EDIT FORM

以下のフォームから編集を行ってください
🔥須磨翔風・槙野が法大合格「4年後に上位で」 志望届提出せずに大学進学、今朝丸らとプロでの再会目指す
https://news.yahoo.co.jp/articles/386eccc6e51db864c090b16bb2fc79931ad49c06

兵庫県高校野球連盟の優秀選手表彰式が17日に明石市内で行われ、阪神ドラフト2位の報徳学園・今朝丸裕喜(3年)や須磨翔風の槙野遥斗(同)ら15選手が出席した。

秋春2季連続で近畿大会に出場した須磨翔風の槙野は、法大に合格。来月の入寮に向けて準備中で、「通用するのかな…という不安もあるけど楽しみの方が大きい」と目前に迫った大学生活を心待ちにした。

NPBスカウトから注目を集めた好右腕は、昨秋にプロ志望届を提出せずに大学進学を決断。「まだプロでは通用しない。大学に進んで力をつけた方がいいと思った。4年後にドラフト上位で指名されるように頑張ります」と東京六大学でのアピールを期した。

表彰式では今朝丸と昨夏以来に再会した。兵庫県内の高校生では、今朝丸だけでなく、神戸弘陵の村上泰斗(ソフトバンク1位)と神戸国際大付の津嘉山憲志郎(ソフトバンク育成7位)もドラフト指名を受けた。「大学には良い環境がそろっているので、本気で野球に取り組む4年間にしたい。兵庫からプロに行く投手が多くいるので、僕も負けないように頑張りたいです」と決意を新たにした。

☝神港学園野球部 北原直也監督と父光広氏 鎮魂の思いは父から子、監督から令和の球児へ
https://news.yahoo.co.jp/articles/ba327a4763b252d8938890b18c299e0a4eade5b1

6434人が亡くなり、3人が行方不明となった1995年の阪神大震災は、きょう17日に発生から30年を迎えた。被災直後に開催された第67回選抜高校野球大会で8強入りした神港学園(兵庫)の硬式野球部は、「阪神淡路大震災1・17のつどい」に2003年から設営ボランティアとして参加する。北原直也監督は、選抜出場時に監督だった光広氏の長男。父が始めた活動を息子が引き継ぎ、令和の高校球児に鎮魂の思いをつなぐ。

震災当時に中3だった北原直也監督は、神港学園の監督として選手の安否確認に奔走する父・光広氏の姿を忘れない。「部員全員が無事と分かるまでに2週間以上かかっていました。選抜目前でも練習ができず、ボランティアしかできない。その姿をずっと見ていました」。被災直後の選抜には兵庫から3校が出場し、神港学園は8強進出。球児の懸命な姿は、テレビ放送などを通じて被災者を勇気づけた。あれから30年がった。父・光広氏は17年で監督を退き、長男の北原直也監督が18年から同校を率いる。父の苦労を知る息子として、必ず引き継ぐと決めた活動がある。震災の追悼の思いなどを込め、神戸市内で開かれる「1・17のつどい」の設営ボランティアだ。父の発案で03年から部員が竹灯籠の設置などを手伝い、23年目の今年は部員全50人で参加した。

「もし僕が活動を止めれば、部員が震災の話に触れる機会はないと思う。この活動だけは大事にしたかった」

ある年、部員のつくった雪地蔵に手を合わせて涙を流す人がいた。震災で失った最愛の人を思ってのことだろう。その姿を見た部員は「もっと気持ちを込めてつくればよかった」と吐露した。震災時に生まれていなかった球児は、ボランティアを通じて鎮魂の思いを受け取ってきたのだ。

主将の衣笠善(2年)の父・純さんは、95年選抜に背番号14を背負って出場。普段は寡黙な父も震災のことは細かく教えてくれた。「震災で大切な人を亡くした方の気持ちは分からないけれど、ここに来れば伝わるものがありました」と学んで帰った。

北原監督は黙々と作業する選手を見つめていた。「神港学園野球部として参加することに意味がある。感じた思いを後ろへ後ろへと次の世代につないでいってほしい」。被災地の思いは30年間途絶えず受け継がれ、令和の球児にまで確かに届いた。

🎤「甲子園のための売名なんやろ」の声も…30年前、阪神大震災後の“ある強豪野球部”のリアル「とてもじゃないけど甲子園なんて開催できない」
https://news.yahoo.co.jp/articles/8c7a88e34b3f5866e7731da872b27680188826ae?page=1

いまからちょうど30年前の1月17日。近畿圏でマグニチュード7を超える大型地震が発生した。後に阪神大震災と呼ばれることになる大災害は、当然センバツ甲子園を控えた関係者たちにも大きな影響を与えた。神戸の強豪校だった神港学園の野球部監督が30年後のいま振り返る、あの時のリアルとは。

30年という時間はひと昔と表現する人がいれば、決して遠い記憶になっていない人もいる。ただ、30年前に身に起きた出来事が心に深く影を落とすことだったら、どう感じるだろうか。

「毎年あの日が来るたびに早いなと思いますが、1日1日で考えると“まだ30年なのか”とも思いますね。あの大会は本当に忘れられない大会だったので」

ひとつひとつの言葉を嚙みしめるように口にしたのは、かつて神港学園の野球部監督として36年間チームを率いてきた北原光広だ。

82年に神港学園の監督となり(当時は私立神港高校)、84年のセンバツでチームを初の甲子園に導くと、92年には夏の甲子園にも出場し、甲子園で2勝を挙げている。

報徳学園、東洋大姫路、育英(93年夏に全国制覇)といった強豪私学としのぎを削り、退任した2018年まで春は5度、夏は3度、チームを甲子園に導いている。

その中で3度目のセンバツ出場権をかけた94年の秋の近畿大会では準優勝し、翌春の95年の第67回センバツ高校野球大会の出場も有力視されていた。

センバツ有力だった名門校を襲った「大震災」
 
1995年。いつものように年が明け、待ちに待った夢の舞台へ向け冬の練習を重ね、センバツ出場校発表の2月1日へ向け、カウントダウンをしていくはずだった。

1月17日。神戸市から40キロほど離れた高砂市にある自宅で、いつものように幼い娘と妻と川の字になって寝ていた北原は、早朝に微動を感じ目が覚めた。

「最初は横揺れだったかな。それがだんだん強くなってきて、娘が”お母さん怖い“って言って妻にしがみついたんです。僕が“大丈夫やで”って娘に言わないとアカンのに、僕はなぜか毛布をかぶってしまって。自宅は2階のテレビが少しずれたくらいでしたけれど、とっさにテレビをつけたら神戸の方が震度が大きいと分かって」

当時、部内には岡山出身のマネージャーがおり、神戸市内の祖父の家に身を寄せていたため、安否が気になった。しばらくしてマネージャーとようやく連絡が取れると、神戸市内の福住小学校に避難していると聞いた。

無心のまま学校のある神戸市内へ車を走らせた。すると神戸に近づくにつれ凄惨な光景が目の前に飛び込んできた。

「途中で三宮の市街地を走っていたらビルが倒壊し、煙が出ているのもはっきりと見えました。彼の住んでいた家はぺっしゃんこでしたし、周りの家も倒壊、半壊していて。通常は神戸へは海側の道を走って1時間ほどかかるのですが、海側の道はすべて通行止めだったので、山側の三木方面へぐるっと回って新神戸トンネルを通って行ったので、いつもの倍以上は時間がかかっていたと思います」

いつも見慣れた景色が、ここまで変わってしまうのか。目につく惨状に思わず視線を落としそうになる中、阪神高速道路の高架が北側になぎ倒されているニュースの映像に言葉を失った。

「これは神戸じゃないって思いました。地震以降、担任をしていた2年生のクラスの生徒の安否確認もしていましたが、あの頃は携帯電話やネットはなく、確認手段は電話のみでした。それでも固定電話も繋がらない地域があって、連絡が取れた生徒から“〇〇さんは知っているか? ”とか“〇〇君は大丈夫か分かるか”とか聞いて、生徒の力も借りながら確認作業をしていました」

担任のクラスの生徒の安否確認が全て終わったのが震災から10日後の1月27日だった。だが、校内では一般生徒2人が亡くなったという悲報にも接した。

「無事でも家が全壊した生徒も多くいました。避難所生活を余儀なくされている人もたくさんいましたので、あの頃は“もう、野球なんかどうでもいい。野球ができる日は必ず来る”としか考えていなかったです」

周りの役に立てることはないか…部でボランティアに
 
現状を目の当たりにし、自分たちに今できることはないかと考えた。何か周りの役に立てることはないのか。考えた末にたどり着いたのがボランティア活動だった。

「小学生や中学生は親にまだ守られている世代ですけど、高校生になると親を守る、周りを守るという年代になってくる。高校生は行動力もパワーも気力もありますから、周りの人を守れるようになっていかないといけないとも思いました」

選手たちに北原が提案すると、選手たちも賛同してくれた。近隣の区役所に相談し、選手たちそれぞれが地元に近い地域に分散し、救援物資の仕分け、避難所設営のための畳運びなどの力仕事をはじめ、清掃活動などを手伝っていた。

北原自身も数人の選手を連れて、共にボランティア活動に参加した。ひとつひとつ、今しかできない何かをこなしていかないと復興はできない。そう念じながら、避難所での細かい仕事を担った。

その後、2月1日から授業は再開されたが、生徒が全員集まれたわけではなく、可能な範囲での再開だった。学校での活動が徐々に始まる中で、野球の練習の再開は現実的ではなかった。それでも北原に向けて尋ねてくるのは現状を取材しようとする報道陣だった。

「練習が出来るとか出来ないより、身の回りの安全や生きることを最優先にしていたので、あの頃は野球のことはあまり考えられなかったですね。それでも学校に行くとマスコミの方が毎日のように来られていました。全国放送のテレビ局も来られていて……」

ボランティア活動の合間に電話取材を受けることもあった。キー局の情報番組からも密着取材を受けた。テレビカメラに追われる中、「正直な話、そっとして欲しいとは思いました」と当時を振り返る。何より北原が危惧していたことがあった。

「ここまで野球部が注目されるとは思っていなかったんです。でも、野球部云々ではなく、被災地で生徒が懸命に生きているという姿を取材して欲しいというのはありました。野球部が目立つことだけはどうしても嫌でした」

センバツ開催は「無理です」
 
第67回選抜高校野球大会の選考委員会は当初は2月1日だった。その直前に、実は当時日本高野連の事務局長を務めていた田名部和裕氏から北原宛に電話があったという。

「周囲はどんな状況なのか、(センバツ開催は)大丈夫そうなのかと尋ねられたんです。でも僕は“無理です”って言いました。現地の状況を知る人間は、とてもじゃないですけど甲子園なんて開催できないって思いましたよ。

当時、近くの小学校の避難所で段ボールで仕切られた場所で布団を敷いて寝ている人や呆然としているお年寄りの方を近くでずっと見ていましたから、そんな状況でセンバツなんて……って。現地の方の悲壮感も相当なものでした。温かいものを食べることや、お風呂に入れないから何十キロも離れた銭湯に入りに行くとか、大変な思いをしている人がたくさんいる。そう思うとね……」

そうして、その日もまた神戸へ向かい、ボランティア活動をしている時だった。小学校の体育館で作業をしていると、後ろから野太いこんな声を確かに聞いた。

「センバツに出たいための点数稼ぎや売名行為なんやろ」

         <次回へつづく>

🎤「高校野球だけ許されるのか?」今から30年前…阪神大震災後のセンバツ出場校“監督の葛藤”「『あんたたち、何してんの』と言われた気がして…」
https://news.yahoo.co.jp/articles/4ea2242a128ca5fd77a2f5c75ca8ff4c02419445

その日もまた神戸へ向かい、ボランティア活動をしている時だった。小学校の体育館で作業をしていると、後ろから野太いこんな声を確かに聞いた。

「センバツに出たいための点数稼ぎや売名行為なんやろ」

1995年の阪神大震災当時、神港学園の野球部監督を務めていた北原光広はあらためて、その言葉にこう触れる。

「避難している方も、ストレスが溜まっていたと思うんですよ。あの言葉を発した人は、私が知っている人だったと思います。別の時にはおばあちゃんが“ありがとうね”とも言ってくださいましたし、そういう言葉は支えになりました」

それでも辛辣な言葉は、心に鋭く突き刺さった。

「言われてから何日かは続けていましたが……1人でもそういう風に思う人がいるのなら、もうやめようと。それぞれの地元で何かお手伝いできることがあればやることにしようと生徒たちに言いました」

震災後の混乱の中で…センバツ出場が決定
 
それから神港学園野球部としてのボランティア活動からは身を引いた。2月1日のセンバツ選考委員会が2月中旬に延期になる中、野球部としての全体練習は再開できないままだったが、練習着は着ずにランニングや軽めのトレーニングなどを校内にある限られたスペースで選手たちが自主的に行っていた。

北原は学校の公務のため練習にはほとんど立ち合えていなかったが、2月17日に行われたセンバツの臨時運営委員会で大会を開催することが正式に決定し、21日に神港学園が選出された知らせが学校に届いた。

「ウチは近畿大会で決勝まで行っていますけれど、決勝でPL(学園)に大差で敗れていたんですよ。その辺りはどうなるのかというのはありましたが、ここ1カ月はそれどころではなかったので。でも、それからですかね、ようやく練習に向けて動き出したのは」

1月17日から神戸市北部にある野球部の専用の大池グラウンドには足すら踏み入れていなかった。1カ月以上、ボールすら握れていなかった選手たちを連れ、出場が決定した翌日、大池グラウンドへバスで向かった。

「忘れられないのが、バスでグラウンド方面に向かう時に、多くの復興支援のトラックや重機と道路ですれ違うんですよ。何かこう、申し訳なくて。僕はバスの最前列の席に座って練習着を着ていたので、すれ違うトラックの人に“あんた達は何をしているの? ”って言われているように感じたんです。

でも、こうして開催まで尽力してくださった方もたくさんいて、神港学園だけ“出ません”って言うのも後ろめたかったんです。生徒にも夢があるように指導者にも夢がありますし、何より野球ができるようになったことにありがたさを感じていました」

“絶対に無理”と思っていたセンバツ大会。それどころではない日々を送り、自身の心の奥に野球への熱もしまい込んでいたのかもしれない。だが、時間を重ねるごとに少しずつ前を見られるようになり、落としがちだった視線がやがて上がっていき、希望や前進する思いを発せられるようになった。

震災後の初練習…選手は「楽しかったです」
 
震災後の“初練習”のことは今でもよく覚えている。

「あの日は5時間も6時間も練習できた訳ではないんですよ。キャッチボールすらしていなかったので、ちゃんと練習ができるのか不安でした。ノックからいきなり始めたんですけれど、選手たちの集中力がすごかったんですよ」

今でも目に焼きついているのは白球を追う選手たちの生き生きとした目だった。野球ができる嬉しさ、喜びを体現しながらボールに食らいついているように映った。

「練習後に、選手らに“どうやった? ”って聞いたんですよ。そうしたら、選手は“楽しかったです”って。普通なら“しんどかったです”とか“長かったです”って言うと思うんです。それだけ野球に飢えていた、野球ができる喜びも感じられたのかな。練習ができなかったことで逆に野球ができるありがたさも感じられたのかも知れないですね」

数日後に行われた組み合わせ抽選では、仙台育英(宮城)との対戦が決まった。秋の東北大会で優勝し、大会では上位進出と目された注目校との一戦は「実力はもちろん、練習量から見ても圧倒的に自分たちは不利でした」と北原は振り返ったが、機動力を駆使し4-3で接戦をものにした。

スタンドからの大声援も背中を押し、2回戦の大府(愛知)との一戦も1点を争う好ゲームを演じ、4-3で勝ってベスト8まで進出した。傷ついた被災地を元気づける戦いぶりに、北原は「周りから見えない力をもらった」と振り返る。

「正々堂々と胸を張って行進してほしい」
 
実は開会式前に、北原は選手たちにあるお願いをしていた。

「入場行進の時、被災した子らがどんな表情をしているのかは必ず注目されます。色んな思いはあると思うけれど、正々堂々と胸を張って行進してほしいと言いました。その通り、子供らは凛とした表情で行進してくれました。胸を張って歩いてくれたことはとても嬉しかったですね。

試合では……(2勝できたのは)1球を大事にしてくれたことですかね。通常のチームでも1年かかってもなかなかできないのに、2月22日に練習を再開して以降、みんな集中していて驚くようにチーム力が上がっていったんですよ。あの、練習再開後の最初のノックの時から僕は“しめた”って思ったんですよ。“これはもしかしたら3日でチームが仕上がるんじゃないか”って」

それから97年1月に島根県沖で発生したロシア籍のタンカーのナホトカ号沈没の事故で大量に流出した重油を除去するボランティア活動も行った。誰かのために何ができるのか。どうすれば力になれるのか。そういう思いが、何かが起こるたびに胸の中を駆け巡っていた。

毎年、1月17日になると神戸市中央区にある東遊園地で「阪神・淡路大震災1.17のつどい」が行われる。竹灯篭を「1.17」の形状に並べ、灯をともす。実はその竹灯篭を並べる手伝いを神港学園野球部は平成15年(03年)から続けている。今年も野球部員たちが東遊園地で節目となるその時への“お手伝い”に向かうことになっているが、北原の息子の直也に監督をバトンタッチした今、これからもこの活動はずっと続けていくつもりでいる。

「今は震災が起きたことも知らない世代が多いですし、現状、阪神大震災は風化しつつありますよね。実際に若いボランティアの子は少ないですし、伝えていく方法は他にもあるかもしれないですけれど、風化させない意味でもこの活動は続けていかなくてはいけないと思っています」

阪神大震災以降、04年に中越地震、05年には九州北部地震、そして11年には東日本大震災が発生した。さらに16年には熊本地震、そして昨年1月には能登半島地震も起きるなど、全国で地震災害が毎年のように発生している。

「東日本大震災の時がそうでしたけれど、交通が寸断されて現地の大変な状況を考えると、ボランティアに行きたくてもなかなか行けませんでした。それぞれに事情や生活がある中で、すぐに行動を起こすのは難しい。実際、私が地震に遭ったあの時、生徒たちはどんな心境でボランティア活動と向き合っていたのか。それはずっと気にしています」

「意味のある大会ではあったと思います」
 
30年経った今でも、あの春のセンバツ大会を開催して良かったのか、北原の中で最善の答えは見つかっていない。

「高校野球だけ許されるのかって思う人もいるじゃないですか。東日本大震災の時も、5月に開催予定だった他のスポーツの大きな大会も中止になっていましたから。67回のセンバツの年の子らも、『開催するのが本当は大変だったのでは? いいの? 』って思っていた子もいたんじゃないでしょうか。

でも、あの時の子供らの喜ぶ表情を思い出すとね……。ベスト8まで勝ち進めたから良かったのではなく、辛い出来事から時間が経って、ノックを受けた時、甲子園に立った時の彼らのあの嬉しそうな表情を見られたことを思うと、意味のある大会ではあったと思います」

甲子園は今でも特別な場所だ。“聖地”とも言われる大舞台。高みを目指す者は、誰だって立ちたいと思う。その舞台に立つこと、体感することが彼らにとって大きな意味があった。

30年経った2025年も、もうすぐ大舞台に春がやって来る。

⚾岩手さんへ
今日で阪神大震災から30年が経過しましたね。真冬なんで、今年も冬晴れで天気に恵まれつつも風と空気が冷たい1日でした・・・・・。

僕は96年より毎年欠かさず喫茶店巡りをしており、開始通いの折は仕事帰りや出勤前に時間を作ってやりくりしておりました・・・・・。

今日は三宮~神戸まで歩いて、須磨区の月見山へ足を運び近所の喫茶店でくつろいでから須磨寺参拝して帰りました。
元町の中華街ではどこかの中高生と思われる修学旅行生が昼ご飯の食べ歩きを楽しんでましたね。

あの当時は神戸市東灘区に会社があったので埋立地だし、液状化現象が激しく後片付けなど復興が大変でしたが、震災3週間後あたりに出かけた梅田は普通の生活送っていたので別世界のようでしたね!

もう2度と経験したくないことですが、それ以上に悲惨な出来事が東北を中心に襲ってくるとはあの当時は考えもできなかったですね・・・・・。最近も九州で大きな地震があったし今後も予断を許さないです。

僕自身もセンバツ中止は考えたくなかったですが、状況が状況なだけに諦め半分でしたね。コロナ中止は今でも納得できませんが!!

サッカーは生観戦してもTV観戦でもわからないことだらけですが、女子サッカー準決勝2試合観ていたら主導権握ってゴリ押ししていたらいつか突破口が開けて勝利につながりますね。
野球みたいに耐え抜いてワンチャンスモノにして逃げ切りとはいかないみたいで・・・・・。

男子サッカーは延長でも決着つかずPK途中にCMが入り第ブーイングだったとか・・・・・。ありがちなパターンですね。

P・S プロ野球2軍戦も日程発表されました。紀三井寺で1試合 さとやくスタジアム(橿原)で2試合組まれてました。
2025/01/17(金) 22時27分47秒 No.1546 編集 削除