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📝「ヒジがぶっ飛びました」島袋洋奨が“壊れた”440球の異常な酷使…甲子園春夏連覇のエースを襲った“さらなる悪夢”「もうダメだ…完全に終わった」
https://news.yahoo.co.jp/articles/2f2dad057d02decbaf29d43ce452eb0b79f21476
「投げることに対して、徐々に恐怖心や抵抗感が…」
いったい、進学先の中央大学で何があったのか。大学3年の秋以降、島袋洋奨は“別人”になってしまった。少なくとも、高校時代の面影は完全に消え失せていた。
「とにかく東浜(巨/ソフトバンク)さんと投げ合いたかったですね」
大学進学の理由について尋ねると、島袋は間髪入れずにこう答えた。彼の性格上、会話の流れのなかで適当に言ったわけではないだろう。
「センバツが終わった後に我喜屋(優)先生と相談して大学進学を決めた以上、プロ入りは微塵も考えていませんでした。何度聞かれても、高卒でのプロ入りはないです。当時、亜細亜大学で投げていた東浜さんのいる東都でやりたいと思っていました」
2学年上で2008年のセンバツ優勝投手・東浜巨とは高校1年夏の準決勝で投げ合っている。1対3で敗れはしたものの、「末恐ろしい1年生ピッチャーが出てきた」と県内の高校野球関係者は舌を巻いた。それでも、島袋にとって東浜は憧れの存在だった。
「東浜さんは亜細亜大に行っていきなり連続完封をやってのけたんです。『やっぱすげえ。同じリーグでやりたい』という願望が湧いたのを覚えています」
甲子園春夏連覇のエースとして抜群の注目度を誇った島袋は、中央大入学後の春季リーグ開幕戦で、48年ぶりに新人開幕投手に選ばれる。
「開幕第1戦と第3戦の駒澤大戦に先発で投げさせてもらったんですけど、めちゃくちゃ走られたんですよ。やっぱりこのレベルだと自分のセットの技術じゃ走られてしまう、フォームを変えないといけないな、と。その辺も含めて、少しずつズレていったんだと思います。身体の使い方を理解できていなかったから、戻り方がわからなくなり……。そこから投げることに対して少し、いや、少しじゃないな。徐々に恐怖心や抵抗感が生まれてきました」
この2試合で計8個の盗塁を許し、フォームを調整したことがほころびの始まりだったと本人は述懐する。だが、その後は“ゴールデンルーキー”の実力をしっかりと見せつけた。
「ヒジがぶっ飛びました」3試合440球の“異常な酷使”
2戦連続で負け投手となった島袋のリーグ戦初勝利は、5戦目の亜細亜大戦。相手は対戦を熱望していた東浜だった。試合は白熱した投手戦となり、1対0で島袋に軍配が上がる。9回を投げて被安打5、12奪三振の完封。最終的に大学1年春のリーグ戦は5試合を投げて1勝3敗、投球回数36回1/3、防御率0.99の成績で新人王を受賞する。甲子園のスターはしっかりと期待に応えて、色褪せない輝きを見せた。
「2年の春までは、確かに調子は良かったんです」
島袋は当時の記憶を掘り起こし、そう呟いた。この大学2年の春季リ―グが、島袋の野球人生のターニングポイントと見る向きも多い。
大学1年の秋季リーグ終了後、中央大野球部は高橋善正(元巨人)が監督を退き、秋田秀幸(元中日)が新監督に就任した。
2012年、秋田監督の初陣となる春のリーグ戦で島袋は2年連続開幕投手に選ばれ、強烈なインパクトを残す。東洋大を相手に延長15回をひとりで投げ抜き、チームを3対2のサヨナラ勝ちに導いた。だが、要した球数は226球、奪三振数は21。言うまでもなく、ひとりの投手が1試合で投げる球数ではない。
「センバツ決勝の日大三高戦で198球を投げたことはありますけど、200球超えは初めてでしたね。あくまでも自分の意思で投げました。次の試合も、その次の日大戦も重要でしたし、調子が良かったので投げました。でも、ここで肘がぶっ飛びました」
中1日で先発し、7回92球1失点で勝利。さらに中6日で日大戦にも先発し、8回122球、4失点で3連勝。だが、ここで島袋の肘は悲鳴をあげた。
左肘内側側副靭帯に血腫ができており、すぐにドクターストップがかかった。全治約5カ月。その間はノースロー調整を強いられ、ブルペンに入ったのは怪我から4カ月後の8月下旬である。
島袋は開幕から10日間の3試合で30イニング、計440球を投げたことになる。これは現代野球ではありえない数字だ。当然ながら、「秋田監督の酷使によって島袋は壊れた」と考える野球ファンは多い。
監督の証言「でも、目が死んでいなかったので…」
以前、秋田監督にこの起用法について訊いたことがあった。
「監督になって初めての試合ですから、よく覚えています。4月1日で寒い日でした。途中、ピッチャーライナーが島袋の脚に当たったのでマウンドに向かったんです。交代させようと思ったんですが、島袋は『大丈夫です』と言う。実際、いいピッチャーがいたら代えてますよ。でも、目が死んでいなかったのでそのまま続投させました。4年の鍵谷(陽平、元巨人)もいましたけど、やっぱり大黒柱は島袋なんです。監督をやって最初の試合が延長15回の試合でしょ。野球で勝つのってこんなに苦しいことなのか、とあらためて思いました。その後の登板も『絶対に行け』とは言わなかったし、『どうだ? 大丈夫か? 』と聞きましたが……」
プロならばいざ知らず、高校野球や大学野球で「大丈夫か?」と監督に聞かれて「無理です」と答える選手はほとんどいないだろう。だからこそ、決定権を持つ指導者には、選手のコンディションを管理し、適切な判断を下す責務がある。どんな理由があったとしても、やはりこの起用法を肯定するのは難しい。
この2年春のリーグ戦での投げすぎで島袋が故障したのは確かである。しかし実際には、大学3年の秋に“さらなる異変”が起こっていた。
大暴投を繰り返し…大学3年秋の“致命的な異変”
肘の怪我から回復した大学3年の春は、2完封を含む2勝3敗、防御率1.94。打線が弱かったチーム事情を考えると十分な成績だ。
秋のリーグ戦は、開幕3試合で1勝2敗、防御率1.00。これも悪くない成績だろう。そして迎えた青学大との一戦。先発の島袋はマウンドで丹念に投球練習をする。プレイボールがかかった初球だった。
「ガシャン!」バックネットにボールが突き刺さる音が神宮球場に鳴り響いた。
球場にいた誰もが、単にボールがすっぽ抜けただけ、と思ったはずだ。しかし、次の球もバックネットへの暴投。球場内が次第にざわつき始めた。
コントロールに定評がある島袋が初回から乱れ、そればかりかバックネットやバッターの背中方面への大暴投を繰り返す。審判の「ボール」という乾いた声だけが響く。4失点で初回KO。島袋の野球人生において、初めてのことだった。
「もうダメだと…この試合で終わりました」
その後の國學院大戦でも、初回1死一、三塁の場面で暴投により先制点を献上する。その後、四球で一、三塁となったところで再び暴投で追加点。1回1/3を投げて3失点、またもや降板となった。
「青学大戦ではバックネットに投げまくりました。次の駒澤大戦でも何球か暴投したんですが、8回まで投げ切りました。でも、次の國學院大戦で大暴投を連発して、完全に終わった感じです。この時、マウンドから“ストレートが投げられない”というサインをキャッチャーの東(隆志)に出していたんです。でも“来い来い”とジェスチャーするので、仕方なく真っ直ぐを投げました。東も届かないほどボールが大きく上に逸れたときに、もうダメだと思いました。それまでも投げる時には気持ち悪さがあったんですが、この試合で終わりました」
島袋の口から二度、「終わった」という言葉が発せられた。この時、彼はどれほどの絶望を味わったのだろうか。肘の故障から復活を遂げたのも束の間、このときから島袋は決して霧が晴れない苦難の道に迷い込んでしまった。
高校時代の恩師・我喜屋優は、神宮球場で大学時代の島袋を見て口惜しさを感じたという。
「何かどっか引っかかってスムーズじゃない。リリースポイントもバラバラ、下半身と上半身の連動性も一定していなくて、終始ぎこちない。なんでこんなフォームになっちゃったの、って感じだったんです。調子が悪くなると、あのトルネード投法は指導者がいじりたくなる投げ方なんですよ。ちょっと走られただけで『お前、盗まれてるぞ』とかね。だから本来持っている大事なものまで失っちゃうわけですよ。下半身をいじったために、彼だけが持っている感覚が崩されてしまった。持っている力と可動域と柔軟性が合わさって、瞬間的にパワーが伝わって、ようやく糸を引くようなストレートが投げられるのに……」
大学3年の秋から、島袋は無敵の“琉球トルネード”島袋洋奨ではなくなった。得体の知れない影が絡みついているかのように、腕が縮こまって上手く投げられず大暴投を繰り返す。認めたくはないが、何かが壊れてしまっていた。それは紛れもなく、イップスの症状だった。
<続く>
📝プロ2試合で戦力外通告…“消えた天才”島袋洋奨32歳の告白「真っ直ぐに頼りすぎた」「“たられば”はない」恩師の証言「消耗は宮城大弥の倍以上」
https://news.yahoo.co.jp/articles/4ee3c1a5c3e3bc1e93e5e0d03bc5a3880ef53cf9
“後輩”宮城大弥への本音「こんなに凄い選手に…」
「(宮城)大弥は本当、凄いと思います」島袋洋奨は、珍しく少し目を丸くしながらそう話した。現在、島袋は母校の興南高校に職員として勤務し、野球部の副部長兼コーチを務めている。選手たちを指導しているせいか身体は引き締まり、現役さながらの筋肉の鎧を纏っている。
「年齢的にもだいぶ下なので、いちファンとして見ている感じですね。自分とはタイプが違うので単純比較はできないですが、まずどんな球でも緩急差をつけてカウントが取れるし、あれだけのスピードも投げられる。正直、高校生だった彼が甲子園で投げているのを見たときは、こんなに凄い選手になるとは思ってなかった。当時は、ですよ。だけど、予想のはるか上をいきましたね。本人の努力の賜物だと思います」
島袋と宮城は9歳の年齢差があるものの、ともに興南高校出身で同じ左投げ、現代の投手としては小柄な背格好もよく似ている。高校時代の実績では春夏連覇を成し遂げた島袋が上回っていたが、プロでの成績は宮城が圧倒している。プロ2年目の2021年に13勝を挙げると、そこから3年連続で二桁勝利を達成。今シーズンは規定投球回に到達できず、7勝止まりだったものの、防御率は1.91。名実ともにオリックスのエースと言っていい。
一方の島袋は、2014年のドラフト会議でソフトバンクに5位指名を受け入団するも、一軍での登板はルーキーイヤーの2試合のみ。宮城と入れ替わるように、2019年に戦力外通告を受けた。
なぜ興南高校が誇るふたつの才能は、これほど両極端な結果に分かれてしまったのか。
「引退まで不安は消えなかった」プロ入り後の苦悩
大学2年春までの島袋であれば、もっと上位で指名されていただろう。世代のリーディングプレーヤーとして、今も現役で活躍していてもおかしくなかった。
しかし、酷使による肘の故障に加えて、大学3年秋にはイップスに陥り、まともに投げられなくなってしまった。それでも腐らず、メンタルトレーニングや自主練を黙々と続けた。
4年生となった最後の秋のリーグ戦では、優勝争いを繰り広げていた駒澤大との大一番に先発。相手エースの今永昇太(現カブス)のベストピッチもあり1対3で敗れたものの、早いイニングでの降板を繰り返していたなかで、初回の2者連続ホームランによる3失点のみで 6回を投げきった。
大学通算成績は12勝20敗、登板回数247.2、奪三振225、四死球103、防御率2.73。変調に苦しみながらも中央大のエースとしての責任を果たし、プロ入りを果たした。
「プロになって心機一転、という気持ちにはなれませんでしたね。三軍からのスタートでしたし、コントロールの悪さは変わらなかったです。一度投げることに不安を持ってしまったせいで、引退するまで不安は消えなかったです」
ピッチングへの不安は拭えず、脳なのか身体なのか、原因がわからないまま“何か”に蝕まれている感覚が延々と続いた。実体がなく、それゆえに解決しようのないものに侵され、苦しめられた。
「今思うと、スライダーをもっと投げておけばよかったかもしれません。大学時代は正直スライダーの手応えがなかったので、ほぼ投げなくなりました。結果的に組み立ての幅を凄く狭めてしまっていた。球種はストレート、チェンジアップ、ツーシーム系だけでした。相手からすると、少ない選択肢で待てます。もっと高校の時に手応えを掴めるぐらい、スライダーを練習しておけばよかった。やっぱり高校時代は一番自信がある真っ直ぐに頼りすぎていたところがあるので」
島袋はどこか達観した口調で続ける。「プロで技術的に伸びたところは皆無です。ただ、野球に対しての取り組み方だったり、身体に対してのアプローチだったりと、自分がやっていることに対して明確な考えを持って行動するようになりました。自分のチェックポイントを理解しておけば、どこか不調になってもすぐにトレーニングの取捨選択ができる。僕はそれを感覚でやっていた部分があったので、凄く苦労しました。だから自分が指導する選手たちには『この動きに繋がってるからこれを取り入れてるんだよ』と細かく説明するようにしています」
恩師・我喜屋優の証言「消耗は宮城の倍以上」
大学とプロでは思うような成績を残せなかった島袋だが、野球への取り組み方やトレーニングへの理解度がピークを迎えたのはプロ時代だと語る。トルネードという変則モーションゆえに微妙なズレが全体に影響を及ぼしてしまった可能性について尋ねると、「今思うとそうかもしれない。当時はそういう感覚はなかったですけど」と、当事者というよりも指導者の目線で冷静に分析した。
ダルビッシュ有や田中将大を育てた名伯楽として名高く、ソフトバンクでピッチングコーチとして島袋を見ていた佐藤義則にも訊いてみた。
「ブルペンで投げると、いい球がアウトコースにバチっとくる。でもバッターが立つと、どうにもこうにもならん。コントロールを矯正するため、プレートに対して左足が斜めに入っていたのをプレートにピタっと揃えるようにしたがダメだった。技術云々より、心の部分が……」
興南高校時代の監督でもある我喜屋優は、島袋と宮城の違いについて解説してくれた。
「背の高さは同じぐらいで、ただ宮城のほうがちょっと体重があるのかな。島袋はトルネードのフォームからイチ・ニ・サンで投げ下ろす感じ。宮城は相手のタイミングを崩し、いわゆる“綺麗なフォーム”でバッターに振らせないタイプ。島袋の場合は、球は速いけど意外と長打も打たれるピッチャーで、どっちかと言えばごく普通の選手が努力によってあそこまで行った。春夏の甲子園がちょっと目一杯だったかな、という感じはします。宮城は高校野球でほとんど消耗せずに余力を残して、高卒でプロへ行った。この差があるんですよ」
島袋は春夏連覇の甲子園で合計1472球投げており、高校1年の夏と2年の夏しか甲子園に出ていない宮城の「倍以上は消耗している」と我喜屋は語る。高校野球の3年間の疲れを取らないまま、中央大で1年春から主戦投手となってしまったことも災いしたという。
「せめて1年間ぐらいは回復期間が欲しかった。それもできず、おまけにあの変則モーションだから、コーチによって何やかんやと直されがちな選手。対して宮城はそんなに消耗していないし、あとは筋力とスタミナつければもうあのままいってもよし。その違いが、あの2人にはあるのかなと」
それでも「後悔はない」と断言する理由
高校、そして大学での疲労と消耗。この点について島袋に尋ねると、少し苦笑した後、躊躇なく答えた。
「疲労に関しては『全然』と言っていいほどなかったです。ただ指導者目線で言えば、芯からの“勤続疲労”はあったのかもしれませんね」
くどいようだが、島袋は高卒でのプロ入りを本当に考えていなかったのだろうか。そして、大学に進んだことを後悔していないのか。どうしても確信が持てず、失礼を承知で再び尋ねると、島袋は一つひとつの言葉を噛み締めながら言い切った。
「高卒でのプロ入りはまったく考えなかったですし、僕の中では“たられば”もありません。大学は後悔どころか、心の底から行ってよかったと思っていますよ。野球部以外の仲間もたくさんできましたからね」
もの静かな島袋の口ぶりが、この時ばかりは強い意志と厳粛さを帯びていた。どんな結末を迎えたとしても、自分の選択に言い訳はしない。甲子園のマウンドに君臨した“琉球トルネード”の糸を引く直球に負けず劣らず、どこまでも実直な人間性を垣間見た気がした。
🔥「野球部マネジャーになるためだけに東大に来た」智弁和歌山出身 東大野球部史上初の女性主務が抱く熱きチーム愛とは
https://news.yahoo.co.jp/articles/61ee13507068adbc5564932a4d0210881b7d1483
1919年(大正8年)創部の東大野球部で、史上初の女性主務(筆頭マネジャー)が誕生した。高校野球の強豪としても知られる智弁和歌山出身の奥畑ひかりさん(3年)だ。クイズ研究部に所属した高校1年夏は和歌山代表として「全国高校クイズ選手権」にも出場した経歴の持ち主。ほとばしる「東大野球部愛」について聞いた。
東大野球部史上初の女性主務に就任した奥畑さん。その経緯はどういうものだったのか。
「東大野球部は伝統的に、学生が主将も副将も主務も決めるっていう形式をとっているんです。私の代は最初、男子マネジャーが同級生にいなくて、入学間もない頃から『女子が主務になるか、従来通り選手から主務を出すか選ぶように』と言われていました。学年ミーティングを重ねる中、私としては主務になりたいという気持ちと、選手を1人減らすよりは…という気持ちで立候補しました」
東大野球部関係者は「奥畑さんほど東大野球部を愛している人はいない」と口をそろえる。本人も否定することなく、こう言い切る。
「野球部のマネジャーになるためだけに、東大に来たというのはあります」
和歌山市内の出身。阪神ファンの父の影響で野球が好きになった。2歳だった2005年、岡田阪神のリーグ優勝を喜ぶ写真が実家に残されている。中でも鳥谷敬選手の大ファン。中学受験で中高一貫校の智弁和歌山に進学した。志望理由は明確だった。
「野球が強かったので。一応、県内では一番進学校だったというのもあって…でもやっぱり、野球応援がしたいっていうのはありました」
中学はテニス部に入部。理由の一つは練習場所から、高校の野球部のグラウンドがよく見えるからだった。名将・高嶋仁監督(当時)が仁王立ちして熱血指導している風景をチラ見しながら、ラケットを振った。智弁和歌山の野球部は女子マネを募集しておらず、高校進学後はクイズ研究部に入部。すると1年生女子3名で出場した「高等学校クイズ選手権和歌山大会」で優勝。花の都・東京での全国大会に歩を進めた。
「東京への憧れはそこで生まれました。全国大会では本当に何も答えられなくて。1回戦敗退です。『全国にはすごく頭のいい人がいるんだな』って」
中3だった2018年、報道で東京六大学野球史上初の女性主務を務めた慶大・小林由佳さんの存在を知った。東京六大学への進学を夢見るようになった。東大に照準を絞ったのは高2の2月だ。猛勉強が始まった。
「起きてる時はずっと勉強してました。3年の春にはセンバツ出場を逃しまして、その反動でめちゃくちゃ勉強しました。逆に夏は全国制覇しちゃったんで、やっぱり見たくて、ちょっとサボっちゃった感じです。先生には申し訳ないことをしたんですが、夏の和歌山大会は補習サボって応援に行ってました(笑)」
神宮を夢見て必死に机に向かい、文科3類に現役合格した。即、入部を申し込んだ。
「合格発表が3月10日の12時だったんですが、12時台には電話しました。当時の先輩に『一番だったよ』って言われましたね」
野球部を支える様々な業務に従事する。その一つが全国各地の進学校で東大志望の選手たちに受験を呼びかける、スカウティング活動だ。
「現状、部員は約7割が関東出身者なんです。多様な人材がいる方が強くなると思っているので、地方の進学校に声を掛けています。野球部の監督さんにお電話させていただき、『お邪魔させていただいてもよいですか』と。ある程度野球も上手くて、学業も頑張れる高校生に声を掛けさせていただいています。自分が受験を勧めた選手が入部してくれるのは、これ以上ない喜びですね」
2025年は東京六大学野球連盟創設100年のメモリアルイヤー。チームは「逆襲」をスローガンに戦いに臨む。奥畑さんは瞳を輝かせ、力を込めた。
「東大野球部は秋に7年ぶりの2勝を挙げました。私は大好きなこのチームを信じているので、絶対に8年ぶりの『勝ち点1』を達成してくれると思っています。自分の同級生にはベストナイン経験者が3人いますし。主将と副将2人の幹部3人は全員がリーグ戦でホームランを打った経験があります。やっぱり東大が強いと六大学が盛り上がると思うので、100周年を盛り上げられるように、他大学に逆襲していける年にしたいです」
https://news.yahoo.co.jp/articles/2f2dad057d02decbaf29d43ce452eb0b79f21476
「投げることに対して、徐々に恐怖心や抵抗感が…」
いったい、進学先の中央大学で何があったのか。大学3年の秋以降、島袋洋奨は“別人”になってしまった。少なくとも、高校時代の面影は完全に消え失せていた。
「とにかく東浜(巨/ソフトバンク)さんと投げ合いたかったですね」
大学進学の理由について尋ねると、島袋は間髪入れずにこう答えた。彼の性格上、会話の流れのなかで適当に言ったわけではないだろう。
「センバツが終わった後に我喜屋(優)先生と相談して大学進学を決めた以上、プロ入りは微塵も考えていませんでした。何度聞かれても、高卒でのプロ入りはないです。当時、亜細亜大学で投げていた東浜さんのいる東都でやりたいと思っていました」
2学年上で2008年のセンバツ優勝投手・東浜巨とは高校1年夏の準決勝で投げ合っている。1対3で敗れはしたものの、「末恐ろしい1年生ピッチャーが出てきた」と県内の高校野球関係者は舌を巻いた。それでも、島袋にとって東浜は憧れの存在だった。
「東浜さんは亜細亜大に行っていきなり連続完封をやってのけたんです。『やっぱすげえ。同じリーグでやりたい』という願望が湧いたのを覚えています」
甲子園春夏連覇のエースとして抜群の注目度を誇った島袋は、中央大入学後の春季リーグ開幕戦で、48年ぶりに新人開幕投手に選ばれる。
「開幕第1戦と第3戦の駒澤大戦に先発で投げさせてもらったんですけど、めちゃくちゃ走られたんですよ。やっぱりこのレベルだと自分のセットの技術じゃ走られてしまう、フォームを変えないといけないな、と。その辺も含めて、少しずつズレていったんだと思います。身体の使い方を理解できていなかったから、戻り方がわからなくなり……。そこから投げることに対して少し、いや、少しじゃないな。徐々に恐怖心や抵抗感が生まれてきました」
この2試合で計8個の盗塁を許し、フォームを調整したことがほころびの始まりだったと本人は述懐する。だが、その後は“ゴールデンルーキー”の実力をしっかりと見せつけた。
「ヒジがぶっ飛びました」3試合440球の“異常な酷使”
2戦連続で負け投手となった島袋のリーグ戦初勝利は、5戦目の亜細亜大戦。相手は対戦を熱望していた東浜だった。試合は白熱した投手戦となり、1対0で島袋に軍配が上がる。9回を投げて被安打5、12奪三振の完封。最終的に大学1年春のリーグ戦は5試合を投げて1勝3敗、投球回数36回1/3、防御率0.99の成績で新人王を受賞する。甲子園のスターはしっかりと期待に応えて、色褪せない輝きを見せた。
「2年の春までは、確かに調子は良かったんです」
島袋は当時の記憶を掘り起こし、そう呟いた。この大学2年の春季リ―グが、島袋の野球人生のターニングポイントと見る向きも多い。
大学1年の秋季リーグ終了後、中央大野球部は高橋善正(元巨人)が監督を退き、秋田秀幸(元中日)が新監督に就任した。
2012年、秋田監督の初陣となる春のリーグ戦で島袋は2年連続開幕投手に選ばれ、強烈なインパクトを残す。東洋大を相手に延長15回をひとりで投げ抜き、チームを3対2のサヨナラ勝ちに導いた。だが、要した球数は226球、奪三振数は21。言うまでもなく、ひとりの投手が1試合で投げる球数ではない。
「センバツ決勝の日大三高戦で198球を投げたことはありますけど、200球超えは初めてでしたね。あくまでも自分の意思で投げました。次の試合も、その次の日大戦も重要でしたし、調子が良かったので投げました。でも、ここで肘がぶっ飛びました」
中1日で先発し、7回92球1失点で勝利。さらに中6日で日大戦にも先発し、8回122球、4失点で3連勝。だが、ここで島袋の肘は悲鳴をあげた。
左肘内側側副靭帯に血腫ができており、すぐにドクターストップがかかった。全治約5カ月。その間はノースロー調整を強いられ、ブルペンに入ったのは怪我から4カ月後の8月下旬である。
島袋は開幕から10日間の3試合で30イニング、計440球を投げたことになる。これは現代野球ではありえない数字だ。当然ながら、「秋田監督の酷使によって島袋は壊れた」と考える野球ファンは多い。
監督の証言「でも、目が死んでいなかったので…」
以前、秋田監督にこの起用法について訊いたことがあった。
「監督になって初めての試合ですから、よく覚えています。4月1日で寒い日でした。途中、ピッチャーライナーが島袋の脚に当たったのでマウンドに向かったんです。交代させようと思ったんですが、島袋は『大丈夫です』と言う。実際、いいピッチャーがいたら代えてますよ。でも、目が死んでいなかったのでそのまま続投させました。4年の鍵谷(陽平、元巨人)もいましたけど、やっぱり大黒柱は島袋なんです。監督をやって最初の試合が延長15回の試合でしょ。野球で勝つのってこんなに苦しいことなのか、とあらためて思いました。その後の登板も『絶対に行け』とは言わなかったし、『どうだ? 大丈夫か? 』と聞きましたが……」
プロならばいざ知らず、高校野球や大学野球で「大丈夫か?」と監督に聞かれて「無理です」と答える選手はほとんどいないだろう。だからこそ、決定権を持つ指導者には、選手のコンディションを管理し、適切な判断を下す責務がある。どんな理由があったとしても、やはりこの起用法を肯定するのは難しい。
この2年春のリーグ戦での投げすぎで島袋が故障したのは確かである。しかし実際には、大学3年の秋に“さらなる異変”が起こっていた。
大暴投を繰り返し…大学3年秋の“致命的な異変”
肘の怪我から回復した大学3年の春は、2完封を含む2勝3敗、防御率1.94。打線が弱かったチーム事情を考えると十分な成績だ。
秋のリーグ戦は、開幕3試合で1勝2敗、防御率1.00。これも悪くない成績だろう。そして迎えた青学大との一戦。先発の島袋はマウンドで丹念に投球練習をする。プレイボールがかかった初球だった。
「ガシャン!」バックネットにボールが突き刺さる音が神宮球場に鳴り響いた。
球場にいた誰もが、単にボールがすっぽ抜けただけ、と思ったはずだ。しかし、次の球もバックネットへの暴投。球場内が次第にざわつき始めた。
コントロールに定評がある島袋が初回から乱れ、そればかりかバックネットやバッターの背中方面への大暴投を繰り返す。審判の「ボール」という乾いた声だけが響く。4失点で初回KO。島袋の野球人生において、初めてのことだった。
「もうダメだと…この試合で終わりました」
その後の國學院大戦でも、初回1死一、三塁の場面で暴投により先制点を献上する。その後、四球で一、三塁となったところで再び暴投で追加点。1回1/3を投げて3失点、またもや降板となった。
「青学大戦ではバックネットに投げまくりました。次の駒澤大戦でも何球か暴投したんですが、8回まで投げ切りました。でも、次の國學院大戦で大暴投を連発して、完全に終わった感じです。この時、マウンドから“ストレートが投げられない”というサインをキャッチャーの東(隆志)に出していたんです。でも“来い来い”とジェスチャーするので、仕方なく真っ直ぐを投げました。東も届かないほどボールが大きく上に逸れたときに、もうダメだと思いました。それまでも投げる時には気持ち悪さがあったんですが、この試合で終わりました」
島袋の口から二度、「終わった」という言葉が発せられた。この時、彼はどれほどの絶望を味わったのだろうか。肘の故障から復活を遂げたのも束の間、このときから島袋は決して霧が晴れない苦難の道に迷い込んでしまった。
高校時代の恩師・我喜屋優は、神宮球場で大学時代の島袋を見て口惜しさを感じたという。
「何かどっか引っかかってスムーズじゃない。リリースポイントもバラバラ、下半身と上半身の連動性も一定していなくて、終始ぎこちない。なんでこんなフォームになっちゃったの、って感じだったんです。調子が悪くなると、あのトルネード投法は指導者がいじりたくなる投げ方なんですよ。ちょっと走られただけで『お前、盗まれてるぞ』とかね。だから本来持っている大事なものまで失っちゃうわけですよ。下半身をいじったために、彼だけが持っている感覚が崩されてしまった。持っている力と可動域と柔軟性が合わさって、瞬間的にパワーが伝わって、ようやく糸を引くようなストレートが投げられるのに……」
大学3年の秋から、島袋は無敵の“琉球トルネード”島袋洋奨ではなくなった。得体の知れない影が絡みついているかのように、腕が縮こまって上手く投げられず大暴投を繰り返す。認めたくはないが、何かが壊れてしまっていた。それは紛れもなく、イップスの症状だった。
<続く>
📝プロ2試合で戦力外通告…“消えた天才”島袋洋奨32歳の告白「真っ直ぐに頼りすぎた」「“たられば”はない」恩師の証言「消耗は宮城大弥の倍以上」
https://news.yahoo.co.jp/articles/4ee3c1a5c3e3bc1e93e5e0d03bc5a3880ef53cf9
“後輩”宮城大弥への本音「こんなに凄い選手に…」
「(宮城)大弥は本当、凄いと思います」島袋洋奨は、珍しく少し目を丸くしながらそう話した。現在、島袋は母校の興南高校に職員として勤務し、野球部の副部長兼コーチを務めている。選手たちを指導しているせいか身体は引き締まり、現役さながらの筋肉の鎧を纏っている。
「年齢的にもだいぶ下なので、いちファンとして見ている感じですね。自分とはタイプが違うので単純比較はできないですが、まずどんな球でも緩急差をつけてカウントが取れるし、あれだけのスピードも投げられる。正直、高校生だった彼が甲子園で投げているのを見たときは、こんなに凄い選手になるとは思ってなかった。当時は、ですよ。だけど、予想のはるか上をいきましたね。本人の努力の賜物だと思います」
島袋と宮城は9歳の年齢差があるものの、ともに興南高校出身で同じ左投げ、現代の投手としては小柄な背格好もよく似ている。高校時代の実績では春夏連覇を成し遂げた島袋が上回っていたが、プロでの成績は宮城が圧倒している。プロ2年目の2021年に13勝を挙げると、そこから3年連続で二桁勝利を達成。今シーズンは規定投球回に到達できず、7勝止まりだったものの、防御率は1.91。名実ともにオリックスのエースと言っていい。
一方の島袋は、2014年のドラフト会議でソフトバンクに5位指名を受け入団するも、一軍での登板はルーキーイヤーの2試合のみ。宮城と入れ替わるように、2019年に戦力外通告を受けた。
なぜ興南高校が誇るふたつの才能は、これほど両極端な結果に分かれてしまったのか。
「引退まで不安は消えなかった」プロ入り後の苦悩
大学2年春までの島袋であれば、もっと上位で指名されていただろう。世代のリーディングプレーヤーとして、今も現役で活躍していてもおかしくなかった。
しかし、酷使による肘の故障に加えて、大学3年秋にはイップスに陥り、まともに投げられなくなってしまった。それでも腐らず、メンタルトレーニングや自主練を黙々と続けた。
4年生となった最後の秋のリーグ戦では、優勝争いを繰り広げていた駒澤大との大一番に先発。相手エースの今永昇太(現カブス)のベストピッチもあり1対3で敗れたものの、早いイニングでの降板を繰り返していたなかで、初回の2者連続ホームランによる3失点のみで 6回を投げきった。
大学通算成績は12勝20敗、登板回数247.2、奪三振225、四死球103、防御率2.73。変調に苦しみながらも中央大のエースとしての責任を果たし、プロ入りを果たした。
「プロになって心機一転、という気持ちにはなれませんでしたね。三軍からのスタートでしたし、コントロールの悪さは変わらなかったです。一度投げることに不安を持ってしまったせいで、引退するまで不安は消えなかったです」
ピッチングへの不安は拭えず、脳なのか身体なのか、原因がわからないまま“何か”に蝕まれている感覚が延々と続いた。実体がなく、それゆえに解決しようのないものに侵され、苦しめられた。
「今思うと、スライダーをもっと投げておけばよかったかもしれません。大学時代は正直スライダーの手応えがなかったので、ほぼ投げなくなりました。結果的に組み立ての幅を凄く狭めてしまっていた。球種はストレート、チェンジアップ、ツーシーム系だけでした。相手からすると、少ない選択肢で待てます。もっと高校の時に手応えを掴めるぐらい、スライダーを練習しておけばよかった。やっぱり高校時代は一番自信がある真っ直ぐに頼りすぎていたところがあるので」
島袋はどこか達観した口調で続ける。「プロで技術的に伸びたところは皆無です。ただ、野球に対しての取り組み方だったり、身体に対してのアプローチだったりと、自分がやっていることに対して明確な考えを持って行動するようになりました。自分のチェックポイントを理解しておけば、どこか不調になってもすぐにトレーニングの取捨選択ができる。僕はそれを感覚でやっていた部分があったので、凄く苦労しました。だから自分が指導する選手たちには『この動きに繋がってるからこれを取り入れてるんだよ』と細かく説明するようにしています」
恩師・我喜屋優の証言「消耗は宮城の倍以上」
大学とプロでは思うような成績を残せなかった島袋だが、野球への取り組み方やトレーニングへの理解度がピークを迎えたのはプロ時代だと語る。トルネードという変則モーションゆえに微妙なズレが全体に影響を及ぼしてしまった可能性について尋ねると、「今思うとそうかもしれない。当時はそういう感覚はなかったですけど」と、当事者というよりも指導者の目線で冷静に分析した。
ダルビッシュ有や田中将大を育てた名伯楽として名高く、ソフトバンクでピッチングコーチとして島袋を見ていた佐藤義則にも訊いてみた。
「ブルペンで投げると、いい球がアウトコースにバチっとくる。でもバッターが立つと、どうにもこうにもならん。コントロールを矯正するため、プレートに対して左足が斜めに入っていたのをプレートにピタっと揃えるようにしたがダメだった。技術云々より、心の部分が……」
興南高校時代の監督でもある我喜屋優は、島袋と宮城の違いについて解説してくれた。
「背の高さは同じぐらいで、ただ宮城のほうがちょっと体重があるのかな。島袋はトルネードのフォームからイチ・ニ・サンで投げ下ろす感じ。宮城は相手のタイミングを崩し、いわゆる“綺麗なフォーム”でバッターに振らせないタイプ。島袋の場合は、球は速いけど意外と長打も打たれるピッチャーで、どっちかと言えばごく普通の選手が努力によってあそこまで行った。春夏の甲子園がちょっと目一杯だったかな、という感じはします。宮城は高校野球でほとんど消耗せずに余力を残して、高卒でプロへ行った。この差があるんですよ」
島袋は春夏連覇の甲子園で合計1472球投げており、高校1年の夏と2年の夏しか甲子園に出ていない宮城の「倍以上は消耗している」と我喜屋は語る。高校野球の3年間の疲れを取らないまま、中央大で1年春から主戦投手となってしまったことも災いしたという。
「せめて1年間ぐらいは回復期間が欲しかった。それもできず、おまけにあの変則モーションだから、コーチによって何やかんやと直されがちな選手。対して宮城はそんなに消耗していないし、あとは筋力とスタミナつければもうあのままいってもよし。その違いが、あの2人にはあるのかなと」
それでも「後悔はない」と断言する理由
高校、そして大学での疲労と消耗。この点について島袋に尋ねると、少し苦笑した後、躊躇なく答えた。
「疲労に関しては『全然』と言っていいほどなかったです。ただ指導者目線で言えば、芯からの“勤続疲労”はあったのかもしれませんね」
くどいようだが、島袋は高卒でのプロ入りを本当に考えていなかったのだろうか。そして、大学に進んだことを後悔していないのか。どうしても確信が持てず、失礼を承知で再び尋ねると、島袋は一つひとつの言葉を噛み締めながら言い切った。
「高卒でのプロ入りはまったく考えなかったですし、僕の中では“たられば”もありません。大学は後悔どころか、心の底から行ってよかったと思っていますよ。野球部以外の仲間もたくさんできましたからね」
もの静かな島袋の口ぶりが、この時ばかりは強い意志と厳粛さを帯びていた。どんな結末を迎えたとしても、自分の選択に言い訳はしない。甲子園のマウンドに君臨した“琉球トルネード”の糸を引く直球に負けず劣らず、どこまでも実直な人間性を垣間見た気がした。
🔥「野球部マネジャーになるためだけに東大に来た」智弁和歌山出身 東大野球部史上初の女性主務が抱く熱きチーム愛とは
https://news.yahoo.co.jp/articles/61ee13507068adbc5564932a4d0210881b7d1483
1919年(大正8年)創部の東大野球部で、史上初の女性主務(筆頭マネジャー)が誕生した。高校野球の強豪としても知られる智弁和歌山出身の奥畑ひかりさん(3年)だ。クイズ研究部に所属した高校1年夏は和歌山代表として「全国高校クイズ選手権」にも出場した経歴の持ち主。ほとばしる「東大野球部愛」について聞いた。
東大野球部史上初の女性主務に就任した奥畑さん。その経緯はどういうものだったのか。
「東大野球部は伝統的に、学生が主将も副将も主務も決めるっていう形式をとっているんです。私の代は最初、男子マネジャーが同級生にいなくて、入学間もない頃から『女子が主務になるか、従来通り選手から主務を出すか選ぶように』と言われていました。学年ミーティングを重ねる中、私としては主務になりたいという気持ちと、選手を1人減らすよりは…という気持ちで立候補しました」
東大野球部関係者は「奥畑さんほど東大野球部を愛している人はいない」と口をそろえる。本人も否定することなく、こう言い切る。
「野球部のマネジャーになるためだけに、東大に来たというのはあります」
和歌山市内の出身。阪神ファンの父の影響で野球が好きになった。2歳だった2005年、岡田阪神のリーグ優勝を喜ぶ写真が実家に残されている。中でも鳥谷敬選手の大ファン。中学受験で中高一貫校の智弁和歌山に進学した。志望理由は明確だった。
「野球が強かったので。一応、県内では一番進学校だったというのもあって…でもやっぱり、野球応援がしたいっていうのはありました」
中学はテニス部に入部。理由の一つは練習場所から、高校の野球部のグラウンドがよく見えるからだった。名将・高嶋仁監督(当時)が仁王立ちして熱血指導している風景をチラ見しながら、ラケットを振った。智弁和歌山の野球部は女子マネを募集しておらず、高校進学後はクイズ研究部に入部。すると1年生女子3名で出場した「高等学校クイズ選手権和歌山大会」で優勝。花の都・東京での全国大会に歩を進めた。
「東京への憧れはそこで生まれました。全国大会では本当に何も答えられなくて。1回戦敗退です。『全国にはすごく頭のいい人がいるんだな』って」
中3だった2018年、報道で東京六大学野球史上初の女性主務を務めた慶大・小林由佳さんの存在を知った。東京六大学への進学を夢見るようになった。東大に照準を絞ったのは高2の2月だ。猛勉強が始まった。
「起きてる時はずっと勉強してました。3年の春にはセンバツ出場を逃しまして、その反動でめちゃくちゃ勉強しました。逆に夏は全国制覇しちゃったんで、やっぱり見たくて、ちょっとサボっちゃった感じです。先生には申し訳ないことをしたんですが、夏の和歌山大会は補習サボって応援に行ってました(笑)」
神宮を夢見て必死に机に向かい、文科3類に現役合格した。即、入部を申し込んだ。
「合格発表が3月10日の12時だったんですが、12時台には電話しました。当時の先輩に『一番だったよ』って言われましたね」
野球部を支える様々な業務に従事する。その一つが全国各地の進学校で東大志望の選手たちに受験を呼びかける、スカウティング活動だ。
「現状、部員は約7割が関東出身者なんです。多様な人材がいる方が強くなると思っているので、地方の進学校に声を掛けています。野球部の監督さんにお電話させていただき、『お邪魔させていただいてもよいですか』と。ある程度野球も上手くて、学業も頑張れる高校生に声を掛けさせていただいています。自分が受験を勧めた選手が入部してくれるのは、これ以上ない喜びですね」
2025年は東京六大学野球連盟創設100年のメモリアルイヤー。チームは「逆襲」をスローガンに戦いに臨む。奥畑さんは瞳を輝かせ、力を込めた。
「東大野球部は秋に7年ぶりの2勝を挙げました。私は大好きなこのチームを信じているので、絶対に8年ぶりの『勝ち点1』を達成してくれると思っています。自分の同級生にはベストナイン経験者が3人いますし。主将と副将2人の幹部3人は全員がリーグ戦でホームランを打った経験があります。やっぱり東大が強いと六大学が盛り上がると思うので、100周年を盛り上げられるように、他大学に逆襲していける年にしたいです」