じていました」
町田さんの決断は早かった。半年ほどで退職し、次の道へ進んだ。第2の人生で挑戦したい仕事は決まっていた。ヤマハでサラリーマン生活を送る中、胸の中にあった思いが、どんどん膨らんでいた。
思い出したのは高校時代、ある子どもとの触れ合い
時は2007年、町田さんが高校1年生から2年生になる春、センバツで優勝を果たした時に戻る。
地元に戻った常葉菊川は、学校で開いた報告会で市民から祝福を受けた。「おめでとう」という声に加えて、多くの人たちから「ありがとう」と感謝された。報告会を終えて寮に戻ろうとした町田さんは、男の子を連れた母親に声をかけられた。
「町田さんのプレーに勇気をもらいました。息子と一緒にテレビで試合を見て、応援していました。ありがとうございました」
男の子には知的障害があった。町田さんの姿に喜ぶ息子の姿は母親を幸せにし、息子と一緒に野球を見る時間が子育ての息抜きや活力となったのだろう。本人に直接お礼を伝えずにはいられなかった。町田さんには、この時の記憶がずっと残っていたという。
「一緒に写真を撮って、男の子もすごく喜んでくれました。自分たちが応援してくれる方たちに力をもらって感謝する立場なのに、勇気をもらったと言ってもらえてうれしかったですね。いつか、児童福祉の分野で恩返ししたいと思いました」
秘めていた思いを形にする時が来た。
ヤマハ退社後、児童福祉を学び起業を
ヤマハを退社した町田さんは知人を通じて、浜松市の企業で児童福祉を学んだ。発達障害の子どもたちと毎日コミュニケーションを取って、着替えや排泄などを教えた。約2年間、福祉や経営について勉強しながら現場でスキルを磨き、2017年に浜松市で放課後等デイサービス「グリーピース」を立ち上げたのだ。
〈つづく〉
⚾岩手さんへ
1週間連続山が燃えていたんですね!!
鎮圧と聞けば、完全に消化できたと思いきやそうではなく鎮火でないと解決したことにはならないようですね・・・。
一難去ってまた一難とはよく言ったもので、連鎖反応的に火事が起きますね。まだ少し乾燥は続くだろうからこれ以上の被害が広がらないことを信じたいですね。
https://news.yahoo.co.jp/articles/ec59bcb8903d7fe9d3ddaa748b81e5bf76322fdd
今年1月、高校野球の名門である早大学院の野球部監督に無期謹慎処分が下った。中学生のリクルートに関する規定違反が理由とされる。なぜ、このような事態が起こってしまったのか。同校OBのベテラン野球記者が提言する解決策とは?
「早大学院野球部監督、中学生の練習参加規定違反などで無期謹慎処分」
1月下旬にあったこの報道には驚いた。
報道によれば、高野連の規定を認識していたにもかかわらず、手続きを経ずに中学生を練習に呼んでいたのだという。さらには規定で禁止されていることを知りながら、中学生への家庭訪問も長年にわたって行っていた。
昨秋のドラフト会議で、早大学院OBの早稲田大・山縣秀内野手が日本ハムに5位指名され、66年ぶりのプロ入りと祝賀ムードの年の暮れだったが、そこから1カ月もたたないうちに、今度は真逆の残念なニュースとして再び「早大学院野球部」の文字が流れたから、余計にショックが大きかった。
私はその早大学院、つまり早稲田大学高等学院・野球部のOBである。無期謹慎……わかりやすく言い換えれば、実態は「追放」であろう。
中学生の“青田買い”を巡る事件は過去にも…
チームを強くしようと考えた指導者が、しかるべき申請と許可がないままに、有望な中学生を練習に参加させたり、ご家族にお願いをしに家庭訪問をするというルール違反は、高校球界にはこれまでも何度もあった。
そのたび数カ月や1年程度の謹慎というペナルティが科せられたが、それが今回、無期という「重罪」になったのは、それが何年にもわたって常態化していたのが、高野連の逆鱗に触れたからではないか。
つまり、ルールを「無視」していたと解釈されても仕方ない行為を長く続けていたことへの重いペナルティと考えれば、なるほど……と思える。
この報道に接しながら、ハッとしたことがある。
こういう仕事をしているから、高校野球関係者の方から、特定の中学チームの関係者を紹介してほしいと頼まれることがあった。最近でも、昨年の秋あたりから、何度か間に入ったことがある。
皆さん、甲子園にも出場している高校のベテランばかりなので、当然それなりの手続きを踏んだ上での接触であろうと、ご縁をつないできた。そうは言っても、いちいち確認もできないから、もしルールを「スルー」して中学生に接触した方がおられたら、こちらもその「ルール違反」の片棒を担いだことになるのではないか。漠然とした不安感がいつも残る。
中学野球の現場で、こんなシーンを見ることがよくある。
練習や試合を見に訪れた高校野球関係者が、「これは!」という選手を見つけ、中学チーム指導者にそれを伝える。
「せっかく遠くから来てくれたのだから」と指導者が選手を呼んで、高校関係者との間で、ちょっとした会話がなされる。
今は中学野球の現場にも試合・練習を問わず親御さんがいらっしゃっていることが珍しくない。
「あ、そういえば、今日はお父さんが来ていますね」と中学指導者が気を利かせ、親御さんにも引き合わせる。すると選手、親御さん、高校関係者の「三者面談」みたいなことになる。
これ、行われている場所はグラウンドでも、行われていることは禁止されている「家庭訪問」とどこが違うのだろうか。
「ルール違反」をなくすためにはどうすればいいのか
車のスピード違反も警察に発見されなければ、おとがめなし。不公平感なしにするには、「手続きをしてお許しをいただければ」などとハンパなことを言っていては仕方ない。取り締まるのが事実上不可能なのだから、ちょっと極論にはなるがここは思いきって、高校側と中学生との接触は全て禁止にしてはいかがだろうか。
一方で、中学生と接触したい高校側に「接触禁止」という大きな不便を課すのだから、高野連も組織として骨を折る。ルールを作って、作りっぱなしじゃ、大人の組織として芸がないだろう。
ここに、1つのつたない「私案」を挙げてみたい。
<次回へつづく>
📝高校野球の名門校監督が規定違反で無期謹慎…「有望な中学生を探すことにエネルギーを割かれて…」激化する“勧誘合戦”に疲弊する現場のホンネ
https://news.yahoo.co.jp/articles/c2677b8a71f982147a54510082b2dcf54277074f
今年1月、高校野球の名門である早大学院の野球部監督に無期謹慎処分が下った。中学生のリクルートに関する規定違反が理由とされる。なぜ、このような事態が起こってしまったのか。同校OBのベテラン野球記者が提言する解決策とは?
高校側からの有望な中学生選手のリクルート活動は、もちろん高野連の規定はあるといえど、現実的にはなかなか規制が難しい。ここに1つ「私案」を挙げてみたい。
中学生に高校野球関係者がプレゼン大会?
都道府県単位の高野連が主催して、高校野球を志す中学生を大きなホールに集めて、高校野球関係者に「我がチーム」のプレゼンを行ってもらうのだ。それを中学-高校の限られた接触の場とする。時期は、中学3年夏の大会が終わったあたりの夏休みではどうか。
中学球児へのプレゼンを希望する高校チームは、興味を持つ都道府県の「プレゼン集会」へ出かけて行って、「おらがチーム」の有りようを伝える。
たとえば、東京都高野連主催の「プレゼン集会」の会場に、北海道の高校の監督さんがやって来る。東北の高校からは野球部長がやって来る。名古屋からも、関西からもやって来るかもしれない。
1日に10校でも20校でもよい。エントリーしたすべての高校野球部の関係者たちがプレゼンを行い、中学球児たちは、興味を持つ高校を選んでプレゼンを拝聴すればよい。すでに、志望校を心に決めている生徒さんは参加しなくてもよい。そのへんは、本人の「判断」である。
説明者は誰なのか、グラウンドで実際に自分たちと接してくれる人なのか、それとも「スカウト」みたいな人なのか、プレゼン上手な「専門家」なのか。どんな言葉を持っている大人なのか、熱は伝わってくるのか。そんなところから、中学生たちの感性が働くはずだ。
「有望な中学生を探し、誘うことに時間とエネルギーを割かれてグラウンドに立つ時間が減ってしまう」
以前、そう嘆いていた高校指導者の方がおられたが、プレゼンできる都道府県の数を限定したり、同じような時期にわざと重なるように行うことで、高校指導者たちがグラウンドに立てる時間を増やしてあげることもできよう。
高校側が中学選手を知る機会も、そりゃあ大切かもしれない。だが、それ以上に大切なのは、中学選手の高校野球や高校チームを知ろうとする努力のほうであろう。
中学選手が自ら高校野球と高校チームを知ろうとし、興味を抱いた高校があればちょっと遠くても、自ら試合や練習に足を運んで、自ら感じ、考え、確かめて決める。
自分の目で見て、考えて、自分で決めて、この高校に来ました。これ以上に健全なモチベーションが、ほかにあろうか。選手たちが、前向きなメンタルで高校野球を続けていく上で、これほどに頼もしい「動機」は他にない。
どうすれば中学生が能動的に進路を選べるか
高校側からのアプローチによって決まる進路の多くは、残念ながら「大人が決めた進路」であることが多い。高校野球生活がなかなか思い通りにいかなくなった時、人のせいにして逃げたくなるのは、その多くがこのパターンではないだろうか。
高野連主催の「プレゼン集会」。
粗けずりで、未完成で、難点だらけ、アラだらけのアイディアと承知で挙げてみた。この手の提言は、読み手の方たちにボコボコに叩かれるのが昨今のお約束。だが、私はその「ボコボコ」を期待している。
コテンパンに叩かれる中で、もしかしたらとんでもない妙案が発信されるかもしれない。それが新しく、健康的で合理的な中学生と高校球界との付き合い方を追求する突破口になってくれれば良い。そのための、文字通りの「叩き台」になれたら本望だ。
コロナ禍真っ最中の2020年。甲子園大会が中止になってアピールの場を失ったプロ志望の高校球児たちのために、甲子園球場と東京ドームを会場にして日本高野連とNPBが開催した「プロ志望高校生合同練習会」。日本高野連とNPBが垣根を越えて実施したあの催しは、高野連の「快挙」だと考えている。
あれだけ、莫大なエネルギーを必要とする催しを成し遂げた高野連なのだから、「プレゼン集会らしきもの」なんて実現できないわけがない。むしろ、長年培った「腕」の見せどころがやってきたというものであろう。
「早大学院のような“名門”でも…」
「早大学院のような“名門”でも練習参加やら、家庭訪問やらいろいろやらないといけないんですか? 選手なんて、黙っていても集まって来るんじゃありませんか?」
今回の騒動が起こってから、こんな素朴な疑問をいただいた。確かに、「生徒」は集まってくる。毎年、募集人数の5倍も6倍もの受験生がやって来るが、だからこそ「選手」は集まりにくい。受けたって、受かりっこないと思われてしまう。だから監督は「ぜひ受験してください」と、頭を下げねばならなかったのではないか。
15年も高校野球の指導の現場にいた以上、ルールを知らないわけはないだろう。旺盛な意欲と情熱も、ちょっと過ぎると「ひとりよがり」になってしまう。特に指導者であればこそ、その線引きは常に意識しておかねばならない。
昨年の交通事故で負った頭の傷の回復が思うにまかせず、結局、これから先の現場復帰は難しいと、監督続行を断念したのが、暮れに近い頃だったと聞いている。名門校で高校野球の経験のある若い先生が指導を引き継ぐことも決まり、OBの間では慰労会も企画されていた矢先の処分だった。
最後は幸薄い結末になってしまった。「高校野球」と「甲子園」に魅入られることの怖さを、垣間見たような気がした。
📝〈消えた天才〉大阪桐蔭・中田翔を泣かせた「甲子園史上最高のセカンド」地獄の時間で守備職人→センバツ優勝も…1年経たず早大中退していた
https://news.yahoo.co.jp/articles/64a7e44859b85d75ea46d17f35d2f7d01e3e0607
センバツ優勝を経験した「甲子園史上最高のセカンド」と呼ばれた名手は今、児童福祉の道へ……23歳で野球を引退した町田友潤さん(34歳)に話を聞いた。
美しい守備…しかし自己評価は高くなかった
観客の視線を集めた夏から17年の時が経った。だが、高校野球ファンの記憶には今も深く刻まれている。
「甲子園史上最高のセカンド」その称号にふさわしい美しい守備だった。
2008年夏の甲子園で、静岡県代表の常葉菊川(現:常葉大菊川)は準優勝を果たした。1983年創部と歴史の浅い常葉菊川の名前はこの夏、一気に全国区となった。常葉菊川が注目された理由は決勝に進出したチームの強さに加えて、ある選手の存在が大きい。セカンドを守っていた町田友潤さん。「セカンドに打ってしまえば望みはありません」の名実況が生まれたほどの守備だった。
町田さんが野球を引退してから10年以上経っているにもかかわらず、その名前や甲子園でのプレーは語り継がれている。ただ、本人は当時も今も「甲子園史上最高のセカンド」の評価に恐縮する。
「同世代でも上手いセカンドは他のチームにいたので、自分が一番と思ったことはなかったですね。横浜の松本幸一郎選手(現:東芝コーチ)や大阪桐蔭の森川真雄選手の方が上手かったですから。最近の選手たちを見ていても、守備位置を後ろに取れるだけの肩の強さを持っています。当時の自分よりも明らかに守備力は上だと感じています」
町田さんは謙遜するが、その守備はチームの窮地を何度も救った。外野に抜けそうな打球をグラブに収め、難しいバウンドも柔らかくさばく。常葉菊川応援席の悲鳴を大歓声に変えた。
大阪桐蔭相手に出た「最高の守備」
ファンの記憶に最も強く残っているのは、浦添商との準決勝だろう。5点リードの6回、常葉菊川は1死満塁のピンチを招く。浦添商の打者が放った強烈なライナーは二塁ベース上を襲う。センターへ抜けると思われた打球を町田さんがダイビングキャッチして、そのまま二塁ベースにタッチ。試合の流れを奪われかねない場面を併殺で切り抜け、チームを勝利に導いた。
町田さん自身が「最高の守備」と振り返るのは、試合には敗れた決勝の大阪桐蔭戦で処理したゴロだった。
2回1死一、二塁から大きく弾んだ打球をショートバウンドで合わせて、体を反転させて素早く二塁に送球してアウトにした。反転した時はセカンドベースの位置が全く分からなかったが、これまで練習してきた感覚を信じて送球したという。
町田さんが聖地に立つと、不思議と大事な場面で打球が飛んできた。そして、相手のチャンスの芽を摘む守備で球場を沸かせた。だが、周囲の驚きとは対照的に町田さんやチームメートは冷静だったという。
「難しい打球が多いなとは感じていましたし、結果的には自分が持っている力以上を甲子園で出せたと思っています。ただ、普段通りのプレーができているという気持ちでした。日頃の練習で同じような守備をしてきたので、チームメートも特別びっくりしていなかったです」
もともとは打撃がウリ…中田翔から殊勲打も
神懸かっているように見えた町田さんの守備は常葉菊川にとって、いつもと変わらない光景だった。決して特別ではなく、普段通りのプレーを大舞台でも披露しただけだったのだ。中には、高校を卒業して初めて、自分たちの守備力の高さを知る選手もいたという。町田さんは「大学や社会人の野球部に進んでから、菊川の内野陣は上手かったんだなと実感したチームメートもいました」と話す。
実は常葉菊川入学当時、町田さんは打撃をウリにする選手だった。例えば07年のセンバツ準々決勝、大阪桐蔭戦の8回に同点タイムリーを放ち、2-1の勝利に貢献した。なお町田が対戦した投手の名は、中田翔。試合後、中田が涙にくれる姿も話題となった。
その一方、守備では中学時代からショートを守っていたが、苦手意識があったという。小学生の頃はソフトボールとサッカーの“二刀流”で、中学生で所属していたシニアのチームも強豪ではなかった。
「常葉菊川に入学していなかったら、間違いなく守備で注目される選手にはなっていなかったですね。あのノックが全てでした。中学生の頃は自分には無縁と思っていたので、テレビで甲子園もほとんど見たことがないくらいの選手でしたから」
あのノック――。町田さんが充実感としんどさの交錯した表情で振り返ったのは、当時監督を務めていた森下知幸さんのノックだった。そのノックは「芸術」とも言われ、森下さんのノック目当てに球場やグラウンドを訪れる指導者もいたほどだ。
地獄の時間から「守備に自信が持てるように」
町田さんが常葉菊川に入学した年の夏、チームは静岡大会で初戦敗退した。このタイミングで新チームがスタートし、町田さんはセカンドでレギュラーとなる。公式戦は秋季大会までない。長い夏休みは守備を強化する“地獄の時間”となった。
町田さんを含む内野陣は午後からの全体メニュー前に、朝から昼までノックを受ける。ノッカーの森下さんがバットを置く時間はない。選手の力を試すように、グラブが届くか届かないかの絶妙な場所へ打球を飛ばす。町田さんが回想する。
「ギリギリのところに打つ森下監督の技術はすごかったです。あのノックで球際の強さが鍛えられました。ノックが上手い人はグラブに吸い付くような質の打球を打ってくるので、捕る方も気持ち良さがあります。全体練習前にクタクタになりましたが、守備に自信が持てるようになりました」
中学時代のショートからセカンドに転向したこともあり、最初はエラーする試合も少なくなかった。だが、森下さんは町田さんに実戦の経験を積ませるために起用を続けた。町田さんは「試合で打球を捕る経験は練習では補えない重要な要素があります。1年生の秋から使い続けてもらったことが、甲子園という舞台でも不安なくプレーできた理由だと思っています」と語る。
センバツ優勝…早大は1年足らずで中退
町田さんはレギュラーとして2年春にセンバツで優勝し、3年夏は甲子園で準優勝した。常葉菊川での実績をひっさげ、早稲田大学に進学。このまま順調にアマチュア野球界の中心を歩んでいくと予想された。ところが、1年も経たずに大学を中退した――。
〈つづく〉
📝消えた天才〉「理由は…いじめではないです」なぜ甲子園史上最高のセカンドは早大中退→23歳引退の半年後ヤマハ退職→福祉の道に進んだか
https://news.yahoo.co.jp/articles/38fea899454a6c3033766bd5dddfd6558b1dcf2e
早大を1年足らずで退学…なぜ?
センバツ優勝、夏の甲子園準優勝を果たした中で、町田友潤さんは守備力に優れた二塁手として大きく注目された。しかし進学先の早稲田大学を、1年も経たずに中退した。一体、なぜか――。
新しい環境に適応できなかった最大の理由は“文化の違い”だった。
ノーサイン野球やフルスイング打線で知られる常葉菊川野球部は、選手に一定の自由度を与えるスタイルを特徴としていた。一方、伝統のある早大は厳格なスタイルだった。町田さんは環境の大きな変化に戸惑いや息苦しさを感じていた。
「あらゆることを真正面から捉え過ぎました。何でも取り入れようとしたり、自分で処理しようとしたりしてしまい上手く順応できませんでした。ある程度は聞き流す器用さが必要でしたね。精神的に未熟だったと思っています」
一部では先輩からのいじめが中退の原因と噂されたが、町田さんは「それは全くないです」と否定する。大学を離れてからも連絡を取っている先輩も多いという。
プレーする場所を失った町田さんの頭の中には、野球を辞める選択肢も浮かんでいた。しかし、常葉菊川時代のチームメートから声をかけられたこともあり、浜松市を本拠地とする社会人野球のヤマハへ進んだ。
名門ヤマハではケガ、そして23歳での引退
ヤマハでは怪我に苦しんだ。そして、自らの限界も感じていた。聖地で見せた捕球に陰りはなかったものの、社会人、さらにプロを目指すには致命的な弱点があった。
「上のレベルでプレーするには肩の強さが足りませんでした」
カテゴリーが上がっていくほど、アウトを取るハードルは高くなる。高校時代はアウトにできていた打球も、社会人の試合ではセーフになってしまう。捕球から送球までの動きで無駄を省くために試行錯誤を重ねたが、弱点を補うまでには至らなかった。
「社会人野球のレベルの高さを感じました。最後の1年くらいは持病の腰痛の影響もあって全体練習さえできない状況で苦しかったですね」
ヤマハは毎年のように“大人の甲子園”とも言われる都市対抗野球に出場し、プロも輩出している社会人野球の強豪だ。レギュラーをつかむのは簡単ではない。競争に勝てないと悟った町田さんは潔くユニホームを脱ぐ覚悟を決めた。23歳だった。
周囲からは引退には早すぎると言われる年齢にも「自分にできることはやり切りました」と後悔や未練はなかった。
経理担当したが周囲との能力差は歴然
社会人の選手は野球部を退くと、他の社員と同じように社業に専念する形となる。それまでの午前中は仕事、午後から野球の練習という生活サイクルは大きく変わり、会社側から求められる業務も当然増える。町田さんは本社で経理を担当した。
野球一筋の人生を歩んできた町田さんには簿記や会計の知識はない。高校も大学も勉強に時間を割き、就職活動にも力を注いできた周囲の社員と能力差は歴然。町田さんは会社の戦力になれない心苦しさでいっぱいだった。
「ヤマハは海外とも取引のある企業なので、社内では日常的に英語が飛び交っていました。自分が働く場所ではないと、すぐに分かりました。私は野球で貢献しようと思ってヤマハに入社したので、引退と同時に『自分は何のためにヤマハに残るのか』とも感じていました」
町田さんの決断は早かった。半年ほどで退職し、次の道へ進んだ。第2の人生で挑戦したい仕事は決まっていた。ヤマハでサラリーマン生活を送る中、胸の中にあった思いが、どんどん膨らんでいた。
思い出したのは高校時代、ある子どもとの触れ合い
時は2007年、町田さんが高校1年生から2年生になる春、センバツで優勝を果たした時に戻る。
地元に戻った常葉菊川は、学校で開いた報告会で市民から祝福を受けた。「おめでとう」という声に加えて、多くの人たちから「ありがとう」と感謝された。報告会を終えて寮に戻ろうとした町田さんは、男の子を連れた母親に声をかけられた。
「町田さんのプレーに勇気をもらいました。息子と一緒にテレビで試合を見て、応援していました。ありがとうございました」
男の子には知的障害があった。町田さんの姿に喜ぶ息子の姿は母親を幸せにし、息子と一緒に野球を見る時間が子育ての息抜きや活力となったのだろう。本人に直接お礼を伝えずにはいられなかった。町田さんには、この時の記憶がずっと残っていたという。
「一緒に写真を撮って、男の子もすごく喜んでくれました。自分たちが応援してくれる方たちに力をもらって感謝する立場なのに、勇気をもらったと言ってもらえてうれしかったですね。いつか、児童福祉の分野で恩返ししたいと思いました」
秘めていた思いを形にする時が来た。
ヤマハ退社後、児童福祉を学び起業を
ヤマハを退社した町田さんは知人を通じて、浜松市の企業で児童福祉を学んだ。発達障害の子どもたちと毎日コミュニケーションを取って、着替えや排泄などを教えた。約2年間、福祉や経営について勉強しながら現場でスキルを磨き、2017年に浜松市で放課後等デイサービス「グリーピース」を立ち上げたのだ。
〈つづく〉
⚾岩手さんへ
1週間連続山が燃えていたんですね!!
鎮圧と聞けば、完全に消化できたと思いきやそうではなく鎮火でないと解決したことにはならないようですね・・・。
一難去ってまた一難とはよく言ったもので、連鎖反応的に火事が起きますね。まだ少し乾燥は続くだろうからこれ以上の被害が広がらないことを信じたいですね。