自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」
第1話 雨中の激闘3時間!!! 波乱の幕開け・・・近鉄週末フリーきっぷで行く宿泊観戦ツアー
5/24 春季東海大会 初日開幕試合 津市営球場 津田学園(三重①)-中京(岐阜②) 10:03~13:03
一二三四五六七八九十計HE
津田学園010000024 7132 鈴木、丹羽、桑山-犬飼
中 京003010000 491 鈴木、西岡-古久保
2025年の近畿大会は春秋ともに奈良・さとやくスタジアムでの開催となる。橿原は紀三井寺の次にお気に入りの場所なんでありがたいところだが、2025年はあいにく1週目が東海大会(三重)2週目が中国大会(岡山)とかち合ってしまったので、宿泊観戦優先で近畿大会をあきらめて2週連続旅に出た・・・・・。
1週目の東海大会は津と伊勢での開催。近鉄フリーきっぷを買えば土日月と3日間近鉄電車が乗り放題となるので、史上初の後泊で休養日の月曜日は養老鉄道に乗って桑名-大垣-揖斐を訪ねて岐阜モーニングを堪能したいと考えていた。しかしながら雨に振り回され旅程が大きく狂ってしまった↓↓
初日さえ乗り切れば後はなんとか・・・という天気予報だった。大いなる不安を抱いて旅立ちの朝となった初日。あるいは全試合雨天中止もあり得ると覚悟したが、意外と三重に入れば薄日も漏れて試合開始には問題なさそうだったが、、、、、
急ぎ足で津新町駅から津市営球場に到着したがそこで無情の通告が・・・・・すでに第2試合の豊川-桐陽の試合中止が決定し、本日は開幕試合のみと、、、、、💢
ここまで来たら「ああ、そうですか」とキビスを返して観光するわけにもいかず、屋根のないスタンドゆえになんとか雨が降らずに天気がもってくれたら。そして昼ご飯は津なぎさまち港まで歩いて雨露凌いで態勢を立て直して名張のスーパー温泉に湯治して久居のヤドに入らねばと・・・・・。
アルプスを見たら、東海大会出場したら地元三重でも岐阜にでもブラスバンドが駆け付ける津田学園だが、この日は悪天候予報ということもあってか?太鼓1つの応援。逆に岐阜・中京は遠路はるばる津までブラスバンドの応援がやってきた!
津田学園はエース・桑山の評判高いのだがあえて温存して背番号18の鈴木が先発。中京は2年生エース・鈴木の先発。この鈴木投手は翌年、東海NO1投手の称号を得る逸材となるのだがその片鱗を見せつけた試合だった。
太陽の位置が分かるくらいの天候でまだ雨の心配もなく定刻よりも3分遅いプレーボール。1回表津田は先頭の田中が3球三振を喫したが、2番・石井がショート内野安打。さらに3番・田北もショート内野安打にエラーも絡んで1・3塁。中京内野陣は深く守って1点は仕方ないという陣形だったが、4番・恵土はスライダーに三振。5番・犬飼サードゴロで無得点。
その裏、中京は1番・井之脇が四球で出塁。2番・花川送りたかったがファールで追い込まれ強打に切り替え8球粘るもライトフライ。1死1塁から3番・光安ライト前ヒットとチグハグな攻めになってしまい、津田学園同様4番・小原三振。5番・中島はセンターフライで無得点。お互い塁上を賑わせつつも0-0の立ち上がりで東海らしくノンビリしたペースで始まりこれが最後まで続き雨雲が迫ってきて・・・・・。
2回表6番・正木がレフト前ヒットで出塁すると佐川監督はいきなり盗塁のサインを出し成功。さらにファーストゴロで1死3塁。8番・鈴木投手は3球三振に倒れたが、9番・本田デッドボールで2死1・3塁。ここで1番・田中がライト前先制タイムリーヒットを放ち津田学園が先制。
その裏、中京も先頭の6番・下田が右中間ツーベース。藤本監督は手堅く送りバントで1死3塁。8番・笠木は1ストライクからサードゴロで3塁走者ホーム封殺など無得点。
3回表中京のエース・鈴木がようやくエンジン全開となったのか?津田学園のクリーンアップトリオを追い込んでスライダーで3者連続三振に打ち取り守りからリズムをつかみ、その裏1死から2番・花川センター前ヒット。3番・光安1-1からエンドランはファーストゴロで2死2塁とヒタヒタと追い上げる。ここで4番・小原が値千金のライトへの同点タイムリーツーベースを放ち1-1同点。さらにサードゴロ悪送球で傷口を広げ、盗塁も決まり2・3塁として6番・下田レフトへ2点タイムリーを放ち2死から一気に3-1と中京が試合をひっくり返し序盤を終えた。
まだ天気はかろうじて持っており中盤戦。願わくば開幕試合終了まで雨降らずに終わってくれたら・・・と思うが、近畿大会と違ってノンビリしたペースで試合が終始進んでいくので仕方がない。
鈴木投手は逆転してもらって気を良くして4回も三者連続三振で3・4回合わせて6者連続三振と手が付けられない!!代打の関係で津田は4回から2番手投手に背番号11の丹羽がリリーフ。佐川監督は最初からこの試合、エース・桑山の登板回避させるつもりなのか???いきなり先頭打者に四球を与えて送りバントで1死2塁。これ以上点差が開くともうどうしようもないところだが、中京の1・2番をショートゴロ・ライトフライに抑えて首の皮一枚残った。
津田学園はなりふり構わず5回先頭の9番・本田が7者連続三振を防ぐべくバントの構えで揺さぶってきた。初球はボール球だったし、フェイクかと思ったが、2球目ファールの後に本当にセーフティーをかましてバントヒット!しかし、鈴木投手が一枚上手で直後にけん制タッチアウト!!結果的に3イニング連続3人ずつで攻撃終了。
その裏、1死から4番・小原がツーベースで突破口を開き3連打で1点を追加して4-1と安全圏に入った。こうなると桑山投手を出しづらくなり丹羽投手続投で止むを得ない。7番・鈴木投手が中途半端にバットを出しファーストゴロ。2死2・3塁で代打・竹内が登場するもサードゴロに打ち取られ4-1と中京リードで折り返した。
試合開始前の青空は姿を消し、もういつ降りだしてもおかしくない状況でしかも本降りの雨が予想されている。。。。。5回まで1時間23分かかっておりコールドでなければ2時間30分ペース・・・。しかも中京の2年生エース・鈴木投手のデキを考えると3点差はあまりにも重すぎる、、、できたら評判高い津田学園・桑山投手を見たかったが、これからいつ雨が降ってもおかしくない状況で無理して投げさせて故障したら目も当てられない。。。
それにしても全く知らなかったが中京の2年生鈴木投手が5回まで津田学園を5安打1失点9奪三振とキレのよいスライダーを投げる剛腕がいたとは!その中京に勝って優勝した岐阜城北はもっと強いのだろうし、この夏ブレークしたのは県岐阜商で投手陣は全員2年生だったし、阪口監督が勇退しても強さを維持している大垣日大などなど岐阜のレベルはあまりにも高かった。
7分間の整備が終わった頃にいよいよ雨がパラついてきて折りたたみ傘の出番がやってきた。明日以降は無用の長物になりそうだが、この初日5/24は手放せない。。。
6回表津田は3番からの攻撃で反撃の糸口をつかみたかったが、この試合3度目の三者連続三振を喫しもどかしい展開。さらにその裏、先頭打者が死球をもらい送りバント失敗など走者釘付けでツーアウトまで来たが、雨が強くなりつつあるせいか?丹羽投手突如制球乱して連続四球で満塁。。。5番・中嶋にも2ボールと押し出し覚悟まで追いつめられたが、並行カウントまで戻し、並行カウントから2球ファールで粘られたが、7球目に高めのスライダー空振り三振でなんとか踏ん張ってくれた!
終盤3イニングは降りしきる雨の中、スコア付けという拷問に近いような観戦で難儀した↓↓コールドにはなってほしくないが点差からしてまだほど遠い。。。このペースだと3時間近く所要しかねないが予報も午後になればなるほど悪くなっていくというので、、、、、
7回表津田学園は空気を読んで???無抵抗主義で三者凡退。ただ、2死から丹羽投手に代打を送って投手交代が確定。そして7回裏ついに・・・3点ビハインドながら評判高いエース・桑山が登板。敗色濃厚の終盤で雨が降る悪コンディションで起用しなくても。。。とは思ったが、佐川監督はまだ試合を捨てていないという姿勢を選手に見せこれが終盤のドラマにつながる!
いきなり先頭打者をサードゴロ後逸によるエラーで出塁を許し、7番・鈴木投手は当初バントの構えだったが、1-1からバントファールで藤本監督はエンドラン多発してファールで粘りまくって9球目センター前ヒットで無死1・2塁。しかし、送りバント失敗・・・。それでも藤本監督は送りバントのサインを出し続け2死2・3塁と走者を進め1番・井之脇に託したが、外136km空振り三振で無得点。
これでコールドの可能性も限りなく0となり、8回表先頭の9番途中出場の井上が右中間にヒット。やはり3点ビハインドだけに無策で1番・田中は1ボールからセカンドゴロ2塁封殺。
しかし、2番・石井が8球粘ってライト前ヒット。ここで3番にはリリーフしたエース・桑山が打席に入り、初球右中間突破の2点タイムリースリーベースで重苦しい空気を振り払う会心の一撃であっという間に1点差に迫りなおも1死3塁と同点機を作る!4番・恵土に対して鈴木投手は100球を超えているが145kmの剛速球を立て続けに投げ込み終盤のスタミナも降りしきる雨も関係なく思いっきり闘争心を見せつけたが惜しくも四球で1死1・3塁と逆転の走者を出してしまった・・・。
中京内野陣は中間守備でセカンドゲッツー狙い。5番・犬飼は3打数ノーヒット2三振と鈴木投手に合っていなさそう。普通に打って攻略は難しいところで、佐川監督の采配は・・・1ボールから盗塁を仕掛け1死2・3塁で2ボール。1球様子を見てからの1-2から4球目ここで同点狙いのスクイズを敢行したが空振り・・・そして3塁走者封殺。。。2死2塁となって犬飼は粘って四球をもぎとるも6番・正木スライダーに空振り三振で後1点が届かない。。。
その裏、桑山投手は自分のバットで2点返して気を良くし、ボール球先行ながらも三者凡退に打ち取り1点差で最終回へ。
9回表津田学園は7番からの攻撃だったが、先頭の伊藤が1ボールからセンターオーバーのツーベースで出塁。8番・吉田は当然バントのシーンだが、1ストライクからなんとバントヒットで無死1・3塁。中京内野陣はここも中間守備で同点までは仕方がないといった布陣。9番・井上初球セカンドゴロでスクイズと同じ形で地味に4-4同点。
1番・田中がレフト前ヒットに盗塁を決めて2・3塁と攻め、2番・石井がレフト前逆転タイムリーヒットを放ちついに土壇場で津田学園が逆転に成功!ここまで引っ張った2年生エース・鈴木だが150球投げておりここが限界とみて同じく2年生・西岡投手にスイッチ。ところが、交代直後の1球目まさかのワイルドピッチで6点目。さらに2死から4番・恵土のサードフライを雨の影響と津市営球場の神風にかく乱され目測を誤りタイムリー内野安打で7点目。
雨もだんだん強くなる一方で9回裏中京はブラスバンドの応援団に応えたかったが、桑山投手の前に為すすべもなく三者凡退で試合終了。。。。。
なんと気が付けば試合時間3時間ちょうどでいかにも東海大会らしいスローテンポで試合終了。あまりにも早すぎる初日終了でガッカリしたが、このままおとなしく久居のヤドに行くつもりもなく、駅とは逆方向の津なぎさまち港まで約1km歩いて休憩所で昼ご飯。その頃、土砂降りに近い雨が降りだしそう考えると第2試合中止も妥当だったかなと。
しかし、明日の大会2日目は12時30分から津と伊勢で今日の中止分の試合のみ。月曜日に準決勝で水曜日が決勝と変則日程となった。
一応、ヤドは2日間取っているのだが、明日12時30分から1試合を伊勢で観るんだったら観光を前倒しして最終日に伊勢で準決勝2試合観戦できたらと。しかし、今日は久居にヤドを取っておりここから岐阜の揖斐まで長距離移動だし、明日は桑名にヤドを取っているのでここから伊勢までの大移動とは・・・・・。
しかも今夜のヤドは大浴場がないので名張のスーパー温泉で湯治を考えているので津~名張~久居と3日間フル移動ばかりとなってしまった・・・・・。
しかし2日目・3日目は天気の心配は全くなく、養老鉄道乗って揖斐駅付近の喫茶店モーニングも堪能し、大垣城~多度大社の観光を楽しみ、最終日にダイムスタジアム伊勢へ。
中止となった豊川-桐陽は17-7の7回コールドゲームながら2時間17分の試合だったらしい。
準決勝には三重高校も勝ち上がり津田学園とともに初戦突破したが、平日ということもあってか?応援団も来ないしスタンドはかなり寂しかった・・・。それは次回の講釈で。
チーム名 選手名 投球回 打者 投球数 安打 犠打 四球 死球 三振 暴投 失点 自責
津田学園 鈴 木 3 16 58 5 1 1 0 2 0 3 1
津田学園 丹 羽 3 16 60 3 1 3 1 1 0 1 1
津田学園 桑 山 3 11 50 1 1 0 0 2 0 0 0
中 京 鈴 木 8 1/3 38 150 12 0 2 1 14 0 7 5
中 京 西 岡 2/3 3 11 0 0 0 2 1 1 0 0
(完)
🌟次回予告🌟
5/26 春季東海大会 2日目第1試合 ダイムスタジアム伊勢 三重(三重②)-岐阜城北(岐阜①)
5/24 春季東海大会 初日開幕試合 津市営球場 津田学園(三重①)-中京(岐阜②) 10:03~13:03
一二三四五六七八九十計HE
津田学園010000024 7132 鈴木、丹羽、桑山-犬飼
中 京003010000 491 鈴木、西岡-古久保
2025年の近畿大会は春秋ともに奈良・さとやくスタジアムでの開催となる。橿原は紀三井寺の次にお気に入りの場所なんでありがたいところだが、2025年はあいにく1週目が東海大会(三重)2週目が中国大会(岡山)とかち合ってしまったので、宿泊観戦優先で近畿大会をあきらめて2週連続旅に出た・・・・・。
1週目の東海大会は津と伊勢での開催。近鉄フリーきっぷを買えば土日月と3日間近鉄電車が乗り放題となるので、史上初の後泊で休養日の月曜日は養老鉄道に乗って桑名-大垣-揖斐を訪ねて岐阜モーニングを堪能したいと考えていた。しかしながら雨に振り回され旅程が大きく狂ってしまった↓↓
初日さえ乗り切れば後はなんとか・・・という天気予報だった。大いなる不安を抱いて旅立ちの朝となった初日。あるいは全試合雨天中止もあり得ると覚悟したが、意外と三重に入れば薄日も漏れて試合開始には問題なさそうだったが、、、、、
急ぎ足で津新町駅から津市営球場に到着したがそこで無情の通告が・・・・・すでに第2試合の豊川-桐陽の試合中止が決定し、本日は開幕試合のみと、、、、、💢
ここまで来たら「ああ、そうですか」とキビスを返して観光するわけにもいかず、屋根のないスタンドゆえになんとか雨が降らずに天気がもってくれたら。そして昼ご飯は津なぎさまち港まで歩いて雨露凌いで態勢を立て直して名張のスーパー温泉に湯治して久居のヤドに入らねばと・・・・・。
アルプスを見たら、東海大会出場したら地元三重でも岐阜にでもブラスバンドが駆け付ける津田学園だが、この日は悪天候予報ということもあってか?太鼓1つの応援。逆に岐阜・中京は遠路はるばる津までブラスバンドの応援がやってきた!
津田学園はエース・桑山の評判高いのだがあえて温存して背番号18の鈴木が先発。中京は2年生エース・鈴木の先発。この鈴木投手は翌年、東海NO1投手の称号を得る逸材となるのだがその片鱗を見せつけた試合だった。
太陽の位置が分かるくらいの天候でまだ雨の心配もなく定刻よりも3分遅いプレーボール。1回表津田は先頭の田中が3球三振を喫したが、2番・石井がショート内野安打。さらに3番・田北もショート内野安打にエラーも絡んで1・3塁。中京内野陣は深く守って1点は仕方ないという陣形だったが、4番・恵土はスライダーに三振。5番・犬飼サードゴロで無得点。
その裏、中京は1番・井之脇が四球で出塁。2番・花川送りたかったがファールで追い込まれ強打に切り替え8球粘るもライトフライ。1死1塁から3番・光安ライト前ヒットとチグハグな攻めになってしまい、津田学園同様4番・小原三振。5番・中島はセンターフライで無得点。お互い塁上を賑わせつつも0-0の立ち上がりで東海らしくノンビリしたペースで始まりこれが最後まで続き雨雲が迫ってきて・・・・・。
2回表6番・正木がレフト前ヒットで出塁すると佐川監督はいきなり盗塁のサインを出し成功。さらにファーストゴロで1死3塁。8番・鈴木投手は3球三振に倒れたが、9番・本田デッドボールで2死1・3塁。ここで1番・田中がライト前先制タイムリーヒットを放ち津田学園が先制。
その裏、中京も先頭の6番・下田が右中間ツーベース。藤本監督は手堅く送りバントで1死3塁。8番・笠木は1ストライクからサードゴロで3塁走者ホーム封殺など無得点。
3回表中京のエース・鈴木がようやくエンジン全開となったのか?津田学園のクリーンアップトリオを追い込んでスライダーで3者連続三振に打ち取り守りからリズムをつかみ、その裏1死から2番・花川センター前ヒット。3番・光安1-1からエンドランはファーストゴロで2死2塁とヒタヒタと追い上げる。ここで4番・小原が値千金のライトへの同点タイムリーツーベースを放ち1-1同点。さらにサードゴロ悪送球で傷口を広げ、盗塁も決まり2・3塁として6番・下田レフトへ2点タイムリーを放ち2死から一気に3-1と中京が試合をひっくり返し序盤を終えた。
まだ天気はかろうじて持っており中盤戦。願わくば開幕試合終了まで雨降らずに終わってくれたら・・・と思うが、近畿大会と違ってノンビリしたペースで試合が終始進んでいくので仕方がない。
鈴木投手は逆転してもらって気を良くして4回も三者連続三振で3・4回合わせて6者連続三振と手が付けられない!!代打の関係で津田は4回から2番手投手に背番号11の丹羽がリリーフ。佐川監督は最初からこの試合、エース・桑山の登板回避させるつもりなのか???いきなり先頭打者に四球を与えて送りバントで1死2塁。これ以上点差が開くともうどうしようもないところだが、中京の1・2番をショートゴロ・ライトフライに抑えて首の皮一枚残った。
津田学園はなりふり構わず5回先頭の9番・本田が7者連続三振を防ぐべくバントの構えで揺さぶってきた。初球はボール球だったし、フェイクかと思ったが、2球目ファールの後に本当にセーフティーをかましてバントヒット!しかし、鈴木投手が一枚上手で直後にけん制タッチアウト!!結果的に3イニング連続3人ずつで攻撃終了。
その裏、1死から4番・小原がツーベースで突破口を開き3連打で1点を追加して4-1と安全圏に入った。こうなると桑山投手を出しづらくなり丹羽投手続投で止むを得ない。7番・鈴木投手が中途半端にバットを出しファーストゴロ。2死2・3塁で代打・竹内が登場するもサードゴロに打ち取られ4-1と中京リードで折り返した。
試合開始前の青空は姿を消し、もういつ降りだしてもおかしくない状況でしかも本降りの雨が予想されている。。。。。5回まで1時間23分かかっておりコールドでなければ2時間30分ペース・・・。しかも中京の2年生エース・鈴木投手のデキを考えると3点差はあまりにも重すぎる、、、できたら評判高い津田学園・桑山投手を見たかったが、これからいつ雨が降ってもおかしくない状況で無理して投げさせて故障したら目も当てられない。。。
それにしても全く知らなかったが中京の2年生鈴木投手が5回まで津田学園を5安打1失点9奪三振とキレのよいスライダーを投げる剛腕がいたとは!その中京に勝って優勝した岐阜城北はもっと強いのだろうし、この夏ブレークしたのは県岐阜商で投手陣は全員2年生だったし、阪口監督が勇退しても強さを維持している大垣日大などなど岐阜のレベルはあまりにも高かった。
7分間の整備が終わった頃にいよいよ雨がパラついてきて折りたたみ傘の出番がやってきた。明日以降は無用の長物になりそうだが、この初日5/24は手放せない。。。
6回表津田は3番からの攻撃で反撃の糸口をつかみたかったが、この試合3度目の三者連続三振を喫しもどかしい展開。さらにその裏、先頭打者が死球をもらい送りバント失敗など走者釘付けでツーアウトまで来たが、雨が強くなりつつあるせいか?丹羽投手突如制球乱して連続四球で満塁。。。5番・中嶋にも2ボールと押し出し覚悟まで追いつめられたが、並行カウントまで戻し、並行カウントから2球ファールで粘られたが、7球目に高めのスライダー空振り三振でなんとか踏ん張ってくれた!
終盤3イニングは降りしきる雨の中、スコア付けという拷問に近いような観戦で難儀した↓↓コールドにはなってほしくないが点差からしてまだほど遠い。。。このペースだと3時間近く所要しかねないが予報も午後になればなるほど悪くなっていくというので、、、、、
7回表津田学園は空気を読んで???無抵抗主義で三者凡退。ただ、2死から丹羽投手に代打を送って投手交代が確定。そして7回裏ついに・・・3点ビハインドながら評判高いエース・桑山が登板。敗色濃厚の終盤で雨が降る悪コンディションで起用しなくても。。。とは思ったが、佐川監督はまだ試合を捨てていないという姿勢を選手に見せこれが終盤のドラマにつながる!
いきなり先頭打者をサードゴロ後逸によるエラーで出塁を許し、7番・鈴木投手は当初バントの構えだったが、1-1からバントファールで藤本監督はエンドラン多発してファールで粘りまくって9球目センター前ヒットで無死1・2塁。しかし、送りバント失敗・・・。それでも藤本監督は送りバントのサインを出し続け2死2・3塁と走者を進め1番・井之脇に託したが、外136km空振り三振で無得点。
これでコールドの可能性も限りなく0となり、8回表先頭の9番途中出場の井上が右中間にヒット。やはり3点ビハインドだけに無策で1番・田中は1ボールからセカンドゴロ2塁封殺。
しかし、2番・石井が8球粘ってライト前ヒット。ここで3番にはリリーフしたエース・桑山が打席に入り、初球右中間突破の2点タイムリースリーベースで重苦しい空気を振り払う会心の一撃であっという間に1点差に迫りなおも1死3塁と同点機を作る!4番・恵土に対して鈴木投手は100球を超えているが145kmの剛速球を立て続けに投げ込み終盤のスタミナも降りしきる雨も関係なく思いっきり闘争心を見せつけたが惜しくも四球で1死1・3塁と逆転の走者を出してしまった・・・。
中京内野陣は中間守備でセカンドゲッツー狙い。5番・犬飼は3打数ノーヒット2三振と鈴木投手に合っていなさそう。普通に打って攻略は難しいところで、佐川監督の采配は・・・1ボールから盗塁を仕掛け1死2・3塁で2ボール。1球様子を見てからの1-2から4球目ここで同点狙いのスクイズを敢行したが空振り・・・そして3塁走者封殺。。。2死2塁となって犬飼は粘って四球をもぎとるも6番・正木スライダーに空振り三振で後1点が届かない。。。
その裏、桑山投手は自分のバットで2点返して気を良くし、ボール球先行ながらも三者凡退に打ち取り1点差で最終回へ。
9回表津田学園は7番からの攻撃だったが、先頭の伊藤が1ボールからセンターオーバーのツーベースで出塁。8番・吉田は当然バントのシーンだが、1ストライクからなんとバントヒットで無死1・3塁。中京内野陣はここも中間守備で同点までは仕方がないといった布陣。9番・井上初球セカンドゴロでスクイズと同じ形で地味に4-4同点。
1番・田中がレフト前ヒットに盗塁を決めて2・3塁と攻め、2番・石井がレフト前逆転タイムリーヒットを放ちついに土壇場で津田学園が逆転に成功!ここまで引っ張った2年生エース・鈴木だが150球投げておりここが限界とみて同じく2年生・西岡投手にスイッチ。ところが、交代直後の1球目まさかのワイルドピッチで6点目。さらに2死から4番・恵土のサードフライを雨の影響と津市営球場の神風にかく乱され目測を誤りタイムリー内野安打で7点目。
雨もだんだん強くなる一方で9回裏中京はブラスバンドの応援団に応えたかったが、桑山投手の前に為すすべもなく三者凡退で試合終了。。。。。
なんと気が付けば試合時間3時間ちょうどでいかにも東海大会らしいスローテンポで試合終了。あまりにも早すぎる初日終了でガッカリしたが、このままおとなしく久居のヤドに行くつもりもなく、駅とは逆方向の津なぎさまち港まで約1km歩いて休憩所で昼ご飯。その頃、土砂降りに近い雨が降りだしそう考えると第2試合中止も妥当だったかなと。
しかし、明日の大会2日目は12時30分から津と伊勢で今日の中止分の試合のみ。月曜日に準決勝で水曜日が決勝と変則日程となった。
一応、ヤドは2日間取っているのだが、明日12時30分から1試合を伊勢で観るんだったら観光を前倒しして最終日に伊勢で準決勝2試合観戦できたらと。しかし、今日は久居にヤドを取っておりここから岐阜の揖斐まで長距離移動だし、明日は桑名にヤドを取っているのでここから伊勢までの大移動とは・・・・・。
しかも今夜のヤドは大浴場がないので名張のスーパー温泉で湯治を考えているので津~名張~久居と3日間フル移動ばかりとなってしまった・・・・・。
しかし2日目・3日目は天気の心配は全くなく、養老鉄道乗って揖斐駅付近の喫茶店モーニングも堪能し、大垣城~多度大社の観光を楽しみ、最終日にダイムスタジアム伊勢へ。
中止となった豊川-桐陽は17-7の7回コールドゲームながら2時間17分の試合だったらしい。
準決勝には三重高校も勝ち上がり津田学園とともに初戦突破したが、平日ということもあってか?応援団も来ないしスタンドはかなり寂しかった・・・。それは次回の講釈で。
チーム名 選手名 投球回 打者 投球数 安打 犠打 四球 死球 三振 暴投 失点 自責
津田学園 鈴 木 3 16 58 5 1 1 0 2 0 3 1
津田学園 丹 羽 3 16 60 3 1 3 1 1 0 1 1
津田学園 桑 山 3 11 50 1 1 0 0 2 0 0 0
中 京 鈴 木 8 1/3 38 150 12 0 2 1 14 0 7 5
中 京 西 岡 2/3 3 11 0 0 0 2 1 1 0 0
(完)
🌟次回予告🌟
5/26 春季東海大会 2日目第1試合 ダイムスタジアム伊勢 三重(三重②)-岐阜城北(岐阜①)
📣明日は、、、約4か月ぶりにレンタサイクルで舞洲上陸して近畿学生野球観戦してきます。しかし、先週金曜日の紀三井寺といい、明日の舞洲といい、、、絶望視された天気予報が急転直下快方に向かい観戦可能なコンディションになるとは・・・本当にありがたいことです!
💢令和8年度秋季近畿地区高等学校野球大会県一次予選の日程変更について(お知らせ)
https://www.whbf.jp/uploads/20260904165718_Vc1b.pdf
明日9月5日(土)から開催される、令和8年度秋季近畿地区高等学校野球大会県一次予選は悪天候が予想されるため、試合日程を下記の通り変更しましたのでお知らせします。
記
9月6日(日)上富田スポーツセンター野球場
第1試合 9:00 和歌山高専 ― 智辯和歌山(秋季県一次予選)
第2試合 11:30 海 南 ― 串本古座(秋季県一次予選)
第3試合 14:00 和歌山北 ― 粉 河(秋季県一次予選)
9月6日(日)田辺スポーツパーク野球場
第1試合 9:00 神 島 ― 市和歌山(新人戦準決勝戦)有料試合
第2試合 11:30 日 高 ― 桐 蔭(新人戦準決勝戦)有料試合
--------------------------------------
第3試合 14:00 県和歌山 ― 向 陽(秋季県一次予選)
9月7日(月)紀三井寺公園野球場
第1試合 10:00 県下高校野球新人戦決勝戦
--------------------------------------
第2試合 13:00 箕 島 ― 和歌山商業(秋季県一次予選)
9月8日(火)紀三井寺公園野球場
第1試合 9:00 田辺工 ― 紀北工(秋季県一次予選)
第2試合 11:30 南 部 ― 那 賀(秋季県一次予選)
※なお、明日以降も悪天候が予想されています。グラウンドコンディション不良により、大会日程が大幅に変更する場合があります。あしからずご了承ください。
以上
📝【近畿学生野球 9月5日開幕】和歌山大 橋本主将と“ミスターゼロ”一井がけん引
https://news.yahoo.co.jp/articles/1bf77a8aa4eb75130a2ee4fdc215a2d88c726e68
近畿学生野球連盟の秋季1部リーグ戦は5日、大阪市の大阪シティ信用金庫スタジアムで開幕する。1948年に創設され、国公立大、私立大合わせて18校で活動する連盟は「文武両道のリーグ」と呼ばれ、「フェアプレーの精神」を重んじる。4連覇中の奈良学園大にストップをかけるのは、どの大学か。各校の注目選手を中心に紹介し、展望した。
「覚悟」を示す秋となる。主将不在で戦った今春は2位も、「軸」不在が結果的に大きく響いた和歌山大。2年春から主力として出場する橋本は自ら志願し、チームを背負うと決めた。
「歴代の主将とはレベルが違うので、自信がなかった。ただ、腹をくくってやらないと勝てないと思った」
同期や先輩、歴代の主将にも相談。大原弘監督からはリーダーになるための参考書籍をもらい、主将像を模索する。今春まで2番を打ったが春9盗塁とチームNo.1の俊足を生かして秋は1番を打つ可能性もある。「やることは変わらないが、気持ち的に(チームに)勢いをつけたい。隙があれば走り、(相手に)プレッシャーをかけたい」。姿勢、プレー、存在感全てにおいて先頭に立つ。
右サイドの一井は、昨秋にリーグ戦デビューし今春は16回2/3を無失点。全6試合救援で3試合は得点圏に走者がいる場面で生還さえ許さなかった。通算20イニング無失点の「ミスターゼロ」だ。
「ゼロで抑えて(無失点を)伸ばしていくのがモチベーションになっている」
昨年7月のオープン戦でKOされ、大原監督から上手から横手への転向を打診された。「自分でも何かを変えないとダメだと思っていたが、怖さがあった」。1カ月で球速が3キロ増し、140キロだった最速は146キロまで上昇。変化球の曲がりも格段に良くなった。
秋は先発起用も視野に入れたフル回転が求められる。「無失点でリーグ戦を終えて、胴上げ投手になりたい」。24年春以来の頂点へスコアボードに「0」を刻んでいく。
📝「苦しかったな…というのもあります」PL学園“伝説の名将”の孫が甲子園後に明かしたホンネ…「どんな指導者になりたい?」質問への“納得の答え”
https://news.yahoo.co.jp/articles/ebc61f7d69234b6cce3d1de1dab60ca41282f3a8
キャプテンと血筋。佐野日大の中村盛汰にとって何よりも重要なのは前者だ。しかし、世間はどうしても後者をクローズアップしたくなる。
中村順司の孫。PL学園の監督として、1987年に達成した春夏連覇など6度の日本一。甲子園で通算58勝を挙げ、桑田真澄と清原和博の「KK」をはじめ多くの名選手をプロへと送り出した名将の血筋を継ぐ者が甲子園に出場したとなれば、否が応でも話題にされてしまう。
“レジェンド”の祖父に関する質問
センバツに続いて夏も甲子園に出た佐野日大のキャプテンは、試合後の囲み取材になると真っ先に祖父について記者の質問を受ける。やりとりは、だいたいがこんな具合だ。
――試合前に言われたことは?
「『自分ではなくチームの結果を最優先に』と言われるので、その言葉通りのプレーをしたいな、と思います」
――高校野球のレジェンドでもある祖父は、どのような存在か?
「甲子園で1勝するだけでも本当にきつく、大変だったんですけど、それを何度も続けてきたことが非常に偉大だと感じています」
囲み取材中の中村は表情を崩さない。それは、血筋を認めながらも自己証明を果たさんとする覚悟の表れでもあるようだった。福島から富山の新川で高校野球を過ごした3歳上の兄、貫汰の成長を目の当たりにし、中村も県外でのプレーを志した。日大東北で指導する父・猛安は、兄と同じ道を選んだ弟の決断を、このように尊重している。
「甲子園に行くために日大東北を捨てて、佐野日大に行ったわけではないんです。貫汰の自立に後押しされたこともあるでしょうけど、そこから家族ですごく話し合いましたし、盛汰の決意も固かったですからね」
父は息子に告げた。
「高校に入ったらおじいちゃんがいるからとか、いろんなことを言われるぞ。それはお前にとって宿命だからな」
息子は父の言葉を受け止め、背負った。佐野日大のBチームは、下級生の1年生をリーダーに据え、チームに残る2年生がバックアップする仕組みとなっている。同級生のみならず、上級生も牽引する立場となった中村は「道具の整理ができていない」など、細かいところまで指導者から指摘されてきた。Bチーム時代から苦難を知る吉沢悠は、中村の立ち振る舞いに敬意を払う。
「高校に入ってきたときから、ずっと家族のことを言われて苦しいことが多かったし、辛そうな姿もいっぱい見てきたんですけど、本当に弱音を吐かずにやっていました」
1年生の秋からベンチ入り。高校野球のキャリアとしては順調ながら、中村にとってはむしろ試練のほうが多かったくらいだ。猛安が今も心を痛めるほどに焼き付けているのが、昨夏の栃木大会の3回戦である。
「自分のせいで先輩を負けさせてしまった」
栃木工戦の8回、2点リードの場面でマウンドに上がったのが中村だった。内野手ながら制球力に優れていたことを評価されての登板だったが、9回に3点を奪われ逆転を許し、佐野日大は4-5で敗れた。猛安の回想だ。
「負けた瞬間の盛汰は、もう涙も出ないくらいの放心状態でした。本人は口に出しませんでしたが、そこから『自分のせいで先輩を負けさせてしまった。もうチームにこんな思いをさせたくない』という気持ちが、新チームになってすごく出るようになりましたね」
その中村の姿勢の根幹にある精神こそ、祖父の順司と父の猛安が、中村が幼いころから説いていた訓示「球道即人道」だった。PL学園の監督時代から多くの選手に影響を与えてきた格言を、中村は体現した。
「野球っていうのは技術も大切ですけど、それだけじゃなくて運や徳を積むことも大事で。新チームでキャプテンをやらせてもらい『もっと応援されるチームになろう』ということで、挨拶をする、ごみを拾う、室内ではスリッパを並べるとか、そういう細かい部分を詰めるというんですかね。それが『球道即人道』にも込められていまして。そういった小さいことをコツコツとやったことが、結果につながったと思っています」
苦しくとも弱みを見せないキャプテンは、チームメートの痛みにこそ寄り添った。12年ぶりのセンバツ出場と結果を出したのも束の間、苦楽をともに歩んできたショートの吉沢が左足を故障し、欠場を余儀なくされた。
「自分のペースでいいからな」
吉沢はキャプテンからかけられたこのひと言が支えとなったと、感謝を述べる。
「自分は副キャプテンだったので中村をサポートしなくちゃいけない立場だったんですけど、怪我をしたときは本当に自分のことで精いっぱいになってしまって。そこで中村がそう言ってくれて、焦りがなくなりました」
センバツでは初戦で三重に敗れた。春季大会から、それまでのサードから慣れないファーストを守ることになっても、中村は「勝利に直結するポジションだからやりがいがある」と、弱音を吐かずグラウンドに立ち続けた。そんな佇まいが、選手に勇気を与える。セカンドや三塁コーチャーと多岐にわたりチームを支えた千嶋紘史は、「中村がキャプテンだったから」と強調するように言う。
「練習でみんなが乗り気じゃないときも、ひとりで先陣を切って行動できるような真面目さがあって。キャプテンだからみんなにいろいろ言われることもあったんですけど、最後は本当に頼りにされるというか。チームとして彼を中心にまとまっていったなと思います」
夏の甲子園で「2勝」…確かな足跡
中村が「球道即人道」を貫きまとめ上げたチームが、夏に大きな成果を挙げる。
2年生の小島颯人の劇的すぎる逆転サヨナラホームランで決めた、16年ぶりとなる夏の甲子園。初戦で「大会屈指の左腕」と呼ばれた聖隷クリストファーの高部陸を攻略し、2回戦では優勝候補のダークホースに挙げられる神村学園も撃破した。「夏こそ校歌を」と一丸となったチームは、甲子園で2勝し爪痕を残したのである。
栃木大会で打率1割台と調子が上がらなかった中村は、甲子園でも3試合でノーヒットに終わった。健大高崎との3回戦では4回の守備から退いたが、代わりにファーストを守る吉沢に「自分らしく、落ち着いて!」と声を掛け、鼓舞し続けた。キャプテンは試合で劣勢でも、敗れてもなお顔を上げていた。監督の麦倉洋一が「あれだけ」と、宿命を引き合いに目を細める。
「自分の成績がどうであれ、チームのために動ける人間でした。よくまとめてくれたと思います。あれだけのプレッシャーを感じながらそれができるというのは大したものです。人間的に本当に素晴らしいことですよね」
監督だけではなく、吉沢も千嶋も、チームメートたちが中村を「最高のキャプテン」と述べ、感謝を口にしていた。それまで表情を崩すことのなかった最高のキャプテンの顔色は、健大高崎との試合後には少し穏やかになっていたように感じた。だから、少しだけ彼の心に触れてみた。
――「中村順司の孫」という宿命を背負ってきた高校野球はどうだったか?
「なんて言うんですかね……」今までとは異なる空気感をまとい、中村が口を開いた。
「いろんな意味で注目されてしまって、そのなかで自分のプレーもできなくて。祖父の存在があったからこそここまでこられたんですけど、苦しかったなというのもあります」
表情が物語る。間違いなく、それまでの建前ではなく本音だ。だからこそ、もう一歩、彼の心に踏み込むことができた。
――苦しみとは、「中村順司の孫」ではなく「佐野日大の中村盛汰」として見てもらいたい、葛藤のようなものだったのか?
中村は少し間をおいてから「はい」と軽く頷き、このように結んだ。
「父の『宿命だから』という言葉を思い返して、ここまでやってこられたので。この道を選んで、成長できたかなって感じています」
そして、中村家の遺伝子は育まれる。彼も「将来は指導者になりたい」と言った。
「どんな指導者になりたい?」質問への答えは…
――どんな指導者になりたいか?
報道陣から質問が投げられる。彼らはきっと「祖父や父のような」という、理想的な答えを求めていたに違いない。だが、中村はきっぱりと宣言した。
「麦倉監督のような、選手一人ひとりを見て、攻めた采配ができる指導者になりたいです。いつか佐野日大を引っ張って、甲子園に帰ってこられたらいいなと思っています」
PL学園でも日大東北でもなく。そこには、佐野日大の中村盛汰がいた。
☝「夫は兄と同学年」NY留学、経営…妻・千保子さんの異色キャリアが【甲子園優勝校・智弁和歌山】の寮母に繋がるまで
https://news.yahoo.co.jp/articles/dc7544a3ff62ce7d0b2ae7c720963ce781ea4efb?page=1
子どもが野球やスポーツに携わったことがある世代ならば「甲子園優勝」は、ハードな練習を続けた本人の努力と周囲のサポート、そして強運が積み重なったのちに手にする『奇跡の栄光』と身をもって感じているはず。その奇跡を現実に変えた選手たちのメンタル面をサポートしているのが、智弁和歌山野球部寮の寮母を務めている中谷千保子さん(42歳)です。どうしたら、強くブレない気持ちで子ども達に接することができるのか。寮母となるまでの、千保子さんのキャリアと共にお伺いしました。
監督は兄の知り合い、子どもの頃から兄以上に兄のような存在でした
「監督との出会いは中学生の頃。私が育った家庭は野球一家で、私の一番上の兄が野球部で、それぞれ学校は異なりますが監督と同学年で交流があったんです。そんな関係で監督が高校生の頃から実家に頻繁に出入りしていたので、実の兄よりも兄みたいな存在でしたね。出会ってからもうすぐ30年。監督が高校卒業後プロに進んだ後も、兄との関係は続いていたので和歌山に戻った時には実家に遊びにきたり、兄を含めて食事をしたりという間柄でした。私自身は3歳からクラシックバレエを始め、その後、新体操やダンスを始めました。高校卒業後は単身ニューヨークに2年ほどダンス留学へ。帰国後は東京でダンスの仕事を数年したのちに、家族の都合もあり24歳で和歌山に戻りダンススクールとヨガスタジオの経営を始めました。現在も寮のすぐ近くに酵素浴とチョップドサラダの専門店、ヨガスタジオを備えた複合施設「和の酵素〜叶〜」と別の場所でも蓮舞ヨガスタジオを経営しています。」
監督が和歌山に戻るタイミングで、選手のコンディショニングを任されて
「監督との関係はその後もずっと変わらず続いていましたが、2018年から『選手たちの身体のコンディションとメンタルのケアして欲しい』と声をかけていただき、一緒に取り組むことになりました。
経営していたヨガスタジオでは、スポーツ選手の体のケアなどもフォローしていましたし、私とは子どもの頃からの知り合いでお互いに‘素’の部分を知っていたので、監督もやりやすかったのだと思います。その後、2019年に現在の寮「智翔館」が完成した時に「寮母になって欲しい」と請われた時も「いーよ」と即答でお受けしました。寮母となることに不安や抵抗がなかったのは、私自身小学校の頃から実家の近所に全国大会レベルの高校の柔道部の寮があり、そこの監督ご家族と家族ぐるみでお付き合いをしていた部分が大きいですね。小学校4年生の頃からその寮にお手伝いに行くことが楽しくて、食料の買い出しから料理まで様々なお手伝いしていたんです。そこの寮母である監督の奥様はものすごく丁寧な料理をする方で、高校生の寮なのに出汁取りから野菜の面取りまで全て手作りでなされていて。私の寮母としての料理の原点はその方にあります。そんな手の込んだ料理に触れて学び育ったので、寮母となってメンタル面でのサポートに加え、日々の料理を作ることに迷いや不安はありませんでした。結婚したのは2020年、お互い再婚同士です。それまでのお互いのキャリアの点と点が全て繋がった結婚でした。」
怪我の多い選手がきっかけで、酵素浴施設を開業
「私自身、失敗をあまり考えず、とにかくなんでもやってみよう!と走り出す性格で、たとえ失敗したとしても、やらなかったより後悔がないと思えるタイプ。今も監督から『こういうチームを作りたい』『身体作りのためにこんなサポートをしたい』など日々の会話の中に出てきたことをカタチにしていくことにやり甲斐を感じ、私の役目だと思っています。酵素浴のある施設を作ったのも、ちょっとした思いつきがきっかけ。以前に疲労骨折や肉離れを繰り返す選手がいたんです。その子をケアしつつ、いかに早く回復させてチームに復帰させるかが課題だったのですが、その時に自分自身も通っていて血液循環が良くなり治癒力を促すことを実感していた酵素風呂を取り入れたいと思い、実行に移しました。近辺の既存の施設は営業時間が合わなかったり女性限定だったりで選手を通わせることができず、こうなったら自分で作るしかないと思いたち、監督にも相談して2021年に今の施設を完成させました。きっかけとなった選手は卒業した後の完成となってしまったのは残念ですが、現在も選手たちの身体のケアに酵素浴を取り入れています。ちなみに酵素浴が役に立ったのか、完成の年に中谷智弁として1度目の甲子園優勝を果たしました。」
甲子園優勝は一つの通過点 自らこの先の人生を切り開く力をつけてほしい
常にポジティブな姿勢で自らの人生も、選手たちとも向き合ってきた千保子さん。甲子園優勝という『奇跡の栄光』を手にした選手たちが優勝旗を手に宿舎に戻った時にかけた声も、祝福だけではなくその先の人生に目を向かせる言葉でした。
「甲子園優勝は素晴らしい結果で、もちろん私も嬉しかったです。一方で優勝メンバーはこれから先の人生ずっと『甲子園優勝』という看板を背負って生きていくことになるんです。進学しても、就職しても、社会人やプロとして野球を続けても、それはずっとついてまわります。だから寮に戻った選手たちには『甲子園優勝した誰々という看板はずっとつきまとう、その価値を下げないようにこれから先の人生は更にアップデートが必要。ある意味、人生のハードルが上がったのだから気を引き締めて』と言葉をかけました。優勝は、あくまで2026年8月22日まで彼らが歩んできた道の答え合わせです。8月23日からは新しい道を歩んでいくという意識を持たないといけません。だって、彼らの人生先の方がはるかに長いのですから。私は日頃から、勝ちにも負けにも価値があると思っています。勝ったら「その理由」を考え学ぶことがありますし、負けた時も「その理由」を考えその時だから響く言葉や痛みの意味を知るという経験も人生には必要なこと。彼らがこれから先の人生、自分自身でどれだけ豊かで幸せな人生を切り開いていく力を持っているか、こちら方が重要なんです。私の目標は彼らが社会に出た時に「この子がいてよかった!」と言われる人間を育成すること。答えが出るのは今じゃなくていい。この先、彼らがどんな人生を歩んでいくのかそれを見守っていくのが私の寮母としての最大の楽しみです。」
甲子園優勝から2日後。8月24日に開かれた秋季和歌山大会新人戦に智弁和歌山は新チームで挑み、2回戦で和歌山東に2-5で敗れ、秋季県大会は一次戦に回ることになりました。新人戦で4強に入れば来春の選抜出場をかけた県大会に2次戦から出場できたところを、この黒星で1次戦から出場することに。
選手たちは今きっと、「勝ちにも負けにも意味がある」中谷千保子さんのこの言葉に支えられ、新しい道を歩んでいるに違いありません。
💢令和8年度秋季近畿地区高等学校野球大会県一次予選の日程変更について(お知らせ)
https://www.whbf.jp/uploads/20260904165718_Vc1b.pdf
明日9月5日(土)から開催される、令和8年度秋季近畿地区高等学校野球大会県一次予選は悪天候が予想されるため、試合日程を下記の通り変更しましたのでお知らせします。
記
9月6日(日)上富田スポーツセンター野球場
第1試合 9:00 和歌山高専 ― 智辯和歌山(秋季県一次予選)
第2試合 11:30 海 南 ― 串本古座(秋季県一次予選)
第3試合 14:00 和歌山北 ― 粉 河(秋季県一次予選)
9月6日(日)田辺スポーツパーク野球場
第1試合 9:00 神 島 ― 市和歌山(新人戦準決勝戦)有料試合
第2試合 11:30 日 高 ― 桐 蔭(新人戦準決勝戦)有料試合
--------------------------------------
第3試合 14:00 県和歌山 ― 向 陽(秋季県一次予選)
9月7日(月)紀三井寺公園野球場
第1試合 10:00 県下高校野球新人戦決勝戦
--------------------------------------
第2試合 13:00 箕 島 ― 和歌山商業(秋季県一次予選)
9月8日(火)紀三井寺公園野球場
第1試合 9:00 田辺工 ― 紀北工(秋季県一次予選)
第2試合 11:30 南 部 ― 那 賀(秋季県一次予選)
※なお、明日以降も悪天候が予想されています。グラウンドコンディション不良により、大会日程が大幅に変更する場合があります。あしからずご了承ください。
以上
📝【近畿学生野球 9月5日開幕】和歌山大 橋本主将と“ミスターゼロ”一井がけん引
https://news.yahoo.co.jp/articles/1bf77a8aa4eb75130a2ee4fdc215a2d88c726e68
近畿学生野球連盟の秋季1部リーグ戦は5日、大阪市の大阪シティ信用金庫スタジアムで開幕する。1948年に創設され、国公立大、私立大合わせて18校で活動する連盟は「文武両道のリーグ」と呼ばれ、「フェアプレーの精神」を重んじる。4連覇中の奈良学園大にストップをかけるのは、どの大学か。各校の注目選手を中心に紹介し、展望した。
「覚悟」を示す秋となる。主将不在で戦った今春は2位も、「軸」不在が結果的に大きく響いた和歌山大。2年春から主力として出場する橋本は自ら志願し、チームを背負うと決めた。
「歴代の主将とはレベルが違うので、自信がなかった。ただ、腹をくくってやらないと勝てないと思った」
同期や先輩、歴代の主将にも相談。大原弘監督からはリーダーになるための参考書籍をもらい、主将像を模索する。今春まで2番を打ったが春9盗塁とチームNo.1の俊足を生かして秋は1番を打つ可能性もある。「やることは変わらないが、気持ち的に(チームに)勢いをつけたい。隙があれば走り、(相手に)プレッシャーをかけたい」。姿勢、プレー、存在感全てにおいて先頭に立つ。
右サイドの一井は、昨秋にリーグ戦デビューし今春は16回2/3を無失点。全6試合救援で3試合は得点圏に走者がいる場面で生還さえ許さなかった。通算20イニング無失点の「ミスターゼロ」だ。
「ゼロで抑えて(無失点を)伸ばしていくのがモチベーションになっている」
昨年7月のオープン戦でKOされ、大原監督から上手から横手への転向を打診された。「自分でも何かを変えないとダメだと思っていたが、怖さがあった」。1カ月で球速が3キロ増し、140キロだった最速は146キロまで上昇。変化球の曲がりも格段に良くなった。
秋は先発起用も視野に入れたフル回転が求められる。「無失点でリーグ戦を終えて、胴上げ投手になりたい」。24年春以来の頂点へスコアボードに「0」を刻んでいく。
📝「苦しかったな…というのもあります」PL学園“伝説の名将”の孫が甲子園後に明かしたホンネ…「どんな指導者になりたい?」質問への“納得の答え”
https://news.yahoo.co.jp/articles/ebc61f7d69234b6cce3d1de1dab60ca41282f3a8
キャプテンと血筋。佐野日大の中村盛汰にとって何よりも重要なのは前者だ。しかし、世間はどうしても後者をクローズアップしたくなる。
中村順司の孫。PL学園の監督として、1987年に達成した春夏連覇など6度の日本一。甲子園で通算58勝を挙げ、桑田真澄と清原和博の「KK」をはじめ多くの名選手をプロへと送り出した名将の血筋を継ぐ者が甲子園に出場したとなれば、否が応でも話題にされてしまう。
“レジェンド”の祖父に関する質問
センバツに続いて夏も甲子園に出た佐野日大のキャプテンは、試合後の囲み取材になると真っ先に祖父について記者の質問を受ける。やりとりは、だいたいがこんな具合だ。
――試合前に言われたことは?
「『自分ではなくチームの結果を最優先に』と言われるので、その言葉通りのプレーをしたいな、と思います」
――高校野球のレジェンドでもある祖父は、どのような存在か?
「甲子園で1勝するだけでも本当にきつく、大変だったんですけど、それを何度も続けてきたことが非常に偉大だと感じています」
囲み取材中の中村は表情を崩さない。それは、血筋を認めながらも自己証明を果たさんとする覚悟の表れでもあるようだった。福島から富山の新川で高校野球を過ごした3歳上の兄、貫汰の成長を目の当たりにし、中村も県外でのプレーを志した。日大東北で指導する父・猛安は、兄と同じ道を選んだ弟の決断を、このように尊重している。
「甲子園に行くために日大東北を捨てて、佐野日大に行ったわけではないんです。貫汰の自立に後押しされたこともあるでしょうけど、そこから家族ですごく話し合いましたし、盛汰の決意も固かったですからね」
父は息子に告げた。
「高校に入ったらおじいちゃんがいるからとか、いろんなことを言われるぞ。それはお前にとって宿命だからな」
息子は父の言葉を受け止め、背負った。佐野日大のBチームは、下級生の1年生をリーダーに据え、チームに残る2年生がバックアップする仕組みとなっている。同級生のみならず、上級生も牽引する立場となった中村は「道具の整理ができていない」など、細かいところまで指導者から指摘されてきた。Bチーム時代から苦難を知る吉沢悠は、中村の立ち振る舞いに敬意を払う。
「高校に入ってきたときから、ずっと家族のことを言われて苦しいことが多かったし、辛そうな姿もいっぱい見てきたんですけど、本当に弱音を吐かずにやっていました」
1年生の秋からベンチ入り。高校野球のキャリアとしては順調ながら、中村にとってはむしろ試練のほうが多かったくらいだ。猛安が今も心を痛めるほどに焼き付けているのが、昨夏の栃木大会の3回戦である。
「自分のせいで先輩を負けさせてしまった」
栃木工戦の8回、2点リードの場面でマウンドに上がったのが中村だった。内野手ながら制球力に優れていたことを評価されての登板だったが、9回に3点を奪われ逆転を許し、佐野日大は4-5で敗れた。猛安の回想だ。
「負けた瞬間の盛汰は、もう涙も出ないくらいの放心状態でした。本人は口に出しませんでしたが、そこから『自分のせいで先輩を負けさせてしまった。もうチームにこんな思いをさせたくない』という気持ちが、新チームになってすごく出るようになりましたね」
その中村の姿勢の根幹にある精神こそ、祖父の順司と父の猛安が、中村が幼いころから説いていた訓示「球道即人道」だった。PL学園の監督時代から多くの選手に影響を与えてきた格言を、中村は体現した。
「野球っていうのは技術も大切ですけど、それだけじゃなくて運や徳を積むことも大事で。新チームでキャプテンをやらせてもらい『もっと応援されるチームになろう』ということで、挨拶をする、ごみを拾う、室内ではスリッパを並べるとか、そういう細かい部分を詰めるというんですかね。それが『球道即人道』にも込められていまして。そういった小さいことをコツコツとやったことが、結果につながったと思っています」
苦しくとも弱みを見せないキャプテンは、チームメートの痛みにこそ寄り添った。12年ぶりのセンバツ出場と結果を出したのも束の間、苦楽をともに歩んできたショートの吉沢が左足を故障し、欠場を余儀なくされた。
「自分のペースでいいからな」
吉沢はキャプテンからかけられたこのひと言が支えとなったと、感謝を述べる。
「自分は副キャプテンだったので中村をサポートしなくちゃいけない立場だったんですけど、怪我をしたときは本当に自分のことで精いっぱいになってしまって。そこで中村がそう言ってくれて、焦りがなくなりました」
センバツでは初戦で三重に敗れた。春季大会から、それまでのサードから慣れないファーストを守ることになっても、中村は「勝利に直結するポジションだからやりがいがある」と、弱音を吐かずグラウンドに立ち続けた。そんな佇まいが、選手に勇気を与える。セカンドや三塁コーチャーと多岐にわたりチームを支えた千嶋紘史は、「中村がキャプテンだったから」と強調するように言う。
「練習でみんなが乗り気じゃないときも、ひとりで先陣を切って行動できるような真面目さがあって。キャプテンだからみんなにいろいろ言われることもあったんですけど、最後は本当に頼りにされるというか。チームとして彼を中心にまとまっていったなと思います」
夏の甲子園で「2勝」…確かな足跡
中村が「球道即人道」を貫きまとめ上げたチームが、夏に大きな成果を挙げる。
2年生の小島颯人の劇的すぎる逆転サヨナラホームランで決めた、16年ぶりとなる夏の甲子園。初戦で「大会屈指の左腕」と呼ばれた聖隷クリストファーの高部陸を攻略し、2回戦では優勝候補のダークホースに挙げられる神村学園も撃破した。「夏こそ校歌を」と一丸となったチームは、甲子園で2勝し爪痕を残したのである。
栃木大会で打率1割台と調子が上がらなかった中村は、甲子園でも3試合でノーヒットに終わった。健大高崎との3回戦では4回の守備から退いたが、代わりにファーストを守る吉沢に「自分らしく、落ち着いて!」と声を掛け、鼓舞し続けた。キャプテンは試合で劣勢でも、敗れてもなお顔を上げていた。監督の麦倉洋一が「あれだけ」と、宿命を引き合いに目を細める。
「自分の成績がどうであれ、チームのために動ける人間でした。よくまとめてくれたと思います。あれだけのプレッシャーを感じながらそれができるというのは大したものです。人間的に本当に素晴らしいことですよね」
監督だけではなく、吉沢も千嶋も、チームメートたちが中村を「最高のキャプテン」と述べ、感謝を口にしていた。それまで表情を崩すことのなかった最高のキャプテンの顔色は、健大高崎との試合後には少し穏やかになっていたように感じた。だから、少しだけ彼の心に触れてみた。
――「中村順司の孫」という宿命を背負ってきた高校野球はどうだったか?
「なんて言うんですかね……」今までとは異なる空気感をまとい、中村が口を開いた。
「いろんな意味で注目されてしまって、そのなかで自分のプレーもできなくて。祖父の存在があったからこそここまでこられたんですけど、苦しかったなというのもあります」
表情が物語る。間違いなく、それまでの建前ではなく本音だ。だからこそ、もう一歩、彼の心に踏み込むことができた。
――苦しみとは、「中村順司の孫」ではなく「佐野日大の中村盛汰」として見てもらいたい、葛藤のようなものだったのか?
中村は少し間をおいてから「はい」と軽く頷き、このように結んだ。
「父の『宿命だから』という言葉を思い返して、ここまでやってこられたので。この道を選んで、成長できたかなって感じています」
そして、中村家の遺伝子は育まれる。彼も「将来は指導者になりたい」と言った。
「どんな指導者になりたい?」質問への答えは…
――どんな指導者になりたいか?
報道陣から質問が投げられる。彼らはきっと「祖父や父のような」という、理想的な答えを求めていたに違いない。だが、中村はきっぱりと宣言した。
「麦倉監督のような、選手一人ひとりを見て、攻めた采配ができる指導者になりたいです。いつか佐野日大を引っ張って、甲子園に帰ってこられたらいいなと思っています」
PL学園でも日大東北でもなく。そこには、佐野日大の中村盛汰がいた。
☝「夫は兄と同学年」NY留学、経営…妻・千保子さんの異色キャリアが【甲子園優勝校・智弁和歌山】の寮母に繋がるまで
https://news.yahoo.co.jp/articles/dc7544a3ff62ce7d0b2ae7c720963ce781ea4efb?page=1
子どもが野球やスポーツに携わったことがある世代ならば「甲子園優勝」は、ハードな練習を続けた本人の努力と周囲のサポート、そして強運が積み重なったのちに手にする『奇跡の栄光』と身をもって感じているはず。その奇跡を現実に変えた選手たちのメンタル面をサポートしているのが、智弁和歌山野球部寮の寮母を務めている中谷千保子さん(42歳)です。どうしたら、強くブレない気持ちで子ども達に接することができるのか。寮母となるまでの、千保子さんのキャリアと共にお伺いしました。
監督は兄の知り合い、子どもの頃から兄以上に兄のような存在でした
「監督との出会いは中学生の頃。私が育った家庭は野球一家で、私の一番上の兄が野球部で、それぞれ学校は異なりますが監督と同学年で交流があったんです。そんな関係で監督が高校生の頃から実家に頻繁に出入りしていたので、実の兄よりも兄みたいな存在でしたね。出会ってからもうすぐ30年。監督が高校卒業後プロに進んだ後も、兄との関係は続いていたので和歌山に戻った時には実家に遊びにきたり、兄を含めて食事をしたりという間柄でした。私自身は3歳からクラシックバレエを始め、その後、新体操やダンスを始めました。高校卒業後は単身ニューヨークに2年ほどダンス留学へ。帰国後は東京でダンスの仕事を数年したのちに、家族の都合もあり24歳で和歌山に戻りダンススクールとヨガスタジオの経営を始めました。現在も寮のすぐ近くに酵素浴とチョップドサラダの専門店、ヨガスタジオを備えた複合施設「和の酵素〜叶〜」と別の場所でも蓮舞ヨガスタジオを経営しています。」
監督が和歌山に戻るタイミングで、選手のコンディショニングを任されて
「監督との関係はその後もずっと変わらず続いていましたが、2018年から『選手たちの身体のコンディションとメンタルのケアして欲しい』と声をかけていただき、一緒に取り組むことになりました。
経営していたヨガスタジオでは、スポーツ選手の体のケアなどもフォローしていましたし、私とは子どもの頃からの知り合いでお互いに‘素’の部分を知っていたので、監督もやりやすかったのだと思います。その後、2019年に現在の寮「智翔館」が完成した時に「寮母になって欲しい」と請われた時も「いーよ」と即答でお受けしました。寮母となることに不安や抵抗がなかったのは、私自身小学校の頃から実家の近所に全国大会レベルの高校の柔道部の寮があり、そこの監督ご家族と家族ぐるみでお付き合いをしていた部分が大きいですね。小学校4年生の頃からその寮にお手伝いに行くことが楽しくて、食料の買い出しから料理まで様々なお手伝いしていたんです。そこの寮母である監督の奥様はものすごく丁寧な料理をする方で、高校生の寮なのに出汁取りから野菜の面取りまで全て手作りでなされていて。私の寮母としての料理の原点はその方にあります。そんな手の込んだ料理に触れて学び育ったので、寮母となってメンタル面でのサポートに加え、日々の料理を作ることに迷いや不安はありませんでした。結婚したのは2020年、お互い再婚同士です。それまでのお互いのキャリアの点と点が全て繋がった結婚でした。」
怪我の多い選手がきっかけで、酵素浴施設を開業
「私自身、失敗をあまり考えず、とにかくなんでもやってみよう!と走り出す性格で、たとえ失敗したとしても、やらなかったより後悔がないと思えるタイプ。今も監督から『こういうチームを作りたい』『身体作りのためにこんなサポートをしたい』など日々の会話の中に出てきたことをカタチにしていくことにやり甲斐を感じ、私の役目だと思っています。酵素浴のある施設を作ったのも、ちょっとした思いつきがきっかけ。以前に疲労骨折や肉離れを繰り返す選手がいたんです。その子をケアしつつ、いかに早く回復させてチームに復帰させるかが課題だったのですが、その時に自分自身も通っていて血液循環が良くなり治癒力を促すことを実感していた酵素風呂を取り入れたいと思い、実行に移しました。近辺の既存の施設は営業時間が合わなかったり女性限定だったりで選手を通わせることができず、こうなったら自分で作るしかないと思いたち、監督にも相談して2021年に今の施設を完成させました。きっかけとなった選手は卒業した後の完成となってしまったのは残念ですが、現在も選手たちの身体のケアに酵素浴を取り入れています。ちなみに酵素浴が役に立ったのか、完成の年に中谷智弁として1度目の甲子園優勝を果たしました。」
甲子園優勝は一つの通過点 自らこの先の人生を切り開く力をつけてほしい
常にポジティブな姿勢で自らの人生も、選手たちとも向き合ってきた千保子さん。甲子園優勝という『奇跡の栄光』を手にした選手たちが優勝旗を手に宿舎に戻った時にかけた声も、祝福だけではなくその先の人生に目を向かせる言葉でした。
「甲子園優勝は素晴らしい結果で、もちろん私も嬉しかったです。一方で優勝メンバーはこれから先の人生ずっと『甲子園優勝』という看板を背負って生きていくことになるんです。進学しても、就職しても、社会人やプロとして野球を続けても、それはずっとついてまわります。だから寮に戻った選手たちには『甲子園優勝した誰々という看板はずっとつきまとう、その価値を下げないようにこれから先の人生は更にアップデートが必要。ある意味、人生のハードルが上がったのだから気を引き締めて』と言葉をかけました。優勝は、あくまで2026年8月22日まで彼らが歩んできた道の答え合わせです。8月23日からは新しい道を歩んでいくという意識を持たないといけません。だって、彼らの人生先の方がはるかに長いのですから。私は日頃から、勝ちにも負けにも価値があると思っています。勝ったら「その理由」を考え学ぶことがありますし、負けた時も「その理由」を考えその時だから響く言葉や痛みの意味を知るという経験も人生には必要なこと。彼らがこれから先の人生、自分自身でどれだけ豊かで幸せな人生を切り開いていく力を持っているか、こちら方が重要なんです。私の目標は彼らが社会に出た時に「この子がいてよかった!」と言われる人間を育成すること。答えが出るのは今じゃなくていい。この先、彼らがどんな人生を歩んでいくのかそれを見守っていくのが私の寮母としての最大の楽しみです。」
甲子園優勝から2日後。8月24日に開かれた秋季和歌山大会新人戦に智弁和歌山は新チームで挑み、2回戦で和歌山東に2-5で敗れ、秋季県大会は一次戦に回ることになりました。新人戦で4強に入れば来春の選抜出場をかけた県大会に2次戦から出場できたところを、この黒星で1次戦から出場することに。
選手たちは今きっと、「勝ちにも負けにも意味がある」中谷千保子さんのこの言葉に支えられ、新しい道を歩んでいるに違いありません。
👣高校野球の“名将”強力『ヒグマ打線』の指導者 クラーク国際記念高校・佐々木啓司監督(70)が勇退「すばらしい野球生活だった」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e4d2e47ccfe4e6d0a9b1f88b627a5c3b97de5cdc
高校野球、クラーク国際記念高校・硬式野球部の佐々木啓司監督(70)が、9月2日退任することを発表しました。
佐々木監督は、1978年から駒大岩見沢の監督や部長を務めたあと、2014年に、クラーク国際記念高校の監督に就任。春夏合わせて16度、甲子園出場に導きました。駒大岩見沢時代には「ヒグマ打線」と呼ばれる強力打線の指導者として名をはせました。
佐々木啓司監督「すばらしい野球生活を送らせてもらった。人からの思いを大切にしてきたのが、これまで頑張ってこれた原動力になった」
後任は、息子の達也さん(42)が監督となり、佐々木監督は、名誉監督に就任します。
📝“甲子園優勝”智弁和歌山を「最も苦しめた男」は何者だった?「甲子園、見に行ったんですよ」まさかの「夢は美容師」だった“公立校の151キロ右腕”の軌跡
https://news.yahoo.co.jp/articles/ae9330d5b1d0b752444c9e1bd1ed226fa0b528ba
持ち前の強打を活かし、夏の甲子園で頂点に立った智弁和歌山。だが、実は和歌山大会準々決勝では、ある右腕の前に最後の最後まで苦しめられた。果たして全国王者を追い詰めた公立校のエースとは何者だったのか? その「意外な夢」と合わせて本人に話を聞いた。
8月末のある日。すでに秋の公式戦が始まっている市和歌山のグラウンドは、週末の一戦に向けた新チームの練習で活気にあふれていた。その傍らで髪の毛が伸びた練習着姿の3年生が野球道具を抱えてやってくると、軽く練習を開始。白いチームのTシャツに身を包んだ丹羽涼介も、その中で笑顔を見せながらグローブを手にした。細身ですらっとした立ち姿は相変わらずだ。高校野球を引退し、夏休みを経た3年生はこの時点で体型が少し変わっていることはあるが、丹羽は現役時代そのままだった。
夏休みは満喫できたのかを問うと、丹羽の口からこう返ってきた。
「甲子園、見に行っていたんですよ。智弁の試合を……2試合、見に行きました」
聞くと初戦の社戦、準決勝の横浜戦を現地観戦したという。これまでの丹羽のクールなイメージからすると、ライバル校の試合など、むしろ見たくないのではと勝手な印象を持っていた。だが、やはり県で何度も戦ったライバルの勇姿を見届けたかったのと、小・中学校でチームメイトだった背番号12の井戸本陽向の応援のため、聖地に駆けつけたのだという。
「(準決勝の横浜戦で)楠本(龍生)がホームランを打った時、スタンドが揺れていました。すごかったですよね」
智弁の打者は「生き生きとバットを振っていた」
当時の衝撃を丹羽はやや興奮気味に口にする。そして5年ぶりに全国制覇を成し遂げた智弁和歌山の打者について、こんな印象も持っていた。
「智弁和歌山のバッターは、甲子園に来てから生き生きとバットを振っているように見えました。そこが県大会とは違っていたような気がします」
県大会5試合、甲子園で5試合。智弁和歌山が今夏の全国制覇に至るまで戦った計10試合で、同校の打線を最も抑えたのは、実は丹羽だった。県大会準々決勝で対戦し先発。敗れはしたが、4回2死まで無安打投球など9回を投げ切り6安打2失点だった。
この試合以前に丹羽は3度、智弁和歌山打線に相対している。智弁和歌山打線には慣れていたのでは、と思いがちだが、この夏の快投に至るまでの道のりは決して平坦ではなかった。
丹羽は市和歌山では1年春からベンチ入り。秋には投手陣の一角を担い、秋季近畿大会に出場した。準決勝の智弁和歌山戦。1-6とリードされた8回に4番手投手として登板したのが智弁和歌山戦の初登板だった。結果は2安打を許すも無失点。直球は137キロをマークするなど1年生としては上々の内容だった。
丹羽は和歌山大会のメイン球場の紀三井寺球場近くで育った生粋の“和歌山っ子”だ。当然、智弁和歌山の県内での強さは、幼い頃から肌で感じてきた。
「とにかく名前負けはしないようにと。その思いだけは持ちながら投げるようにしてきました」
昨春のセンバツで好投…一躍「プロ注目」の投手に
その翌春、つまり昨春センバツは智弁和歌山とのアベック出場を果たした。市和歌山は初戦で横浜と対戦。先発したエースの土井源二郎から引き継いで3回途中から登板した丹羽は、のちに優勝することになった強力打線を相手に6回2/3を投げて2安打1失点。奪三振は8個を数えた。直球は秋から10キロアップの147キロをマークするなど上々の数字を残し、「あの2年生右腕は誰なんだ」と、丹羽の株は一気に跳ね上がった。
直後の春の県大会ではその直球の球速が150キロに届き、来秋のドラフト候補と言われるまでになったが、そこから丹羽の苦悩の日々が続くことになる。
2年夏は智弁和歌山と準々決勝で対戦し、先発のマウンドに立った。だが初回からボール先行のピッチングが続き、5回途中8安打5失点で降板している。5四死球も失点に絡んでおり、打たれた数字以上に自滅したという表現の方が合っていたかもしれない。試合は0-7(8回コールド)で完敗。ただ、センバツからの注目度は結果に全く関係はなかったという。
「あの頃、自分はまだ下級生でしたし、気楽に投げられていたので、センバツのことは特に気にはなりませんでした。でも秋に最上級生になって、エース番号をつけるようになったら自分がチームを勝たせられるようにならないといけない。そう思うほど、苦しんだこともありました」
エースとして臨んだ昨秋は近畿大会まで勝ち進むも初戦で大阪桐蔭に1-7で敗れた。そこから長い冬に突入。課題は明確だった。まず、どうしてもかさんでしまう球数の多さ。2年夏に敗れた試合は5回途中で球数がすでに100球超えだった。
「フォアボールを出してしまうと、どうしてもストライクを入れないと、という気持ちが一層強くなるんです。そこから余計に慎重になって、またボールになってしまって」
満を持して迎えた春大会で…「まさかの大乱調」
制球力を磨くことに時間をかけ、迎えた今春の県大会。初戦でいきなり智弁和歌山と激突することになった。昨夏に続く先発のマウンドに立ったが、やはり初回からボールが先行した。毎回走者を背負い、6回を投げ4安打5失点。7四死球を与えるなどスタンドに陣取ったNPBスカウトからも深い溜息が漏れるような内容だった。
夏までにもう時間はない。もう一度自分を見つめ直すべく、体幹を作り直すためのトレーニングやウエイトトレーニングを敢行した。だが、すぐに上手くいったわけではない。半田真一監督も当時の丹羽についてこう明かす。
「バランスが崩れて球速も落ちて、毎日フォームが違う。もう、もがいていましたね。丹羽自身、どこかこうイライラしているようにも見えました。でも、夏の話に触れると本人は“夏は絶対にやります”って言うんですよ。気持ちはちゃんと夏に向いてはいたと思うんです。夏こそは智弁を倒して甲子園に行くという覚悟はできていたと思うんですが、実際は気持ちと身体がなかなかマッチングしない。だから、見ていて痛々しかったですね」
「このまま野球をやっていていいのかな」
フォームに関して、丹羽はこんな話もしていた。
「(今年の)春くらいに、山本由伸投手(ドジャース)のフォームを参考にして投げていた時期があったんです。智弁和歌山戦後にそのフォームで投げてみようとか試したんですけど、うまくいかなくて。その後に去年のセンバツの時のフォームに戻してもダメで。何をやってもしっくり来なくて、このまま野球をやっていていいのかなと思ったこともありました」
小園健太(DeNA)ら主に投手を指導してきた舩津直也副部長(現・箕島高監督)がこの4月に異動したことも少なからず影響はあった。この時期が丹羽にとって「高校に入学して一番苦しかった時期」だったという。練習試合でも直球の球速は140キロはおろか、130キロ台後半まで落ち、NPBスカウトの中でも「丹羽が大変なことになっている」という言葉すら聞かれはじめていた。
<次回へつづく>
📝「プロにするか、美容師の道に進むか…」“甲子園優勝”智弁和歌山を「最も苦しめた男」の進路はどうなった? 公立校151キロ右腕の“決意”のワケ
https://number.bunshun.jp/articles/-/871791?utm_source=news.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=relatedLink
プロ注目の151キロ右腕だった市立和歌山の丹羽涼介。だが、今春からはフォームを変更したことによるスランプに悩んでいた。
7月に入っても復調の兆しはなかなか見えてこなかった。やがて夏の大会が始まり、初戦(2回戦)の田辺工戦で先発した丹羽は、5安打1失点とまずまずの内容で夏の初戦を突破した。それでもその日のピッチングについて尋ねると、丹羽の表情は晴れなかった。
「全然ダメでした。やっぱりコントロールが良くなかったです(※与四死球は5個)。自分が思っていたような内容ではなかったです」
智弁和歌山戦まで中5日あったが、実はその間も何かが劇的に変わることもなく当日を迎えたのだという。
「智弁和歌山戦前日のブルペンも、あまり良くないままでした。思ったようなボールはほとんどなかったですね。でも、最後の夏やし明日はもう抑えるしかないと。開き直りというか。もう、やるしかないと思うようになって。あれこれ気にしていたら悪い方向にばかりいってしまうので、当たって砕けろみたいな気持ちになりました」
余計なことは考えず、腕を振ればいい。気持ちをフラットに臨んだ“決戦”。その姿勢が反対に無駄な力を抜き、丹羽らしさを出せたのかもしれない。
智弁和歌山の上位打線をわずか3球で…掴んだ手応え
初回。1番の長友悠成を遊ゴロ、2番の荒井優聖を中飛、3番の井本陽太を二ゴロ。あの脅威の上位打線を3球で仕留められた。思わぬ滑り出しとなり、今までにはなかった手応えを掴んだ気もした。
「自分はもともと立ち上がりが課題でした。全て初球を打ってくれたのもあったんですけれど、こういう形で初回を終われたことは自分に流れが来ているのかなと思いました」
3回までは無安打に抑え、4回、5回は安打を許すも後続を断った。6回には満塁のピンチを背負ったが、あと1本を許さなかった。練習試合ではなかなか球速が上がらなかった速球も、序盤には150キロをマーク。速球とカットボールとのコンビネーションで智弁和歌山打線を抑え込み、気づけば7回になっていた。
裏目に出た「賭け」…無安打での失点
だが8回、丹羽が挑んだ“ギャンブル”が裏目に出る。
「7回までに使っていなかったカーブを投げたんです。それが(長友への)死球になってしまって」
この日の丹羽は、変化球にカットボールが多かった。そのため、打者の目を惑わす意味でカーブを投げた。だが、それが指に引っかかってしまい、先頭打者の長友への死球となった。その後は暴投で一気に三塁を陥れられ、犠飛で1点を失った。9回は3連打でさらに1点を失った。0-2。終盤まで粘り切ったものの、最後は力尽きた。ただ、これまでの敗戦を思うと丹羽の心中は清々しかった。
「全部出し切れた、というのはあります。(9回の追加点の口火を切ることになった)二塁打を打たれたのが(小学校・中学校と同じチームだった)井戸本(陽向)だったので、あの場面はこうしておけば……というのはありますけど。今まで悔しいまま終わったことを思うと、最後の最後に力は出せたのかなと思いました」
甲子園優勝後の取材で、中谷仁監督は何度も「和歌山の良い投手とばかり対戦して、和歌山のピッチャーに育ててもらった」とコメントしていた。智弁和歌山ナインからは、甲子園の準決勝後に「これまで対戦した投手の中で横浜・織田翔希が断トツ凄かった」という声が聞かれる中で「丹羽のストレートのキレとカットボールが良かった」と口にする者もいた。
「智弁和歌山打線は初球からガンガン振ってくるので、そこをうまく利用しようと思いました。どんなバッターでも厳しいコースをしっかり攻めればそう簡単に打たれないと思ったので。ただ、智弁和歌山の打者はとにかく三振が少ないんです。三振を取りたい場面ほど三振をしない。そこに自分は何度も苦しめられました」
その快投でNPBスカウトからの評価が一気に変わるのか――。多くの可能性も残したまま丹羽の将来への話に繋がっていくはずだが、丹羽に関してもうひとつ気になっていたのが「美容師志望」という報道だった。その報道が出たのは今年の3月。あるセンバツ出場校との練習試合後の記事で、プロ注目とされながら実は美容師志望でもあることが明かされたのだ。これまでマークしてきたNPBスカウトからしても、まさに「寝耳に水」の話で、半田(真一)監督のもとにも多くの問い合わせがあったという。丹羽自身も「色んな人から(美容師のことを)たくさん聞かれました」としたうえで当時のことをこう明かす。
「親からは猛反対されました(苦笑)。色々な人から、『何で美容師?』とも言われましたけど、実はずっと進路に関しては悩んでいたんです」
なぜ美容師に興味を持ったのか?
初めて美容師という職業に興味を持ったのは、高校1年の冬だった。ちょうど野球シーズンがオフの時期で、実戦よりも地道な練習の日々でもあった。だが、野球に関して「実はうまくいかないことが多かった」時期でもあったという。
「地元の友達で美容師を目指す専門学校に通っている人が結構いて、美容師に関する話を聞いていくうちに、かっこいいなと思うようになったんです」
違った業界で活躍を夢見る同世代の友達が、時にはうらやましく思った。ただ、自分の目の前にあるのは野球。野球で頑張るしかないのは分かっていたが、この頃の丹羽は何をやってもうまくいかなかった。いっそのこと、野球のことは忘れて自分もそんな業界へ行った方が意外と合っているのではないか――。そんな気持ちになっていた。半田監督にとっても丹羽の美容師志望の話は寝耳に水だった。
「丹羽は中学時代に(世界少年野球大会の)西日本選抜チームに選ばれるようなピッチャーでしたし、プロの世界に送り出すために二人三脚でやりながら、どうプロデュースしていくか。そんなことをずっと考えていたので。美容師志望の話を聞いた時は本当に驚きました」
もちろん進路については何度も話し合った。それでも本人は「絶対にプロに行きたいです」とキッパリ言い切るわけではなく、迷っていることだけを口にしていたという。
「おそらく野球でうまくいかなかった時期に(美容師の)話を聞いて、心が揺れたんでしょうね。2年生になってからはどんどん注目されて、スカウトの方も見に来られるのに結果が出ない。自分が何をどうしていけばいいのか分からない。それは僕にも分からない彼のしんどさもあったと思うんです」
3年生になってからは投げることどころか、野球をこのまま続けて良いのか不安もあった。長いトンネルの中をさまよう中で、丹羽はある結論を出していた。
「プロ志望にするか、美容師の道に進むか、この夏の結果次第で決めようと思いました。この夏もダメだったら美容師を選んでいたかもしれません。でも、智弁和歌山を相手にああいうピッチングを最後に出来たことが(プロ志望の意思を固める)きっかけになりました」
「智弁和歌山が甲子園で優勝したことも…」
さらに丹羽はこう続ける。
「智弁和歌山が甲子園で優勝したことも要因のひとつです。あれだけの打線を抑えることができたので、自分にはまだ可能性があるかもしれないと思ったんです」
8月下旬にさしかかる頃、丹羽は自ら半田監督にメッセージを送信した。
「プロ志望届を出すことに決めました」
その言葉に安堵した指揮官だったが、丹羽のここまでの歩みについてこう口にした。
「今まではうまくいっていないことの方がほとんどだったと思います。プロに行きたいからと市和歌山に来てくれたのに、それからモチベーションや調子が落ちた時期もあって。それでも、センバツでは思わぬ形で登板が巡ってきて好投したり、最後の最後で良いピッチングで高校野球を終えることができたり……丹羽は“持っている”なと。そこは丹羽らしかったのかなと思うんです」
もちろん、プロは志望するだけがゴールではない。これから身体作り等の準備やプロで生きていくための心構えなども含め、様々な覚悟を持ってこそ挑戦できる。悔しさの分だけ成長できるとはよく言うが、悔しい思いをした時が多いからこそ、高校野球で明かせずに終わった未知数な部分も多い。
果たして丹羽のその“可能性”に賭ける球団は現れるのか――。土ぼこりが舞うグラウンドでキャッチボールに向かう右腕を、晩夏の太陽がいつまでも熱く照らし続けていた。
📝甲子園の常連「智辯学園和歌山高校」。進学でも実績を上げる仏教系新興勢力、その独自教育とは…
https://news.yahoo.co.jp/articles/e53807e587cbba1c4fc35f9a573dd20ed9655f6d
◆智辯学園和歌山高校 私立/共学/小中高一貫/和歌山県和歌山市冬野
進学でも高校野球でも実績を上げる仏教系新興勢力
智辯学園高校と智辯学園和歌山高校は甲子園の常連である。経営しているのは、辯天宗という高野山真言宗の流れを汲む仏教系新宗教の法人である。
宗祖の大森智辯は奈良県吉野町の出身だが、夫が和歌山市生まれで奈良県五條市の十輪寺の修行僧だったことが、奈良と和歌山での学校設立につながる。
昭和40年(1965)に智辯学園高校を開校し、その3年後に初の甲子園出場を果たした。そして昭和53年(1978)、和歌山県からの要請を受けて和歌山校を開設した。五條市の智辯学園では、和歌山県下からの通学生が3割にも上っていたことが動機だった。
智辯和歌山は、高校1期生にあたる昭和56年(1981)から京大合格者を出し、野球部も昭和60年(1985)に選抜に初出場。平成5年(1993)には東大合格者数が20名を突破、その翌年には選抜で優勝を遂げ、その後、夏の甲子園で3回の優勝を果たした。2026年には猛暑のなか圧倒的な攻撃力で打ち勝った。この2回の優勝時の監督は、OBで阪神タイガースなどで活躍した中谷仁。
また、平成14年(2002)には小学校を開校している。
◆学校がめざす重点目標
学校がめざす重点目標は、「一日一善、学力向上、挨拶励行」である。毎朝スピーカーから担当の教師が読み上げる真言、宝号を各クラスの生徒全員が唱和する。そして、日替わりの「宗祖様のお言葉」を聞く。
新興の学校なので著名人はまだすくないが、西川遥輝(プロ野球)、中谷仁(プロ野球)、泊幸秀(分子生物学)、宮野真生子(哲学者)、ZAZYの赤井俊之(お笑い芸人)。
JR和歌山駅から8キロほど南にあり、紀勢線の紀三井寺駅の次の駅である黒江駅から徒歩10分ほどである。岸和田など、大阪府下から通う生徒も二割ほどいる。
桐蔭高校の卒業生である、竹中平蔵と元の和歌山県知事の仁坂吉伸は同学年だったが、彼らが大学に進学した1970年頃は桐蔭高校から10名程度が東京大学に合格していた。
しかし、学区が細かく分かれて、しかも、和歌山市の学区が2分割されたので、公立高校の凋落が進み、智辯学園和歌山高校が伸びた。だが、その後の学区制の廃止や中高一貫制の導入もあって、再び桐蔭高校の復活も見られる。2026年度入試では、智辯学園和歌山高校は、東京大学に5名、京都大学に12名、大阪大学に16名だった。桐蔭高校が東京大学に2名、京都大学に4名、大阪大学に8名といった合格者数になっている。
私学では、近畿大学附属和歌山高校(和歌山市)も上昇傾向にある。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e4d2e47ccfe4e6d0a9b1f88b627a5c3b97de5cdc
高校野球、クラーク国際記念高校・硬式野球部の佐々木啓司監督(70)が、9月2日退任することを発表しました。
佐々木監督は、1978年から駒大岩見沢の監督や部長を務めたあと、2014年に、クラーク国際記念高校の監督に就任。春夏合わせて16度、甲子園出場に導きました。駒大岩見沢時代には「ヒグマ打線」と呼ばれる強力打線の指導者として名をはせました。
佐々木啓司監督「すばらしい野球生活を送らせてもらった。人からの思いを大切にしてきたのが、これまで頑張ってこれた原動力になった」
後任は、息子の達也さん(42)が監督となり、佐々木監督は、名誉監督に就任します。
📝“甲子園優勝”智弁和歌山を「最も苦しめた男」は何者だった?「甲子園、見に行ったんですよ」まさかの「夢は美容師」だった“公立校の151キロ右腕”の軌跡
https://news.yahoo.co.jp/articles/ae9330d5b1d0b752444c9e1bd1ed226fa0b528ba
持ち前の強打を活かし、夏の甲子園で頂点に立った智弁和歌山。だが、実は和歌山大会準々決勝では、ある右腕の前に最後の最後まで苦しめられた。果たして全国王者を追い詰めた公立校のエースとは何者だったのか? その「意外な夢」と合わせて本人に話を聞いた。
8月末のある日。すでに秋の公式戦が始まっている市和歌山のグラウンドは、週末の一戦に向けた新チームの練習で活気にあふれていた。その傍らで髪の毛が伸びた練習着姿の3年生が野球道具を抱えてやってくると、軽く練習を開始。白いチームのTシャツに身を包んだ丹羽涼介も、その中で笑顔を見せながらグローブを手にした。細身ですらっとした立ち姿は相変わらずだ。高校野球を引退し、夏休みを経た3年生はこの時点で体型が少し変わっていることはあるが、丹羽は現役時代そのままだった。
夏休みは満喫できたのかを問うと、丹羽の口からこう返ってきた。
「甲子園、見に行っていたんですよ。智弁の試合を……2試合、見に行きました」
聞くと初戦の社戦、準決勝の横浜戦を現地観戦したという。これまでの丹羽のクールなイメージからすると、ライバル校の試合など、むしろ見たくないのではと勝手な印象を持っていた。だが、やはり県で何度も戦ったライバルの勇姿を見届けたかったのと、小・中学校でチームメイトだった背番号12の井戸本陽向の応援のため、聖地に駆けつけたのだという。
「(準決勝の横浜戦で)楠本(龍生)がホームランを打った時、スタンドが揺れていました。すごかったですよね」
智弁の打者は「生き生きとバットを振っていた」
当時の衝撃を丹羽はやや興奮気味に口にする。そして5年ぶりに全国制覇を成し遂げた智弁和歌山の打者について、こんな印象も持っていた。
「智弁和歌山のバッターは、甲子園に来てから生き生きとバットを振っているように見えました。そこが県大会とは違っていたような気がします」
県大会5試合、甲子園で5試合。智弁和歌山が今夏の全国制覇に至るまで戦った計10試合で、同校の打線を最も抑えたのは、実は丹羽だった。県大会準々決勝で対戦し先発。敗れはしたが、4回2死まで無安打投球など9回を投げ切り6安打2失点だった。
この試合以前に丹羽は3度、智弁和歌山打線に相対している。智弁和歌山打線には慣れていたのでは、と思いがちだが、この夏の快投に至るまでの道のりは決して平坦ではなかった。
丹羽は市和歌山では1年春からベンチ入り。秋には投手陣の一角を担い、秋季近畿大会に出場した。準決勝の智弁和歌山戦。1-6とリードされた8回に4番手投手として登板したのが智弁和歌山戦の初登板だった。結果は2安打を許すも無失点。直球は137キロをマークするなど1年生としては上々の内容だった。
丹羽は和歌山大会のメイン球場の紀三井寺球場近くで育った生粋の“和歌山っ子”だ。当然、智弁和歌山の県内での強さは、幼い頃から肌で感じてきた。
「とにかく名前負けはしないようにと。その思いだけは持ちながら投げるようにしてきました」
昨春のセンバツで好投…一躍「プロ注目」の投手に
その翌春、つまり昨春センバツは智弁和歌山とのアベック出場を果たした。市和歌山は初戦で横浜と対戦。先発したエースの土井源二郎から引き継いで3回途中から登板した丹羽は、のちに優勝することになった強力打線を相手に6回2/3を投げて2安打1失点。奪三振は8個を数えた。直球は秋から10キロアップの147キロをマークするなど上々の数字を残し、「あの2年生右腕は誰なんだ」と、丹羽の株は一気に跳ね上がった。
直後の春の県大会ではその直球の球速が150キロに届き、来秋のドラフト候補と言われるまでになったが、そこから丹羽の苦悩の日々が続くことになる。
2年夏は智弁和歌山と準々決勝で対戦し、先発のマウンドに立った。だが初回からボール先行のピッチングが続き、5回途中8安打5失点で降板している。5四死球も失点に絡んでおり、打たれた数字以上に自滅したという表現の方が合っていたかもしれない。試合は0-7(8回コールド)で完敗。ただ、センバツからの注目度は結果に全く関係はなかったという。
「あの頃、自分はまだ下級生でしたし、気楽に投げられていたので、センバツのことは特に気にはなりませんでした。でも秋に最上級生になって、エース番号をつけるようになったら自分がチームを勝たせられるようにならないといけない。そう思うほど、苦しんだこともありました」
エースとして臨んだ昨秋は近畿大会まで勝ち進むも初戦で大阪桐蔭に1-7で敗れた。そこから長い冬に突入。課題は明確だった。まず、どうしてもかさんでしまう球数の多さ。2年夏に敗れた試合は5回途中で球数がすでに100球超えだった。
「フォアボールを出してしまうと、どうしてもストライクを入れないと、という気持ちが一層強くなるんです。そこから余計に慎重になって、またボールになってしまって」
満を持して迎えた春大会で…「まさかの大乱調」
制球力を磨くことに時間をかけ、迎えた今春の県大会。初戦でいきなり智弁和歌山と激突することになった。昨夏に続く先発のマウンドに立ったが、やはり初回からボールが先行した。毎回走者を背負い、6回を投げ4安打5失点。7四死球を与えるなどスタンドに陣取ったNPBスカウトからも深い溜息が漏れるような内容だった。
夏までにもう時間はない。もう一度自分を見つめ直すべく、体幹を作り直すためのトレーニングやウエイトトレーニングを敢行した。だが、すぐに上手くいったわけではない。半田真一監督も当時の丹羽についてこう明かす。
「バランスが崩れて球速も落ちて、毎日フォームが違う。もう、もがいていましたね。丹羽自身、どこかこうイライラしているようにも見えました。でも、夏の話に触れると本人は“夏は絶対にやります”って言うんですよ。気持ちはちゃんと夏に向いてはいたと思うんです。夏こそは智弁を倒して甲子園に行くという覚悟はできていたと思うんですが、実際は気持ちと身体がなかなかマッチングしない。だから、見ていて痛々しかったですね」
「このまま野球をやっていていいのかな」
フォームに関して、丹羽はこんな話もしていた。
「(今年の)春くらいに、山本由伸投手(ドジャース)のフォームを参考にして投げていた時期があったんです。智弁和歌山戦後にそのフォームで投げてみようとか試したんですけど、うまくいかなくて。その後に去年のセンバツの時のフォームに戻してもダメで。何をやってもしっくり来なくて、このまま野球をやっていていいのかなと思ったこともありました」
小園健太(DeNA)ら主に投手を指導してきた舩津直也副部長(現・箕島高監督)がこの4月に異動したことも少なからず影響はあった。この時期が丹羽にとって「高校に入学して一番苦しかった時期」だったという。練習試合でも直球の球速は140キロはおろか、130キロ台後半まで落ち、NPBスカウトの中でも「丹羽が大変なことになっている」という言葉すら聞かれはじめていた。
<次回へつづく>
📝「プロにするか、美容師の道に進むか…」“甲子園優勝”智弁和歌山を「最も苦しめた男」の進路はどうなった? 公立校151キロ右腕の“決意”のワケ
https://number.bunshun.jp/articles/-/871791?utm_source=news.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=relatedLink
プロ注目の151キロ右腕だった市立和歌山の丹羽涼介。だが、今春からはフォームを変更したことによるスランプに悩んでいた。
7月に入っても復調の兆しはなかなか見えてこなかった。やがて夏の大会が始まり、初戦(2回戦)の田辺工戦で先発した丹羽は、5安打1失点とまずまずの内容で夏の初戦を突破した。それでもその日のピッチングについて尋ねると、丹羽の表情は晴れなかった。
「全然ダメでした。やっぱりコントロールが良くなかったです(※与四死球は5個)。自分が思っていたような内容ではなかったです」
智弁和歌山戦まで中5日あったが、実はその間も何かが劇的に変わることもなく当日を迎えたのだという。
「智弁和歌山戦前日のブルペンも、あまり良くないままでした。思ったようなボールはほとんどなかったですね。でも、最後の夏やし明日はもう抑えるしかないと。開き直りというか。もう、やるしかないと思うようになって。あれこれ気にしていたら悪い方向にばかりいってしまうので、当たって砕けろみたいな気持ちになりました」
余計なことは考えず、腕を振ればいい。気持ちをフラットに臨んだ“決戦”。その姿勢が反対に無駄な力を抜き、丹羽らしさを出せたのかもしれない。
智弁和歌山の上位打線をわずか3球で…掴んだ手応え
初回。1番の長友悠成を遊ゴロ、2番の荒井優聖を中飛、3番の井本陽太を二ゴロ。あの脅威の上位打線を3球で仕留められた。思わぬ滑り出しとなり、今までにはなかった手応えを掴んだ気もした。
「自分はもともと立ち上がりが課題でした。全て初球を打ってくれたのもあったんですけれど、こういう形で初回を終われたことは自分に流れが来ているのかなと思いました」
3回までは無安打に抑え、4回、5回は安打を許すも後続を断った。6回には満塁のピンチを背負ったが、あと1本を許さなかった。練習試合ではなかなか球速が上がらなかった速球も、序盤には150キロをマーク。速球とカットボールとのコンビネーションで智弁和歌山打線を抑え込み、気づけば7回になっていた。
裏目に出た「賭け」…無安打での失点
だが8回、丹羽が挑んだ“ギャンブル”が裏目に出る。
「7回までに使っていなかったカーブを投げたんです。それが(長友への)死球になってしまって」
この日の丹羽は、変化球にカットボールが多かった。そのため、打者の目を惑わす意味でカーブを投げた。だが、それが指に引っかかってしまい、先頭打者の長友への死球となった。その後は暴投で一気に三塁を陥れられ、犠飛で1点を失った。9回は3連打でさらに1点を失った。0-2。終盤まで粘り切ったものの、最後は力尽きた。ただ、これまでの敗戦を思うと丹羽の心中は清々しかった。
「全部出し切れた、というのはあります。(9回の追加点の口火を切ることになった)二塁打を打たれたのが(小学校・中学校と同じチームだった)井戸本(陽向)だったので、あの場面はこうしておけば……というのはありますけど。今まで悔しいまま終わったことを思うと、最後の最後に力は出せたのかなと思いました」
甲子園優勝後の取材で、中谷仁監督は何度も「和歌山の良い投手とばかり対戦して、和歌山のピッチャーに育ててもらった」とコメントしていた。智弁和歌山ナインからは、甲子園の準決勝後に「これまで対戦した投手の中で横浜・織田翔希が断トツ凄かった」という声が聞かれる中で「丹羽のストレートのキレとカットボールが良かった」と口にする者もいた。
「智弁和歌山打線は初球からガンガン振ってくるので、そこをうまく利用しようと思いました。どんなバッターでも厳しいコースをしっかり攻めればそう簡単に打たれないと思ったので。ただ、智弁和歌山の打者はとにかく三振が少ないんです。三振を取りたい場面ほど三振をしない。そこに自分は何度も苦しめられました」
その快投でNPBスカウトからの評価が一気に変わるのか――。多くの可能性も残したまま丹羽の将来への話に繋がっていくはずだが、丹羽に関してもうひとつ気になっていたのが「美容師志望」という報道だった。その報道が出たのは今年の3月。あるセンバツ出場校との練習試合後の記事で、プロ注目とされながら実は美容師志望でもあることが明かされたのだ。これまでマークしてきたNPBスカウトからしても、まさに「寝耳に水」の話で、半田(真一)監督のもとにも多くの問い合わせがあったという。丹羽自身も「色んな人から(美容師のことを)たくさん聞かれました」としたうえで当時のことをこう明かす。
「親からは猛反対されました(苦笑)。色々な人から、『何で美容師?』とも言われましたけど、実はずっと進路に関しては悩んでいたんです」
なぜ美容師に興味を持ったのか?
初めて美容師という職業に興味を持ったのは、高校1年の冬だった。ちょうど野球シーズンがオフの時期で、実戦よりも地道な練習の日々でもあった。だが、野球に関して「実はうまくいかないことが多かった」時期でもあったという。
「地元の友達で美容師を目指す専門学校に通っている人が結構いて、美容師に関する話を聞いていくうちに、かっこいいなと思うようになったんです」
違った業界で活躍を夢見る同世代の友達が、時にはうらやましく思った。ただ、自分の目の前にあるのは野球。野球で頑張るしかないのは分かっていたが、この頃の丹羽は何をやってもうまくいかなかった。いっそのこと、野球のことは忘れて自分もそんな業界へ行った方が意外と合っているのではないか――。そんな気持ちになっていた。半田監督にとっても丹羽の美容師志望の話は寝耳に水だった。
「丹羽は中学時代に(世界少年野球大会の)西日本選抜チームに選ばれるようなピッチャーでしたし、プロの世界に送り出すために二人三脚でやりながら、どうプロデュースしていくか。そんなことをずっと考えていたので。美容師志望の話を聞いた時は本当に驚きました」
もちろん進路については何度も話し合った。それでも本人は「絶対にプロに行きたいです」とキッパリ言い切るわけではなく、迷っていることだけを口にしていたという。
「おそらく野球でうまくいかなかった時期に(美容師の)話を聞いて、心が揺れたんでしょうね。2年生になってからはどんどん注目されて、スカウトの方も見に来られるのに結果が出ない。自分が何をどうしていけばいいのか分からない。それは僕にも分からない彼のしんどさもあったと思うんです」
3年生になってからは投げることどころか、野球をこのまま続けて良いのか不安もあった。長いトンネルの中をさまよう中で、丹羽はある結論を出していた。
「プロ志望にするか、美容師の道に進むか、この夏の結果次第で決めようと思いました。この夏もダメだったら美容師を選んでいたかもしれません。でも、智弁和歌山を相手にああいうピッチングを最後に出来たことが(プロ志望の意思を固める)きっかけになりました」
「智弁和歌山が甲子園で優勝したことも…」
さらに丹羽はこう続ける。
「智弁和歌山が甲子園で優勝したことも要因のひとつです。あれだけの打線を抑えることができたので、自分にはまだ可能性があるかもしれないと思ったんです」
8月下旬にさしかかる頃、丹羽は自ら半田監督にメッセージを送信した。
「プロ志望届を出すことに決めました」
その言葉に安堵した指揮官だったが、丹羽のここまでの歩みについてこう口にした。
「今まではうまくいっていないことの方がほとんどだったと思います。プロに行きたいからと市和歌山に来てくれたのに、それからモチベーションや調子が落ちた時期もあって。それでも、センバツでは思わぬ形で登板が巡ってきて好投したり、最後の最後で良いピッチングで高校野球を終えることができたり……丹羽は“持っている”なと。そこは丹羽らしかったのかなと思うんです」
もちろん、プロは志望するだけがゴールではない。これから身体作り等の準備やプロで生きていくための心構えなども含め、様々な覚悟を持ってこそ挑戦できる。悔しさの分だけ成長できるとはよく言うが、悔しい思いをした時が多いからこそ、高校野球で明かせずに終わった未知数な部分も多い。
果たして丹羽のその“可能性”に賭ける球団は現れるのか――。土ぼこりが舞うグラウンドでキャッチボールに向かう右腕を、晩夏の太陽がいつまでも熱く照らし続けていた。
📝甲子園の常連「智辯学園和歌山高校」。進学でも実績を上げる仏教系新興勢力、その独自教育とは…
https://news.yahoo.co.jp/articles/e53807e587cbba1c4fc35f9a573dd20ed9655f6d
◆智辯学園和歌山高校 私立/共学/小中高一貫/和歌山県和歌山市冬野
進学でも高校野球でも実績を上げる仏教系新興勢力
智辯学園高校と智辯学園和歌山高校は甲子園の常連である。経営しているのは、辯天宗という高野山真言宗の流れを汲む仏教系新宗教の法人である。
宗祖の大森智辯は奈良県吉野町の出身だが、夫が和歌山市生まれで奈良県五條市の十輪寺の修行僧だったことが、奈良と和歌山での学校設立につながる。
昭和40年(1965)に智辯学園高校を開校し、その3年後に初の甲子園出場を果たした。そして昭和53年(1978)、和歌山県からの要請を受けて和歌山校を開設した。五條市の智辯学園では、和歌山県下からの通学生が3割にも上っていたことが動機だった。
智辯和歌山は、高校1期生にあたる昭和56年(1981)から京大合格者を出し、野球部も昭和60年(1985)に選抜に初出場。平成5年(1993)には東大合格者数が20名を突破、その翌年には選抜で優勝を遂げ、その後、夏の甲子園で3回の優勝を果たした。2026年には猛暑のなか圧倒的な攻撃力で打ち勝った。この2回の優勝時の監督は、OBで阪神タイガースなどで活躍した中谷仁。
また、平成14年(2002)には小学校を開校している。
◆学校がめざす重点目標
学校がめざす重点目標は、「一日一善、学力向上、挨拶励行」である。毎朝スピーカーから担当の教師が読み上げる真言、宝号を各クラスの生徒全員が唱和する。そして、日替わりの「宗祖様のお言葉」を聞く。
新興の学校なので著名人はまだすくないが、西川遥輝(プロ野球)、中谷仁(プロ野球)、泊幸秀(分子生物学)、宮野真生子(哲学者)、ZAZYの赤井俊之(お笑い芸人)。
JR和歌山駅から8キロほど南にあり、紀勢線の紀三井寺駅の次の駅である黒江駅から徒歩10分ほどである。岸和田など、大阪府下から通う生徒も二割ほどいる。
桐蔭高校の卒業生である、竹中平蔵と元の和歌山県知事の仁坂吉伸は同学年だったが、彼らが大学に進学した1970年頃は桐蔭高校から10名程度が東京大学に合格していた。
しかし、学区が細かく分かれて、しかも、和歌山市の学区が2分割されたので、公立高校の凋落が進み、智辯学園和歌山高校が伸びた。だが、その後の学区制の廃止や中高一貫制の導入もあって、再び桐蔭高校の復活も見られる。2026年度入試では、智辯学園和歌山高校は、東京大学に5名、京都大学に12名、大阪大学に16名だった。桐蔭高校が東京大学に2名、京都大学に4名、大阪大学に8名といった合格者数になっている。
私学では、近畿大学附属和歌山高校(和歌山市)も上昇傾向にある。
📝令和8年度 秋季近畿地区高等学校野球大会 県一次予選 組み合わせ表
https://www.whbf.jp/uploads/20260902145508_HOrS.pdf
☟夏の甲子園ビデオ検証「1回では少ない」「明らかなボール球がストライクなのに」と話す監督も…「モヤモヤしなくていい」からこその“リアルな指摘”
https://news.yahoo.co.jp/articles/effa42f0b8688bfe0b88dd527e3cd700e1f8b7ff
投手の球数制限、低反発バットの導入、DH制の採用。高校野球は近年、新たなルールが次々と設けられている。今夏の甲子園では初めて、ビデオ検証も取り入れられた。
ビデオ検証、その仕組みとは
ビデオ検証をめぐっては、2014年にメジャーリーグで「チャレンジ制度」が始まり、2018年にはNPBでも「リクエスト制度」が採用された。大学野球や社会人野球でも導入が進んでいる。
各団体によってビデオ検証の方法やルールには違いがある。日本高校野球連盟は、今年4月の理事会で承認された「大学及び高校野球におけるビデオ検証に関する特別規則」に基づいて運用した。
規則では、検証の対象となるプレーを定めている。例えば、「打球がファウルかフェアか」、「フライをキャッチしたかノーキャッチか」といった内容は対象となっている。一方、ストライクとボールの判定や、ハーフスイングなどに関しては対象から外れている。
ビデオ検証を求められる回数は、9イニングで各チーム1回とされている。検証の結果、判定が変わった時は1回に数えない。ただ、今夏の甲子園では、「判定が変わった場合は9イニングのうち、あと1回に限りビデオ検証を求めることができる」としている。つまり、9回までに最大で2回しか権利がない。また、試合の遅延を防ぐため、検証の時間を2分以内として、確証が得られない時は判定通りにする。
選手や監督は「プラスのルール」と歓迎
ビデオ検証が初めて適用されたのは、大会第3日の有明と立命館宇治の一戦だった。有明は7回2死一塁で盗塁を仕掛け、走者はアウトと判定された。それに対し、有明は検証を要望した。結果的には判定通りアウトとなったが、有明の高見一茂監督は「モヤモヤした気持ちが残らなくて良かったと思います」と話した。
ビデオ検証に対しては、好意的に受け止める選手や監督が多い。仙台育英の須江航監督は「ネットにさらされてしまう時代なので、審判や選手を守る上でとてもいいものだと思います。気持ちの切り替えができますし、誰にとってもプラスのルールでしかありません」と語っている。
準決勝の2試合は、ともに二塁走者へのタッチプレーでビデオ検証が求められた。どちらも最初はセーフと宣告されたが、検証によって判定はアウトに変わった。
選手の「確信」が判定を覆した準決勝
準決勝第1試合は智弁和歌山と横浜の一戦。8回無死二塁の場面で、智弁和歌山のショート・川原一将選手がゴロを捕球し、横浜の二塁ランナーにタッチした。しかし、グラブがランナーに当たっていないと判断されてセーフとなった。すかさず、川原は頭を触ってベンチを見た。智弁和歌山は、頭を触るジェスチャーがビデオ検証を求める合図となっていた。川原が語る。
「タッチした自信がありました。自分たちのチームは、ビデオ検証を要望するかどうか基本的に選手が決めます。選手がベンチに合図を送る形です。点差は開いていましたが、セーフのままだったら試合の流れが変わる可能性もありました。ビデオ検証はメリットとデメリット両方があると思いますが、納得してから試合を再開できるので、自分はメリットが大きいと感じています」
準決勝第二試合、天理と健大高崎の試合でも天理が検証を求めた。1点を追う4回2死二、三塁で、牽制に入ったショートの金本相有選手が二塁ランナーにタッチ。セーフの判定がアウトに覆った。金本は「アウトの確信がありました。二塁ランナーのリードが大きかったので狙えると思いました」と振り返った。
「回数が少ない」「ボール判定も」現場からの指摘
初めての試みである以上、何の不満や課題も出さずに運用するのは難しい。実際、こう指摘する監督もいた。
「9回までに回数が1回なのは少ない。判定が覆っているケースもあるのだから、3回は必要だと思います。人間が判断するので誤りがあるのは仕方ありません。その誤りを正す機会がなければ、モヤモヤした気持ちは解消されません」
さらに、ストライクとボールの判定についても、導入する必要性を訴えた。
「今大会でも明らかなボール球がストライクになっていました。投手の球速が上がり、変化球も多彩になっている中で、動体視力が衰えている年代が正確な判定をするのは限界があります。この暑さの中で集中力を持続するのは大変です。機械に頼った方がすべての人にとってプラスだと思います」
1球の判定で試合の流れが変わる可能性もあるからこその言及だった。
運用面の課題と、よりフェアな未来へ
運用面の課題も残った。天理と高川学園の一戦では、高川学園が打者走者の一塁アウトの判定に対して検証を要求した。だが、すでに高川学園の投球練習の準備に入っていたことなどを理由に認められなかった。規定では「速やかに球審に対してビデオ検証を求める」と記されており、要求のタイミングが遅いと判断された。早いか遅いかは、人によって感覚が異なる。明確な基準がなければ、混乱や不平等を招きかねない。
実際に運用して見えた課題もある。一方で、際どい判定を確認できる新たな取り組みに選手や監督から前向きな声が上がっているのも事実。ビデオ検証は今後改善を重ねながら、よりフェアな環境を支える欠かせない仕組みへと育っていくだろう。
📝桑田真澄は2安打完封、清原和博は公式戦初本塁打 中村順司が振り返る「KK伝説はあの試合から始まった」
https://news.yahoo.co.jp/articles/7ead619478f1b8940971db9a2a631a5ee63153f1?page=1
中村順司インタビュー(前編)
高校野球史に「KK」の名を刻んだ桑田真澄と清原和博。ふたりがPL学園の門を叩いたのは1983年春のことだった。1年夏から桑田はマウンドに立ち、清原は4番を任され、やがて甲子園を席巻していく。だが、当時の監督である中村順司氏は「ふたりを特別扱いしたことはなかった」と振り返る。そこには、才能を見極めながら将来を見据えて育てる指導、1年生を支えた上級生たちの存在、そして先輩の背中から後輩へと受け継がれていくPL独自の伝統があった。1年夏の全国制覇から、3年夏の日本一、さらに立浪和義ら次世代の春夏連覇へ──。最強時代のPL学園はいかにしてつくられたのか。中村氏に聞いた。
【仲田幸司から二塁打で4番確定】
── 1983年、PL学園には桑田真澄選手、清原和博選手をはじめ、中学時代から名を知られた将来性豊かな選手が数多く入部しました。
中村 私は、中学時代の実績はできるだけ考慮せずに部員を見るようにしていました。たしかに桑田や清原をはじめ、すでに実績のある選手が多く入ってきましたが、「常にフラットな状態で全部員を見る」というスタイルを崩すことはありませんでしたね。
── その夏の大阪大会では、1年生ながら桑田選手、清原選手、田口権一選手の3人がベンチ入りしました。当時のPLとしては珍しかったのではないでしょうか。
中村 前年の選抜は、エースの榎田健一郎を軸に優勝することができました。この学年には好投手が揃っていたので、下級生投手の出番はほとんどありませんでした。1学年下にも藤本耕らいい投手がいましたが、故障や調子が上がらない選手もいた。それで夏は、桑田や田口といった1年生投手もベンチに入れて、総力戦でいこうと考えました。
── 清原選手も中学時代は投手だったそうですね。
中村 岸和田シニアではエースで4番として全国大会でも活躍していましたから、本人にも投手を続けたいという気持ちはあったと思います。ただ、桑田や田口といった好投手がいた。それ以上に、清原の長打力がずば抜けていました。ですから、早い段階で野手として試合に出ることになりました。
── 入学直後から4番だったわけではなかった?
中村 いきなりスタメンで使ったわけでも、すぐに4番に据えたわけでもないんです。それで入学してしばらく経った頃、興南(沖縄)との練習試合があったんです。その試合で、当時「屈指の左腕」と言われていた仲田幸司くんから、清原が左中間へ痛烈な二塁打を打った。あの一打で、「4番でいこう」と決めました。
── そしてPL史上初めて、1年夏から4番を打つことになります。
中村 とにかく飛距離が抜群でした。「あそこまで飛ばす選手は清原しかいない」と、みんなが認める存在でした。飛ばす力に関しては、やはり別格でした。
【公式戦初先発で2安打完封】
── 一方、桑田選手の公式戦初先発は大阪大会4回戦の吹田戦でした。
中村 大阪球場での試合でした。前日、桑田に「大阪球場で投げたことあるか?」と聞いたら、「はい、あります」と言うので、「そうか。じゃあ、明日先発でいくぞ」と言って送り出しました。
── その試合で、桑田選手は2安打完封。そして清原が公式戦初本塁打を放ちました。1983年7月26日は「KK伝説」の始まりとも言える試合です。
中村 あの時に印象に残っているのは、主将の朝山憲重を中心とした上級生の姿です。1年生が伸び伸びとプレーできるよう、非常に気を配っていました。先発する桑田にも余計なプレッシャーを与えないように、「試合が始まるまでは、あえて声をかけないようにしよう」という感じでしたね。桑田や清原だけでなく、上級生がああいう空気をつくってくれたことが大きかったと思います。
── 吹田戦以降、投手陣の軸を桑田に移したのでしょうか。
中村 いや、まだ1年生ですから、無理をさせないことを第一に考えていました。将来のある高校生と向き合う以上、目先の勝利だけではいけない。バランスのいい体の使い方や、体の機能を考えながら指導することが大切だと思っていました。藤本をはじめ上級生にもいい投手がいましたから、桑田はリリーフに回しました。誰かひとりに負担をかけるのではなく、全員ができるだけいい状態で投げられるようにしたかったんです。
【3連覇を目指す池田に圧勝】
── 甲子園でも勝ち進み、準決勝では3季連続優勝を狙う池田(徳島)と対戦します。「やまびこ打線」を擁する池田が圧倒的有利と見られていました。
中村 私が考えたのは、「どうすれば選手たちを互角の気持ちでグラウンドに立たせられるか」ということでした。前日のミーティングで、選手たちにこう言いました。「実力的には6対4で向こうが上だ。しかし、君たちが気持ちを高め、一致団結すれば五分五分になる。勝負はどちらに転ぶかわからない」と。それともうひとつ、全力で挑んで試合に負けたとしても、「池田は強かった」「水野くんの球はすごかった」とは絶対に言うなと伝えました。戦う前から相手を必要以上に大きく見てほしくなかったんです。
── 水野雄仁投手の攻略については、どんな指示を出したのでしょうか。
中村 春の選抜を見ていて感じたことがありました。水野くんのような球威のある速球を逆方向へ流し打ちしようとすると、バットのヘッドが下がってしまう。それなら「内角のボールを思い切って引っ張ろう」と伝えました。
── その狙いが的中し、桑田選手、住田弘行選手、小島一晃選手の下位打線3人から本塁打が飛び出しました。
中村 普段から、私が感じたことをできるだけわかりやすく、簡潔に伝えることを大切にしていました。それと、試合後のことですが、池田の蔦文也監督から「PLには優勝してほしい」と言っていただいたんです。3連覇を逃した直後ですよ。それでも相手を称える。あの姿勢には本当に感銘を受けました。
── その池田戦では、清原選手は無安打でした。
中村 清原は甲子園に入ってから神経性の下痢もあって、本来の力を出せていませんでした。ただ、ライト前に落ちるポテンヒットをきっかけに少しずつ調子を取り戻し、池田戦を迎えていました。池田も「4番の1年生を徹底的にマークしよう」と考えていたようです。あの試合では結果が出ませんでしたが、清原は引きずらなかった。翌日の横浜商との決勝では、好投手の三浦将明くんから逆方向へ甲子園初本塁打を放ちました。そういう切り替えのできるところも、清原の強さだったと思います。
📝「KK最後の夏」が次の黄金時代をつくった 中村順司が語る、桑田真澄・清原和博から立浪和義らへ受け継がれたもの
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2026/08/21/kk/?utm_campaign=%2Fclm%2Fbaseball%2Fhs_other%2F2026%2F08%2F21%2F_kk%2F&utm_medium=referral&utm_source=news.yahoo.co.jp
中村順司インタビュー(後編)
1年夏に全国制覇を果たした桑田真澄、清原和博らのPL学園は、その瞬間、「追う立場」から「追われる立場」へと変わった。そしてふたりが3年生となった1985年、周囲から向けられたのは「勝って当然」という厳しい視線だった。しかし、春の選抜では伊野商の渡辺智男の前に屈し、準決勝で敗退。その夜から、清原はひとり室内練習場でバットを振り込み、桑田は夏まで驚くほどの走り込みを続けた。その姿を間近で見ていたのが、1年生だった立浪和義、野村弘樹、橋本清、片岡篤史ら、のちにPLの黄金時代を担う選手たちだった。最後の夏の全国制覇と、その先へ受け継がれていった「PLの強さ」を、元監督の中村順司氏が振り返る。
【KKだけではない個性派軍団】
── 1年夏に全国制覇を果たし、桑田選手、清原選手が最上級生となった1985年は、「勝って当然」という目で見られるチームになりました。
中村 ただ、私自身は「自分たちは強い」と思って戦ったことは一度もありません。高校野球は何が起きるかわからない。それを教えてくれたのが、1年夏の池田戦でした。圧倒的に不利と言われた試合でも勝つことができた。ということは、逆のことだって起こるわけです。周囲から「勝って当然」と言われても、そんな簡単なものではないと思っていました。
── 最上級生のチームでは、松山秀明選手が主将を務めました。
中村 松山は兄貴分肌で、チームをよくまとめてくれました。選手はそれぞれ個性が強く、普段の考え方も違います。ただ、野球になれば全員が「自分は何をしなければいけないのか」をよく理解していた。そういう集団を松山がひとつにまとめてくれました。
── 投手陣には桑田だけでなく、左腕の小林克也選手、大型右腕の田口権一投手もいました。
中村 小林は縦のカーブがよかったですし、長身の田口はボールに角度がありました。桑田とはタイプの違う投手がいたことも大きかったですね。勝負どころでは桑田でいきましたが、練習試合などではひとりの投手に無理をさせないようにしていました。
── 野手陣も個性的でした。
中村 捕手は、打力があり、リードも攻撃的な杉本隆雄と、視野が広く、投手と献身的に向き合う今久留主成幸。それぞれ違ったよさがありました。内野では、強肩でフットワークのいい遊撃手・安本政弘が守備の要でした。清原は打撃ばかり注目されましたけど、一塁の守備もうまかったですよ。
三塁手の笹岡伸好は、派手さはありませんがしぶとい打者でしたし、松山も夏には3番を打つまでに成長しました。外野では黒木泰典が打撃センスのある選手でした。パンチ力があって左右に打ち分けることもできる。内匠政博は足が速く、肩も強くて、守備範囲が広かった。本間俊匠も俊足で勝負強かったですね。
【受け継がれたPLの強さ】
── 春の選抜では決勝進出を逃しました。準決勝で伊野商の渡辺智男投手に抑えられた試合です。
中村 渡辺くんは、私が高校野球で対戦した投手のなかでも、松坂大輔くん、水野雄仁くんと並んですばらしいと感じた投手のひとりです。清原は3三振でした。その日の夜からですよ。室内練習場で、最速に設定したピッチングマシンを相手に、遅くまでひとりで打ち込むようになったんです。桑田も伊野商に負けた日から夏まで、驚くほど走り込みました。
── 春の敗戦がふたりを、さらに変えたと。
中村 そう思います。清原はバットを振り、桑田は走る。もちろん彼らだけではありません。3年生全員が「夏は絶対に優勝するんだ」という強い気持ちを持っていました。だからこそ、夏の宇部商との決勝であれだけの試合をして、日本一になれたのだと思います。
── その姿を、後輩たちも見ていました。
中村 そうなんです。その年に入学してきたのが、立浪和義、野村弘樹、橋本清、片岡篤史らでした。入学していきなり、桑田や清原の練習を目の当たりにするわけです。あとになって彼らから聞きました。「寮に戻ってきた桑田さんを見て、雨が降ってきたのかと思った」と。それくらい汗びっしょりになるまで走っていたというんです。
そういう先輩たちの姿を見て、自分たちはもっとやらなければならないと思って練習する。立浪たちの代もほんとによく練習してきた。その積み重ねが、2年後の春夏連覇につながっていったのではないでしょうか。
── 桑田選手、清原選手と過ごした3年間を、今あらためてどう振り返りますか。
中村 もちろん、桑田、清原だけではありません。本当に練習熱心な選手が揃っていました。私は監督として、ずっと「勝てば選手の力、負ければ監督の責任」という考えで選手たちと向き合ってきました。1年夏に全国制覇したことで、彼らは高校生活のほとんどを「追われる立場」で過ごすことになった。周囲から勝って当然と思われるプレッシャーも相当あったでしょう。
それでも最後の夏にもう一度、頂点までたどり着いた。それは、松山主将を中心に、選手一人ひとりが自分の役割を理解し、日々努力を重ねた結果です。そして、その姿を次の世代が見ていた。先輩の背中を見て、後輩が育っていく。そうやってPLの野球が受け継がれていったのだと思います。
📝走り込みをやめ「ボディビル大会」を開催!? 仙台育英には初「女子部員」も…これが令和の高校野球!
https://news.yahoo.co.jp/articles/6919aef16dddfe836bbeb7a405c885f084958836
有望中学生の進学先が数年後の勢力図を占い、スカウティングの勝者が甲子園を制するのが令和の高校野球だ。
「このままでは高校野球が衰退する」(高知・明徳義塾、馬淵史郎監督)
過熱する高校野球のスカウティングに警鐘を鳴らす。令和の時代の中学生は、甲子園への行きやすさだけでなく、自分が一番成長できる環境であるかどうかで、進学先を選択する。グラウンドの広さや室内練習場の有無、トレーニング器具の充実度に加え、寮が何人部屋であるかも重要な要素だ。
走り込みよりサウナ
恵まれた環境の学校もあれば、西東京大会を制した八王子実践のように、内野ほどのグラウンドしかない野球部もある。同校の部長・恩田宣男(60)は言う。
「(強豪の)女子バレーボール部とは違って野球部は強化指定の部活動ではありませんし、練習も2時間しかできない。外野ノックもままなりませんし、平日は個人練習しかできません。全体練習や実戦練習は週末、私が運転するバスで出かけた遠征先でやります」
監督である河本ロバート(40)は同校を卒業後、亜細亜大を経て、ドジャースとマイナー契約を結び、帰国後も独立リーグを経験したジャーニーマンだ。ロバートは、ユニークな手法で強化を図った。
「(投手出身の)ロバートは走り込みが大嫌い。練習で選手を走らせるにしても短い距離のダッシュぐらい。夏のスタミナ対策は、サウナに入って毛穴を広げて血流量を上げたり……要するに根性論ではない形でやっています」(恩田)
選手たちから「ロバートさん」と呼ばれ親しまれる監督は、主に冬場、ウエイトトレーニングを選手に課し、とりわけ筋トレの「BIG3」と呼ばれるベンチプレス、スクワット、デッドリフトの重量に目標基準を設けている。昨冬には成果発表の場としてボディビル大会を実施した。ロバートがその狙いを語る。
「トレーニング意識を高め、人に見られるということも体感してもらいたかった。そのボディビル大会で一番輝いていたのが、金子でした」
昨秋までベンチ外だった金子侑樹はBIG3の数値がチーム1を記録し、最後の夏にベンチ入りを果たす。甲子園の初陣となる鳴門渦潮(徳島)戦では0対1で迎えた9回に代打で登場。同点打を放って、勝負をタイブレークにまで持ち込んだ。努力は裏切らないことを監督に、そして仲間に証明してみせた。
「身体がものすごく強いので。思い切り振らなくても打球は飛ぶ。『コンパクトに』とだけ伝えたところ、(逆方向となる)右中間に打ってくれました」
能力を数値化してアナライズ
この夏、開幕戦に登場し、甲子園に爽やかな風を吹き込んだのが、仙台育英の女子マネージャー兼学生コーチである星よつはだ。初戦から選手と同じユニフォームを着てベンチ入りしたが、役割は記録員にとどまらない。
「試合中に相手投手の配球の特徴などを打席に向かう選手たちに伝えています。相手の投手が交代したら、『前のピッチャーより○△km/h速いよ』とか……須江監督(43)に質問されても答えられるように備えています」
巨人や西武でプレーした孝典さんを父に持ち、父と同じ高校に進学し、同校史上初の女子部員として入部を果たした。父も立った甲子園を仲間と共に目指し、時には選手に嫌われるようなことも口にしなければならない。
高校時代にGMの経験を持ち、情報科の教師である須江は、野球の能力を数値化してアナライズ(分析する)ことに長け、それを″日本一の競争″と自負する部内競争に生かしてきた。そういうアナリストの役目も星は担う。
「投手ならストライク率や防御率など基本的な数字を出すのは自分の仕事ですし、打者なら打率、出塁率に加えて、須江監督は助進塁率を大事にされています。要は走者の進塁を助ける打撃ができたかどうか、ですね。日本一の競争において、こうした数値は評価を視覚化、可視化できる手段だと思います」
卒業後のことや将来の職業については今のところ考えていない。’22年夏以来2度目の甲子園制覇を果たすことしか彼女の頭の中にはなかった。
これが令和時代の高校野球だ。莫大な資金を投入してグラウンドや室内練習場を整え、一人部屋の寮を完備する学校も増えてきた。移りゆく時代によって高校球児の練習法や寮生活、戦術も多様に変化を遂げている。
⚾SHIONOMISAKIさんへ
そうなんですね。綾部は・・・舞鶴に2度観光に行った帰りしなに電車で通ったくらいですが。。。。。福知山球場には2度ほど足を運びましたが、今回限りになると思いますが僕も天気に問題なければ行く予定です!
しかし、天理・和智弁が3位となれば。。。10月3~6日まで青森国体行かなアカンし、県大会最終盤とかち合うので大変ですね!
https://www.whbf.jp/uploads/20260902145508_HOrS.pdf
☟夏の甲子園ビデオ検証「1回では少ない」「明らかなボール球がストライクなのに」と話す監督も…「モヤモヤしなくていい」からこその“リアルな指摘”
https://news.yahoo.co.jp/articles/effa42f0b8688bfe0b88dd527e3cd700e1f8b7ff
投手の球数制限、低反発バットの導入、DH制の採用。高校野球は近年、新たなルールが次々と設けられている。今夏の甲子園では初めて、ビデオ検証も取り入れられた。
ビデオ検証、その仕組みとは
ビデオ検証をめぐっては、2014年にメジャーリーグで「チャレンジ制度」が始まり、2018年にはNPBでも「リクエスト制度」が採用された。大学野球や社会人野球でも導入が進んでいる。
各団体によってビデオ検証の方法やルールには違いがある。日本高校野球連盟は、今年4月の理事会で承認された「大学及び高校野球におけるビデオ検証に関する特別規則」に基づいて運用した。
規則では、検証の対象となるプレーを定めている。例えば、「打球がファウルかフェアか」、「フライをキャッチしたかノーキャッチか」といった内容は対象となっている。一方、ストライクとボールの判定や、ハーフスイングなどに関しては対象から外れている。
ビデオ検証を求められる回数は、9イニングで各チーム1回とされている。検証の結果、判定が変わった時は1回に数えない。ただ、今夏の甲子園では、「判定が変わった場合は9イニングのうち、あと1回に限りビデオ検証を求めることができる」としている。つまり、9回までに最大で2回しか権利がない。また、試合の遅延を防ぐため、検証の時間を2分以内として、確証が得られない時は判定通りにする。
選手や監督は「プラスのルール」と歓迎
ビデオ検証が初めて適用されたのは、大会第3日の有明と立命館宇治の一戦だった。有明は7回2死一塁で盗塁を仕掛け、走者はアウトと判定された。それに対し、有明は検証を要望した。結果的には判定通りアウトとなったが、有明の高見一茂監督は「モヤモヤした気持ちが残らなくて良かったと思います」と話した。
ビデオ検証に対しては、好意的に受け止める選手や監督が多い。仙台育英の須江航監督は「ネットにさらされてしまう時代なので、審判や選手を守る上でとてもいいものだと思います。気持ちの切り替えができますし、誰にとってもプラスのルールでしかありません」と語っている。
準決勝の2試合は、ともに二塁走者へのタッチプレーでビデオ検証が求められた。どちらも最初はセーフと宣告されたが、検証によって判定はアウトに変わった。
選手の「確信」が判定を覆した準決勝
準決勝第1試合は智弁和歌山と横浜の一戦。8回無死二塁の場面で、智弁和歌山のショート・川原一将選手がゴロを捕球し、横浜の二塁ランナーにタッチした。しかし、グラブがランナーに当たっていないと判断されてセーフとなった。すかさず、川原は頭を触ってベンチを見た。智弁和歌山は、頭を触るジェスチャーがビデオ検証を求める合図となっていた。川原が語る。
「タッチした自信がありました。自分たちのチームは、ビデオ検証を要望するかどうか基本的に選手が決めます。選手がベンチに合図を送る形です。点差は開いていましたが、セーフのままだったら試合の流れが変わる可能性もありました。ビデオ検証はメリットとデメリット両方があると思いますが、納得してから試合を再開できるので、自分はメリットが大きいと感じています」
準決勝第二試合、天理と健大高崎の試合でも天理が検証を求めた。1点を追う4回2死二、三塁で、牽制に入ったショートの金本相有選手が二塁ランナーにタッチ。セーフの判定がアウトに覆った。金本は「アウトの確信がありました。二塁ランナーのリードが大きかったので狙えると思いました」と振り返った。
「回数が少ない」「ボール判定も」現場からの指摘
初めての試みである以上、何の不満や課題も出さずに運用するのは難しい。実際、こう指摘する監督もいた。
「9回までに回数が1回なのは少ない。判定が覆っているケースもあるのだから、3回は必要だと思います。人間が判断するので誤りがあるのは仕方ありません。その誤りを正す機会がなければ、モヤモヤした気持ちは解消されません」
さらに、ストライクとボールの判定についても、導入する必要性を訴えた。
「今大会でも明らかなボール球がストライクになっていました。投手の球速が上がり、変化球も多彩になっている中で、動体視力が衰えている年代が正確な判定をするのは限界があります。この暑さの中で集中力を持続するのは大変です。機械に頼った方がすべての人にとってプラスだと思います」
1球の判定で試合の流れが変わる可能性もあるからこその言及だった。
運用面の課題と、よりフェアな未来へ
運用面の課題も残った。天理と高川学園の一戦では、高川学園が打者走者の一塁アウトの判定に対して検証を要求した。だが、すでに高川学園の投球練習の準備に入っていたことなどを理由に認められなかった。規定では「速やかに球審に対してビデオ検証を求める」と記されており、要求のタイミングが遅いと判断された。早いか遅いかは、人によって感覚が異なる。明確な基準がなければ、混乱や不平等を招きかねない。
実際に運用して見えた課題もある。一方で、際どい判定を確認できる新たな取り組みに選手や監督から前向きな声が上がっているのも事実。ビデオ検証は今後改善を重ねながら、よりフェアな環境を支える欠かせない仕組みへと育っていくだろう。
📝桑田真澄は2安打完封、清原和博は公式戦初本塁打 中村順司が振り返る「KK伝説はあの試合から始まった」
https://news.yahoo.co.jp/articles/7ead619478f1b8940971db9a2a631a5ee63153f1?page=1
中村順司インタビュー(前編)
高校野球史に「KK」の名を刻んだ桑田真澄と清原和博。ふたりがPL学園の門を叩いたのは1983年春のことだった。1年夏から桑田はマウンドに立ち、清原は4番を任され、やがて甲子園を席巻していく。だが、当時の監督である中村順司氏は「ふたりを特別扱いしたことはなかった」と振り返る。そこには、才能を見極めながら将来を見据えて育てる指導、1年生を支えた上級生たちの存在、そして先輩の背中から後輩へと受け継がれていくPL独自の伝統があった。1年夏の全国制覇から、3年夏の日本一、さらに立浪和義ら次世代の春夏連覇へ──。最強時代のPL学園はいかにしてつくられたのか。中村氏に聞いた。
【仲田幸司から二塁打で4番確定】
── 1983年、PL学園には桑田真澄選手、清原和博選手をはじめ、中学時代から名を知られた将来性豊かな選手が数多く入部しました。
中村 私は、中学時代の実績はできるだけ考慮せずに部員を見るようにしていました。たしかに桑田や清原をはじめ、すでに実績のある選手が多く入ってきましたが、「常にフラットな状態で全部員を見る」というスタイルを崩すことはありませんでしたね。
── その夏の大阪大会では、1年生ながら桑田選手、清原選手、田口権一選手の3人がベンチ入りしました。当時のPLとしては珍しかったのではないでしょうか。
中村 前年の選抜は、エースの榎田健一郎を軸に優勝することができました。この学年には好投手が揃っていたので、下級生投手の出番はほとんどありませんでした。1学年下にも藤本耕らいい投手がいましたが、故障や調子が上がらない選手もいた。それで夏は、桑田や田口といった1年生投手もベンチに入れて、総力戦でいこうと考えました。
── 清原選手も中学時代は投手だったそうですね。
中村 岸和田シニアではエースで4番として全国大会でも活躍していましたから、本人にも投手を続けたいという気持ちはあったと思います。ただ、桑田や田口といった好投手がいた。それ以上に、清原の長打力がずば抜けていました。ですから、早い段階で野手として試合に出ることになりました。
── 入学直後から4番だったわけではなかった?
中村 いきなりスタメンで使ったわけでも、すぐに4番に据えたわけでもないんです。それで入学してしばらく経った頃、興南(沖縄)との練習試合があったんです。その試合で、当時「屈指の左腕」と言われていた仲田幸司くんから、清原が左中間へ痛烈な二塁打を打った。あの一打で、「4番でいこう」と決めました。
── そしてPL史上初めて、1年夏から4番を打つことになります。
中村 とにかく飛距離が抜群でした。「あそこまで飛ばす選手は清原しかいない」と、みんなが認める存在でした。飛ばす力に関しては、やはり別格でした。
【公式戦初先発で2安打完封】
── 一方、桑田選手の公式戦初先発は大阪大会4回戦の吹田戦でした。
中村 大阪球場での試合でした。前日、桑田に「大阪球場で投げたことあるか?」と聞いたら、「はい、あります」と言うので、「そうか。じゃあ、明日先発でいくぞ」と言って送り出しました。
── その試合で、桑田選手は2安打完封。そして清原が公式戦初本塁打を放ちました。1983年7月26日は「KK伝説」の始まりとも言える試合です。
中村 あの時に印象に残っているのは、主将の朝山憲重を中心とした上級生の姿です。1年生が伸び伸びとプレーできるよう、非常に気を配っていました。先発する桑田にも余計なプレッシャーを与えないように、「試合が始まるまでは、あえて声をかけないようにしよう」という感じでしたね。桑田や清原だけでなく、上級生がああいう空気をつくってくれたことが大きかったと思います。
── 吹田戦以降、投手陣の軸を桑田に移したのでしょうか。
中村 いや、まだ1年生ですから、無理をさせないことを第一に考えていました。将来のある高校生と向き合う以上、目先の勝利だけではいけない。バランスのいい体の使い方や、体の機能を考えながら指導することが大切だと思っていました。藤本をはじめ上級生にもいい投手がいましたから、桑田はリリーフに回しました。誰かひとりに負担をかけるのではなく、全員ができるだけいい状態で投げられるようにしたかったんです。
【3連覇を目指す池田に圧勝】
── 甲子園でも勝ち進み、準決勝では3季連続優勝を狙う池田(徳島)と対戦します。「やまびこ打線」を擁する池田が圧倒的有利と見られていました。
中村 私が考えたのは、「どうすれば選手たちを互角の気持ちでグラウンドに立たせられるか」ということでした。前日のミーティングで、選手たちにこう言いました。「実力的には6対4で向こうが上だ。しかし、君たちが気持ちを高め、一致団結すれば五分五分になる。勝負はどちらに転ぶかわからない」と。それともうひとつ、全力で挑んで試合に負けたとしても、「池田は強かった」「水野くんの球はすごかった」とは絶対に言うなと伝えました。戦う前から相手を必要以上に大きく見てほしくなかったんです。
── 水野雄仁投手の攻略については、どんな指示を出したのでしょうか。
中村 春の選抜を見ていて感じたことがありました。水野くんのような球威のある速球を逆方向へ流し打ちしようとすると、バットのヘッドが下がってしまう。それなら「内角のボールを思い切って引っ張ろう」と伝えました。
── その狙いが的中し、桑田選手、住田弘行選手、小島一晃選手の下位打線3人から本塁打が飛び出しました。
中村 普段から、私が感じたことをできるだけわかりやすく、簡潔に伝えることを大切にしていました。それと、試合後のことですが、池田の蔦文也監督から「PLには優勝してほしい」と言っていただいたんです。3連覇を逃した直後ですよ。それでも相手を称える。あの姿勢には本当に感銘を受けました。
── その池田戦では、清原選手は無安打でした。
中村 清原は甲子園に入ってから神経性の下痢もあって、本来の力を出せていませんでした。ただ、ライト前に落ちるポテンヒットをきっかけに少しずつ調子を取り戻し、池田戦を迎えていました。池田も「4番の1年生を徹底的にマークしよう」と考えていたようです。あの試合では結果が出ませんでしたが、清原は引きずらなかった。翌日の横浜商との決勝では、好投手の三浦将明くんから逆方向へ甲子園初本塁打を放ちました。そういう切り替えのできるところも、清原の強さだったと思います。
📝「KK最後の夏」が次の黄金時代をつくった 中村順司が語る、桑田真澄・清原和博から立浪和義らへ受け継がれたもの
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2026/08/21/kk/?utm_campaign=%2Fclm%2Fbaseball%2Fhs_other%2F2026%2F08%2F21%2F_kk%2F&utm_medium=referral&utm_source=news.yahoo.co.jp
中村順司インタビュー(後編)
1年夏に全国制覇を果たした桑田真澄、清原和博らのPL学園は、その瞬間、「追う立場」から「追われる立場」へと変わった。そしてふたりが3年生となった1985年、周囲から向けられたのは「勝って当然」という厳しい視線だった。しかし、春の選抜では伊野商の渡辺智男の前に屈し、準決勝で敗退。その夜から、清原はひとり室内練習場でバットを振り込み、桑田は夏まで驚くほどの走り込みを続けた。その姿を間近で見ていたのが、1年生だった立浪和義、野村弘樹、橋本清、片岡篤史ら、のちにPLの黄金時代を担う選手たちだった。最後の夏の全国制覇と、その先へ受け継がれていった「PLの強さ」を、元監督の中村順司氏が振り返る。
【KKだけではない個性派軍団】
── 1年夏に全国制覇を果たし、桑田選手、清原選手が最上級生となった1985年は、「勝って当然」という目で見られるチームになりました。
中村 ただ、私自身は「自分たちは強い」と思って戦ったことは一度もありません。高校野球は何が起きるかわからない。それを教えてくれたのが、1年夏の池田戦でした。圧倒的に不利と言われた試合でも勝つことができた。ということは、逆のことだって起こるわけです。周囲から「勝って当然」と言われても、そんな簡単なものではないと思っていました。
── 最上級生のチームでは、松山秀明選手が主将を務めました。
中村 松山は兄貴分肌で、チームをよくまとめてくれました。選手はそれぞれ個性が強く、普段の考え方も違います。ただ、野球になれば全員が「自分は何をしなければいけないのか」をよく理解していた。そういう集団を松山がひとつにまとめてくれました。
── 投手陣には桑田だけでなく、左腕の小林克也選手、大型右腕の田口権一投手もいました。
中村 小林は縦のカーブがよかったですし、長身の田口はボールに角度がありました。桑田とはタイプの違う投手がいたことも大きかったですね。勝負どころでは桑田でいきましたが、練習試合などではひとりの投手に無理をさせないようにしていました。
── 野手陣も個性的でした。
中村 捕手は、打力があり、リードも攻撃的な杉本隆雄と、視野が広く、投手と献身的に向き合う今久留主成幸。それぞれ違ったよさがありました。内野では、強肩でフットワークのいい遊撃手・安本政弘が守備の要でした。清原は打撃ばかり注目されましたけど、一塁の守備もうまかったですよ。
三塁手の笹岡伸好は、派手さはありませんがしぶとい打者でしたし、松山も夏には3番を打つまでに成長しました。外野では黒木泰典が打撃センスのある選手でした。パンチ力があって左右に打ち分けることもできる。内匠政博は足が速く、肩も強くて、守備範囲が広かった。本間俊匠も俊足で勝負強かったですね。
【受け継がれたPLの強さ】
── 春の選抜では決勝進出を逃しました。準決勝で伊野商の渡辺智男投手に抑えられた試合です。
中村 渡辺くんは、私が高校野球で対戦した投手のなかでも、松坂大輔くん、水野雄仁くんと並んですばらしいと感じた投手のひとりです。清原は3三振でした。その日の夜からですよ。室内練習場で、最速に設定したピッチングマシンを相手に、遅くまでひとりで打ち込むようになったんです。桑田も伊野商に負けた日から夏まで、驚くほど走り込みました。
── 春の敗戦がふたりを、さらに変えたと。
中村 そう思います。清原はバットを振り、桑田は走る。もちろん彼らだけではありません。3年生全員が「夏は絶対に優勝するんだ」という強い気持ちを持っていました。だからこそ、夏の宇部商との決勝であれだけの試合をして、日本一になれたのだと思います。
── その姿を、後輩たちも見ていました。
中村 そうなんです。その年に入学してきたのが、立浪和義、野村弘樹、橋本清、片岡篤史らでした。入学していきなり、桑田や清原の練習を目の当たりにするわけです。あとになって彼らから聞きました。「寮に戻ってきた桑田さんを見て、雨が降ってきたのかと思った」と。それくらい汗びっしょりになるまで走っていたというんです。
そういう先輩たちの姿を見て、自分たちはもっとやらなければならないと思って練習する。立浪たちの代もほんとによく練習してきた。その積み重ねが、2年後の春夏連覇につながっていったのではないでしょうか。
── 桑田選手、清原選手と過ごした3年間を、今あらためてどう振り返りますか。
中村 もちろん、桑田、清原だけではありません。本当に練習熱心な選手が揃っていました。私は監督として、ずっと「勝てば選手の力、負ければ監督の責任」という考えで選手たちと向き合ってきました。1年夏に全国制覇したことで、彼らは高校生活のほとんどを「追われる立場」で過ごすことになった。周囲から勝って当然と思われるプレッシャーも相当あったでしょう。
それでも最後の夏にもう一度、頂点までたどり着いた。それは、松山主将を中心に、選手一人ひとりが自分の役割を理解し、日々努力を重ねた結果です。そして、その姿を次の世代が見ていた。先輩の背中を見て、後輩が育っていく。そうやってPLの野球が受け継がれていったのだと思います。
📝走り込みをやめ「ボディビル大会」を開催!? 仙台育英には初「女子部員」も…これが令和の高校野球!
https://news.yahoo.co.jp/articles/6919aef16dddfe836bbeb7a405c885f084958836
有望中学生の進学先が数年後の勢力図を占い、スカウティングの勝者が甲子園を制するのが令和の高校野球だ。
「このままでは高校野球が衰退する」(高知・明徳義塾、馬淵史郎監督)
過熱する高校野球のスカウティングに警鐘を鳴らす。令和の時代の中学生は、甲子園への行きやすさだけでなく、自分が一番成長できる環境であるかどうかで、進学先を選択する。グラウンドの広さや室内練習場の有無、トレーニング器具の充実度に加え、寮が何人部屋であるかも重要な要素だ。
走り込みよりサウナ
恵まれた環境の学校もあれば、西東京大会を制した八王子実践のように、内野ほどのグラウンドしかない野球部もある。同校の部長・恩田宣男(60)は言う。
「(強豪の)女子バレーボール部とは違って野球部は強化指定の部活動ではありませんし、練習も2時間しかできない。外野ノックもままなりませんし、平日は個人練習しかできません。全体練習や実戦練習は週末、私が運転するバスで出かけた遠征先でやります」
監督である河本ロバート(40)は同校を卒業後、亜細亜大を経て、ドジャースとマイナー契約を結び、帰国後も独立リーグを経験したジャーニーマンだ。ロバートは、ユニークな手法で強化を図った。
「(投手出身の)ロバートは走り込みが大嫌い。練習で選手を走らせるにしても短い距離のダッシュぐらい。夏のスタミナ対策は、サウナに入って毛穴を広げて血流量を上げたり……要するに根性論ではない形でやっています」(恩田)
選手たちから「ロバートさん」と呼ばれ親しまれる監督は、主に冬場、ウエイトトレーニングを選手に課し、とりわけ筋トレの「BIG3」と呼ばれるベンチプレス、スクワット、デッドリフトの重量に目標基準を設けている。昨冬には成果発表の場としてボディビル大会を実施した。ロバートがその狙いを語る。
「トレーニング意識を高め、人に見られるということも体感してもらいたかった。そのボディビル大会で一番輝いていたのが、金子でした」
昨秋までベンチ外だった金子侑樹はBIG3の数値がチーム1を記録し、最後の夏にベンチ入りを果たす。甲子園の初陣となる鳴門渦潮(徳島)戦では0対1で迎えた9回に代打で登場。同点打を放って、勝負をタイブレークにまで持ち込んだ。努力は裏切らないことを監督に、そして仲間に証明してみせた。
「身体がものすごく強いので。思い切り振らなくても打球は飛ぶ。『コンパクトに』とだけ伝えたところ、(逆方向となる)右中間に打ってくれました」
能力を数値化してアナライズ
この夏、開幕戦に登場し、甲子園に爽やかな風を吹き込んだのが、仙台育英の女子マネージャー兼学生コーチである星よつはだ。初戦から選手と同じユニフォームを着てベンチ入りしたが、役割は記録員にとどまらない。
「試合中に相手投手の配球の特徴などを打席に向かう選手たちに伝えています。相手の投手が交代したら、『前のピッチャーより○△km/h速いよ』とか……須江監督(43)に質問されても答えられるように備えています」
巨人や西武でプレーした孝典さんを父に持ち、父と同じ高校に進学し、同校史上初の女子部員として入部を果たした。父も立った甲子園を仲間と共に目指し、時には選手に嫌われるようなことも口にしなければならない。
高校時代にGMの経験を持ち、情報科の教師である須江は、野球の能力を数値化してアナライズ(分析する)ことに長け、それを″日本一の競争″と自負する部内競争に生かしてきた。そういうアナリストの役目も星は担う。
「投手ならストライク率や防御率など基本的な数字を出すのは自分の仕事ですし、打者なら打率、出塁率に加えて、須江監督は助進塁率を大事にされています。要は走者の進塁を助ける打撃ができたかどうか、ですね。日本一の競争において、こうした数値は評価を視覚化、可視化できる手段だと思います」
卒業後のことや将来の職業については今のところ考えていない。’22年夏以来2度目の甲子園制覇を果たすことしか彼女の頭の中にはなかった。
これが令和時代の高校野球だ。莫大な資金を投入してグラウンドや室内練習場を整え、一人部屋の寮を完備する学校も増えてきた。移りゆく時代によって高校球児の練習法や寮生活、戦術も多様に変化を遂げている。
⚾SHIONOMISAKIさんへ
そうなんですね。綾部は・・・舞鶴に2度観光に行った帰りしなに電車で通ったくらいですが。。。。。福知山球場には2度ほど足を運びましたが、今回限りになると思いますが僕も天気に問題なければ行く予定です!
しかし、天理・和智弁が3位となれば。。。10月3~6日まで青森国体行かなアカンし、県大会最終盤とかち合うので大変ですね!
💢令和8年度秋季近畿地区高等学校野球大会県一次予選について(お知らせ)
https://www.whbf.jp/uploads/20260901114653_CVWX.pdf
初芝橋本高等学校より、令和8年度秋季近畿地区高等学校野球大会県一次予選の出場辞退届が提出され、本日(9月1日)受理しました。
このことにより、令和8年度秋季近畿地区高等学校野球大会県一次予選は、32校29チームの参加となりました。
組み合わせ抽選会は、明日9月2日(水)に開催します。抽選結果につきましては決定次第、当連盟ホームページにアップロードします。
✌「こんな奇跡がおるのか!」智辯を〝最も追い詰めた高校〟でチア、第11代有田みかん大使・山野光希に脚光「チアの頃からひときわ光ってますね」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9ed1a1057fcca5c80837428c520e9631d8e4a8d3
▼「チアやってた時の思い出の写真」
甲子園を制した智辯学園和歌山高校を最も追い詰めた高校のOGに注目が集まっている。
「智弁和歌山優勝しましたね 和歌山出身として誇らしすぎる 母校の田辺高校もすごかった!!!」とXに投稿したのは、第11代有田みかん大使の山野光希。「野球応援でチアやってた時の思い出の写真」と田辺高校時代のチア姿を紹介した。
県立の田辺高校は和歌山県大会3回戦で智辯学園和歌山高校と対戦。敗れはしたものの7回までリードするなど大健闘を見せ「実質準優勝ですよね!」「かなりいい試合して追い詰めてましたね!!」などの声があがっていた。
エンジ色のユニフォームを着た山野の姿に「田辺にはこんな奇跡がおるのか!」「貴重な写真だ」「う、うわあ!」「チアの頃からひときわ光ってますね」といった感嘆の声が相次いでいる。
田辺高校は甲子園に春3度、夏1度出場。山野が卒業した2024年の第96回選抜高校野球大会に76年ぶりに出場し、話題となった。
☝元PL学園監督の中村順司氏が初の中学指導者に 兵庫加古川ヤングのスタッフとして本格始動
https://news.yahoo.co.jp/articles/fcbc5b2d9bf9a28b91f27fa8c123e8c383ce6ca4
PL学園(大阪)の監督として甲子園通算6度の優勝に輝いた中村順司氏(80)が中学生指導に本格着手した。
硬式野球ヤングリーグの兵庫加古川ヤングのアドバイザリースタッフに、このたび就任したことが判明した。8月29、30の両日にグラウンドで就任後初めて本格的な指導を行った。PL学園のほか、名古屋商科大でも指揮を執ったが、中学年代のチームで定期的に指導するのは初めて。以前から同チームの関係者を通じて不定期で選手を見ることがあったが、新型コロナで中断していた。今回は肩書もついて、自宅のある神奈川県から定期的に兵庫県を訪れることになる。同ヤングに創設された小学部も指導する。
指導方法もPL流。骨の作りなど根本的な体の仕組みを理解させるなど、当時と同様のノウハウを持ち込んでいる。
この2日間は自らノックバットも握って中学生、小学生とともに汗を流した。8月5日に80歳を迎えたが、情熱は衰えていない。
📣広陵高校 「甲子園至上主義」から決別 暴力事案めぐり検討委員会が提言
https://news.yahoo.co.jp/articles/7bb59dc49005d6a39da67a3542e091bf468917f1
硬式野球部の暴力事案を巡り広陵高校が設置した検討委員会が指導体制の見直しなどを求めました。
これは2025年1月に起きた広陵高校野球部の暴力事案を受けて設置された、弁護士などでつくる学校改善検討委員会が最終提言としてまとめたものです。提言では、閉鎖的な体質の原因につながった野球部OBのみでの指導をやめ、外部指導者の登用を求めたほか、指導者の目が行き届く適正な部員数の設定や甲子園至上主義との決別などを求めています。
また、集団暴行が発生した寮の運営にも触れ、上級生が規律違反に対応することをやめるほか、寮生の生活を管理する寮監には野球部関係者に限らず一般教職員も関わることなどを求めました。
📝「あの試合が終わって『夏も優勝しようや』と」高校野球“史上最高の試合”箕島-星稜延長18回の死闘で起きたこと「星稜の思いに報いたい」
https://news.yahoo.co.jp/articles/67d75ebe487b6d95bcfc274ac65999436f63df66
1979年、周囲の期待をよそに、箕島のエース・石井毅(現・木村竹志)は冷静だった。夏の甲子園出場が決まってから、春夏連覇に関する報道も増えたが、「今まで通り、淡々と」試合に臨んだ。
2回戦からの登場となった箕島は8月13日に札幌商業(南北海道)を7対3で破った。
「みんな、心のなかでは『夏も優勝しよう』と思っていたのかもしれませんが、それを口にする選手はいませんでした。それが変わったのはあの試合でした」
箕島ナインを変えた「あの試合」
石井が語る「あの試合」とは、8月16日に行われた星稜(石川)との3回戦だった。
「延長18回の試合が終わって、『夏も優勝しようや』となりました。そうすることで星稜の選手たちの思いに報いることができる、そういう思いが芽生えました。本気モードに変わりました」
当時は、延長戦は18回まで。同点のままで終われば再試合、またはじめから試合がスタートすることになる。
「その後ルールが変わって、延長は15回までになり、タイブレーク制が導入されたことで、もうあんな試合は二度とないでしょうね。僕たちの人生にとって、本当に大きな意味を持つ18回でした」
第4試合に組まれた箕島と星稜との一戦は16時06分にプレーボール。箕島の先発はアンダースローの石井、星稜はサウスポーの堅田外司昭だった。箕島の指揮をとるのは尾藤公監督、星稜は山下智茂監督が選手を鼓舞した。
高校野球史上最高の試合の攻防
星稜は1979(昭和54)年春のセンバツに出場したが、川之江(愛媛)に初戦で敗退。夏の甲子園では2回戦で宇治(京都)を下していた。北信越で頭角を現してきたチームだが、春夏連覇を目指す箕島が有利だと思われていた。両校の対戦がのちに「高校野球史上最高の試合」と呼ばれることになるとは、甲子園球場にいた選手、監督、観客の誰も思わなかったはずだ。
両校エースの好投により、1対1のまま、両チームともに譲らず、延長戦に突入した。ここで照明が点灯、ナイトゲームになったことで一層、特別なムードが高まった。30.6パーセントという驚異的な視聴率を記録するこの試合のひとつの山場が12回表に訪れた。
ワンアウトから星稜の六番打者、1年生の音重鎮(中日ドラゴンズ、広島東洋カープ)がヒットで出塁。フォアボールで一、二塁となったあと、箕島のセカンド・上野山善久がエラーをして1点が入る。その後、ワンアウト一、三塁で星稜がスクイズを仕掛けたが、失敗。追加点のチャンスは潰えた。
「ホームランを打ってきます」
その裏の攻撃、あとがなくなった箕島の打者が簡単に打ち取られてツーアウト。打席に向かう前に、一番打者の嶋田宗彦(阪神タイガース)が尾藤監督に「ホームランを打ってきます」と宣言した。キャッチャーとして石井を巧みにリードする嶋田は勝負強い打撃に定評があった。堅田が投じた2球目のカーブを力いっぱいに振り抜くと、打球は本当にレフトのラッキーゾーンに飛び込む同点ホームランとなった。
14回裏、また試合が動く。箕島の森川康弘がヒットで出塁。送りバントで二塁に進んだあと、相手のスキを突くディレードスティールを成功させた。ワンアウト、三塁。ヒットでも犠牲フライでもスクイズでも暴投でも、サヨナラとなる状況になった。しかし、ここでふたつ目の「まさか」が起こった。12回表にスクイズを失敗したサードの若狭徹がボールを持ったままベース近くに立っていた。堅田にボールが渡ったと思った三塁走者の森川がベースを離れた瞬間にタッチアウト!“隠し玉”でまたチャンスが消えた。
「今の高校野球だったら起こらないプレーですよね。タイムがかかる場面だし、そもそも隠し球を狙うような選手がいないから」
この試合の三塁の塁審をつとめたのは名アンパイヤとして知られた達磨省一だった。
「僕らも、サードがボールを持っていることを知りません。あとで聞いた話ですが、達磨さんは若狭がボールを持っていたことに気づいていたそうです。『変な動きをするなよ……』と念じていたと聞きました」
ピッチャーがボールを持っていない状態で投球動作を始めたり、マウンド付近にいると、ボークが宣告されるからだ。
「達磨さんは、そんな結末だけは避けたいと考えていたそうです」
それは塁審の杞憂に終わり、星稜の選手は「変な動き」をしなかった。
まさかの転倒からの同点弾…「明日、投げられるんかな」
次に試合が動いたのが16回表だ。星稜がデッドボールと五番・堅田のヒットでチャンスをつくり、七番・山下靖のタイムリーヒットで3対2と突き放した。
その裏の箕島の攻撃、二者が凡退して「あとひとり」まで追い込まれた。打席に立つのは六番の森川。14回裏に隠し玉でアウトになった選手だ。彼の打球は一塁のファウルゾーンに上がった。ところが、ファーストの加藤直樹が転倒して捕球できない。命拾いをした森川が5球目を叩くと打球は左中間スタンドに飛び込んだ。3対3の同点! 試合はまだ続く。
「あの時、森川は吹っ切れたんと違うかな? 何かが取りついたんかな(笑)。森川のホームランなんてあれくらいしか見たことがない。でも、追い詰められた場面であのバッティングができたのはやっぱり能力があったから」
17回は両チームとも三者凡退。18回表に星稜が満塁のチャンスをつくったが、得点することができなかった。この時点で星稜の勝ちはなくなった。
「18回表が始まる時に、『再試合になった場合は明日の8時30分にプレーボール』という場内アナウンスが聞こえました。僕は途中で右手中指の血豆がつぶれたままで投げていたから、体力的なことよりもそっちのほうが心配でした。『明日、投げられるんかな……』と」
史上3校目の春夏連覇
18回裏、箕島の最後の攻撃。箕島はふたりが続けてフォアボールを選び、五番・上野敬三のタイムリーでサヨナラ勝ち。時計の針は19時56分を指していた。試合時間は3時間50分だった。堅田が208球、石井が257球を投げた激闘は、センバツ王者の箕島の勝利で終わった。
「昔の甲子園の試合は1時間20分、30分で終わるのが普通でした。本当にいろいろなことを教えてくれた試合でした」
球審をつとめた永野元玄はホームベースを挟んで整列した両チームの選手に握手を促し、敗戦投手となった堅田にはボールをそっと手渡した。堅田は高校卒業後に社会人野球の松下電器でプレーしたあと、審判として甲子園に戻ってくることになる。
星稜との激闘を経て「本気で優勝したい」と思った箕島の選手たちは、準々決勝で城西(東東京)に4対1で勝利、準決勝では横浜商業(神奈川)に3対2で競り勝った。最後に、浪商(大阪)を下して決勝に進んだ池田(徳島)を4対3で倒して、史上3校目となる春夏連覇を果たした。
僕は甲子園の土を持っていない
「僕たちは本当に、甲子園での勝利にこだわってなかったというか、『勝ったら勝ったやし、負けたら負けたやし』という感じでした。優勝できてホッとしたというのが本当のところ。結果として春夏連覇を達成しましたけど、それを目指したというよりも『当たり前のことが起こった』ように感じていました。偉そうなことを言うようですけどね。負けないチームだったので、そういう感覚だったんですよ。でも、それが変わったのが星稜戦でしたね。延長18回を経験したことで勝利への意識は高くなりました」
箕島のエースとして甲子園で通算16試合に登板した石井の成績は14勝1敗だった。これは歴代2位の勝利数だ。
「僕は甲子園の土を持っていないんですよ。2年生の時には『来年がある』と思ったし、ありがたいことに3年生では負けることがなかった。甲子園の土は、負けた高校が持って帰るもんやと思っていました」
センバツ王者として夏の甲子園に戻ってきた箕島は無敗のまま聖地を去った。
〈つづく〉
📝春夏連覇で「天狗になっていた。社会人で鍛えられました」伝説の“延長18回”投げぬいた石井毅のいま「箕島と星稜の縁はほんまにありがたい」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9c109fd034cd696d95c69dcce8004ddf2aa36ad5
浪商のエース・牛島和彦が中日ドラゴンズから1位指名、キャッチャーの香川伸行が南海ホークスから2位指名された1979(昭和54)年のドラフト会議。春夏連覇を果たした箕島からはショートの上野敬三が読売ジャイアンツから4位指名を受けた。しかし、石井毅(現・木村竹志)と嶋田宗彦のバッテリーは社会人野球の住友金属に進んだ。
「夏の和歌山大会の前に就職することが決まっていました。社会人野球もそうですけど、住友金属の野球部は厳しいと聞いていました。『箕島以上やぞ』と」(石井)
社会人野球の強豪での日々
和歌山市に本拠を置く住友金属野球団は、1965年と1966年に都市対抗野球で準優勝した社会人野球の強豪だ。1977年には全日本選手権で初優勝を飾っていた。
「入るまでは社会人野球がどういうものかわかりませんでしたが、住友金属は泥臭い野球をするところだと聞いていました。監督は松永玲一さん。甲子園の試合ではテレビ解説をされていて、僕のピッチングをものすごくほめてくださった方です。当時、プロに行くということは考えていませんでした。目標は都市対抗野球に出て優勝すること」
それまで住友金属で主戦投手をつとめていたのは、1976年ドラフト会議でロッテオリオンズの1位指名を拒否して入社した森繁和だった。森は1978年ドラフト会議で1位指名を受け、1979年は西武ライオンズで先発・リリーフとフル回転していた。石井にかかる期待は大きかった。
「ありがたいことに、どんどん試合で使ってもらいました。チームが目指すのは都市対抗の優勝。そこに向かってやっていました。自分の野球人生を振り返った時、住友金属に入ったことがプラスになったと思います。聞いていた以上に厳しい野球部で、人間的なところを鍛えてもらいました」
あくまで本業が社業である社会人野球であれば、求められるのは野球の技術だけではない。
「高校時代に春夏連覇をして、天下を取ったような気持ちでいましたから、きっと天狗になっていたと思う。先輩方が本当に厳しく接してくれました。社会人1年生として何をやるべきか、やってはいけないことは何かを教えてもらって本当にありがたかったですね。時には『なんでそんなこと言われるの……』ということもありましたが、のちのち、言葉の意味に気がつきました。チームメイトも、会社の人たちもそう。だから、今の自分があるんだと思います」
1982年に都市対抗野球で初優勝。4勝を挙げた石井は、最優秀選手賞に当たる橋戸賞を獲得し、その秋のドラフト会議で西武ライオンズから3位指名を受けた。
黄金時代の西武で1988年までプロ野球でプレーした。1986年には42試合に登板、5勝1敗2セーブを記録してチームの連覇に貢献した。
星稜と箕島、OBたちの再会
「プロでもプレーしましたけど、社会人時代の経験が僕には大きかった。松永さん、山中正竹さん(法政大学時代に歴代最多の48勝をマーク)との出会いもそうです。あの星稜戦で球審をされていた永野元玄さんも住友金属OBなんですよ。人の縁に恵まれ、先輩方にいろいろなことを教えていただきました。
誘惑に負けることなく、仕事をきちんとやったうえで野球に全力で取り組む。寮の名前が『克己寮』というんですけど、『己に克つ』ということの意味を知りました」
携帯電話もSNSもない時代、箕島と星稜の選手たちが再会したのは、石井がプロ野球を引退したあとだった。
「地元の和歌山に戻ってからラジオ番組に呼ばれる機会があって、『箕島-星稜戦をまたやりましょう』という話になりました。和歌山放送が後援してくれて、あの時のメンバーが箕島で集まることになりました」
そのあとに金沢で試合が行われ、最後の対戦は甲子園球場で実現することになった。
「あの試合をきっかけにして、箕島のある有田市と星稜のある金沢市でスポーツ交流が生まれました。それは今でも続いています」
2003(平成15)年に和歌山野球振興会・夢クラブを設立した。2014年には第2回IBAF 15Uワールドカップの日本代表コーチをつとめた。現在、石井は少年野球の指導を行っている。
「中体連の軟式野球のクラブチームを指導しているんです。5月には星稜中学に行ってきました。星稜中は全国優勝するほどの強豪ですからね。僕が指導している子たちにも見せたいと思いまして」
今も続く両校の縁
石井の恩師である尾藤公は2011年に病で世を去ったが、星稜の山下智茂は80歳を過ぎた今も、高校野球の指導を行っている。
「以前、星稜中に行った時に山下さんが来てくれましたし、星稜の山下靖や加藤直樹たちと石川県で野球教室をした時にも顔を出してくれました。僕たちが話すことを全部メモしているんですよ。何でも吸収してやろうという気持ちがすごいと思いました」
箕島が最後に甲子園に出場したのは2013年夏。それ以来、あのユニフォームを聖地で見ることができていない。一方の星稜は甲子園常連校として地歩を固め、奥川恭伸、内山壮真(ともに東京ヤクルトスワローズ)など多くの選手をプロ野球に送り出している。
「星稜は箕島に負けたあと、強いチームになりました。松井秀喜くん(読売ジャイアンツなど)をはじめ、いい選手をたくさん育ててきました」
夏の甲子園の100回記念大会となった2018年、功績のある元球児による「甲子園レジェンド始球式」が行われ、大会初日の松井秀喜に続き、2日目に石井が登場した。見事なストライクを投げ込み、観衆から大きな拍手を受けた。
「箕島と星稜との縁がいまだに続いていることはほんまにありがたいことだと思っています」
マウンドに立った石井のすぐそばにはアテンド役として、球審をつとめる星稜の元エース、堅田外司昭の姿があった——。
https://www.whbf.jp/uploads/20260901114653_CVWX.pdf
初芝橋本高等学校より、令和8年度秋季近畿地区高等学校野球大会県一次予選の出場辞退届が提出され、本日(9月1日)受理しました。
このことにより、令和8年度秋季近畿地区高等学校野球大会県一次予選は、32校29チームの参加となりました。
組み合わせ抽選会は、明日9月2日(水)に開催します。抽選結果につきましては決定次第、当連盟ホームページにアップロードします。
✌「こんな奇跡がおるのか!」智辯を〝最も追い詰めた高校〟でチア、第11代有田みかん大使・山野光希に脚光「チアの頃からひときわ光ってますね」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9ed1a1057fcca5c80837428c520e9631d8e4a8d3
▼「チアやってた時の思い出の写真」
甲子園を制した智辯学園和歌山高校を最も追い詰めた高校のOGに注目が集まっている。
「智弁和歌山優勝しましたね 和歌山出身として誇らしすぎる 母校の田辺高校もすごかった!!!」とXに投稿したのは、第11代有田みかん大使の山野光希。「野球応援でチアやってた時の思い出の写真」と田辺高校時代のチア姿を紹介した。
県立の田辺高校は和歌山県大会3回戦で智辯学園和歌山高校と対戦。敗れはしたものの7回までリードするなど大健闘を見せ「実質準優勝ですよね!」「かなりいい試合して追い詰めてましたね!!」などの声があがっていた。
エンジ色のユニフォームを着た山野の姿に「田辺にはこんな奇跡がおるのか!」「貴重な写真だ」「う、うわあ!」「チアの頃からひときわ光ってますね」といった感嘆の声が相次いでいる。
田辺高校は甲子園に春3度、夏1度出場。山野が卒業した2024年の第96回選抜高校野球大会に76年ぶりに出場し、話題となった。
☝元PL学園監督の中村順司氏が初の中学指導者に 兵庫加古川ヤングのスタッフとして本格始動
https://news.yahoo.co.jp/articles/fcbc5b2d9bf9a28b91f27fa8c123e8c383ce6ca4
PL学園(大阪)の監督として甲子園通算6度の優勝に輝いた中村順司氏(80)が中学生指導に本格着手した。
硬式野球ヤングリーグの兵庫加古川ヤングのアドバイザリースタッフに、このたび就任したことが判明した。8月29、30の両日にグラウンドで就任後初めて本格的な指導を行った。PL学園のほか、名古屋商科大でも指揮を執ったが、中学年代のチームで定期的に指導するのは初めて。以前から同チームの関係者を通じて不定期で選手を見ることがあったが、新型コロナで中断していた。今回は肩書もついて、自宅のある神奈川県から定期的に兵庫県を訪れることになる。同ヤングに創設された小学部も指導する。
指導方法もPL流。骨の作りなど根本的な体の仕組みを理解させるなど、当時と同様のノウハウを持ち込んでいる。
この2日間は自らノックバットも握って中学生、小学生とともに汗を流した。8月5日に80歳を迎えたが、情熱は衰えていない。
📣広陵高校 「甲子園至上主義」から決別 暴力事案めぐり検討委員会が提言
https://news.yahoo.co.jp/articles/7bb59dc49005d6a39da67a3542e091bf468917f1
硬式野球部の暴力事案を巡り広陵高校が設置した検討委員会が指導体制の見直しなどを求めました。
これは2025年1月に起きた広陵高校野球部の暴力事案を受けて設置された、弁護士などでつくる学校改善検討委員会が最終提言としてまとめたものです。提言では、閉鎖的な体質の原因につながった野球部OBのみでの指導をやめ、外部指導者の登用を求めたほか、指導者の目が行き届く適正な部員数の設定や甲子園至上主義との決別などを求めています。
また、集団暴行が発生した寮の運営にも触れ、上級生が規律違反に対応することをやめるほか、寮生の生活を管理する寮監には野球部関係者に限らず一般教職員も関わることなどを求めました。
📝「あの試合が終わって『夏も優勝しようや』と」高校野球“史上最高の試合”箕島-星稜延長18回の死闘で起きたこと「星稜の思いに報いたい」
https://news.yahoo.co.jp/articles/67d75ebe487b6d95bcfc274ac65999436f63df66
1979年、周囲の期待をよそに、箕島のエース・石井毅(現・木村竹志)は冷静だった。夏の甲子園出場が決まってから、春夏連覇に関する報道も増えたが、「今まで通り、淡々と」試合に臨んだ。
2回戦からの登場となった箕島は8月13日に札幌商業(南北海道)を7対3で破った。
「みんな、心のなかでは『夏も優勝しよう』と思っていたのかもしれませんが、それを口にする選手はいませんでした。それが変わったのはあの試合でした」
箕島ナインを変えた「あの試合」
石井が語る「あの試合」とは、8月16日に行われた星稜(石川)との3回戦だった。
「延長18回の試合が終わって、『夏も優勝しようや』となりました。そうすることで星稜の選手たちの思いに報いることができる、そういう思いが芽生えました。本気モードに変わりました」
当時は、延長戦は18回まで。同点のままで終われば再試合、またはじめから試合がスタートすることになる。
「その後ルールが変わって、延長は15回までになり、タイブレーク制が導入されたことで、もうあんな試合は二度とないでしょうね。僕たちの人生にとって、本当に大きな意味を持つ18回でした」
第4試合に組まれた箕島と星稜との一戦は16時06分にプレーボール。箕島の先発はアンダースローの石井、星稜はサウスポーの堅田外司昭だった。箕島の指揮をとるのは尾藤公監督、星稜は山下智茂監督が選手を鼓舞した。
高校野球史上最高の試合の攻防
星稜は1979(昭和54)年春のセンバツに出場したが、川之江(愛媛)に初戦で敗退。夏の甲子園では2回戦で宇治(京都)を下していた。北信越で頭角を現してきたチームだが、春夏連覇を目指す箕島が有利だと思われていた。両校の対戦がのちに「高校野球史上最高の試合」と呼ばれることになるとは、甲子園球場にいた選手、監督、観客の誰も思わなかったはずだ。
両校エースの好投により、1対1のまま、両チームともに譲らず、延長戦に突入した。ここで照明が点灯、ナイトゲームになったことで一層、特別なムードが高まった。30.6パーセントという驚異的な視聴率を記録するこの試合のひとつの山場が12回表に訪れた。
ワンアウトから星稜の六番打者、1年生の音重鎮(中日ドラゴンズ、広島東洋カープ)がヒットで出塁。フォアボールで一、二塁となったあと、箕島のセカンド・上野山善久がエラーをして1点が入る。その後、ワンアウト一、三塁で星稜がスクイズを仕掛けたが、失敗。追加点のチャンスは潰えた。
「ホームランを打ってきます」
その裏の攻撃、あとがなくなった箕島の打者が簡単に打ち取られてツーアウト。打席に向かう前に、一番打者の嶋田宗彦(阪神タイガース)が尾藤監督に「ホームランを打ってきます」と宣言した。キャッチャーとして石井を巧みにリードする嶋田は勝負強い打撃に定評があった。堅田が投じた2球目のカーブを力いっぱいに振り抜くと、打球は本当にレフトのラッキーゾーンに飛び込む同点ホームランとなった。
14回裏、また試合が動く。箕島の森川康弘がヒットで出塁。送りバントで二塁に進んだあと、相手のスキを突くディレードスティールを成功させた。ワンアウト、三塁。ヒットでも犠牲フライでもスクイズでも暴投でも、サヨナラとなる状況になった。しかし、ここでふたつ目の「まさか」が起こった。12回表にスクイズを失敗したサードの若狭徹がボールを持ったままベース近くに立っていた。堅田にボールが渡ったと思った三塁走者の森川がベースを離れた瞬間にタッチアウト!“隠し玉”でまたチャンスが消えた。
「今の高校野球だったら起こらないプレーですよね。タイムがかかる場面だし、そもそも隠し球を狙うような選手がいないから」
この試合の三塁の塁審をつとめたのは名アンパイヤとして知られた達磨省一だった。
「僕らも、サードがボールを持っていることを知りません。あとで聞いた話ですが、達磨さんは若狭がボールを持っていたことに気づいていたそうです。『変な動きをするなよ……』と念じていたと聞きました」
ピッチャーがボールを持っていない状態で投球動作を始めたり、マウンド付近にいると、ボークが宣告されるからだ。
「達磨さんは、そんな結末だけは避けたいと考えていたそうです」
それは塁審の杞憂に終わり、星稜の選手は「変な動き」をしなかった。
まさかの転倒からの同点弾…「明日、投げられるんかな」
次に試合が動いたのが16回表だ。星稜がデッドボールと五番・堅田のヒットでチャンスをつくり、七番・山下靖のタイムリーヒットで3対2と突き放した。
その裏の箕島の攻撃、二者が凡退して「あとひとり」まで追い込まれた。打席に立つのは六番の森川。14回裏に隠し玉でアウトになった選手だ。彼の打球は一塁のファウルゾーンに上がった。ところが、ファーストの加藤直樹が転倒して捕球できない。命拾いをした森川が5球目を叩くと打球は左中間スタンドに飛び込んだ。3対3の同点! 試合はまだ続く。
「あの時、森川は吹っ切れたんと違うかな? 何かが取りついたんかな(笑)。森川のホームランなんてあれくらいしか見たことがない。でも、追い詰められた場面であのバッティングができたのはやっぱり能力があったから」
17回は両チームとも三者凡退。18回表に星稜が満塁のチャンスをつくったが、得点することができなかった。この時点で星稜の勝ちはなくなった。
「18回表が始まる時に、『再試合になった場合は明日の8時30分にプレーボール』という場内アナウンスが聞こえました。僕は途中で右手中指の血豆がつぶれたままで投げていたから、体力的なことよりもそっちのほうが心配でした。『明日、投げられるんかな……』と」
史上3校目の春夏連覇
18回裏、箕島の最後の攻撃。箕島はふたりが続けてフォアボールを選び、五番・上野敬三のタイムリーでサヨナラ勝ち。時計の針は19時56分を指していた。試合時間は3時間50分だった。堅田が208球、石井が257球を投げた激闘は、センバツ王者の箕島の勝利で終わった。
「昔の甲子園の試合は1時間20分、30分で終わるのが普通でした。本当にいろいろなことを教えてくれた試合でした」
球審をつとめた永野元玄はホームベースを挟んで整列した両チームの選手に握手を促し、敗戦投手となった堅田にはボールをそっと手渡した。堅田は高校卒業後に社会人野球の松下電器でプレーしたあと、審判として甲子園に戻ってくることになる。
星稜との激闘を経て「本気で優勝したい」と思った箕島の選手たちは、準々決勝で城西(東東京)に4対1で勝利、準決勝では横浜商業(神奈川)に3対2で競り勝った。最後に、浪商(大阪)を下して決勝に進んだ池田(徳島)を4対3で倒して、史上3校目となる春夏連覇を果たした。
僕は甲子園の土を持っていない
「僕たちは本当に、甲子園での勝利にこだわってなかったというか、『勝ったら勝ったやし、負けたら負けたやし』という感じでした。優勝できてホッとしたというのが本当のところ。結果として春夏連覇を達成しましたけど、それを目指したというよりも『当たり前のことが起こった』ように感じていました。偉そうなことを言うようですけどね。負けないチームだったので、そういう感覚だったんですよ。でも、それが変わったのが星稜戦でしたね。延長18回を経験したことで勝利への意識は高くなりました」
箕島のエースとして甲子園で通算16試合に登板した石井の成績は14勝1敗だった。これは歴代2位の勝利数だ。
「僕は甲子園の土を持っていないんですよ。2年生の時には『来年がある』と思ったし、ありがたいことに3年生では負けることがなかった。甲子園の土は、負けた高校が持って帰るもんやと思っていました」
センバツ王者として夏の甲子園に戻ってきた箕島は無敗のまま聖地を去った。
〈つづく〉
📝春夏連覇で「天狗になっていた。社会人で鍛えられました」伝説の“延長18回”投げぬいた石井毅のいま「箕島と星稜の縁はほんまにありがたい」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9c109fd034cd696d95c69dcce8004ddf2aa36ad5
浪商のエース・牛島和彦が中日ドラゴンズから1位指名、キャッチャーの香川伸行が南海ホークスから2位指名された1979(昭和54)年のドラフト会議。春夏連覇を果たした箕島からはショートの上野敬三が読売ジャイアンツから4位指名を受けた。しかし、石井毅(現・木村竹志)と嶋田宗彦のバッテリーは社会人野球の住友金属に進んだ。
「夏の和歌山大会の前に就職することが決まっていました。社会人野球もそうですけど、住友金属の野球部は厳しいと聞いていました。『箕島以上やぞ』と」(石井)
社会人野球の強豪での日々
和歌山市に本拠を置く住友金属野球団は、1965年と1966年に都市対抗野球で準優勝した社会人野球の強豪だ。1977年には全日本選手権で初優勝を飾っていた。
「入るまでは社会人野球がどういうものかわかりませんでしたが、住友金属は泥臭い野球をするところだと聞いていました。監督は松永玲一さん。甲子園の試合ではテレビ解説をされていて、僕のピッチングをものすごくほめてくださった方です。当時、プロに行くということは考えていませんでした。目標は都市対抗野球に出て優勝すること」
それまで住友金属で主戦投手をつとめていたのは、1976年ドラフト会議でロッテオリオンズの1位指名を拒否して入社した森繁和だった。森は1978年ドラフト会議で1位指名を受け、1979年は西武ライオンズで先発・リリーフとフル回転していた。石井にかかる期待は大きかった。
「ありがたいことに、どんどん試合で使ってもらいました。チームが目指すのは都市対抗の優勝。そこに向かってやっていました。自分の野球人生を振り返った時、住友金属に入ったことがプラスになったと思います。聞いていた以上に厳しい野球部で、人間的なところを鍛えてもらいました」
あくまで本業が社業である社会人野球であれば、求められるのは野球の技術だけではない。
「高校時代に春夏連覇をして、天下を取ったような気持ちでいましたから、きっと天狗になっていたと思う。先輩方が本当に厳しく接してくれました。社会人1年生として何をやるべきか、やってはいけないことは何かを教えてもらって本当にありがたかったですね。時には『なんでそんなこと言われるの……』ということもありましたが、のちのち、言葉の意味に気がつきました。チームメイトも、会社の人たちもそう。だから、今の自分があるんだと思います」
1982年に都市対抗野球で初優勝。4勝を挙げた石井は、最優秀選手賞に当たる橋戸賞を獲得し、その秋のドラフト会議で西武ライオンズから3位指名を受けた。
黄金時代の西武で1988年までプロ野球でプレーした。1986年には42試合に登板、5勝1敗2セーブを記録してチームの連覇に貢献した。
星稜と箕島、OBたちの再会
「プロでもプレーしましたけど、社会人時代の経験が僕には大きかった。松永さん、山中正竹さん(法政大学時代に歴代最多の48勝をマーク)との出会いもそうです。あの星稜戦で球審をされていた永野元玄さんも住友金属OBなんですよ。人の縁に恵まれ、先輩方にいろいろなことを教えていただきました。
誘惑に負けることなく、仕事をきちんとやったうえで野球に全力で取り組む。寮の名前が『克己寮』というんですけど、『己に克つ』ということの意味を知りました」
携帯電話もSNSもない時代、箕島と星稜の選手たちが再会したのは、石井がプロ野球を引退したあとだった。
「地元の和歌山に戻ってからラジオ番組に呼ばれる機会があって、『箕島-星稜戦をまたやりましょう』という話になりました。和歌山放送が後援してくれて、あの時のメンバーが箕島で集まることになりました」
そのあとに金沢で試合が行われ、最後の対戦は甲子園球場で実現することになった。
「あの試合をきっかけにして、箕島のある有田市と星稜のある金沢市でスポーツ交流が生まれました。それは今でも続いています」
2003(平成15)年に和歌山野球振興会・夢クラブを設立した。2014年には第2回IBAF 15Uワールドカップの日本代表コーチをつとめた。現在、石井は少年野球の指導を行っている。
「中体連の軟式野球のクラブチームを指導しているんです。5月には星稜中学に行ってきました。星稜中は全国優勝するほどの強豪ですからね。僕が指導している子たちにも見せたいと思いまして」
今も続く両校の縁
石井の恩師である尾藤公は2011年に病で世を去ったが、星稜の山下智茂は80歳を過ぎた今も、高校野球の指導を行っている。
「以前、星稜中に行った時に山下さんが来てくれましたし、星稜の山下靖や加藤直樹たちと石川県で野球教室をした時にも顔を出してくれました。僕たちが話すことを全部メモしているんですよ。何でも吸収してやろうという気持ちがすごいと思いました」
箕島が最後に甲子園に出場したのは2013年夏。それ以来、あのユニフォームを聖地で見ることができていない。一方の星稜は甲子園常連校として地歩を固め、奥川恭伸、内山壮真(ともに東京ヤクルトスワローズ)など多くの選手をプロ野球に送り出している。
「星稜は箕島に負けたあと、強いチームになりました。松井秀喜くん(読売ジャイアンツなど)をはじめ、いい選手をたくさん育ててきました」
夏の甲子園の100回記念大会となった2018年、功績のある元球児による「甲子園レジェンド始球式」が行われ、大会初日の松井秀喜に続き、2日目に石井が登場した。見事なストライクを投げ込み、観衆から大きな拍手を受けた。
「箕島と星稜との縁がいまだに続いていることはほんまにありがたいことだと思っています」
マウンドに立った石井のすぐそばにはアテンド役として、球審をつとめる星稜の元エース、堅田外司昭の姿があった——。
5/5 春季兵庫大会準決勝 明石トーカロ球場 報徳学園-神戸国際大付 12:29~14:45
一二三四五六七八九十計HE
報徳学園000040100 590 岡田-降旗
神国大付020000101 493 黒川、中塩屋、豊岡-井本
第一試合
東洋姫路10
明 石 商0
この日はゴールデンウィーク真っ只中ということもあり、なおかつ快晴で4強にセンバツ1勝の東洋大姫路・地元の明石商そして優勝候補筆頭格の報徳学園VS神戸国際大付の直接対決ということもあり、ある程度観客席の狭い明石トーカロ球場に観衆が押し寄せることは予想していたが、まさか明石城跡の入口付近まで試合開始1時間強という時点で行列が伸びているとは・・・・・。
いつもならば左中間後方の外野席入口でテント貼って入場券販売しているが、今日はいつもの窓口しか開いておらず混雑の一員となった・・・・。
なんとか開始9時25分に入場でき1塁側内野席前列に腰を下ろせたが、第1試合は東洋が序盤から明石商を圧倒し、なおかつ明石商の守備が乱れて火に油を注ぎまさかの0-105回コールド負けで一蹴されてしまった・・・・・。あれだけ長蛇の列に並んで1時間25分の5回コールドとは・・・・・。先日、激戦の末敗れた神戸学院大付の方がまだ良かったのかなと・・・・・。
幸い第2試合は定刻通り12時30分開始予定とアナウンスされ小一時間ほどゆっくりできたのだが、第三期長期改装工事中のために外野芝生席はバリケードで入れず、しゃーなしに一度外出して外のベンチで弁当食べてから体勢を立て直し第2試合に備える。
夏を見据えればどちらも第1シードを獲得しているので手の内を見せずに試合を終わらすこともできるが、勝てば夏の大会で決勝まで東洋大姫路と対戦しないメリットもあるので・・・・・。
先発は報徳が11番・岡田 神戸国際は12番のサウスポー黒川だった。どのタイミングで継投に踏み切るか?おそらくじゃんけんで負けたであろう報徳が先攻となり2試合連続5回表で試合終了とならないことを祈りつつ試合開始。
初回から明暗分かれ先攻の報徳はサウスポー黒川に手も足も出ず外野まで打球が飛ぶことなく三者凡退。その裏、岡田投手は神戸国際の1番・川口に三塁線を破られるツーベースと送りバントで早くも1死3塁のピンチ・・・。しかし、3番・竹田をチェンジアップで空振り三振。4番・中井に対してボール球を使わず2球で追い込みライトフライに抑えた。
2回表報徳は1死から5番・岸本がライト線を破るツーベースに四球で1・2塁と先生のチャンスを迎えたが、下位打線を任された2年生たちが相次いで倒れて無得点。その裏、1死から四球を与えて7番・林が両翼100mという広い明石トーカロ球場も低反発バットも関係ないと言わんばかりの先制2ランホームランを放ち力でねじ伏せる野球を体現し2点をもぎ取った。
早く追いつきたい報徳は3回1死から相手のエラーで出塁しすかさず盗塁を決め得点圏に走者を置く。2死後に四球そして暴投で2・3塁と詰め寄るが、4番・真栄田無念のセンターフライで惜しいチャンスを逃してしまった!その裏、国際も1死からデッドボールで塁に出ると盗塁を決めて同じような展開となったが、岡田投手が神戸国際の3・4番を連続フライアウトに打ち取りまだまだ試合の行方は分からない。
早く反撃したい報徳は4回1死から6番・藤本がセンター前ヒットを放つも7番・降旗セカンドゴロゲッツー・・・・・。その裏、岡田投手が3球で2アウトとしたが、打席には先制2ランの林。ここは最悪くさいところを突いて四球でも構わないと思ったが、まともに勝負を挑みフルカウントからセンター前ヒット。まだ単打なんで良かったし、8番・井本サードゴロに倒れ一安心。
そして5回ここまで空回りしていた報徳だが、なりふり構わず先頭打者が初球セーフティーバントをかまし、アウトになったが1死後9番・岡田投手が打ちに行った打球がピッチャー前のボテボテのゴロとなりこれが内野安打で球運が変わった!
1番・橋本がレフト前ヒットでつなぎ、2番・金本のバントヒットで満塁の大チャンス!あえて国際内野陣は中間守備を敷いてきたが、3番・山岡まさかのピッチャーゴロ・・・1-2-3のダブルプレーを覚悟したが、なんと・・・黒川投手がホームに大暴投を投げて3アウトチェンジのはずが、2-2同点となりさらに1死1・3塁とタナボタのチャンスに4番・真栄田が初球レフトオーバーの目の覚めるような会心の一撃を放ち2者生還のタイムリースリーベースで4-2と一気に試合をひっくり返した!!これで黒川投手をKOし、2番手は同じくサウスポー中塩屋がリリーフ。なおも続く1死3塁のピンチをスライダーで連続三振に打ち取り火消しに成功。
その裏、国際も1死から四球とヒットで1・2塁のチャンスを作りクリーンアップトリオにつないだが、岡田投手がセカンドフライ・ショートゴロに抑え整備に入った。
序盤は2ランホームランを浴びて劣勢に立たされた報徳だったが、5回相手のミスに乗じて一気に逆転に成功!これがいわゆる“逆転の報徳”と言われる伝統なのか?肝心なところで守備が崩壊し勝てる試合を落とす神戸国際の勝負弱さが嚙み合ってか4-2と報徳が2点リードでの折り返し。だが、神戸国際は終盤に怒涛の猛追をかましてくるので何点リードしていても気が抜けないし、ましてや後攻なんで勢いそのままに逆転サヨナラという試合をこの明石トーカロで何度も展開しているだけに侮れない。
神戸国際はすでに継投に入ったが、報徳はどこまで岡田投手を辛抱するか?エース・山岡はセカンドを守っているが登板はあるのか?もちろん両チームともに決勝進出して夏の大会で東洋と決勝まで当たらない権利を獲得したいところだろうが・・・・・。
6回表報徳は2死から連続四球でまたチャンスをもらい、2番・金本が左中間に痛烈な打球を放つもセンター田中の守備範囲内だった・・・・・。その裏、1死から6番・山本にレフトへツーベースを浴び、先制2ランの林が打席に。ここは申告敬遠で塁を詰めても不思議ではなかったが、勝負を挑みセカンドフライ。8番・井本もセンターフライに抑え背番号11の岡田投手が躍動する!
追加点が欲しい報徳は7回先頭の3番・山岡が右中間にヒットを放ち4番・真栄田が送りバントを決めて手堅く進め、5番・岸本が10球粘ってショートゴロの間に3塁へ。そして神戸国際は昨秋エースナンバーをつけていた背番号10の豊岡を3番手投手として送り出すも初球まさかのワイルドピッチで致命的な5点目・・・・・。
普通だったら3点リードとなって安穏としていられるが、神戸国際は終盤怒涛の猛追劇を幾度も演じて来ておるので全く気が抜けない。1点でも返されたらケツに火が点くといった状況でその裏1死から1番・川口がライトへスリーベースヒット。やはり点差を考えれば報徳の内野陣が深く守るのもセオリーだが、2番・福田のショートゴロで1点を献上し非常にイヤな予感が漂う。。。
報徳はダメ押しすべく8・9回と得点圏に走者を送り続けるもあと1本が出ず逃げ切れるか?????やはり神戸国際は簡単にコケてはくれなかった・・・。
8回裏先頭の4番・中井がレフトへツーベース。2点差で無死2塁ゆえにまず送りバントで3塁を進めて1点差に迫って、、、とは青木監督は考えず、一気に試合をひっくり返して9回裏を戦わずして勝つもくろみなのか?代打・平林を起用して1ボールからファーストゴロで1死3塁。6番・松本を迎えて内野はここも深く守って1点OKの陣容。しかし四球で歩かせて1・3塁。ここで先制2ランを放った林が打席に立ち報徳も継投しても不思議ではないが、大角監督は岡田続投で初球まさかのキャッチャーフライ・・・。8番・井本もセカンドゴロに抑え出口が見えてきた。
そして9回裏先頭の豊岡投手に代打・比嘉起用も内ストレートに見逃しの三振。ところが1番・川口が左中間にツーベースを放ちやはり簡単には終わらせてくれない・・・・・・。
さらに暴投で1死3塁と傷口を広げ、2番・福田のセカンドゴロの間に1点入り5-4ながら2死ランナーなし。さすがに神戸国際の猛追もここまでだろうと思っていたら、、、3番・竹田ライト線を破るスリーベースで2死3塁そして4番・中井を迎えた。大角監督は最初から岡田投手を代える気がなかったのか?最後まで任せて初球快心の打球を放たれたがショート正面のライナーに終わり試合終了。
まだ5月GWだがどっと汗が噴き出すような終盤の攻防で冷や汗拭って試合終了。第1試合があまりにも味気ない5回コールドだったが、それを取り返す2時間16分の好ゲームだった。
結局、要所でエラーや暴投などやらずもが名の点を与えてしまった大味な神戸国際の野球が顔を出し、終盤粘るも後1点が届かず3位決定戦に回ったと。
報徳はノーエラーで背番号11の岡田投手を盛り立て決勝進出し、夏の兵庫大会も決勝まで東洋大姫路とぶつかることはなくなった。この代は圧倒的に東洋1強と思われたが、約2か月半後には7-6の大熱戦で兵庫の高校野球ファンを大いに熱くさせた試合を展開した。
さて、次回は本来ならばさとやくスタジアムの春季近畿大会観戦記だが、運悪く三重の東海大会と岡山の中国大会が同時期にかち合い2週連続宿泊観戦となり近畿は1試合も見ることなく終わってしまったので・・・・・。津と伊勢で開催された春季東海大会観戦記。最初から旅程2泊3日とって試合翌日の月曜日の休養日に近鉄週末フリーきっぷと養老鉄道1日乗車券を組み合わせて観光を考えていたが、初日まさかの雨に祟られ日程が大幅に変更され屋根のない津で悲劇が、、、、それは次回の講釈で。
チーム名 選手名 投球回 打者 投球数 安打 本塁打 犠打 四球 死球 三振 暴投 失点 自責
報徳学園 岡 田 9 40 123 9 1 1 2 1 3 1 4 4
神国大付 黒 川 4 1/3 22 76 5 0 0 2 0 3 1 4 4
神国大付 中塩屋 2 1/3 10 45 2 0 1 2 0 2 0 1 0
神国大付 豊 岡 1 1/3 9 34 2 0 0 0 0 1 0 0 0
(完)
🌟新シリーズのお知らせ🌟
【り ん🌟】美し国 清楚な女(ひと)春季東海大会in津【かれん👧】
5/24 春季東海大会 初日開幕試合 津田学園(三重①)-中京(岐阜②)
一二三四五六七八九十計HE
報徳学園000040100 590 岡田-降旗
神国大付020000101 493 黒川、中塩屋、豊岡-井本
第一試合
東洋姫路10
明 石 商0
この日はゴールデンウィーク真っ只中ということもあり、なおかつ快晴で4強にセンバツ1勝の東洋大姫路・地元の明石商そして優勝候補筆頭格の報徳学園VS神戸国際大付の直接対決ということもあり、ある程度観客席の狭い明石トーカロ球場に観衆が押し寄せることは予想していたが、まさか明石城跡の入口付近まで試合開始1時間強という時点で行列が伸びているとは・・・・・。
いつもならば左中間後方の外野席入口でテント貼って入場券販売しているが、今日はいつもの窓口しか開いておらず混雑の一員となった・・・・。
なんとか開始9時25分に入場でき1塁側内野席前列に腰を下ろせたが、第1試合は東洋が序盤から明石商を圧倒し、なおかつ明石商の守備が乱れて火に油を注ぎまさかの0-105回コールド負けで一蹴されてしまった・・・・・。あれだけ長蛇の列に並んで1時間25分の5回コールドとは・・・・・。先日、激戦の末敗れた神戸学院大付の方がまだ良かったのかなと・・・・・。
幸い第2試合は定刻通り12時30分開始予定とアナウンスされ小一時間ほどゆっくりできたのだが、第三期長期改装工事中のために外野芝生席はバリケードで入れず、しゃーなしに一度外出して外のベンチで弁当食べてから体勢を立て直し第2試合に備える。
夏を見据えればどちらも第1シードを獲得しているので手の内を見せずに試合を終わらすこともできるが、勝てば夏の大会で決勝まで東洋大姫路と対戦しないメリットもあるので・・・・・。
先発は報徳が11番・岡田 神戸国際は12番のサウスポー黒川だった。どのタイミングで継投に踏み切るか?おそらくじゃんけんで負けたであろう報徳が先攻となり2試合連続5回表で試合終了とならないことを祈りつつ試合開始。
初回から明暗分かれ先攻の報徳はサウスポー黒川に手も足も出ず外野まで打球が飛ぶことなく三者凡退。その裏、岡田投手は神戸国際の1番・川口に三塁線を破られるツーベースと送りバントで早くも1死3塁のピンチ・・・。しかし、3番・竹田をチェンジアップで空振り三振。4番・中井に対してボール球を使わず2球で追い込みライトフライに抑えた。
2回表報徳は1死から5番・岸本がライト線を破るツーベースに四球で1・2塁と先生のチャンスを迎えたが、下位打線を任された2年生たちが相次いで倒れて無得点。その裏、1死から四球を与えて7番・林が両翼100mという広い明石トーカロ球場も低反発バットも関係ないと言わんばかりの先制2ランホームランを放ち力でねじ伏せる野球を体現し2点をもぎ取った。
早く追いつきたい報徳は3回1死から相手のエラーで出塁しすかさず盗塁を決め得点圏に走者を置く。2死後に四球そして暴投で2・3塁と詰め寄るが、4番・真栄田無念のセンターフライで惜しいチャンスを逃してしまった!その裏、国際も1死からデッドボールで塁に出ると盗塁を決めて同じような展開となったが、岡田投手が神戸国際の3・4番を連続フライアウトに打ち取りまだまだ試合の行方は分からない。
早く反撃したい報徳は4回1死から6番・藤本がセンター前ヒットを放つも7番・降旗セカンドゴロゲッツー・・・・・。その裏、岡田投手が3球で2アウトとしたが、打席には先制2ランの林。ここは最悪くさいところを突いて四球でも構わないと思ったが、まともに勝負を挑みフルカウントからセンター前ヒット。まだ単打なんで良かったし、8番・井本サードゴロに倒れ一安心。
そして5回ここまで空回りしていた報徳だが、なりふり構わず先頭打者が初球セーフティーバントをかまし、アウトになったが1死後9番・岡田投手が打ちに行った打球がピッチャー前のボテボテのゴロとなりこれが内野安打で球運が変わった!
1番・橋本がレフト前ヒットでつなぎ、2番・金本のバントヒットで満塁の大チャンス!あえて国際内野陣は中間守備を敷いてきたが、3番・山岡まさかのピッチャーゴロ・・・1-2-3のダブルプレーを覚悟したが、なんと・・・黒川投手がホームに大暴投を投げて3アウトチェンジのはずが、2-2同点となりさらに1死1・3塁とタナボタのチャンスに4番・真栄田が初球レフトオーバーの目の覚めるような会心の一撃を放ち2者生還のタイムリースリーベースで4-2と一気に試合をひっくり返した!!これで黒川投手をKOし、2番手は同じくサウスポー中塩屋がリリーフ。なおも続く1死3塁のピンチをスライダーで連続三振に打ち取り火消しに成功。
その裏、国際も1死から四球とヒットで1・2塁のチャンスを作りクリーンアップトリオにつないだが、岡田投手がセカンドフライ・ショートゴロに抑え整備に入った。
序盤は2ランホームランを浴びて劣勢に立たされた報徳だったが、5回相手のミスに乗じて一気に逆転に成功!これがいわゆる“逆転の報徳”と言われる伝統なのか?肝心なところで守備が崩壊し勝てる試合を落とす神戸国際の勝負弱さが嚙み合ってか4-2と報徳が2点リードでの折り返し。だが、神戸国際は終盤に怒涛の猛追をかましてくるので何点リードしていても気が抜けないし、ましてや後攻なんで勢いそのままに逆転サヨナラという試合をこの明石トーカロで何度も展開しているだけに侮れない。
神戸国際はすでに継投に入ったが、報徳はどこまで岡田投手を辛抱するか?エース・山岡はセカンドを守っているが登板はあるのか?もちろん両チームともに決勝進出して夏の大会で東洋と決勝まで当たらない権利を獲得したいところだろうが・・・・・。
6回表報徳は2死から連続四球でまたチャンスをもらい、2番・金本が左中間に痛烈な打球を放つもセンター田中の守備範囲内だった・・・・・。その裏、1死から6番・山本にレフトへツーベースを浴び、先制2ランの林が打席に。ここは申告敬遠で塁を詰めても不思議ではなかったが、勝負を挑みセカンドフライ。8番・井本もセンターフライに抑え背番号11の岡田投手が躍動する!
追加点が欲しい報徳は7回先頭の3番・山岡が右中間にヒットを放ち4番・真栄田が送りバントを決めて手堅く進め、5番・岸本が10球粘ってショートゴロの間に3塁へ。そして神戸国際は昨秋エースナンバーをつけていた背番号10の豊岡を3番手投手として送り出すも初球まさかのワイルドピッチで致命的な5点目・・・・・。
普通だったら3点リードとなって安穏としていられるが、神戸国際は終盤怒涛の猛追劇を幾度も演じて来ておるので全く気が抜けない。1点でも返されたらケツに火が点くといった状況でその裏1死から1番・川口がライトへスリーベースヒット。やはり点差を考えれば報徳の内野陣が深く守るのもセオリーだが、2番・福田のショートゴロで1点を献上し非常にイヤな予感が漂う。。。
報徳はダメ押しすべく8・9回と得点圏に走者を送り続けるもあと1本が出ず逃げ切れるか?????やはり神戸国際は簡単にコケてはくれなかった・・・。
8回裏先頭の4番・中井がレフトへツーベース。2点差で無死2塁ゆえにまず送りバントで3塁を進めて1点差に迫って、、、とは青木監督は考えず、一気に試合をひっくり返して9回裏を戦わずして勝つもくろみなのか?代打・平林を起用して1ボールからファーストゴロで1死3塁。6番・松本を迎えて内野はここも深く守って1点OKの陣容。しかし四球で歩かせて1・3塁。ここで先制2ランを放った林が打席に立ち報徳も継投しても不思議ではないが、大角監督は岡田続投で初球まさかのキャッチャーフライ・・・。8番・井本もセカンドゴロに抑え出口が見えてきた。
そして9回裏先頭の豊岡投手に代打・比嘉起用も内ストレートに見逃しの三振。ところが1番・川口が左中間にツーベースを放ちやはり簡単には終わらせてくれない・・・・・・。
さらに暴投で1死3塁と傷口を広げ、2番・福田のセカンドゴロの間に1点入り5-4ながら2死ランナーなし。さすがに神戸国際の猛追もここまでだろうと思っていたら、、、3番・竹田ライト線を破るスリーベースで2死3塁そして4番・中井を迎えた。大角監督は最初から岡田投手を代える気がなかったのか?最後まで任せて初球快心の打球を放たれたがショート正面のライナーに終わり試合終了。
まだ5月GWだがどっと汗が噴き出すような終盤の攻防で冷や汗拭って試合終了。第1試合があまりにも味気ない5回コールドだったが、それを取り返す2時間16分の好ゲームだった。
結局、要所でエラーや暴投などやらずもが名の点を与えてしまった大味な神戸国際の野球が顔を出し、終盤粘るも後1点が届かず3位決定戦に回ったと。
報徳はノーエラーで背番号11の岡田投手を盛り立て決勝進出し、夏の兵庫大会も決勝まで東洋大姫路とぶつかることはなくなった。この代は圧倒的に東洋1強と思われたが、約2か月半後には7-6の大熱戦で兵庫の高校野球ファンを大いに熱くさせた試合を展開した。
さて、次回は本来ならばさとやくスタジアムの春季近畿大会観戦記だが、運悪く三重の東海大会と岡山の中国大会が同時期にかち合い2週連続宿泊観戦となり近畿は1試合も見ることなく終わってしまったので・・・・・。津と伊勢で開催された春季東海大会観戦記。最初から旅程2泊3日とって試合翌日の月曜日の休養日に近鉄週末フリーきっぷと養老鉄道1日乗車券を組み合わせて観光を考えていたが、初日まさかの雨に祟られ日程が大幅に変更され屋根のない津で悲劇が、、、、それは次回の講釈で。
チーム名 選手名 投球回 打者 投球数 安打 本塁打 犠打 四球 死球 三振 暴投 失点 自責
報徳学園 岡 田 9 40 123 9 1 1 2 1 3 1 4 4
神国大付 黒 川 4 1/3 22 76 5 0 0 2 0 3 1 4 4
神国大付 中塩屋 2 1/3 10 45 2 0 1 2 0 2 0 1 0
神国大付 豊 岡 1 1/3 9 34 2 0 0 0 0 1 0 0 0
(完)
🌟新シリーズのお知らせ🌟
【り ん🌟】美し国 清楚な女(ひと)春季東海大会in津【かれん👧】
5/24 春季東海大会 初日開幕試合 津田学園(三重①)-中京(岐阜②)
☟伊勢神宮近く、高く立ち上る黒煙 商店街焼け落ち、漂う焦げ臭さ
https://news.yahoo.co.jp/articles/28a94e944972cbd9324cd36b5a8a9890c6210972
黒煙が空高く立ち上り、焦げ臭さが漂った。伊勢神宮に近い三重県伊勢市の明倫商店街で31日に発生した火災。火の勢いは強く、周辺には避難も呼びかけられた。地域に親しまれてきた明倫商店街が炎に包まれるのを、住民らは規制線の外から心配そうに見つめた。勢いが収まると、建物は焼け落ち、骨組みがあらわになっていた。
商店街から約100メートルの場所で飲食店を営む男性(78)は、消防車のサイレンが鳴り響くのを聞いて火災を知った。外に出て見ていると、みるみるうちに火の手が広がり、ガスボンベが爆発するような「ポン」という音が聞こえた。商店街は近鉄宇治山田駅近くで「駅前の通りはほぼ焼けてしまった」と落胆した。
📝第155回北信越地区高等学校野球福井県大会(令和8年秋季)組合せ表
https://291fki.sakura.ne.jp/wp2019/wp-content/uploads/2026/08/1552026%E7%A7%8B%E5%AD%A3%E7%B5%84%E3%81%BF%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B.pdf
📝「小さな町で、近所の子どもが集まったような野球部」箕島はなぜ70年代屈指の強豪校になったか「尾藤公さんが監督になってすべてが始まった」
https://news.yahoo.co.jp/articles/395696341c2583bbd10511b4b708737e312b3435
小さな町の県立高である箕島がここまで活躍できたのはなぜだったのか。エース・石井毅にその生い立ちから訊いた。
人口3万ほどの小さな町にある県立高校の野球部が、なぜ1970年代の高校野球で黄金時代を築くことができたのか。現在の強豪私立校のような豪華な設備も寮も整っておらず、また、県外から越境してくる野球留学生がいなかったのにもかかわらず。箕島高校のある有田市は和歌山県の中部に位置する。1970年代の人口は35,000人ほどだった(現在の人口は23,727人)。100年を超える高校野球の歴史を見ても、人口10万人足らずの市から甲子園優勝校が出ることは稀だ(池田高校のある徳島県三好市の現在の人口は23,927人)。
近所のお兄さんの活躍で野球に興味を持った
エースとして箕島をけん引した石井毅に少年時代の話を聞こう。
「尾藤公さんが箕島の監督になり、エースの東尾修さん(西武ライオンズなど)と初めて甲子園に出てから箕島の野球が始まりました」
のちに甲子園で35勝を挙げることになる尾藤は1942(昭和17)年生まれ。箕島の監督に就任したのは1966年だった。23歳で監督になった尾藤が初めて甲子園の土を踏んだのは1968年春のこと。1970年春のセンバツではエースで四番の島本講平を中心に戦い、日本一にのぼりつめた。1961年生まれの石井は当時8歳だった。
「島本さんのチームに中谷正さんというキャッチャーがおられて、うちの近所に住んでいました。ある時、中谷さんのお宅に島本さんが遊びにきていたので、サインをもらったことがありました」
「近所のお兄ちゃん」の活躍を見て、石井は野球というスポーツに興味を持った。しかし、その頃、地域に野球チームは存在しなかった。
「友達が6人くらい集まったら、空き地や田んぼで2チームに分かれて野球ごっこをするくらいでした。人数が増えれば野球っぽくなりますけど、あくまで遊びの延長でしたね」
学校の体操着で大会に挑戦
そのうち、ごっこ遊びで飽き足らなくなった。
「軟式の少年野球チームが箕島にはなかった。僕たちが通う保田小学校の生徒を中心にチームをつくって大会に出ることにしました」
しかし、ユニフォームはなく、学校の体操着での出場だった。
「体育の授業の時に着る、白いトレパン、トレシャツですね。それに背番号をつけて、帽子にマークを貼って。人数が足りないと近くの小学校に通う友達を誘って『バットを振るふりだけでええよ』という感じでした」
大会の時には選手の父親に監督を任せたが、基本的には子どもたちが楽しむ野球だった。
「指導を受けるということもなくて、『こんなふうに投げたら? 』『こうやって打ったらボールがよく飛ぶぞ』とかみんなでワイワイ言い合いながらやっていましたね」
そんな時、高校野球で有名な監督が練習にやってきた。それが20代で日本一監督になった尾藤だった。
「センバツで優勝したあと、尾藤さんが一時期、監督から離れた時期でした。ふらっと顔を出して、ボールの捕り方や投げ方を教えてくれました。怖いとも優しそうとも感じませんでした。『箕島の尾藤監督や!』というだけ。
おそらく、本人にスカウトする気持ちなんかなかったと思いますよ。野球をしている子どもたちを見て、『ちょっと教えてやろうか』というくらいで。硬球を渡してくれて『これで遊んだらええぞ』と言ってくれました」
1974年、尾藤は箕島の監督に復帰。3年後に2度目のセンバツ優勝を果たし、その瞬間を石井は甲子園のアルプススタンドで見ることになる。
尾藤監督との出会いは運命だった?
運命的な出会いと思えるが、同じ地域に住む石井にとっては不思議でもなんでもなかった。
「本当に小さな町で、みんなが知り合いみたいなものでしたから」
南海ホークスの名監督だった鶴岡一人の呼びかけで「リトルホークス」が誕生したのが1967年。少年硬式野球リーグである「リトルリーグ」も活動していたが、全国的な広がりはまだまだだった。
「僕は中学の野球部に入って、軟式野球を続けました。箕島でチームメイトになる嶋田宗彦は和歌山市の近くにある硬式のクラブチームに所属していて、中学の部活と並行してやっていましたね」
石井は保田中学、嶋田は箕島中学。ふたりは主力選手として何度も対戦したことがあった。
「近くに住む野球好きな子どもたちがそのまま大きくなって、箕島の野球部に集まったという感じでした。箕島には普通科と商業科と機械科があって、ほかの地域から入ってくる子もいましたけど」
箕島の黄金時代を支えたのは地域の力だった。
「自分の親やじいちゃん、ばあちゃんが育ったところで野球をやって、そこで勝つというのは高校野球の魅力だと思います。地域の人たちの応援が力になったことは間違いありません。だから、頑張れたということだと思います」
公立高校を支えていた「地域の力」
それまで高校野球をリードしてきた四国四商(松山商業、高松商業、徳島商業、高知商業)をはじめとする公立の強豪校は、21世紀に入ってから日本一から遠ざかった。練習場や寮などの設備を充実させ、野球エリートを全国から集める私立高校でなければ勝てない時代に突入している。
「高嶋仁監督が強豪校に育てた智辯和歌山は以前、学年で10人程度しかいなくて、地元の選手だけでチームをつくっていました。それで3度も日本一になれたのはそういう力があったからではないでしょうか」
15歳で親元を離れ、甲子園を目指す少年の覚悟を否定するわけではない。だが、高校野球は、エースや四番打者を集めれば勝てるというわけではない。
「中学時代に実績を残して、強豪校から勧誘を受けた選手たちは当然レギュラーになれると思って入ってくるけど、みんながみんな、活躍できるわけではない。チャンスをつかめない選手が違う方向に行ってしまうこともあるでしょう」
小さな町から日本一になった箕島の野球部員は、みんなが同じ方向を見ながら野球に打ち込んでいた。それができたのは、カリスマ監督である尾藤の存在が大きい。
「僕たちが高校生だった頃、練習中に笑う監督なんかどこにもいませんでした。尾藤さんはバックネットの前に椅子を置いて、ガーンと座っていました。サングラスをかけているので、どこを見ているのかわからない」
鉄拳指導が当たり前だった時代
昭和の高校野球ではスパルタ練習と暴力的な指導が当たり前だった。
「どこの高校でも、鉄拳が飛ぶのは珍しくない。練習試合中に相手の監督が選手をぶっ飛ばすのを当たり前のように見ていました。ミスをしたらケツバット。それが体罰だとは、選手も親も思っていなかったでしょうね」
石井よりも6学年下の筆者は愛媛県のいたって穏やかな町で生まれ育ったが、学校で教師が生徒に暴力をふるうシーンを何度も目撃している。昭和50年代、教育現場に暴力が蔓延していたのは事実だ。野球部だけが特別ではなかった。
「だから、ミスをしたら自分たちから『お願いします』と言って尻を出していましたよ。まあ、いつものことでした」
暴力的な指導が正しいはずはない。令和になった今、それを「よし」とする野球関係者はもういない。だが、怖い監督のもとで厳しい練習を積むことが日本一への近道だと当時は本気で考えられていた。甲子園で上位まで勝ち上がる名門、強豪で日常的に暴力的な指導が行われていたことは多くの元球児が証言している。
「練習試合でミスをした選手が、ファンの人たちの前で正座させられたり、はたかれたりということが普通にありました」
しかし、昔のことを現在のルールで批判するのはフェアではない。
「今では『なかったこと』にされていますけど、ね。暴力的な指導のおかげで勝てたとも思わないし、恨んでいるということもありません」
そういう前提の上で、高校野球の強豪校が練習を積み、腕を磨いたという事実があるだけだ。
「僕たちは、そういう時代を生きたんだと思います」
〈つづく〉
📝「水分補給もして、ドクターもいた」ど根性野球の昭和に甲子園連覇した公立高の“先進性”「県大会は勝って当然…校歌をちゃんと歌え、とクレームも」
https://news.yahoo.co.jp/articles/cf2e933394cfd487f211d7c6c2521a8c75f72ab4
甲子園出場を目指す高校、日本一を狙う強豪では日々、休むことなく猛練習が続けられていた。それは箕島だけではなかったはずだ。だが、彼らがほかを圧倒する強さを身につけることができたのはなぜだろうか。箕島野球部を支えるものがあったからだ。エースだった石井毅(現・木村竹志)が回想する。
箕島は練習中も適度に水分補給をしていた
「あの頃、スポーツ界では『練習中に水を飲んではいけない』という常識がありましたよね。でも、箕島はそうじゃなかった。ベンチに水筒が置いてあって、適度に水分補給をしていました。夏場は、午前中に練習をしたら、暑い時間帯は休憩に充てて、少し気温が下がってから練習を再開する。ただ闇雲に猛練習をしていたわけではありません」
半世紀前にそうした体制を敷いた野球部は多くなかった。強豪となればなおさらだ。そういう方針を立てたのは、尾藤公監督に専門家の意見を取り入れる度量があったからだろう。
「箕島のチームドクターのような形で、楠本博一先生という内科の先生がおられました。その方に、人体模型を見ながら人間の体の構造を教えてもらいました。『どうすれば速いボールを投げられるのか』『故障を防ぐためにどうすればいいのか』を知ることができました」
楠本との会話のなかから石井はピッチングのヒントも得た。
「人間の目の構造をもとに、どんな配球をすれば打ちにくいかということもわかりました。インコース高めのボールのあとにアウトコース低めに投げると遠く感じるというようなことですね。あとはバッターの体型によって、打ちやすいコースやバットを出しにくいコースがあるということも」
医者から聞く話を参考に、ピッチングに関する引き出しを増やしていったのだ。
「練習後に先生の自宅におじゃまして、ご飯をごちそうになることも多かったですね。その時に、トレーニング方法や体調管理についてもアドバイスしてもらいました」
エアコンで就寝、血液検査や栄養管理も
当時からすれば、常識的とは言えないものもあった。
「真夏に寝苦しい時にはエアコンを入れてちゃんと寝るようにと指導を受けました。だから、僕の部屋にだけクーラーがあって。タイマーをかけて就寝することで、十分な睡眠がとれました」
根性、根性、ど根性の昭和の野球で、「ピッチャーは肩を冷やすべきではない」という指導が多かった。しかし、先進的な考え方を取り入れていたから箕島は強かった——石井はそう証言する。
現在の高校野球では休養、栄養を重視するようになっているが、箕島はそれを早くから実践していたということだ。
「選手が血液検査を受けて、『ビタミンが足りない』などと教えてもらいました。僕の姉が食物科で学んでいたこともあって、楠本先生のアドバイスを参考にしながら、栄養管理をしてくれました。『朝はこれ、夜はこういうものを食べなさい』と。もし体重が落ちるようなら、寝る前にアンパンを食べたほうがいいというように」
身長172センチ、体重60キロ台の石井が、連投に耐えられたのは普段からの体力づくり、コンディショニングの賜物だろう。
「アイスノンってあるじゃないですか、患部を冷やすものが。箕島ではそれをお湯で温めて、ピッチング練習が終わったあと、ピッチャーのひじや肩に当てていました。酷使した部分の血行をよくして回復を促すという方法ですね。おかげで僕は、ひじも肩も痛めたことがありませんでした」
とても、50年前のこととは思えない。
「今の高校生がやっていることをその当時から箕島でやってもらっていたということですね。ケガをした場合の医療体制も整っていましたから、安心してプレーできました。もちろん、故障の予防法も教えてもらっていました」
ちなみに1979年夏の甲子園の3回戦。星稜(石川)との延長18回の戦いのあとにも、その強みが発揮されたという。
「外科の先生にもチームドクターとしてついてもらっていました。僕は試合中に中指に血豆ができて、それを潰してしまったんですが、すぐに処置してもらいました。セカンドの上野山善久が高熱を出していたので、20時に試合が終わったあと食事をしてから先生の車で箕島まで戻り、栄養剤を打ってもらいました」
20代の若さで日本一にのぼりつめた尾藤の懐の深さ、厳しい練習とチームの一体感、先輩たちから受け継がれた勝者のメンタリティ、そしてスポーツ医学の活用。これらがうまくミックスされていたからこそ、箕島は強かったのだ。
和歌山大会、初戦のピンチにメンバーは……
しかし、監督も選手も学校関係者も「勝って当たり前」と思っていたその夏の和歌山大会。1回戦でいきなりピンチが訪れた。
「和歌山大会の1回戦、開会式直後の試合で市立和歌山商業(現・市立和歌山)と対戦したんです」
市立和歌山商業は、1960年代に3度も甲子園に出場した名門のひとつ。藤田平(阪神タイガース)、正田耕三(広島東洋カープ)など名選手をプロ野球に送り込んでいる。
「和歌山大会の事実上の決勝戦と騒がれていました。市和商のセカンドは同じ3年生の正田が守っていました。4回に正田のエラーから箕島が1点を取って、そのまま1対0で9回まで進んだんですけど、最後にピンチになりました」
9回裏、市和商の攻撃はツーアウト満塁、一打サヨナラの場面だ。
「内野手とキャッチャーがマウンドに集まってくれたんですけど、みんなが口々にいろいろなことを言うんですよ。『負けたら丸々、夏休みやな、海で遊ぼうや』とか。『打たれろ』とかね(笑)。サードの浦野泰之は『俺んところに飛んできたら絶対にエラーするけど、文句言わんでくれよ』と言う」
市和商のバッターの打球はサードにふらふらと上がり、浦野が捕って試合終了となった。
淡々と勝利し「校歌をちゃんと歌ってないやないか!」
誰もが緊張する大会の初戦、強敵に競り勝った箕島。その後はいつも通り、淡々と勝ち上がっていった。
「和歌山大会は全試合、テレビ中継があったんですけど、試合を見た視聴者から『試合後の校歌斉唱の時、箕島の選手は歌ってないやないか! 』というクレームがあったそうです」
勝って当たり前という意識が悪い方向に出たのかもしれない。
「あとで『そのへんはちゃんとせいよ』と注意を受けたことを覚えています」
強敵を退けた箕島は準決勝で桐蔭を4対0、決勝で田辺商業を5対1で撃破し、2年連続の夏の甲子園出場を決めた。
「優勝が決まった瞬間、普通なら選手たちがマウンドに集まってワーッとなるんでしょうけど、キャッチャーの嶋田宗彦と握手をして終わり。ほかの選手たちも喜んで抱き合うみたいなことはありませんでした」
センバツ王者が当然のようにつかんだ夏の甲子園への出場権だった。
〈つづく〉
https://news.yahoo.co.jp/articles/28a94e944972cbd9324cd36b5a8a9890c6210972
黒煙が空高く立ち上り、焦げ臭さが漂った。伊勢神宮に近い三重県伊勢市の明倫商店街で31日に発生した火災。火の勢いは強く、周辺には避難も呼びかけられた。地域に親しまれてきた明倫商店街が炎に包まれるのを、住民らは規制線の外から心配そうに見つめた。勢いが収まると、建物は焼け落ち、骨組みがあらわになっていた。
商店街から約100メートルの場所で飲食店を営む男性(78)は、消防車のサイレンが鳴り響くのを聞いて火災を知った。外に出て見ていると、みるみるうちに火の手が広がり、ガスボンベが爆発するような「ポン」という音が聞こえた。商店街は近鉄宇治山田駅近くで「駅前の通りはほぼ焼けてしまった」と落胆した。
📝第155回北信越地区高等学校野球福井県大会(令和8年秋季)組合せ表
https://291fki.sakura.ne.jp/wp2019/wp-content/uploads/2026/08/1552026%E7%A7%8B%E5%AD%A3%E7%B5%84%E3%81%BF%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B.pdf
📝「小さな町で、近所の子どもが集まったような野球部」箕島はなぜ70年代屈指の強豪校になったか「尾藤公さんが監督になってすべてが始まった」
https://news.yahoo.co.jp/articles/395696341c2583bbd10511b4b708737e312b3435
小さな町の県立高である箕島がここまで活躍できたのはなぜだったのか。エース・石井毅にその生い立ちから訊いた。
人口3万ほどの小さな町にある県立高校の野球部が、なぜ1970年代の高校野球で黄金時代を築くことができたのか。現在の強豪私立校のような豪華な設備も寮も整っておらず、また、県外から越境してくる野球留学生がいなかったのにもかかわらず。箕島高校のある有田市は和歌山県の中部に位置する。1970年代の人口は35,000人ほどだった(現在の人口は23,727人)。100年を超える高校野球の歴史を見ても、人口10万人足らずの市から甲子園優勝校が出ることは稀だ(池田高校のある徳島県三好市の現在の人口は23,927人)。
近所のお兄さんの活躍で野球に興味を持った
エースとして箕島をけん引した石井毅に少年時代の話を聞こう。
「尾藤公さんが箕島の監督になり、エースの東尾修さん(西武ライオンズなど)と初めて甲子園に出てから箕島の野球が始まりました」
のちに甲子園で35勝を挙げることになる尾藤は1942(昭和17)年生まれ。箕島の監督に就任したのは1966年だった。23歳で監督になった尾藤が初めて甲子園の土を踏んだのは1968年春のこと。1970年春のセンバツではエースで四番の島本講平を中心に戦い、日本一にのぼりつめた。1961年生まれの石井は当時8歳だった。
「島本さんのチームに中谷正さんというキャッチャーがおられて、うちの近所に住んでいました。ある時、中谷さんのお宅に島本さんが遊びにきていたので、サインをもらったことがありました」
「近所のお兄ちゃん」の活躍を見て、石井は野球というスポーツに興味を持った。しかし、その頃、地域に野球チームは存在しなかった。
「友達が6人くらい集まったら、空き地や田んぼで2チームに分かれて野球ごっこをするくらいでした。人数が増えれば野球っぽくなりますけど、あくまで遊びの延長でしたね」
学校の体操着で大会に挑戦
そのうち、ごっこ遊びで飽き足らなくなった。
「軟式の少年野球チームが箕島にはなかった。僕たちが通う保田小学校の生徒を中心にチームをつくって大会に出ることにしました」
しかし、ユニフォームはなく、学校の体操着での出場だった。
「体育の授業の時に着る、白いトレパン、トレシャツですね。それに背番号をつけて、帽子にマークを貼って。人数が足りないと近くの小学校に通う友達を誘って『バットを振るふりだけでええよ』という感じでした」
大会の時には選手の父親に監督を任せたが、基本的には子どもたちが楽しむ野球だった。
「指導を受けるということもなくて、『こんなふうに投げたら? 』『こうやって打ったらボールがよく飛ぶぞ』とかみんなでワイワイ言い合いながらやっていましたね」
そんな時、高校野球で有名な監督が練習にやってきた。それが20代で日本一監督になった尾藤だった。
「センバツで優勝したあと、尾藤さんが一時期、監督から離れた時期でした。ふらっと顔を出して、ボールの捕り方や投げ方を教えてくれました。怖いとも優しそうとも感じませんでした。『箕島の尾藤監督や!』というだけ。
おそらく、本人にスカウトする気持ちなんかなかったと思いますよ。野球をしている子どもたちを見て、『ちょっと教えてやろうか』というくらいで。硬球を渡してくれて『これで遊んだらええぞ』と言ってくれました」
1974年、尾藤は箕島の監督に復帰。3年後に2度目のセンバツ優勝を果たし、その瞬間を石井は甲子園のアルプススタンドで見ることになる。
尾藤監督との出会いは運命だった?
運命的な出会いと思えるが、同じ地域に住む石井にとっては不思議でもなんでもなかった。
「本当に小さな町で、みんなが知り合いみたいなものでしたから」
南海ホークスの名監督だった鶴岡一人の呼びかけで「リトルホークス」が誕生したのが1967年。少年硬式野球リーグである「リトルリーグ」も活動していたが、全国的な広がりはまだまだだった。
「僕は中学の野球部に入って、軟式野球を続けました。箕島でチームメイトになる嶋田宗彦は和歌山市の近くにある硬式のクラブチームに所属していて、中学の部活と並行してやっていましたね」
石井は保田中学、嶋田は箕島中学。ふたりは主力選手として何度も対戦したことがあった。
「近くに住む野球好きな子どもたちがそのまま大きくなって、箕島の野球部に集まったという感じでした。箕島には普通科と商業科と機械科があって、ほかの地域から入ってくる子もいましたけど」
箕島の黄金時代を支えたのは地域の力だった。
「自分の親やじいちゃん、ばあちゃんが育ったところで野球をやって、そこで勝つというのは高校野球の魅力だと思います。地域の人たちの応援が力になったことは間違いありません。だから、頑張れたということだと思います」
公立高校を支えていた「地域の力」
それまで高校野球をリードしてきた四国四商(松山商業、高松商業、徳島商業、高知商業)をはじめとする公立の強豪校は、21世紀に入ってから日本一から遠ざかった。練習場や寮などの設備を充実させ、野球エリートを全国から集める私立高校でなければ勝てない時代に突入している。
「高嶋仁監督が強豪校に育てた智辯和歌山は以前、学年で10人程度しかいなくて、地元の選手だけでチームをつくっていました。それで3度も日本一になれたのはそういう力があったからではないでしょうか」
15歳で親元を離れ、甲子園を目指す少年の覚悟を否定するわけではない。だが、高校野球は、エースや四番打者を集めれば勝てるというわけではない。
「中学時代に実績を残して、強豪校から勧誘を受けた選手たちは当然レギュラーになれると思って入ってくるけど、みんながみんな、活躍できるわけではない。チャンスをつかめない選手が違う方向に行ってしまうこともあるでしょう」
小さな町から日本一になった箕島の野球部員は、みんなが同じ方向を見ながら野球に打ち込んでいた。それができたのは、カリスマ監督である尾藤の存在が大きい。
「僕たちが高校生だった頃、練習中に笑う監督なんかどこにもいませんでした。尾藤さんはバックネットの前に椅子を置いて、ガーンと座っていました。サングラスをかけているので、どこを見ているのかわからない」
鉄拳指導が当たり前だった時代
昭和の高校野球ではスパルタ練習と暴力的な指導が当たり前だった。
「どこの高校でも、鉄拳が飛ぶのは珍しくない。練習試合中に相手の監督が選手をぶっ飛ばすのを当たり前のように見ていました。ミスをしたらケツバット。それが体罰だとは、選手も親も思っていなかったでしょうね」
石井よりも6学年下の筆者は愛媛県のいたって穏やかな町で生まれ育ったが、学校で教師が生徒に暴力をふるうシーンを何度も目撃している。昭和50年代、教育現場に暴力が蔓延していたのは事実だ。野球部だけが特別ではなかった。
「だから、ミスをしたら自分たちから『お願いします』と言って尻を出していましたよ。まあ、いつものことでした」
暴力的な指導が正しいはずはない。令和になった今、それを「よし」とする野球関係者はもういない。だが、怖い監督のもとで厳しい練習を積むことが日本一への近道だと当時は本気で考えられていた。甲子園で上位まで勝ち上がる名門、強豪で日常的に暴力的な指導が行われていたことは多くの元球児が証言している。
「練習試合でミスをした選手が、ファンの人たちの前で正座させられたり、はたかれたりということが普通にありました」
しかし、昔のことを現在のルールで批判するのはフェアではない。
「今では『なかったこと』にされていますけど、ね。暴力的な指導のおかげで勝てたとも思わないし、恨んでいるということもありません」
そういう前提の上で、高校野球の強豪校が練習を積み、腕を磨いたという事実があるだけだ。
「僕たちは、そういう時代を生きたんだと思います」
〈つづく〉
📝「水分補給もして、ドクターもいた」ど根性野球の昭和に甲子園連覇した公立高の“先進性”「県大会は勝って当然…校歌をちゃんと歌え、とクレームも」
https://news.yahoo.co.jp/articles/cf2e933394cfd487f211d7c6c2521a8c75f72ab4
甲子園出場を目指す高校、日本一を狙う強豪では日々、休むことなく猛練習が続けられていた。それは箕島だけではなかったはずだ。だが、彼らがほかを圧倒する強さを身につけることができたのはなぜだろうか。箕島野球部を支えるものがあったからだ。エースだった石井毅(現・木村竹志)が回想する。
箕島は練習中も適度に水分補給をしていた
「あの頃、スポーツ界では『練習中に水を飲んではいけない』という常識がありましたよね。でも、箕島はそうじゃなかった。ベンチに水筒が置いてあって、適度に水分補給をしていました。夏場は、午前中に練習をしたら、暑い時間帯は休憩に充てて、少し気温が下がってから練習を再開する。ただ闇雲に猛練習をしていたわけではありません」
半世紀前にそうした体制を敷いた野球部は多くなかった。強豪となればなおさらだ。そういう方針を立てたのは、尾藤公監督に専門家の意見を取り入れる度量があったからだろう。
「箕島のチームドクターのような形で、楠本博一先生という内科の先生がおられました。その方に、人体模型を見ながら人間の体の構造を教えてもらいました。『どうすれば速いボールを投げられるのか』『故障を防ぐためにどうすればいいのか』を知ることができました」
楠本との会話のなかから石井はピッチングのヒントも得た。
「人間の目の構造をもとに、どんな配球をすれば打ちにくいかということもわかりました。インコース高めのボールのあとにアウトコース低めに投げると遠く感じるというようなことですね。あとはバッターの体型によって、打ちやすいコースやバットを出しにくいコースがあるということも」
医者から聞く話を参考に、ピッチングに関する引き出しを増やしていったのだ。
「練習後に先生の自宅におじゃまして、ご飯をごちそうになることも多かったですね。その時に、トレーニング方法や体調管理についてもアドバイスしてもらいました」
エアコンで就寝、血液検査や栄養管理も
当時からすれば、常識的とは言えないものもあった。
「真夏に寝苦しい時にはエアコンを入れてちゃんと寝るようにと指導を受けました。だから、僕の部屋にだけクーラーがあって。タイマーをかけて就寝することで、十分な睡眠がとれました」
根性、根性、ど根性の昭和の野球で、「ピッチャーは肩を冷やすべきではない」という指導が多かった。しかし、先進的な考え方を取り入れていたから箕島は強かった——石井はそう証言する。
現在の高校野球では休養、栄養を重視するようになっているが、箕島はそれを早くから実践していたということだ。
「選手が血液検査を受けて、『ビタミンが足りない』などと教えてもらいました。僕の姉が食物科で学んでいたこともあって、楠本先生のアドバイスを参考にしながら、栄養管理をしてくれました。『朝はこれ、夜はこういうものを食べなさい』と。もし体重が落ちるようなら、寝る前にアンパンを食べたほうがいいというように」
身長172センチ、体重60キロ台の石井が、連投に耐えられたのは普段からの体力づくり、コンディショニングの賜物だろう。
「アイスノンってあるじゃないですか、患部を冷やすものが。箕島ではそれをお湯で温めて、ピッチング練習が終わったあと、ピッチャーのひじや肩に当てていました。酷使した部分の血行をよくして回復を促すという方法ですね。おかげで僕は、ひじも肩も痛めたことがありませんでした」
とても、50年前のこととは思えない。
「今の高校生がやっていることをその当時から箕島でやってもらっていたということですね。ケガをした場合の医療体制も整っていましたから、安心してプレーできました。もちろん、故障の予防法も教えてもらっていました」
ちなみに1979年夏の甲子園の3回戦。星稜(石川)との延長18回の戦いのあとにも、その強みが発揮されたという。
「外科の先生にもチームドクターとしてついてもらっていました。僕は試合中に中指に血豆ができて、それを潰してしまったんですが、すぐに処置してもらいました。セカンドの上野山善久が高熱を出していたので、20時に試合が終わったあと食事をしてから先生の車で箕島まで戻り、栄養剤を打ってもらいました」
20代の若さで日本一にのぼりつめた尾藤の懐の深さ、厳しい練習とチームの一体感、先輩たちから受け継がれた勝者のメンタリティ、そしてスポーツ医学の活用。これらがうまくミックスされていたからこそ、箕島は強かったのだ。
和歌山大会、初戦のピンチにメンバーは……
しかし、監督も選手も学校関係者も「勝って当たり前」と思っていたその夏の和歌山大会。1回戦でいきなりピンチが訪れた。
「和歌山大会の1回戦、開会式直後の試合で市立和歌山商業(現・市立和歌山)と対戦したんです」
市立和歌山商業は、1960年代に3度も甲子園に出場した名門のひとつ。藤田平(阪神タイガース)、正田耕三(広島東洋カープ)など名選手をプロ野球に送り込んでいる。
「和歌山大会の事実上の決勝戦と騒がれていました。市和商のセカンドは同じ3年生の正田が守っていました。4回に正田のエラーから箕島が1点を取って、そのまま1対0で9回まで進んだんですけど、最後にピンチになりました」
9回裏、市和商の攻撃はツーアウト満塁、一打サヨナラの場面だ。
「内野手とキャッチャーがマウンドに集まってくれたんですけど、みんなが口々にいろいろなことを言うんですよ。『負けたら丸々、夏休みやな、海で遊ぼうや』とか。『打たれろ』とかね(笑)。サードの浦野泰之は『俺んところに飛んできたら絶対にエラーするけど、文句言わんでくれよ』と言う」
市和商のバッターの打球はサードにふらふらと上がり、浦野が捕って試合終了となった。
淡々と勝利し「校歌をちゃんと歌ってないやないか!」
誰もが緊張する大会の初戦、強敵に競り勝った箕島。その後はいつも通り、淡々と勝ち上がっていった。
「和歌山大会は全試合、テレビ中継があったんですけど、試合を見た視聴者から『試合後の校歌斉唱の時、箕島の選手は歌ってないやないか! 』というクレームがあったそうです」
勝って当たり前という意識が悪い方向に出たのかもしれない。
「あとで『そのへんはちゃんとせいよ』と注意を受けたことを覚えています」
強敵を退けた箕島は準決勝で桐蔭を4対0、決勝で田辺商業を5対1で撃破し、2年連続の夏の甲子園出場を決めた。
「優勝が決まった瞬間、普通なら選手たちがマウンドに集まってワーッとなるんでしょうけど、キャッチャーの嶋田宗彦と握手をして終わり。ほかの選手たちも喜んで抱き合うみたいなことはありませんでした」
センバツ王者が当然のようにつかんだ夏の甲子園への出場権だった。
〈つづく〉
⚾今日の和歌山大会新人戦試合結果(8日目 準々決勝 紀三井寺球場)
日 高10-4田 辺・桐 蔭3-2和歌山東
日高・和歌山東は二次予選進出決定!!
📝「仙台育英と間違われていませんか?」 "育英"の名を轟かせた1993年夏 全国制覇の主将は今、母校の監督に
https://news.yahoo.co.jp/articles/ca1b2e2cb0656c1fb049f5a33201ff617beb0e08
深紅の大優勝旗から33年〜育英、復活への挑戦(前編)
取材の申請を行なった際、スマホの向こう側から拍子抜けするほど正直な言葉が返ってきた。
「うちで大丈夫ですか? 仙台育英さんと間違われていませんか?」
声の主は、兵庫・育英高校野球部を率いる安田聖寛である。無理もない。これまで、春夏通算19回(春13回、夏6回)の甲子園出場を誇る兵庫屈指の名門も、2005年春の選抜大会を最後に聖地から遠ざかっている。その後、2013年夏に前橋育英(群馬)が全国制覇を果たすと、2022年夏には仙台育英(宮城)が東北勢初の日本一を達成した。全国の高校野球ファンにとって、「育英」といえばその2校を想起させる時代なのかもしれない。
【地元・兵庫から甲子園に行きたい】
しかし、高校野球の歴史を紐解けば、兵庫の育英も燦然と輝く実績を残している。巨人のV9時代を支えた土井正三、近鉄ひと筋で歴代4位の317勝を挙げた鈴木啓示、今季限りで現役を引退する"ミスター・ライオンズ"栗山巧ら、名だたるOBたちがその伝統を築き上げてきた。
そして、忘れられないのが1993年夏だ。育英は創部初となる全国制覇を達成した。のちに近鉄やソフトバンクなどで活躍した大村直之らとともに、主将としてチームを牽引したのが安田だ。
「選手として1992年春と1993年夏の2回、甲子園に出させてもらいましたが、本当に野球がうまくなる場所だと思いますね。心がきれいになるというか、させてもらえるというか......。チンタラしたり、いい加減なことをしていたら許さないぞ、というお叱りを頂戴する場所だと思っています」
母校の指揮官に就任して15年目になる。自身が歩んできた激闘の記憶と、伝統校の誇りを取り戻すための戦いは、中学生時代の「ある選択」から始まっていた。兵庫県西宮市で生まれ育った安田は中学時代、硬式野球チームで白球を追っていた。高校進学は、当時、全国の球児の憧れだった大阪のPL学園か、父の母校である北陽(現・関大北陽)を希望していた。
「最初はずっとPLに行きたかったのですが、父から『大阪なら北陽以外はあかん』と言われたんです。そこで、僕自身も、父が叶えられなかった甲子園の夢を北陽で叶えるんだとずっと思っていたんです。でも、中学3年の夏に運命が変わりました」
1990年、育英はエースの戎信行(元オリックスなど)を擁し、33年ぶりに夏の甲子園へと出場。テレビの画面越しに見る洗練されたアイボリーのユニフォーム、そして地元・兵庫の代表として甲子園で躍動するナインの姿に、一瞬で心を奪われた。
「中学のボーイズリーグの先輩がふたり試合に出ていたということもあって、やっぱり地元の兵庫から甲子園に行きたいという考えになりました」
土壇場で志望校を育英へと変更。そして1991年春、期待を胸に名門の門をたたいた。
【甲子園でランニング本塁打】
前年の甲子園出場効果もあり、同学年には優秀な選手が集まっていたが、安田は1年春の段階から実力を認められ、着実に実戦経験を積んでいく。
同年秋、兵庫大会を3位で通過。迎えた近畿大会は準々決勝で敗退し、翌年、2年時の春の選抜は補欠校に回されたが、出場予定だった神戸弘陵の辞退により、代替校として繰り上げ出場。チームは15年ぶりとなる春の甲子園でベスト8まで勝ち進んだ。
安田自身も2年生ながら主力選手として好結果を残す。初戦の駒大岩見沢(北海道)戦。この年からラッキーゾーンが撤去され、両翼が5メートル、最深部が8メートル広くなった甲子園でランニング本塁打を放ち、全国にその名を知らしめた。
「1学年上の松井秀喜さんがラッキーゾーン撤去後初の本塁打を含む3本塁打をマークした大会でもありました。僕もランニング本塁打を打ちましたが、『安田って誰だ?』なんて言われましたね(笑)。でも、浮かれた気持ちはありませんでした。私や大村を含めて2年生のレギュラーが4人いましたし、甲子園で野球をやるために育英を選んだんだという強い思いと、自分の名前より、育英の名前を全国に売ってやろうという気持ちで必死でした」
しかし、チームは2年夏の兵庫大会でベスト4に終わり、甲子園切符を逃す。新チーム結成にあたり、主将に指名されたのが安田だった。日下篤監督(当時)が1、2年生を集めて口にしたのは、「甲子園ベスト4」。選抜の8強を超えるための高い目標だったが、秋の兵庫大会は2回戦で敗退。翌春も県ベスト8止まりと、決して順風満帆とは言えない道のりだった。
それでも、新聞や雑誌の展望記事は「夏の本命は育英」という文字が並んだ。春の近畿大会を制した姫路工や、前年夏の覇者・神港学園など、強豪ひしめくなかでも、当時の育英が持つポテンシャルは群を抜いていた。
それを象徴するのが、1993年夏の兵庫大会決勝だ。近畿王者・姫路工との一戦は7回まで0対0と、手に汗握る投手戦となった。
「5回ぐらいでしたか、たしか一死三塁のチャンスがあって、僕が三振を取られたんです。自分で言うのもなんですが、普段はあまり三振しない打者だったんです。あの時は自分に対してイライラしてしまって。とにかくひとつのミスも許されない緊迫した雰囲気でした。姫路工さんは本当に強かった。もしかしたら、甲子園に出ていたチームより強かったかもしれません」
試合は8回に1点を先制し、そのまま1対0で兵庫の夏を制した。優勝候補の重圧を跳ね返したチームは、勢いそのままに聖地へと乗り込んだ。
【怒涛の快進撃で夏の甲子園決勝に進出】
1993年夏の甲子園、育英の快進撃が始まった。初戦の秋田経法大付(現・明桜)を14対4、2回戦の旭川大高(現・旭川志峯/北北海道)を11対3と、圧倒的な打力で退けた。続く3回戦の相手は横浜商大高(神奈川)。これまでの大勝とは打って変わり、1点を争うしびれる接戦となった。
「先制されては取り返して、という展開でした。不気味だったのは、うちが勝ち越しても、相手ベンチがガクッとなる様子がいっさいなかったこと。『打ち返せばいいじゃん』という関東チーム特有のノリというか、堂々とした雰囲気に凄みを感じましたね」
最終的に5対4と接戦を制してベスト8に進出すると、準々決勝の修徳(東東京)戦、準決勝の市立船橋(千葉)戦と、関東勢との激闘が続いた。のちにプロで活躍する高橋尚成(修徳−駒澤大−巨人など)、大学で同僚となった1学年下の小笠原孝(市立船橋−明治大−中日)といった好左腕と対峙したが、育英の打線は揺るがなかった。
「うちのキーは3番打者の大村でした。彼は左投手をまったく苦にしなかったので、だから1番の僕や、2番の岡本(健二)が出塁すれば、大村がなんとかしてくれるという信頼感がありました。高橋くんのスクリューボールを見極め、小笠原のストレートをコンパクトに弾き返す。対策が見事にはまりました」
全国の並み居る強豪を打ち破り、ついにたどり着いた決勝の舞台。新チーム結成時に掲げた「甲子園ベスト4」という目標は、すでに通過点となっていた。横浜商大高との激闘を制した頃から、チーム内には「上を狙う」という本気の思いがみなぎっていた。
そして、1993年8月23日。春日部共栄(埼玉)との決勝の朝を迎える。地元・兵庫代表として甲子園を埋め尽くす超満員の観客。満を持して臨んだ最後の戦いで、安田はアクシデントに見舞われることになる。
つづく>>
📝「甲子園は行きたいから行ける場所ではない」 全国制覇から33年、母校・育英を率いる安田聖寛が待つ"聖地からの迎え"
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2026/08/19/_33/?utm_medium=referral&utm_campaign=%2Fclm%2Fbaseball%2Fhs_other%2F2026%2F08%2F19%2F_1993%2F&utm_source=news.yahoo.co.jp
【決勝戦で襲ったまさかのアクシデント】
「前日まではリラックスしていたと思います。ただ、グラウンドに水が撒かれ、ラインが引かれたあたりから、絶対に兵庫へ優勝旗を持ち帰らなければならないという、ある種の使命感のようなものがありましたね。兵庫対埼玉のプライドのぶつかり合いだと捉えていました」
初回、育英は好スタートを切り2点を先制する。しかし、その後は春日部共栄の2年生左腕・土肥義弘(元西武など)の粘り強い投球の前に追加点を奪えず、じわじわと追い上げられる展開となった。
「初回に2点を取りましたが、ここで3点目が取れたと思うんです。最高のスタートなのですが、あと1点が取れなかったことを、選手たちが引きずっている感じはありました」
安田がアクシデントに見舞われたのは5回表、同点に追いつかれた直後の二死一、三塁の場面だ。一塁走者が盗塁を試み、二塁手としてベースカバーに入った際に左膝付近をスパイクされてしまう。
「タッチアウトにしてチェンジになり、ベンチに帰ろうとして立ち上がろうとしたら立てませんでした。脚を見て、『絶対に無理だ』と直感しました。ユニフォームは破れていないのに、中の皮膚がざっくりと裂けて血があふれ出ていたんです」
救護室に運ばれたが、傷口は深く、緊急でテーピングを巻く応急処置が施された。周囲からは交代を勧められたが、主将としての執念がそれを拒んだ。
「次の回、僕から始まる打順だったんです。『とにかく出ます』と言って、痛み止めを飲み、バッターボックスに立ちました。効くわけがないんですけどね(笑)」
そんな状態で満足のいく打撃ができるはずがない。なんとか打球を前に飛ばすことはできたが、一塁まで走ることすらできずにそのまま途中交代。すぐさま救急車で近くの病院へと搬送された。試合経過を伝えるラジオの音声が響く処置室で、麻酔すら打たず、傷口を3針縫う処置を受けた。
「傷口を縫うことよりも、ラジオのほうが気になって、『俺がおらんくて、ちゃんとやってるかな』とソワソワしていました。処置が終わるとすぐタクシーに飛び乗り、球場へ戻りました」
【全国制覇の先に選んだ明治大】
8回裏、育英の攻撃中に、痛みすらも忘れてベンチに帰還。脚は曲がらない状態だったが、主将の姿にベンチは大いに盛り上がった。勢いを取り戻したチームは勝ち越しに成功。そのまま3対2で逃げきり、初の甲子園優勝を果たした。その後は宿舎ではなく、病院に戻り、5針を追加した。
安田がマークした「1大会10四死球」は、夏の甲子園の最多タイ記録となっている。「フォア・ザ・チーム」を体現した結果、夢にまで見た深紅の優勝旗を手にすることができたのだ。
「本当に漫画みたいですよね。試合後の表彰式で、優勝旗を受け取る時は踏ん張れず、倒れそうになりました(笑)。でも、仲間と一緒につかんだあの瞬間の光景は、生涯忘れることはありません」
卒業後は社会人に進む予定だったが、高校日本代表で同僚となった山根雅仁(元広島)や金子誠(元日本ハム)らのレベルの高さに刺激を受け、東京六大学リーグの明治大学進学を希望するようになる。日下篤監督から「おまえごときが行っても4年間草むしり。明治のレベルをなめたらあかんぞ」とまで言われたが、安田の意志は固かった。
「ありがたいことに高校で負けずに引退させてもらったからこそ、試合に出ることができなくてもいいので、とんでもない世界を見たかったんです。そういう形で明治さんを受験させていただき、進学することになりました」
伝統の「人間力野球」を掲げる明治大学での日々は、厳しくも充実していた。寮生活での礼儀作法、上級生が背中を見せる伝統は評判どおりで、周囲のレベルも、同級生の川上憲伸(元中日)らを筆頭に高かった。それでもあきらめずに努力を重ね、最後のシーズンとなる4年秋のリーグ戦でスタメンの座をつかんだ。
「通算で10試合ほど出させてもらいましたが、打率なんて1割程度(19打数3安打、打率.158)ですよ。でも、腐らずにやり続けた結果、最後の最後にチャンスが回ってきた。今、指導している生徒たちにも『あきらめなければ、いつかチャンスが"迎え"に来てくれる』と実体験として伝えています」
【29歳で指導者の道へ】
大学卒業後は、社会人野球のデュプロ(2008年休部)に入社。日本生命や大阪ガス、松下電器(現・パナソニック)、NTT西日本といった強豪がひしめく関西地区で、泥臭く立ち向かう精神を養った。自身は補強選手として2度の都市対抗を経験。6年間の現役生活を終えた後は、29歳の若さで同部のコーチに就任。指導者としての第一歩を踏み出した。
ただ、社会人チームの指導者生活はわずか1年で幕を閉じることになる。2006年、新シーズンに向けて準備を始めていたその時、本社の社長に呼ばれた。福岡六大学リーグに所属する第一経済大学(現・日本経済大学)の監督就任を勧められたのだ。
「最初は高校時代の恩師からお話をいただいたのですが、デュプロとしても新シーズンへ動き始めていましたし、もちろん、コーチとして不満もなかったので、最初はお話だけ聞いてお断りしようとしました。ただ、社長が『大学が必要としてくれているのだったら行ってこい。やってみて、またこっちに戻ってきたいということであれば、また俺が雇ったるから』と背中を押され、2月末から福岡へ行きました」
ここから、安田は指導者としても強烈な勝負運を発揮する。右も左も、そして部員の名前や特徴もよくわからないまま、就任1カ月後に開幕したリーグ戦で指揮を執り、なんと初優勝へと導いたのだ。
「主将もそうですが、とくにマネージャーと『この子はどんな選手? どんなタイプ?』っていうのをすごく話し合って戦いましたね。万年5、6位のチームやったんですけど、あれこれやりくりして、学生も頑張ってくれました」
その後、2008年夏から系列校である福岡第一高の監督となり、3年ほどが経った頃、育英の理事長から連絡があった。
「理事長から『おまえも高校で監督をやっているんだったら母校に戻ってこいよ』というお話をいただきました。福岡第一もたくさんのOBの方がいらっしゃいますから、きっちりと土台ができたら引き渡そうと考えていました」
【甲子園は行きたいから行ける場所ではない】
そして2012年、部長として母校の育英に戻り、同年夏の大会終了後、監督に就任した。久しぶりに袖を通す「IKUEI」のユニフォームに「身が引き締まる思いでした」と当時を振り返る。
甲子園出場は、春は2005年、そして夏は今季限りで現役を引退する栗山巧(西武、当時2年)らを擁して4強入りした2000年が最後。そこから遠ざかる母校で目指したのは、かつて自身が叩き込まれた「基本の徹底」と「相手を思いやる野球」だった。
「高校時代に、日下監督からキャッチボールを徹底してやらされました。キャッチボールは、『あなたのことが好きだから、取りやすいボールを投げてあげたい』というのが基本だと思うんです。『自分を見てくれ』という"アイラブミー"ではなく、いかに相手を思いやるスローイングができるか。それは生活面でも相手の気持ちに気づけるかどうかにつながっています」
兵庫県の高校野球は、報徳学園や東洋大姫路、神戸国際大付など私学勢が強豪として名を連ねる一方、今夏の決勝は社対明石商の公立勢対決と、どこが勝ってもおかしくはない。育英は2回戦で今春の近畿王者・報徳学園に3対5と惜敗。甲子園に出場するには、技術以上に「品格」が必要だと安田は考えている。
「全国の高校球児に『甲子園に行きたいか?』と聞けば、100%行きたいと答えるでしょう。でも、甲子園に2回出させてもらった経験から言えるのは、甲子園は行きたいから行ける場所ではないということです。チームの品格、立ち居振る舞い、野球に対する姿勢、そういったものがすべて整った時に、甲子園のほうから迎えに来てくれるものだと思っています」
母校を率いて15年目。指揮官の目指す場所にブレはない。
「今の目標は、まず秋の近畿大会に出場して、来春の選抜に出場すること。毎年甲子園に顔を出せるような土台をつくって、次にバトンをつなげていきたいですね」
かつて自身が受け継いだ育英の誇りを次の世代へ──。再び甲子園が迎えに来てくれるその日まで、安田は目の前の1球と誠実に向き合い続ける。
✌熊本代表・有明高校「旋風のあとで」…アクシデントに見舞われながらも甲子園ベスト8!
https://news.yahoo.co.jp/articles/fe54f4e0fce4437f321e6867468bad385e2062ed
怒濤の日々
準々決勝の健大高崎戦、延長タイブレークの末に敗戦し、涙を流すナイン。会場からは温かい拍手が送られた甲子園に旋風が起こるのは、いくつかの条件が整った時だ。初出場校には初戦から温かい声援が送られ、そんな学校が終盤に試合をひっくり返して勝ち上がれば、グラウンドに″見えない力″が働いているような錯覚に陥る。
8月18日、インタビュールームの隅で、私立有明高校(熊本)の中野賢哉部長は選手以上に大粒の涙を落としていた。
「本当に生徒たちが頑張ってくれて、素晴らしい時間を過ごさせてもらいました。この涙は嬉し涙ですけど、悔し涙でもあるかもしれない。子どもたちが一生懸命戦っている姿をもう見られないという寂しさが勝ります」
有明ナインは7月28日に起きた熊本地震の2日後に地元を出発し、初の甲子園では逆転に次ぐ逆転を見せた。被災地の代表校の勇姿は、しだいに日本中を有明ナインの味方に変え、ベスト8に進出するころ、それは旋風となった。健大高崎(群馬)との準々決勝は9回まで0対0と拮抗した展開だったが、タイブレークに突入した10回に1点を奪われ力尽きた。高見一茂監督はこう振り返る。
「熊本大会から苦しい試合の連続で、(今春のセンバツに出場した)準決勝の熊本工業戦のようにリードしていても逆転されそうな試合がたくさんありました。守備でどうにかカバーしながら、粘り強くなんとか勝ち上がることができた。甲子園に来てからはたしかに、不思議な力が働いているような感覚はありました」
甲子園1回戦の立命館宇治(京都)戦は6回まで0対3という劣勢の展開だった。50m走が5秒8という俊足で、好打者の1番・永田晴輝が9回二死満塁から走者一掃の逆転二塁打を放ち、チームを勝利に導いた。永田は振り返る。
「初の甲子園はやっぱり緊張しましたが、少しずつ慣れていきました。最後は『自分で決めてやる』という気持ちでした。たくさんの方が応援してくれて、とにかくそれに応えることができてよかった」
九州対決となった続く長崎日大戦も先制を許しながら逆転勝利した。そんな有明にアクシデントが起きたのは、3回戦・東日本国際大昌平(福島)戦の試合前練習だ。有明の投手陣は主に先発を任される工修哉と試合を締めくくる斉藤遼汰郎の二枚看板だった。ところが、素振りをしていた選手のバットが先発を予定していた工の左手甲を直撃し、急遽、先発を回避せざるを得なくなったのだ。チームを救ったのは、9回をわずか109球で1失点完投した背番号「1」の斉藤だ。
「動揺がなかったといえば嘘になりますが、一番悔しい思いをしているのは工ですから……自分らしいピッチングはできたと思います」(斉藤)
準優勝した健大高崎に善戦するも、有明はベスト8で甲子園を去った。8月19日に帰熊した際は、学校関係者ばかりだった出発時とは違っておよそ500人もの市民の出迎えがあった。翌日に県知事を表敬訪問した時には、『くまモン』にも歓迎された。高見監督は震災からの怒濤の日々をこう振り返る。
「学校のある地域は、震源地に近いところに比べれば被害は少なかった。それなのに甲子園にやってくれば、『大変だったでしょう?』とみなさんにご心配をいただく。私たち以上に苦しんでいる方々がたくさんいらっしゃるのに、親身になって応援していただけることが、申し訳なく感じることもありました」
💢龍谷大野球部 暴力行為とハレンチ騒ぎからたった1カ月で部活動再開、秋季リーグにも出場の疑問
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/392323
龍谷大は27日、会見を開き、硬式野球部員の間の暴力行為や寮内で部員の排泄行為を撮影した動画を共有するなど、不適切な行為について説明した。同部は7月28日から8月27日までの1カ月間、活動停止となっていた。龍谷大は関西六大学野球で29回優勝。多くのプロ野球選手を輩出してきた強豪だ。部員間の暴力行為は3件あった。
2025年2月、当時高校3年生だった新入予定部員が、参加していた練習を抜け出してラーメンを食べていた。それを知った2年生のリーダーが、高校生の胸ぐらをつかみ、胸をドーンと押した。
同年5月には、4年生が1年生に2年生のものまねをさせ、その動画を4年生から見せられた本人が激怒。ものまねをした1年生に暴言を吐いて腹を蹴り、肩を数発ブン殴った。
26年3~6月には、練習への取り組み方や寮内での生活態度にキレた学生コーチの3年生が、1年生のリーダーをバットで小突き、ビンタをくらわせた。
「2年生のものまねは、笑えるようなものではなく、本人にとって不快に感じるものだったようです。暴力行為に及んだのは2年生ですが、きっかけとなったのは4年生なので、他の件も含め、部全体の問題と捉え、活動停止処分としました。いずれも被害者本人やその保護者から申告があり、発覚しました」(同大広報部担当者)
また昨年2~3月ごろ、部員数人が練習オフの日に滋賀県内の河川に遊びに行った際、部員が河川敷で排泄をした。その様子を動画で撮影し、寮内のリビングにあるテレビ画面で再生し、学生約10人が排泄シーンを見てバカ騒ぎしていた。
「排泄行為を撮影したのは2回です。皆でその動画を見て面白がっていたようです。10人の中には、野外で排泄をした本人もいました。暴力行為を受けた被害部員が『先輩たちがリビングで排泄行為の動画を流していました』と説明したことから発覚しました」(前出の担当者)
今年7月には寮内で約20人の部員が現金やアンダーウエアの盗難被害に遭ったものの、指導者には報告されていなかった。
いずれも犯罪行為にあたるのに、野球部は28日から活動を再開。9月5日開幕の秋季リーグ戦には出場予定という。大学側が事態をどれだけ重く受け止めているのか、はなはだ疑問だ。
日 高10-4田 辺・桐 蔭3-2和歌山東
日高・和歌山東は二次予選進出決定!!
📝「仙台育英と間違われていませんか?」 "育英"の名を轟かせた1993年夏 全国制覇の主将は今、母校の監督に
https://news.yahoo.co.jp/articles/ca1b2e2cb0656c1fb049f5a33201ff617beb0e08
深紅の大優勝旗から33年〜育英、復活への挑戦(前編)
取材の申請を行なった際、スマホの向こう側から拍子抜けするほど正直な言葉が返ってきた。
「うちで大丈夫ですか? 仙台育英さんと間違われていませんか?」
声の主は、兵庫・育英高校野球部を率いる安田聖寛である。無理もない。これまで、春夏通算19回(春13回、夏6回)の甲子園出場を誇る兵庫屈指の名門も、2005年春の選抜大会を最後に聖地から遠ざかっている。その後、2013年夏に前橋育英(群馬)が全国制覇を果たすと、2022年夏には仙台育英(宮城)が東北勢初の日本一を達成した。全国の高校野球ファンにとって、「育英」といえばその2校を想起させる時代なのかもしれない。
【地元・兵庫から甲子園に行きたい】
しかし、高校野球の歴史を紐解けば、兵庫の育英も燦然と輝く実績を残している。巨人のV9時代を支えた土井正三、近鉄ひと筋で歴代4位の317勝を挙げた鈴木啓示、今季限りで現役を引退する"ミスター・ライオンズ"栗山巧ら、名だたるOBたちがその伝統を築き上げてきた。
そして、忘れられないのが1993年夏だ。育英は創部初となる全国制覇を達成した。のちに近鉄やソフトバンクなどで活躍した大村直之らとともに、主将としてチームを牽引したのが安田だ。
「選手として1992年春と1993年夏の2回、甲子園に出させてもらいましたが、本当に野球がうまくなる場所だと思いますね。心がきれいになるというか、させてもらえるというか......。チンタラしたり、いい加減なことをしていたら許さないぞ、というお叱りを頂戴する場所だと思っています」
母校の指揮官に就任して15年目になる。自身が歩んできた激闘の記憶と、伝統校の誇りを取り戻すための戦いは、中学生時代の「ある選択」から始まっていた。兵庫県西宮市で生まれ育った安田は中学時代、硬式野球チームで白球を追っていた。高校進学は、当時、全国の球児の憧れだった大阪のPL学園か、父の母校である北陽(現・関大北陽)を希望していた。
「最初はずっとPLに行きたかったのですが、父から『大阪なら北陽以外はあかん』と言われたんです。そこで、僕自身も、父が叶えられなかった甲子園の夢を北陽で叶えるんだとずっと思っていたんです。でも、中学3年の夏に運命が変わりました」
1990年、育英はエースの戎信行(元オリックスなど)を擁し、33年ぶりに夏の甲子園へと出場。テレビの画面越しに見る洗練されたアイボリーのユニフォーム、そして地元・兵庫の代表として甲子園で躍動するナインの姿に、一瞬で心を奪われた。
「中学のボーイズリーグの先輩がふたり試合に出ていたということもあって、やっぱり地元の兵庫から甲子園に行きたいという考えになりました」
土壇場で志望校を育英へと変更。そして1991年春、期待を胸に名門の門をたたいた。
【甲子園でランニング本塁打】
前年の甲子園出場効果もあり、同学年には優秀な選手が集まっていたが、安田は1年春の段階から実力を認められ、着実に実戦経験を積んでいく。
同年秋、兵庫大会を3位で通過。迎えた近畿大会は準々決勝で敗退し、翌年、2年時の春の選抜は補欠校に回されたが、出場予定だった神戸弘陵の辞退により、代替校として繰り上げ出場。チームは15年ぶりとなる春の甲子園でベスト8まで勝ち進んだ。
安田自身も2年生ながら主力選手として好結果を残す。初戦の駒大岩見沢(北海道)戦。この年からラッキーゾーンが撤去され、両翼が5メートル、最深部が8メートル広くなった甲子園でランニング本塁打を放ち、全国にその名を知らしめた。
「1学年上の松井秀喜さんがラッキーゾーン撤去後初の本塁打を含む3本塁打をマークした大会でもありました。僕もランニング本塁打を打ちましたが、『安田って誰だ?』なんて言われましたね(笑)。でも、浮かれた気持ちはありませんでした。私や大村を含めて2年生のレギュラーが4人いましたし、甲子園で野球をやるために育英を選んだんだという強い思いと、自分の名前より、育英の名前を全国に売ってやろうという気持ちで必死でした」
しかし、チームは2年夏の兵庫大会でベスト4に終わり、甲子園切符を逃す。新チーム結成にあたり、主将に指名されたのが安田だった。日下篤監督(当時)が1、2年生を集めて口にしたのは、「甲子園ベスト4」。選抜の8強を超えるための高い目標だったが、秋の兵庫大会は2回戦で敗退。翌春も県ベスト8止まりと、決して順風満帆とは言えない道のりだった。
それでも、新聞や雑誌の展望記事は「夏の本命は育英」という文字が並んだ。春の近畿大会を制した姫路工や、前年夏の覇者・神港学園など、強豪ひしめくなかでも、当時の育英が持つポテンシャルは群を抜いていた。
それを象徴するのが、1993年夏の兵庫大会決勝だ。近畿王者・姫路工との一戦は7回まで0対0と、手に汗握る投手戦となった。
「5回ぐらいでしたか、たしか一死三塁のチャンスがあって、僕が三振を取られたんです。自分で言うのもなんですが、普段はあまり三振しない打者だったんです。あの時は自分に対してイライラしてしまって。とにかくひとつのミスも許されない緊迫した雰囲気でした。姫路工さんは本当に強かった。もしかしたら、甲子園に出ていたチームより強かったかもしれません」
試合は8回に1点を先制し、そのまま1対0で兵庫の夏を制した。優勝候補の重圧を跳ね返したチームは、勢いそのままに聖地へと乗り込んだ。
【怒涛の快進撃で夏の甲子園決勝に進出】
1993年夏の甲子園、育英の快進撃が始まった。初戦の秋田経法大付(現・明桜)を14対4、2回戦の旭川大高(現・旭川志峯/北北海道)を11対3と、圧倒的な打力で退けた。続く3回戦の相手は横浜商大高(神奈川)。これまでの大勝とは打って変わり、1点を争うしびれる接戦となった。
「先制されては取り返して、という展開でした。不気味だったのは、うちが勝ち越しても、相手ベンチがガクッとなる様子がいっさいなかったこと。『打ち返せばいいじゃん』という関東チーム特有のノリというか、堂々とした雰囲気に凄みを感じましたね」
最終的に5対4と接戦を制してベスト8に進出すると、準々決勝の修徳(東東京)戦、準決勝の市立船橋(千葉)戦と、関東勢との激闘が続いた。のちにプロで活躍する高橋尚成(修徳−駒澤大−巨人など)、大学で同僚となった1学年下の小笠原孝(市立船橋−明治大−中日)といった好左腕と対峙したが、育英の打線は揺るがなかった。
「うちのキーは3番打者の大村でした。彼は左投手をまったく苦にしなかったので、だから1番の僕や、2番の岡本(健二)が出塁すれば、大村がなんとかしてくれるという信頼感がありました。高橋くんのスクリューボールを見極め、小笠原のストレートをコンパクトに弾き返す。対策が見事にはまりました」
全国の並み居る強豪を打ち破り、ついにたどり着いた決勝の舞台。新チーム結成時に掲げた「甲子園ベスト4」という目標は、すでに通過点となっていた。横浜商大高との激闘を制した頃から、チーム内には「上を狙う」という本気の思いがみなぎっていた。
そして、1993年8月23日。春日部共栄(埼玉)との決勝の朝を迎える。地元・兵庫代表として甲子園を埋め尽くす超満員の観客。満を持して臨んだ最後の戦いで、安田はアクシデントに見舞われることになる。
つづく>>
📝「甲子園は行きたいから行ける場所ではない」 全国制覇から33年、母校・育英を率いる安田聖寛が待つ"聖地からの迎え"
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2026/08/19/_33/?utm_medium=referral&utm_campaign=%2Fclm%2Fbaseball%2Fhs_other%2F2026%2F08%2F19%2F_1993%2F&utm_source=news.yahoo.co.jp
【決勝戦で襲ったまさかのアクシデント】
「前日まではリラックスしていたと思います。ただ、グラウンドに水が撒かれ、ラインが引かれたあたりから、絶対に兵庫へ優勝旗を持ち帰らなければならないという、ある種の使命感のようなものがありましたね。兵庫対埼玉のプライドのぶつかり合いだと捉えていました」
初回、育英は好スタートを切り2点を先制する。しかし、その後は春日部共栄の2年生左腕・土肥義弘(元西武など)の粘り強い投球の前に追加点を奪えず、じわじわと追い上げられる展開となった。
「初回に2点を取りましたが、ここで3点目が取れたと思うんです。最高のスタートなのですが、あと1点が取れなかったことを、選手たちが引きずっている感じはありました」
安田がアクシデントに見舞われたのは5回表、同点に追いつかれた直後の二死一、三塁の場面だ。一塁走者が盗塁を試み、二塁手としてベースカバーに入った際に左膝付近をスパイクされてしまう。
「タッチアウトにしてチェンジになり、ベンチに帰ろうとして立ち上がろうとしたら立てませんでした。脚を見て、『絶対に無理だ』と直感しました。ユニフォームは破れていないのに、中の皮膚がざっくりと裂けて血があふれ出ていたんです」
救護室に運ばれたが、傷口は深く、緊急でテーピングを巻く応急処置が施された。周囲からは交代を勧められたが、主将としての執念がそれを拒んだ。
「次の回、僕から始まる打順だったんです。『とにかく出ます』と言って、痛み止めを飲み、バッターボックスに立ちました。効くわけがないんですけどね(笑)」
そんな状態で満足のいく打撃ができるはずがない。なんとか打球を前に飛ばすことはできたが、一塁まで走ることすらできずにそのまま途中交代。すぐさま救急車で近くの病院へと搬送された。試合経過を伝えるラジオの音声が響く処置室で、麻酔すら打たず、傷口を3針縫う処置を受けた。
「傷口を縫うことよりも、ラジオのほうが気になって、『俺がおらんくて、ちゃんとやってるかな』とソワソワしていました。処置が終わるとすぐタクシーに飛び乗り、球場へ戻りました」
【全国制覇の先に選んだ明治大】
8回裏、育英の攻撃中に、痛みすらも忘れてベンチに帰還。脚は曲がらない状態だったが、主将の姿にベンチは大いに盛り上がった。勢いを取り戻したチームは勝ち越しに成功。そのまま3対2で逃げきり、初の甲子園優勝を果たした。その後は宿舎ではなく、病院に戻り、5針を追加した。
安田がマークした「1大会10四死球」は、夏の甲子園の最多タイ記録となっている。「フォア・ザ・チーム」を体現した結果、夢にまで見た深紅の優勝旗を手にすることができたのだ。
「本当に漫画みたいですよね。試合後の表彰式で、優勝旗を受け取る時は踏ん張れず、倒れそうになりました(笑)。でも、仲間と一緒につかんだあの瞬間の光景は、生涯忘れることはありません」
卒業後は社会人に進む予定だったが、高校日本代表で同僚となった山根雅仁(元広島)や金子誠(元日本ハム)らのレベルの高さに刺激を受け、東京六大学リーグの明治大学進学を希望するようになる。日下篤監督から「おまえごときが行っても4年間草むしり。明治のレベルをなめたらあかんぞ」とまで言われたが、安田の意志は固かった。
「ありがたいことに高校で負けずに引退させてもらったからこそ、試合に出ることができなくてもいいので、とんでもない世界を見たかったんです。そういう形で明治さんを受験させていただき、進学することになりました」
伝統の「人間力野球」を掲げる明治大学での日々は、厳しくも充実していた。寮生活での礼儀作法、上級生が背中を見せる伝統は評判どおりで、周囲のレベルも、同級生の川上憲伸(元中日)らを筆頭に高かった。それでもあきらめずに努力を重ね、最後のシーズンとなる4年秋のリーグ戦でスタメンの座をつかんだ。
「通算で10試合ほど出させてもらいましたが、打率なんて1割程度(19打数3安打、打率.158)ですよ。でも、腐らずにやり続けた結果、最後の最後にチャンスが回ってきた。今、指導している生徒たちにも『あきらめなければ、いつかチャンスが"迎え"に来てくれる』と実体験として伝えています」
【29歳で指導者の道へ】
大学卒業後は、社会人野球のデュプロ(2008年休部)に入社。日本生命や大阪ガス、松下電器(現・パナソニック)、NTT西日本といった強豪がひしめく関西地区で、泥臭く立ち向かう精神を養った。自身は補強選手として2度の都市対抗を経験。6年間の現役生活を終えた後は、29歳の若さで同部のコーチに就任。指導者としての第一歩を踏み出した。
ただ、社会人チームの指導者生活はわずか1年で幕を閉じることになる。2006年、新シーズンに向けて準備を始めていたその時、本社の社長に呼ばれた。福岡六大学リーグに所属する第一経済大学(現・日本経済大学)の監督就任を勧められたのだ。
「最初は高校時代の恩師からお話をいただいたのですが、デュプロとしても新シーズンへ動き始めていましたし、もちろん、コーチとして不満もなかったので、最初はお話だけ聞いてお断りしようとしました。ただ、社長が『大学が必要としてくれているのだったら行ってこい。やってみて、またこっちに戻ってきたいということであれば、また俺が雇ったるから』と背中を押され、2月末から福岡へ行きました」
ここから、安田は指導者としても強烈な勝負運を発揮する。右も左も、そして部員の名前や特徴もよくわからないまま、就任1カ月後に開幕したリーグ戦で指揮を執り、なんと初優勝へと導いたのだ。
「主将もそうですが、とくにマネージャーと『この子はどんな選手? どんなタイプ?』っていうのをすごく話し合って戦いましたね。万年5、6位のチームやったんですけど、あれこれやりくりして、学生も頑張ってくれました」
その後、2008年夏から系列校である福岡第一高の監督となり、3年ほどが経った頃、育英の理事長から連絡があった。
「理事長から『おまえも高校で監督をやっているんだったら母校に戻ってこいよ』というお話をいただきました。福岡第一もたくさんのOBの方がいらっしゃいますから、きっちりと土台ができたら引き渡そうと考えていました」
【甲子園は行きたいから行ける場所ではない】
そして2012年、部長として母校の育英に戻り、同年夏の大会終了後、監督に就任した。久しぶりに袖を通す「IKUEI」のユニフォームに「身が引き締まる思いでした」と当時を振り返る。
甲子園出場は、春は2005年、そして夏は今季限りで現役を引退する栗山巧(西武、当時2年)らを擁して4強入りした2000年が最後。そこから遠ざかる母校で目指したのは、かつて自身が叩き込まれた「基本の徹底」と「相手を思いやる野球」だった。
「高校時代に、日下監督からキャッチボールを徹底してやらされました。キャッチボールは、『あなたのことが好きだから、取りやすいボールを投げてあげたい』というのが基本だと思うんです。『自分を見てくれ』という"アイラブミー"ではなく、いかに相手を思いやるスローイングができるか。それは生活面でも相手の気持ちに気づけるかどうかにつながっています」
兵庫県の高校野球は、報徳学園や東洋大姫路、神戸国際大付など私学勢が強豪として名を連ねる一方、今夏の決勝は社対明石商の公立勢対決と、どこが勝ってもおかしくはない。育英は2回戦で今春の近畿王者・報徳学園に3対5と惜敗。甲子園に出場するには、技術以上に「品格」が必要だと安田は考えている。
「全国の高校球児に『甲子園に行きたいか?』と聞けば、100%行きたいと答えるでしょう。でも、甲子園に2回出させてもらった経験から言えるのは、甲子園は行きたいから行ける場所ではないということです。チームの品格、立ち居振る舞い、野球に対する姿勢、そういったものがすべて整った時に、甲子園のほうから迎えに来てくれるものだと思っています」
母校を率いて15年目。指揮官の目指す場所にブレはない。
「今の目標は、まず秋の近畿大会に出場して、来春の選抜に出場すること。毎年甲子園に顔を出せるような土台をつくって、次にバトンをつなげていきたいですね」
かつて自身が受け継いだ育英の誇りを次の世代へ──。再び甲子園が迎えに来てくれるその日まで、安田は目の前の1球と誠実に向き合い続ける。
✌熊本代表・有明高校「旋風のあとで」…アクシデントに見舞われながらも甲子園ベスト8!
https://news.yahoo.co.jp/articles/fe54f4e0fce4437f321e6867468bad385e2062ed
怒濤の日々
準々決勝の健大高崎戦、延長タイブレークの末に敗戦し、涙を流すナイン。会場からは温かい拍手が送られた甲子園に旋風が起こるのは、いくつかの条件が整った時だ。初出場校には初戦から温かい声援が送られ、そんな学校が終盤に試合をひっくり返して勝ち上がれば、グラウンドに″見えない力″が働いているような錯覚に陥る。
8月18日、インタビュールームの隅で、私立有明高校(熊本)の中野賢哉部長は選手以上に大粒の涙を落としていた。
「本当に生徒たちが頑張ってくれて、素晴らしい時間を過ごさせてもらいました。この涙は嬉し涙ですけど、悔し涙でもあるかもしれない。子どもたちが一生懸命戦っている姿をもう見られないという寂しさが勝ります」
有明ナインは7月28日に起きた熊本地震の2日後に地元を出発し、初の甲子園では逆転に次ぐ逆転を見せた。被災地の代表校の勇姿は、しだいに日本中を有明ナインの味方に変え、ベスト8に進出するころ、それは旋風となった。健大高崎(群馬)との準々決勝は9回まで0対0と拮抗した展開だったが、タイブレークに突入した10回に1点を奪われ力尽きた。高見一茂監督はこう振り返る。
「熊本大会から苦しい試合の連続で、(今春のセンバツに出場した)準決勝の熊本工業戦のようにリードしていても逆転されそうな試合がたくさんありました。守備でどうにかカバーしながら、粘り強くなんとか勝ち上がることができた。甲子園に来てからはたしかに、不思議な力が働いているような感覚はありました」
甲子園1回戦の立命館宇治(京都)戦は6回まで0対3という劣勢の展開だった。50m走が5秒8という俊足で、好打者の1番・永田晴輝が9回二死満塁から走者一掃の逆転二塁打を放ち、チームを勝利に導いた。永田は振り返る。
「初の甲子園はやっぱり緊張しましたが、少しずつ慣れていきました。最後は『自分で決めてやる』という気持ちでした。たくさんの方が応援してくれて、とにかくそれに応えることができてよかった」
九州対決となった続く長崎日大戦も先制を許しながら逆転勝利した。そんな有明にアクシデントが起きたのは、3回戦・東日本国際大昌平(福島)戦の試合前練習だ。有明の投手陣は主に先発を任される工修哉と試合を締めくくる斉藤遼汰郎の二枚看板だった。ところが、素振りをしていた選手のバットが先発を予定していた工の左手甲を直撃し、急遽、先発を回避せざるを得なくなったのだ。チームを救ったのは、9回をわずか109球で1失点完投した背番号「1」の斉藤だ。
「動揺がなかったといえば嘘になりますが、一番悔しい思いをしているのは工ですから……自分らしいピッチングはできたと思います」(斉藤)
準優勝した健大高崎に善戦するも、有明はベスト8で甲子園を去った。8月19日に帰熊した際は、学校関係者ばかりだった出発時とは違っておよそ500人もの市民の出迎えがあった。翌日に県知事を表敬訪問した時には、『くまモン』にも歓迎された。高見監督は震災からの怒濤の日々をこう振り返る。
「学校のある地域は、震源地に近いところに比べれば被害は少なかった。それなのに甲子園にやってくれば、『大変だったでしょう?』とみなさんにご心配をいただく。私たち以上に苦しんでいる方々がたくさんいらっしゃるのに、親身になって応援していただけることが、申し訳なく感じることもありました」
💢龍谷大野球部 暴力行為とハレンチ騒ぎからたった1カ月で部活動再開、秋季リーグにも出場の疑問
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/392323
龍谷大は27日、会見を開き、硬式野球部員の間の暴力行為や寮内で部員の排泄行為を撮影した動画を共有するなど、不適切な行為について説明した。同部は7月28日から8月27日までの1カ月間、活動停止となっていた。龍谷大は関西六大学野球で29回優勝。多くのプロ野球選手を輩出してきた強豪だ。部員間の暴力行為は3件あった。
2025年2月、当時高校3年生だった新入予定部員が、参加していた練習を抜け出してラーメンを食べていた。それを知った2年生のリーダーが、高校生の胸ぐらをつかみ、胸をドーンと押した。
同年5月には、4年生が1年生に2年生のものまねをさせ、その動画を4年生から見せられた本人が激怒。ものまねをした1年生に暴言を吐いて腹を蹴り、肩を数発ブン殴った。
26年3~6月には、練習への取り組み方や寮内での生活態度にキレた学生コーチの3年生が、1年生のリーダーをバットで小突き、ビンタをくらわせた。
「2年生のものまねは、笑えるようなものではなく、本人にとって不快に感じるものだったようです。暴力行為に及んだのは2年生ですが、きっかけとなったのは4年生なので、他の件も含め、部全体の問題と捉え、活動停止処分としました。いずれも被害者本人やその保護者から申告があり、発覚しました」(同大広報部担当者)
また昨年2~3月ごろ、部員数人が練習オフの日に滋賀県内の河川に遊びに行った際、部員が河川敷で排泄をした。その様子を動画で撮影し、寮内のリビングにあるテレビ画面で再生し、学生約10人が排泄シーンを見てバカ騒ぎしていた。
「排泄行為を撮影したのは2回です。皆でその動画を見て面白がっていたようです。10人の中には、野外で排泄をした本人もいました。暴力行為を受けた被害部員が『先輩たちがリビングで排泄行為の動画を流していました』と説明したことから発覚しました」(前出の担当者)
今年7月には寮内で約20人の部員が現金やアンダーウエアの盗難被害に遭ったものの、指導者には報告されていなかった。
いずれも犯罪行為にあたるのに、野球部は28日から活動を再開。9月5日開幕の秋季リーグ戦には出場予定という。大学側が事態をどれだけ重く受け止めているのか、はなはだ疑問だ。
⚾今日の和歌山大会新人戦試合結果(7日目 準々決勝 紀三井寺球場)
神 島10-5近大新宮・市和歌山2-0和歌山工
神島・市和歌山は二次予選進出決定!!
⚾明日の和歌山大会新人戦組み合わせ(8日目 準々決勝 紀三井寺球場)
☆☆ 09:00~ 田 辺 - 日 高
☆ 11:30~ 桐 蔭 -和歌 山東
📣2026年最初で最後の紀三井寺ナイター(2026年8月28日)
https://ameblo.jp/hirorinhoushi/entry-12977176365.html
昨夜の紀三井寺ナイター写真5枚ブログに載せておきました。
📝高校野球秋季県大会の出場校決まる 推薦の社を含め54チーム、9月12日開幕
https://www.kobe-np.co.jp/news/sports/koya/news/202608/0020760416.shtml
秋季兵庫県高校野球大会の地区大会は29日、阪神地区の5試合で全日程を終え、5ブロックを勝ち抜いた53チームが出そろった。今夏の甲子園大会に出場した社を推薦校として加えた計54チームが、9月12日に開幕する県大会に出場する。
組み合わせ抽選会は8日に加古川東高で行われる。上位3校は、10月17日から京都市のわかさスタジアム京都で開かれる近畿大会に進む。県大会出場校は次の通り。
【推薦】社
【阪神】(13校)市西宮、報徳、尼崎双星、西宮苦楽園、県伊丹、県尼崎工、市尼崎、関学、雲雀丘、西宮東、川西緑台、武庫荘総合、甲南
【神戸】(13校)須磨学園、神院大付、神戸国際大付、須磨翔風、滝川、神戸弘陵、御影、神港学園、神戸鈴蘭台、滝川第二、彩星工科、星陵、須磨東
【播淡】(12校)小野工、明石北、明石、小野、淡路三原、明石商、加古川西、明石南、高砂南、高砂、洲本、津名
【西播】(9校)赤穂、龍野北、龍野、東洋大姫路、姫路工、飾磨、姫路飾西、姫路西、相生産
【但丹】(6校)篠山鳳鳴・氷上西、篠山産、北摂三田、三田松聖、豊岡総合、三田学園
✌朝明、四日市四郷、南伊勢など5校連合が劇的サヨナラ タイブレークで四日市農芸に10-9
https://article.yahoo.co.jp/detail/d2a1f68eb25206498424c8209e5b4d325d0322a7
8月29日に開かれた秋季東海地区高校野球三重県大会の1回戦で、朝明、四日市四郷、南伊勢、石薬師、鳥羽の5校による連合チームが四日市農芸を10-9で破り、2回戦進出を決めた。9-9で迎えた延長タイブレークの10回裏、四日市四郷の竹内一晴選手(2年)が犠牲フライを放ち、サヨナラ勝ちした。
連合チームは、公式戦への出場に必要な人数がそろわない学校同士で編成する特別チーム。秋季大会でも認められており、この日の先発メンバーは四郷から4人、南伊勢から4人、朝明から1人だった。
先制したのは農芸。初回表に1点を奪われたが、その裏、連合は3点を挙げて逆転した。朝明から唯一先発した濵口晃也選手(1年)は一安打を放ち、「ランナーがいる状態で、いいスイングができ、狙った通りに打てた。練習の成果が出た」と振り返った。
しかし3回、農芸が4点を加えて5-3と逆転。和田明久監督は「失点で守備が崩れた」と振り返る。それでもベンチからは控え選手らの声援が続き、連合はその裏に2点を返して5-5と追いついた。農芸は4回と5回にも計3点を加え、8-5と再びリード。連合は投手を交代した。
試合中には、南伊勢の選手が自打球を顔面に受け、一時中断する場面もあった。控え選手らもベンチを飛び出し、負傷した選手に駆け寄った。
再開後、代打で登場したのは朝明の石本稜磨選手(1年)。「いつでも出られるように準備していた」と話す。三塁走者を置いた場面ではスクイズを仕掛けたが、本塁でアウトとなった。
それでも連合は6回裏に2点を返して8-7。9回には追い上げを見せて同点に追いつき、試合は延長戦へもつれ込んだ。
10回からは、無死一、二塁から攻撃を始めるタイブレーク方式。連合は10回表の農芸の攻撃を無失点に抑えた。
その裏、四郷の竹内選手が中堅へ飛球を放つと、三塁走者の南伊勢の選手が生還。犠牲フライで10点目を挙げ、劇的なサヨナラ勝ちを決めた。
連合チームの主将を務める四郷の川合康惺選手(2年)は「序盤で大量失点し、しんどかった。それでもみんなが頑張ってくれて、サヨナラ勝ちを決めることができて本当に良かった」と喜んだ。
四郷、朝明、石薬師は比較的近く、月に数回の合同練習を行っている。一方、南伊勢と鳥羽は距離があり、5校全員で練習する機会は限られる。それでも試合ではベンチから声援が途切れることなく、5校が一体となって初戦を突破した。
2回戦は9月13日(日)、津球場で津工業と対戦する予定。川合主将は「厳しい戦いになりそうだが、しっかりと自分たちの野球をして、勝利につなげたい」と意気込みを語った。
🔥智弁和歌山の日本一に「次は自分たち」 選抜準Vの智弁学園が新体制
https://news.yahoo.co.jp/articles/46665eee1044c10d2f43c4aa6ca324a99277c77b
(29日、秋季近畿地区高校野球大会奈良県予選1回戦 智弁学園17―0王寺工)
今春の選抜大会で準優勝した智弁学園にとって、いろんな意味で悔しい夏となった。夏こそ甲子園の頂点に期待がかかっていたが、奈良大会3回戦で奈良大付に6―9で敗れた。
下級生の頃から主力の逢坂悠誠(2年)は「まさか負けるとは思っていなかった」と振り返る。一方、奈良代表として今夏の甲子園に出場した天理は大活躍し、ベスト4まで勝ち上がった。
「見ていました。悔しかった」
奈良大会で敗れた翌日の練習前、逢坂は小坂将商監督から主将に指名された。また、新チーム発足と同時に捕手に転向した。入学時は捕手だったが、これまで1学年上でU18日本代表にも選ばれた捕手の角谷哲人(3年)がいたため、中軸を打つ逢坂は一塁を守っていた。
逢坂は「角谷さんという見本がいたので、いろいろ聞いてよくなってきた。伸びしろはある」と手応えを口にする。
夏の甲子園では、兄弟校の智弁和歌山が全国制覇を果たした。智弁学園にとっては、2021年夏の甲子園決勝で対戦して敗れた相手だ。
小坂監督は「智弁和歌山に落ちて、奈良(の智弁学園)に入らせてもらった」と自身の高校時代を振り返り、「ハングリー精神は持っているし、刺激を受けている」
近年の甲子園での結果についても、「うちは準優勝止まりで、智弁和歌山さんは優勝した。追い越さないといけない」と対抗心を燃やす。
さらに逢坂も「智弁学園には(智弁)和歌山とは違う良さがあると思う。次は自分たちの番だ、という気持ち」と決意を新たにした。
2年生の主力が多く残った新チームは、秋の初戦を大勝でスタートした。味わった悔しさを、強さに変えてみせる。
☝中京が茗渓学園を破り、史上初の5連覇 全国高校軟式野球
https://news.yahoo.co.jp/articles/d095a15f9f9161c7f3f884b19c2eee1bf5bedf52
第71回全国高校軟式野球選手権大会(日本高校野球連盟主催、朝日新聞社、毎日新聞社など後援)の決勝が29日、兵庫県明石市の明石トーカロ球場であり、中京(東海・岐阜)が茗渓学園(北関東・茨城)を7―0で破り、大会史上初となる5連覇を達成した。
中京の後藤敦也監督は試合後、「5連覇とはいえ、彼らにとっては初優勝。しっかりと地に足をつけて、やってくれた」と選手たちをたたえた。中京は通算優勝回数も15に伸ばし、自らが持つ最多記録を更新した。茗渓学園は9年ぶりの決勝へ進んだが、初優勝はならなかった。
💢BCリーグ・埼玉武蔵の清田育宏監督が活動自粛 一部報道を受け球団が声明 本人は報道内容を否定
https://news.yahoo.co.jp/articles/405071d9242603e3070945f435f819fae939eb7c
独立リーグ、ルートインBCリーグの埼玉武蔵ヒートベアーズは27日、清田育宏監督(40)が監督としての活動を当面自粛すると声明を発表した。
元ロッテ外野手の清田監督は2021年にロッテを退団し、2023年に埼玉武蔵に入団。同年限りで現役を引退し、2024年にコーチ、2025年に監督に就任した。球団の発表は以下の通り。
株式会社埼玉武蔵ヒートベアーズは、このたび、弊球団監督の清田育宏に関する一部報道を受け、本人への事実確認を行いました。
本人からは、報道内容について否定する説明を受けております。球団といたしましては、現時点において報道内容の詳細およびその真偽について断定するものではございませんが、監督という立場にある者として、今回の報道が球団およびファンの皆様、関係者の皆様にご心配とご迷惑をおかけする事態となったことを重く受け止めております。
これを踏まえ、球団として総合的に判断し、事実関係が確認されるまでの当面の間、清田育宏監督について監督としての活動を控えることといたしました
なお、本件に関する記者会見の実施予定はございません。また、電話でのお問い合わせは受け付けておりませんので、あらかじめご了承ください。
📣智弁和歌山を甲子園優勝に導いた中谷仁監督が駆使する“野村式ID野球” 横浜・織田翔希投手も徹底解析「ボール2つの後の3球目は必ずストレート」と狙い打ち
https://news.yahoo.co.jp/articles/c25aa95b46fefcbb2d0dbbb4ccde156b6043a613
夏の甲子園で、中谷仁監督が率いる智弁和歌山が4度目の日本一に輝いた。大会を沸かせた横浜(神奈川)の156キロ右腕・織田翔希を準決勝で攻略した強力打線はどのようにして育まれたのか。ノンフィクションライターの柳川悠二氏が迫った。
試合中の配球指示をやめた
甲子園制覇の2日後――中谷の姿は和歌山の紀三井寺球場にあった。歓喜から一息つく暇もなく新チームがスタートし、新人戦に臨んでいたのだ。ところが、和歌山東に2対5と敗れてしまう。
「(過密日程は)1カ月半前から決まっていたこと。言い訳にはできません。僕らは"準備野球"という言葉をスローガンとして掲げてきましたが、準備不足だとこういう結果になってしまう……」
秋季大会のシードを決する新人戦に敗れたからといって、来春のセンバツへの道が絶たれたわけではない。無論、2018年秋に監督となった中谷が2021年に続いて手にした日本一監督の栄誉が損なわれるわけでもない。
和歌山市出身の中谷は中学時代に軟式野球に励み、智弁和歌山に進学すると3度の甲子園に出場。主将として挑んだ最後の夏(1997年)は同校として初の日本一に輝いた。同年秋のドラフトで阪神に1位指名されて入団。その後、楽天、巨人と渡り歩いた自身のプロ野球人生を中谷はこう総括する。
「15年間の現役生活の半分は野村克也監督のもとで野球を勉強させてもらいました。(キャンプイン前日の)1月31日からミーティングが始まり、その内容をノートに書き写して翌日の練習、その後の試合に備えていく。自分自身、技術に長けた捕手ではなく、投手の良いところを活かす配球で存在感を発揮し、勝利を導くことで評価されるタイプだったと思う」
2012年に現役を引退すると、2017年に母校へ戻り、コーチに就任。翌年の甲子園100回大会をもって勇退した前監督・高嶋仁の後任に指名された。当初、中谷は星野仙一や原辰徳ら、プロの世界で接したカリスマ監督の立ち居振る舞いを真似ようとしたこともあった。
「普通の監督ではなく、偉大な監督だなと思わせるような表現を子どもたちの前でしなければいけないと錯覚していた時期もあった。だけどそれが難しくて、しんどくて、勘違いされることの方が多かった。素の自分で接しようと思うようになってから選手との関係もうまくいくようになった」
歴代2位となる通算68勝の高嶋体制下の智弁和歌山は学校の意向もあって、基本的には和歌山の球児ばかりで一学年10人という少数精鋭だった。しかし、中谷は就任直後に「智翔館」という寮を建てて県外選手にも門戸を開放し、一学年13人前後に拡大。この夏の甲子園に臨んだ20人のメンバーのうち、12人が県外出身者だった。寮の食事は中谷の妻である千保子さんが任され、平均体重が出場49校中最重量となる83.05キロという強靱な肉体作りを夫婦でサポートしてきた。
「来年からもう少し受け入れが増えますが、みんなに目を行き届かせるという意味では、これくらいの人数が限度だと思う。自分も子どもたちと一緒に栄養のある食事について勉強してきました」
3年前の夏、逸材が集まっていた東海中央ボーイズの中に、強肩強打の捕手・山田凜虎がいた。山田は中谷に憧れていて、智弁和歌山に進学すると打ち明けてくれた。その山田は現役時代に捕手だった中谷から帝王学を学んで1年秋より正捕手を務め、昨春のセンバツでは準優勝に輝く。だが、昨秋は和歌山大会の準々決勝で近大新宮に敗れ、センバツには出場できなかった。
「今だから言えることですが、昨年の夏まで試合中の重要な局面では、僕が山田に球種などをサインで指示していたんです。でもそれでは彼の成長にはならない。独り立ちさせるためにも、昨秋からすべて山田に配球を任せるようにしたんです」
ところがその直後の和歌山大会で敗れたわけだ。ショックに打ちひしがれた山田に中谷は自身の高校時代を重ね合わせた。
「自分も最上級生の時に(日高)中津分校に6対16で敗れてセンバツ出場がなくなった。責任を感じて精神的に追い込まれましたが、その時に野球のすべての責任はキャッチャーにあると自覚することで物事が好転したし、それを山田にも伝えました」
日本一以外認められない
中谷が教え子たちと共有しているのは、師である野村克也の教えだ。
「僕らが掲げる"準備野球"というのはつまり、野村監督のデータを駆使したID野球です。試合の前に相手校を分析してデータを作り、勝負の仕掛けどころを探っていく。特に捕手には打者を4つのタイプに分別する野村監督の教えを学ばせ、『野村ノート』などの著書も必ず読ませて、最低限、僕との会話が成立するようにしています」
横浜戦を前に、智弁和歌山のデータ班は令和の大怪物こと織田の投球を徹底して分析した。豪速球に目を奪われがちだが、織田の投球が変化球主体であることに気付く。一方で、初球からボールが2つ続いたら3球目は必ずストレートを投げてくることがはっきりとデータに表れていた。1点を先制された智弁和歌山が同点に追いついた3回裏、無死二、三塁のチャンスで打席に立った楠本龍生は、2ボールからの3球目、甘く入った真っ直ぐを狙い打ち、3点本塁打を右翼席に叩き込む。いわば野村の教えが智弁和歌山の勝利をたぐり寄せたのだった。
今夏の甲子園期間中、中谷の本音が垣間見えたのが、横浜との試合に勝利した日の宿舎だった。常勝軍団を率いる重圧について初めて吐露した。
「去年なんか、センバツで準優勝したのに、和歌山に戻った時には"また負けて帰ってきたな"という空気感だった。日本一以外、認められないって……けっこう、しんどいですよ。オトナもしんどいですけど、子どもらにそれを背負わすのはもっとしんどいと思う」
一方で、「野球人・中谷仁は死んでいる」とも口にした。優勝直後に、その発言の真意を訊ねた。
「僕はプロ野球で花を咲かせられなかった。そういう人間が今度は高校野球に舞台を移すと、アマチュアの指導者として名前を売って自分の人生を豊かにしようとしていると思われがちですが、そんなつもりは微塵もない。後輩たちのあくまでサポート役に徹して、裏方であり亡霊のような存在でいい。そういう意味で、野球人としての自分は死んでいると思っている」
もちろん、日本一という監督としてこれ以上ない結果には達成感がある。だからといってこれからもやることは変わらない。栄光に浸る間もなく中谷は来春、来夏に向けたチーム作りを開始している。
📝《失明寸前の事故、イチローに臨時コーチを要請…》智弁和歌山を5年ぶり夏制覇へ導いた中谷仁監督(47)の“壮絶すぎる逆転人生”
https://news.yahoo.co.jp/articles/282055bd11b5fef08fe71e1167cb8d5d1ac6cd3f
日本中を熱くさせた第108回全国高校野球選手権大会(甲子園)は智弁和歌山が健大高崎に逆転勝ち。5年ぶりの優勝で幕を閉じた。同校に4度目の栄冠をもたらしたのは、プロ野球の阪神、楽天、巨人でもプレーした中谷仁監督(47)。同校OBで自身も1997年の夏の大会を主将、正捕手、クリーンアップとして活躍し、初制覇に貢献した。
一時は失明寸前まで陥る災難に
「中谷さんは高校当時から『髙嶋仁監督の後継者』と目されるほど高いキャプテンシーを誇っていた」(当時を知るOB)
その年のドラフトで阪神に1位指名されたが、2年目、休日にバーベキューをしていたところ先輩から投げ渡された携帯電話が左目に当たり、一時は失明寸前まで陥る災難に遭った。
「中谷は携帯を投げた先輩への恨み言は一切口に出さなかった。そのことで人格面の評価は確かなものになった」(スポーツ紙デスク)
しかし、苦難は続く。
「2005年に楽天に移籍も11年限りで戦力外に。トライアウトを経て移籍した巨人では一軍戦力としては扱われず、12年に現役引退。しかし、若手への指導力を当時の原辰徳監督から高く評価され、球団スタッフとして残った」(同前)
17年に髙嶋前監督に請われて母校にコーチとして戻り、翌年、監督に。伝統校に改革をもたらした。
周囲の反対を押し切って選手寮を新設
19年には、それまで選手寮がなく、選手集めで後れを取っていたが、私財と各方面から苦心して集めた資金を投じ智翔館を新設。
「監督は『寮があることで選手を受け入れやすくなるし、何よりも食事面で体づくりができる。強い智弁を取り戻すには絶対に必要』とメリットを強調し、周囲の反対を押し切った。この夏のベンチ入りメンバーには愛知や中国地方出身者も含まれています」(前出・OB)
アマ野球担当記者の談。「寮生活では食事は朝昼晩に加えて、補食と夜食の1日5回。寮費は1人部屋で1カ月あたり14万円と高額ですが、入部希望者が後を絶たない。食事は寮母の千保子夫人が主に作りますが、中谷監督も率先して作っています。メンバーの平均体重は今大会最も重い83キロ。大会ナンバーワン右腕の横浜高の織田翔希を打ち崩せた打力は体作りの賜物です」
20年12月には特例で学生野球資格を回復したイチロー氏を全国に先駆けて臨時コーチとして迎え、翌年の夏の甲子園優勝につなげた。中谷監督はその時にイチロー氏から送られた言葉「ちゃんとやってよ。」が記されたTシャツを今大会の決勝前日に着用した。
プロ出身者で、夏の甲子園を2度制覇した監督は史上初。見事な「逆転人生」を歩んでいる。
📝球界ここだけの話 智弁和歌山も負けた 今や夏の甲子園最大の不公平感「しんがり」登場校の通算勝率.234
https://news.yahoo.co.jp/articles/b7ed92cee17032cb77a5817e784150fa55dc61be
今夏もその呪縛は解けなかった。代表49校目で登場する「しんがり」校の勝敗のことだ。今夏の甲子園では2017年優勝校の花咲徳栄(埼玉)が0-1で仙台育英(宮城)に敗れた。これで19年から「しんがり」校は7連敗(20年はコロナ禍で大会中止)で、しかも4年連続の零敗。7連敗の中に智弁学園、浦和学院、智弁和歌山、九州国際大付、花巻東、神村学園など名だたる強豪校が名を連ねており、単なる「くじ運」では片づけられない。
今夏の花咲徳栄でいえば、7月26日の埼玉大会決勝から中16日で甲子園初戦を迎えた。実戦形式の1カ所打撃を増やすなどの工夫を凝らしてきたが、同校・岩井隆監督は戦前「試合がうまいチームなので、実戦から離れている不安はある。前半は打線が止まるだろうなと思っている」と吐露。不安は的中し、試合後の指揮官は「後半4イニングだけ試合をした感じ」と首をかしげ、選手も「バットが出てこなかった」と振り返った。
相手の仙台育英・須江航監督は埼玉出身で埼玉県大会も好きでよく見る中、「思いのほか、徳栄さんが県大会で見せたようなリズム感のある攻撃、狙い球の絞り方がうまくハマっていなかった。その辺は初戦ということで、甲子園での成功体験のなさでしょうね。うちは2戦目で集中力が散漫になる要素もなく、(攻守)全部で先手を取っているような感じだった」と指摘した。
これで「しんがり」校の通算成績は11勝36敗、勝率.234。過去の取材から「地方大会を勝ち抜いた勢いや緊張感がリセットされてしまう」との声も多く聞かれる。
そこでの提案だ。従来の大会規定では「出場チームは代表決定以降、甲子園滞在中はもちろん、大会に参加する往復の途中でも試合をすることはできない」としているが、「しんがり」校には特例として練習試合の機会を与えてはどうか。もしくは、各地方大会の準優勝校の名から抽選で1校を「ワイルドカード」として出場させ、計50代表の〝偶数〟で大会を運営するのはどうだろう。それほどに不公平感が高まっている。
神 島10-5近大新宮・市和歌山2-0和歌山工
神島・市和歌山は二次予選進出決定!!
⚾明日の和歌山大会新人戦組み合わせ(8日目 準々決勝 紀三井寺球場)
☆☆ 09:00~ 田 辺 - 日 高
☆ 11:30~ 桐 蔭 -和歌 山東
📣2026年最初で最後の紀三井寺ナイター(2026年8月28日)
https://ameblo.jp/hirorinhoushi/entry-12977176365.html
昨夜の紀三井寺ナイター写真5枚ブログに載せておきました。
📝高校野球秋季県大会の出場校決まる 推薦の社を含め54チーム、9月12日開幕
https://www.kobe-np.co.jp/news/sports/koya/news/202608/0020760416.shtml
秋季兵庫県高校野球大会の地区大会は29日、阪神地区の5試合で全日程を終え、5ブロックを勝ち抜いた53チームが出そろった。今夏の甲子園大会に出場した社を推薦校として加えた計54チームが、9月12日に開幕する県大会に出場する。
組み合わせ抽選会は8日に加古川東高で行われる。上位3校は、10月17日から京都市のわかさスタジアム京都で開かれる近畿大会に進む。県大会出場校は次の通り。
【推薦】社
【阪神】(13校)市西宮、報徳、尼崎双星、西宮苦楽園、県伊丹、県尼崎工、市尼崎、関学、雲雀丘、西宮東、川西緑台、武庫荘総合、甲南
【神戸】(13校)須磨学園、神院大付、神戸国際大付、須磨翔風、滝川、神戸弘陵、御影、神港学園、神戸鈴蘭台、滝川第二、彩星工科、星陵、須磨東
【播淡】(12校)小野工、明石北、明石、小野、淡路三原、明石商、加古川西、明石南、高砂南、高砂、洲本、津名
【西播】(9校)赤穂、龍野北、龍野、東洋大姫路、姫路工、飾磨、姫路飾西、姫路西、相生産
【但丹】(6校)篠山鳳鳴・氷上西、篠山産、北摂三田、三田松聖、豊岡総合、三田学園
✌朝明、四日市四郷、南伊勢など5校連合が劇的サヨナラ タイブレークで四日市農芸に10-9
https://article.yahoo.co.jp/detail/d2a1f68eb25206498424c8209e5b4d325d0322a7
8月29日に開かれた秋季東海地区高校野球三重県大会の1回戦で、朝明、四日市四郷、南伊勢、石薬師、鳥羽の5校による連合チームが四日市農芸を10-9で破り、2回戦進出を決めた。9-9で迎えた延長タイブレークの10回裏、四日市四郷の竹内一晴選手(2年)が犠牲フライを放ち、サヨナラ勝ちした。
連合チームは、公式戦への出場に必要な人数がそろわない学校同士で編成する特別チーム。秋季大会でも認められており、この日の先発メンバーは四郷から4人、南伊勢から4人、朝明から1人だった。
先制したのは農芸。初回表に1点を奪われたが、その裏、連合は3点を挙げて逆転した。朝明から唯一先発した濵口晃也選手(1年)は一安打を放ち、「ランナーがいる状態で、いいスイングができ、狙った通りに打てた。練習の成果が出た」と振り返った。
しかし3回、農芸が4点を加えて5-3と逆転。和田明久監督は「失点で守備が崩れた」と振り返る。それでもベンチからは控え選手らの声援が続き、連合はその裏に2点を返して5-5と追いついた。農芸は4回と5回にも計3点を加え、8-5と再びリード。連合は投手を交代した。
試合中には、南伊勢の選手が自打球を顔面に受け、一時中断する場面もあった。控え選手らもベンチを飛び出し、負傷した選手に駆け寄った。
再開後、代打で登場したのは朝明の石本稜磨選手(1年)。「いつでも出られるように準備していた」と話す。三塁走者を置いた場面ではスクイズを仕掛けたが、本塁でアウトとなった。
それでも連合は6回裏に2点を返して8-7。9回には追い上げを見せて同点に追いつき、試合は延長戦へもつれ込んだ。
10回からは、無死一、二塁から攻撃を始めるタイブレーク方式。連合は10回表の農芸の攻撃を無失点に抑えた。
その裏、四郷の竹内選手が中堅へ飛球を放つと、三塁走者の南伊勢の選手が生還。犠牲フライで10点目を挙げ、劇的なサヨナラ勝ちを決めた。
連合チームの主将を務める四郷の川合康惺選手(2年)は「序盤で大量失点し、しんどかった。それでもみんなが頑張ってくれて、サヨナラ勝ちを決めることができて本当に良かった」と喜んだ。
四郷、朝明、石薬師は比較的近く、月に数回の合同練習を行っている。一方、南伊勢と鳥羽は距離があり、5校全員で練習する機会は限られる。それでも試合ではベンチから声援が途切れることなく、5校が一体となって初戦を突破した。
2回戦は9月13日(日)、津球場で津工業と対戦する予定。川合主将は「厳しい戦いになりそうだが、しっかりと自分たちの野球をして、勝利につなげたい」と意気込みを語った。
🔥智弁和歌山の日本一に「次は自分たち」 選抜準Vの智弁学園が新体制
https://news.yahoo.co.jp/articles/46665eee1044c10d2f43c4aa6ca324a99277c77b
(29日、秋季近畿地区高校野球大会奈良県予選1回戦 智弁学園17―0王寺工)
今春の選抜大会で準優勝した智弁学園にとって、いろんな意味で悔しい夏となった。夏こそ甲子園の頂点に期待がかかっていたが、奈良大会3回戦で奈良大付に6―9で敗れた。
下級生の頃から主力の逢坂悠誠(2年)は「まさか負けるとは思っていなかった」と振り返る。一方、奈良代表として今夏の甲子園に出場した天理は大活躍し、ベスト4まで勝ち上がった。
「見ていました。悔しかった」
奈良大会で敗れた翌日の練習前、逢坂は小坂将商監督から主将に指名された。また、新チーム発足と同時に捕手に転向した。入学時は捕手だったが、これまで1学年上でU18日本代表にも選ばれた捕手の角谷哲人(3年)がいたため、中軸を打つ逢坂は一塁を守っていた。
逢坂は「角谷さんという見本がいたので、いろいろ聞いてよくなってきた。伸びしろはある」と手応えを口にする。
夏の甲子園では、兄弟校の智弁和歌山が全国制覇を果たした。智弁学園にとっては、2021年夏の甲子園決勝で対戦して敗れた相手だ。
小坂監督は「智弁和歌山に落ちて、奈良(の智弁学園)に入らせてもらった」と自身の高校時代を振り返り、「ハングリー精神は持っているし、刺激を受けている」
近年の甲子園での結果についても、「うちは準優勝止まりで、智弁和歌山さんは優勝した。追い越さないといけない」と対抗心を燃やす。
さらに逢坂も「智弁学園には(智弁)和歌山とは違う良さがあると思う。次は自分たちの番だ、という気持ち」と決意を新たにした。
2年生の主力が多く残った新チームは、秋の初戦を大勝でスタートした。味わった悔しさを、強さに変えてみせる。
☝中京が茗渓学園を破り、史上初の5連覇 全国高校軟式野球
https://news.yahoo.co.jp/articles/d095a15f9f9161c7f3f884b19c2eee1bf5bedf52
第71回全国高校軟式野球選手権大会(日本高校野球連盟主催、朝日新聞社、毎日新聞社など後援)の決勝が29日、兵庫県明石市の明石トーカロ球場であり、中京(東海・岐阜)が茗渓学園(北関東・茨城)を7―0で破り、大会史上初となる5連覇を達成した。
中京の後藤敦也監督は試合後、「5連覇とはいえ、彼らにとっては初優勝。しっかりと地に足をつけて、やってくれた」と選手たちをたたえた。中京は通算優勝回数も15に伸ばし、自らが持つ最多記録を更新した。茗渓学園は9年ぶりの決勝へ進んだが、初優勝はならなかった。
💢BCリーグ・埼玉武蔵の清田育宏監督が活動自粛 一部報道を受け球団が声明 本人は報道内容を否定
https://news.yahoo.co.jp/articles/405071d9242603e3070945f435f819fae939eb7c
独立リーグ、ルートインBCリーグの埼玉武蔵ヒートベアーズは27日、清田育宏監督(40)が監督としての活動を当面自粛すると声明を発表した。
元ロッテ外野手の清田監督は2021年にロッテを退団し、2023年に埼玉武蔵に入団。同年限りで現役を引退し、2024年にコーチ、2025年に監督に就任した。球団の発表は以下の通り。
株式会社埼玉武蔵ヒートベアーズは、このたび、弊球団監督の清田育宏に関する一部報道を受け、本人への事実確認を行いました。
本人からは、報道内容について否定する説明を受けております。球団といたしましては、現時点において報道内容の詳細およびその真偽について断定するものではございませんが、監督という立場にある者として、今回の報道が球団およびファンの皆様、関係者の皆様にご心配とご迷惑をおかけする事態となったことを重く受け止めております。
これを踏まえ、球団として総合的に判断し、事実関係が確認されるまでの当面の間、清田育宏監督について監督としての活動を控えることといたしました
なお、本件に関する記者会見の実施予定はございません。また、電話でのお問い合わせは受け付けておりませんので、あらかじめご了承ください。
📣智弁和歌山を甲子園優勝に導いた中谷仁監督が駆使する“野村式ID野球” 横浜・織田翔希投手も徹底解析「ボール2つの後の3球目は必ずストレート」と狙い打ち
https://news.yahoo.co.jp/articles/c25aa95b46fefcbb2d0dbbb4ccde156b6043a613
夏の甲子園で、中谷仁監督が率いる智弁和歌山が4度目の日本一に輝いた。大会を沸かせた横浜(神奈川)の156キロ右腕・織田翔希を準決勝で攻略した強力打線はどのようにして育まれたのか。ノンフィクションライターの柳川悠二氏が迫った。
試合中の配球指示をやめた
甲子園制覇の2日後――中谷の姿は和歌山の紀三井寺球場にあった。歓喜から一息つく暇もなく新チームがスタートし、新人戦に臨んでいたのだ。ところが、和歌山東に2対5と敗れてしまう。
「(過密日程は)1カ月半前から決まっていたこと。言い訳にはできません。僕らは"準備野球"という言葉をスローガンとして掲げてきましたが、準備不足だとこういう結果になってしまう……」
秋季大会のシードを決する新人戦に敗れたからといって、来春のセンバツへの道が絶たれたわけではない。無論、2018年秋に監督となった中谷が2021年に続いて手にした日本一監督の栄誉が損なわれるわけでもない。
和歌山市出身の中谷は中学時代に軟式野球に励み、智弁和歌山に進学すると3度の甲子園に出場。主将として挑んだ最後の夏(1997年)は同校として初の日本一に輝いた。同年秋のドラフトで阪神に1位指名されて入団。その後、楽天、巨人と渡り歩いた自身のプロ野球人生を中谷はこう総括する。
「15年間の現役生活の半分は野村克也監督のもとで野球を勉強させてもらいました。(キャンプイン前日の)1月31日からミーティングが始まり、その内容をノートに書き写して翌日の練習、その後の試合に備えていく。自分自身、技術に長けた捕手ではなく、投手の良いところを活かす配球で存在感を発揮し、勝利を導くことで評価されるタイプだったと思う」
2012年に現役を引退すると、2017年に母校へ戻り、コーチに就任。翌年の甲子園100回大会をもって勇退した前監督・高嶋仁の後任に指名された。当初、中谷は星野仙一や原辰徳ら、プロの世界で接したカリスマ監督の立ち居振る舞いを真似ようとしたこともあった。
「普通の監督ではなく、偉大な監督だなと思わせるような表現を子どもたちの前でしなければいけないと錯覚していた時期もあった。だけどそれが難しくて、しんどくて、勘違いされることの方が多かった。素の自分で接しようと思うようになってから選手との関係もうまくいくようになった」
歴代2位となる通算68勝の高嶋体制下の智弁和歌山は学校の意向もあって、基本的には和歌山の球児ばかりで一学年10人という少数精鋭だった。しかし、中谷は就任直後に「智翔館」という寮を建てて県外選手にも門戸を開放し、一学年13人前後に拡大。この夏の甲子園に臨んだ20人のメンバーのうち、12人が県外出身者だった。寮の食事は中谷の妻である千保子さんが任され、平均体重が出場49校中最重量となる83.05キロという強靱な肉体作りを夫婦でサポートしてきた。
「来年からもう少し受け入れが増えますが、みんなに目を行き届かせるという意味では、これくらいの人数が限度だと思う。自分も子どもたちと一緒に栄養のある食事について勉強してきました」
3年前の夏、逸材が集まっていた東海中央ボーイズの中に、強肩強打の捕手・山田凜虎がいた。山田は中谷に憧れていて、智弁和歌山に進学すると打ち明けてくれた。その山田は現役時代に捕手だった中谷から帝王学を学んで1年秋より正捕手を務め、昨春のセンバツでは準優勝に輝く。だが、昨秋は和歌山大会の準々決勝で近大新宮に敗れ、センバツには出場できなかった。
「今だから言えることですが、昨年の夏まで試合中の重要な局面では、僕が山田に球種などをサインで指示していたんです。でもそれでは彼の成長にはならない。独り立ちさせるためにも、昨秋からすべて山田に配球を任せるようにしたんです」
ところがその直後の和歌山大会で敗れたわけだ。ショックに打ちひしがれた山田に中谷は自身の高校時代を重ね合わせた。
「自分も最上級生の時に(日高)中津分校に6対16で敗れてセンバツ出場がなくなった。責任を感じて精神的に追い込まれましたが、その時に野球のすべての責任はキャッチャーにあると自覚することで物事が好転したし、それを山田にも伝えました」
日本一以外認められない
中谷が教え子たちと共有しているのは、師である野村克也の教えだ。
「僕らが掲げる"準備野球"というのはつまり、野村監督のデータを駆使したID野球です。試合の前に相手校を分析してデータを作り、勝負の仕掛けどころを探っていく。特に捕手には打者を4つのタイプに分別する野村監督の教えを学ばせ、『野村ノート』などの著書も必ず読ませて、最低限、僕との会話が成立するようにしています」
横浜戦を前に、智弁和歌山のデータ班は令和の大怪物こと織田の投球を徹底して分析した。豪速球に目を奪われがちだが、織田の投球が変化球主体であることに気付く。一方で、初球からボールが2つ続いたら3球目は必ずストレートを投げてくることがはっきりとデータに表れていた。1点を先制された智弁和歌山が同点に追いついた3回裏、無死二、三塁のチャンスで打席に立った楠本龍生は、2ボールからの3球目、甘く入った真っ直ぐを狙い打ち、3点本塁打を右翼席に叩き込む。いわば野村の教えが智弁和歌山の勝利をたぐり寄せたのだった。
今夏の甲子園期間中、中谷の本音が垣間見えたのが、横浜との試合に勝利した日の宿舎だった。常勝軍団を率いる重圧について初めて吐露した。
「去年なんか、センバツで準優勝したのに、和歌山に戻った時には"また負けて帰ってきたな"という空気感だった。日本一以外、認められないって……けっこう、しんどいですよ。オトナもしんどいですけど、子どもらにそれを背負わすのはもっとしんどいと思う」
一方で、「野球人・中谷仁は死んでいる」とも口にした。優勝直後に、その発言の真意を訊ねた。
「僕はプロ野球で花を咲かせられなかった。そういう人間が今度は高校野球に舞台を移すと、アマチュアの指導者として名前を売って自分の人生を豊かにしようとしていると思われがちですが、そんなつもりは微塵もない。後輩たちのあくまでサポート役に徹して、裏方であり亡霊のような存在でいい。そういう意味で、野球人としての自分は死んでいると思っている」
もちろん、日本一という監督としてこれ以上ない結果には達成感がある。だからといってこれからもやることは変わらない。栄光に浸る間もなく中谷は来春、来夏に向けたチーム作りを開始している。
📝《失明寸前の事故、イチローに臨時コーチを要請…》智弁和歌山を5年ぶり夏制覇へ導いた中谷仁監督(47)の“壮絶すぎる逆転人生”
https://news.yahoo.co.jp/articles/282055bd11b5fef08fe71e1167cb8d5d1ac6cd3f
日本中を熱くさせた第108回全国高校野球選手権大会(甲子園)は智弁和歌山が健大高崎に逆転勝ち。5年ぶりの優勝で幕を閉じた。同校に4度目の栄冠をもたらしたのは、プロ野球の阪神、楽天、巨人でもプレーした中谷仁監督(47)。同校OBで自身も1997年の夏の大会を主将、正捕手、クリーンアップとして活躍し、初制覇に貢献した。
一時は失明寸前まで陥る災難に
「中谷さんは高校当時から『髙嶋仁監督の後継者』と目されるほど高いキャプテンシーを誇っていた」(当時を知るOB)
その年のドラフトで阪神に1位指名されたが、2年目、休日にバーベキューをしていたところ先輩から投げ渡された携帯電話が左目に当たり、一時は失明寸前まで陥る災難に遭った。
「中谷は携帯を投げた先輩への恨み言は一切口に出さなかった。そのことで人格面の評価は確かなものになった」(スポーツ紙デスク)
しかし、苦難は続く。
「2005年に楽天に移籍も11年限りで戦力外に。トライアウトを経て移籍した巨人では一軍戦力としては扱われず、12年に現役引退。しかし、若手への指導力を当時の原辰徳監督から高く評価され、球団スタッフとして残った」(同前)
17年に髙嶋前監督に請われて母校にコーチとして戻り、翌年、監督に。伝統校に改革をもたらした。
周囲の反対を押し切って選手寮を新設
19年には、それまで選手寮がなく、選手集めで後れを取っていたが、私財と各方面から苦心して集めた資金を投じ智翔館を新設。
「監督は『寮があることで選手を受け入れやすくなるし、何よりも食事面で体づくりができる。強い智弁を取り戻すには絶対に必要』とメリットを強調し、周囲の反対を押し切った。この夏のベンチ入りメンバーには愛知や中国地方出身者も含まれています」(前出・OB)
アマ野球担当記者の談。「寮生活では食事は朝昼晩に加えて、補食と夜食の1日5回。寮費は1人部屋で1カ月あたり14万円と高額ですが、入部希望者が後を絶たない。食事は寮母の千保子夫人が主に作りますが、中谷監督も率先して作っています。メンバーの平均体重は今大会最も重い83キロ。大会ナンバーワン右腕の横浜高の織田翔希を打ち崩せた打力は体作りの賜物です」
20年12月には特例で学生野球資格を回復したイチロー氏を全国に先駆けて臨時コーチとして迎え、翌年の夏の甲子園優勝につなげた。中谷監督はその時にイチロー氏から送られた言葉「ちゃんとやってよ。」が記されたTシャツを今大会の決勝前日に着用した。
プロ出身者で、夏の甲子園を2度制覇した監督は史上初。見事な「逆転人生」を歩んでいる。
📝球界ここだけの話 智弁和歌山も負けた 今や夏の甲子園最大の不公平感「しんがり」登場校の通算勝率.234
https://news.yahoo.co.jp/articles/b7ed92cee17032cb77a5817e784150fa55dc61be
今夏もその呪縛は解けなかった。代表49校目で登場する「しんがり」校の勝敗のことだ。今夏の甲子園では2017年優勝校の花咲徳栄(埼玉)が0-1で仙台育英(宮城)に敗れた。これで19年から「しんがり」校は7連敗(20年はコロナ禍で大会中止)で、しかも4年連続の零敗。7連敗の中に智弁学園、浦和学院、智弁和歌山、九州国際大付、花巻東、神村学園など名だたる強豪校が名を連ねており、単なる「くじ運」では片づけられない。
今夏の花咲徳栄でいえば、7月26日の埼玉大会決勝から中16日で甲子園初戦を迎えた。実戦形式の1カ所打撃を増やすなどの工夫を凝らしてきたが、同校・岩井隆監督は戦前「試合がうまいチームなので、実戦から離れている不安はある。前半は打線が止まるだろうなと思っている」と吐露。不安は的中し、試合後の指揮官は「後半4イニングだけ試合をした感じ」と首をかしげ、選手も「バットが出てこなかった」と振り返った。
相手の仙台育英・須江航監督は埼玉出身で埼玉県大会も好きでよく見る中、「思いのほか、徳栄さんが県大会で見せたようなリズム感のある攻撃、狙い球の絞り方がうまくハマっていなかった。その辺は初戦ということで、甲子園での成功体験のなさでしょうね。うちは2戦目で集中力が散漫になる要素もなく、(攻守)全部で先手を取っているような感じだった」と指摘した。
これで「しんがり」校の通算成績は11勝36敗、勝率.234。過去の取材から「地方大会を勝ち抜いた勢いや緊張感がリセットされてしまう」との声も多く聞かれる。
そこでの提案だ。従来の大会規定では「出場チームは代表決定以降、甲子園滞在中はもちろん、大会に参加する往復の途中でも試合をすることはできない」としているが、「しんがり」校には特例として練習試合の機会を与えてはどうか。もしくは、各地方大会の準優勝校の名から抽選で1校を「ワイルドカード」として出場させ、計50代表の〝偶数〟で大会を運営するのはどうだろう。それほどに不公平感が高まっている。
⚾今日のさわかみ関西府独立リーグ試合結果(紀三井寺球場)
和歌山ウエイブス-姫路イーグレッターズ 17:00~19:43 17:36点灯 3回裏から 48人
一二三四五六七八九十11計HE
姫 路 E00000000000052
和歌山W00000000000051
深夜から明け方にかけて宝塚界隈は雷鳴と稲光そして豪雨で4時頃目が覚めずいぶん悩まされましたが、、、、、和歌山は前線の影響を受けることなく、15時過ぎに紀三井寺駅到着したら入道雲に青い空が見え、球場に着いたらちょうど散水が終わる頃合いでした。
結局、折り畳み傘の出番が今日もなく、オークワで仕入れたかき氷でクールダウンしたおかげで17時試合開始からは熱さも感じず快適だったかなと。
しかし両軍の投手が本当に良かった。姫路の前田投手は11回完封して最後まで147kmなど剛速球を披露。中継ぎ登板した和歌山の野口投手はなんと157km!!
僕の眼勘定では20人程度しかお客さんがいないように見えたが48人もいたとは、、、、、せやけど9回で終わっていたら2時間13分と味気なかったし、2代目カンドクは延長11回までやってくれるのでこれは嬉しかった!
もうタイブレークの無い延長生観戦なんて5年ぶりあるいはそれ以上ブランクあったかも!?今年最初で最後の紀三井寺ナイターも堪能できました。
⚾明日の和歌山大会新人戦組み合わせ(7日目 準々決勝 紀三井寺球場)
09:00~ 近大 新宮- 神 島
11:30~ 和歌 山工-市和 歌山
📝ベンチ見ずに「自らタイム」を取る3年生捕手 智弁和歌山が日本一になったわけ
https://news.yahoo.co.jp/articles/8b91b02f71367581741a504246158398182df4bf?page=1
8月5日に開幕した第108回全国高校野球選手権は智弁和歌山(和歌山)の5年ぶり4度目の優勝で幕を閉じた。和歌山大会では苦戦が多かったこともあって、前評判は決して高くなかったが、試合を重ねるごとに成長を見せていった印象だ。
では、智弁和歌山の優勝の要因はどこにあったのだろうか。チームを語るうえでよく使われるのが強力打線だが、今年は決して打ち勝ったわけではない。初戦の社戦では好投手の岩井秀耶(3年)に2点に抑え込まれ、続く敦賀気比戦もタイブレークとなった延長11回に一挙5点を奪っているが、9回までは2得点だった。この2試合を見ても、打線の力で押し切るだけのチームではないことがよく分かるだろう。
まず大きかったのが投手陣の成長だ。エースの和気匠太(3年)は和歌山大会では3試合、14回1/3を投げて被安打24、自責点6、防御率3.77と不安定な投球が目立ったが、甲子園初戦の社戦では6回を投げて無失点と先発の役割を果たし、その後も大きく崩れることはなかった。仮に和気が和歌山大会のような状態であれば、初戦で敗れていた可能性も高かったのではないだろうか。さらに、エースの和気以外にも力のある投手を揃えていたのも強みとなっていた。チームを指揮する中谷仁監督も、継投のパターンについては82通りくらいあると話していたように、今大会の5試合は全て違う投手起用で勝利している。
決勝の健大高崎(群馬)との試合では、それまで2試合にリリーフ登板していた長井心海(2年)を先発に起用したが、それまで一度も先発していない投手が決勝の先発マウンドに上がるのはこれまでになかったことだ。ちなみに長井は和歌山大会の決勝戦でも先発を任されており、大舞台でも力を発揮できるところを買ってこのような抜擢となったと考えられる。
長井はその期待に応えて、健大高崎打線を5回まで1点に抑えてみせた。他にも登板した3試合全てで抑えを任せられ、胴上げ投手となった久葉亮太(3年)も、合計8回2/3を投げて自責点0と緊迫した場面で力を発揮している。敦賀気比戦で先発として登板した左腕の米原佑真(2年)も、5回途中まで投げて2失点と試合を作った。
多くの投手を抱え、様々なパターンで継投することはなかなか付け焼き刃でできることではない。決勝戦でも好投していた長井からエースの和気につなぎ、さらに和気が失点すると久葉を投入するなど、投手交代に迷いがなかったのは、これまでの練習試合も含めてあらゆるパターンの継投で戦ってきた証拠と言えるだろう。
また近年は高校野球でも相手のデータを分析し、対策を練って戦うのが一般的になっているが、これだけ異なる投手を抱えているチームに対してはそれが難しくなることも確かだ。準決勝で智弁和歌山に敗れた横浜(神奈川)も多くの力のある投手を抱えていたが、織田翔希(3年)と小林鉄三郎(2年)の二人に対する依存度が高かったことも、勝ち上がれなかった要因と言えそうだ。そして最も大きかったのが、そのようなタイプの異なる多くの投手を巧みにリードした捕手の山田凜虎(3年)の存在だ。
山田は東海中央ボーイズ時代から評判のキャッチャーで、智弁和歌山でも1年秋から不動の正捕手として活躍している。2年春の選抜で初めて甲子園に出場し、決勝で横浜に敗れたものの準優勝に大きく貢献。この大会で中谷監督に山田について話を聞いたが、下級生でも大きな信頼を寄せていることが分かる話しぶりだった。
安定したキャッチング、スローイング、4番を打つ打撃などももちろん高レベルだが、それ以上に光っていたのがインサイドワークの部分だ。試合のポイントとなりそうな場面ではベンチの様子をうかがうことなく、自らタイムを取ってマウンドに向かうシーンが今大会では度々見られた。今大会の智弁和歌山が1イニングで最も多く失点したのは「2点」であり、そういった山田の試合を読む力が相手にビッグイニングを作らせなかった大きな要因と言えるだろう。
そんな智弁和歌山も昨年秋は県大会で敗れて近畿大会に進むことができず、選抜出場を逃している。また冒頭でも触れたように夏の和歌山大会の戦いぶりも決して盤石なものではなかった。ただ、それでも全国優勝を果たしているように、高校生は短期間で大きく成長を遂げるということを改めて証明したと言えるだろう。来年以降も今年の智弁和歌山のように急成長を遂げるチーム、選手が出てくることを期待したい。
☝“高校野球7回制”の導入にブレーキ!? 止まない反対意見 甲子園は2部制で熱中症大幅減、高校球児のほとんどが「NO」の現状
https://news.yahoo.co.jp/articles/59a874f7ac7932525aab782e1e4b1259aadc2b37
加速するはずだった「高校野球7回制」導入に、この夏の甲子園を経た今、「待った」がかかったとの話が、高校野球関係者の間で流れています。
これまで、「高校野球7回制」の導入は不可避とされてきました。昨年12月5日に行われた日本高野連の「7イニング制等高校野球の諸課題検討会議」では、猛暑対策や障害予防を理由に「2028年の第100回記念選抜高等学校野球大会ならびに各都道府県高等学校野球連盟の春季大会から採用することが望ましい」と最終報告書に記載したからです。
力強い言葉で、導入のメドが綴られた以上、「現行の9回制は風前の灯火か」と囁かれていたものですが、ここに来て「9回制でよいのでは」「他に変えるべき点があるのでは」といった球界有識者の意見が噴出。7回制導入に“ブレーキ”がかかったような状態になっているのです。甲子園取材歴の長いスポーツライターは言います。
「これはある意味、日本高野連や大会運営サイドによる酷暑対策が上手くいったからでもあるんです。今夏の甲子園大会は『2部制』が2回戦終了までの10日間、33試合に拡大されましたが、これが効果てきめんでした。ナイター開催によって涼しい中で球児たちがプレーすることができた。我々の取材環境も快適でした。新聞記者の方々は締め切りに追われて泣きそうでしたけど(笑)。最終報告では熱中症の件数が、昨年に比べて大幅に減ったとされていましたからね」
このように運営方法を変えれば、7回制にしなくても、やりようはいくらでもある。もっと知恵を出すべきではないかとの声が、インフルエンサーからも発信され、世論は「9回制維持」に傾いているというのが、偽らざる現状でしょう。
「桑田真澄さんやイチローさんといった、球界の未来を真剣に考える人々が7回制導入に疑問を唱えている現状は、決して無視できません。現場からも大阪桐蔭の西谷浩一監督が『断固反対』と口にして、大きな話題になりました。現役監督が日本高野連の意向に『NO』を訴えるのは、大変勇気のあること。今の枠組みを変えたくないという意見は、それほど切実であるということです」(前述のスポーツライター)
そして何よりも「主役」となるべき高校球児のほとんどが、「7回制反対」を求めている現状も、導入への大きなハードルになるでしょう。もちろん、日本高野連が7回制導入を健闘しているのは、猛暑から球児や関係者を守り、安心安全な大会運営を志しているからこそ、といった視座も必要です。この問題、解決にはまだまだ議論が必要なようです。
📝「とんでもないところに来てしまった」意外にも30年甲子園なし…元木大介・黒田博樹を輩出した大阪の雄・上宮高のいま「令和に変えるべきは変えて」
https://news.yahoo.co.jp/articles/870295d25a6ab52eca3f534e24b4609b9c937178
多くのプロ野球選手を輩出し、春夏通算9度の甲子園出場を誇る大阪の雄、上宮高校。しかし意外にもこの30年近く、聖地に登場していない。今、名門はどんな挑戦をしているのか、現地を訪ねた。
「上宮のユニフォームは、甲子園で本当によく映えますね」
今年5月、阪神甲子園球場で行われた審判講習会。モデル校として聖地に招かれた大阪の伝統校・上宮高野球部の選手たちを眺めながら、高野連の関係者がふと漏らした言葉だ。
胸に赤の縁取りで大きく刻まれた「上宮」の文字、そして伝統のアイボリーのユニフォーム。その洗練された佇まいは、令和の時代を迎えてもなお色あせることはない。
約30年遠ざかる聖地
元木大介(元巨人)、黒田博樹(元広島、ヤンキースなど)をはじめ、数多のプロ野球選手を輩出。春夏通算9度の甲子園出場を誇り、春のセンバツでは1989年準優勝、1993年優勝、1997年ベスト4と、甲子園の歴史にその名を刻んできた。しかし、その輝かしい実績の裏で、意外な事実が存在する。これほどの強豪でありながら、夏の甲子園出場は1989年の1度のみ。そして何より、1997年春を最後に、約30年もの間、甲子園の土を踏んでいないのだ。
大阪の高校野球勢力図がPL学園(2016年休部)から、大阪桐蔭、履正社の「2強」を中心に塗り替えられていく中で、かつての王者は長い沈黙を余儀なくされてきた。
上宮には専用の寮がなく、全員が大阪や奈良などの近郊から、かつて司馬遼太郎も学んだ大阪市天王寺区の校舎まで通う。放課後は電車と自転車を乗り継ぎ、約1時間をかけ、大阪南東部の上宮太子高内にある上宮学園グラウンドに移動。宮内庁が治定する天皇陵4基(30代敏達天皇陵、31代用明天皇陵、33代推古天皇陵、36代孝徳天皇陵)と聖徳太子廟を含む「磯長谷(しながだに)古墳群」に囲まれながら日々汗を流す。 その伝統校の再建という重責を担い、今年4月から再び指揮をとるのが村田侑右(ゆうすけ)監督だ。 村田監督自身、上宮の黄金期に魅せられた一人だ。1997年春、山田真介(元巨人など)、渡辺正人(元ロッテ)、OBで三木肇(元楽天監督)の弟である三木仁(元近鉄、オリックス)らを擁して甲子園4強入りした勇姿を、当時小学5年生になったばかりの村田少年はテレビ越しに食い入るように見つめた。
「やっぱり、あのアイボリーのユニフォームへの憧れですよね。僕らが子供の頃、甲子園で輝いていたのをずっと見ていましたから。最初は本当に憧れから入りました」
それから、上宮に入りたい一心で必死に腕を磨いた。しかし、上宮が監督交代のタイミングで、スポーツ推薦枠を一時的に設けていなかった時期と、中3の受験期が重なってしまう。強豪校からの誘いもあったが、上宮への進学にこだわり、グラブとバットをペンに持ち替えて猛勉強。難関の一般入試を突破した。
とんでもないところに来てしまった
意気揚々と伝統校の門を叩いたが、待っていたのは圧倒されるような現実だった。
「とんでもないところに来てしまったなというのが最初の本音でした。私は中学では軟式出身で、すごい先輩方がプレーしている中でやっていけるんだろうかと、不安でいっぱいでした。夜の9時、10時まで練習して家に帰るという文化も自分にはなかった。でも、必死になればなんとか食らいついていけるものなんだと知りました」
当時の大阪は依然PL学園が強かった。PLの敷地はグラウンドの最寄り駅である喜志駅を挟んだ向こう側にある。顔見知りの同級生も何人かおり、そのライバルたちに負けまいと過酷な練習を必死で耐え抜いた。そして最高学年となった村田さんは主将、そして「4番・一塁」の重責を担う選手へと成長する。
しかし、2004年、最後の夏は、思わぬ試練に見舞われた。不祥事によって1カ月間の練習自粛を余儀なくされ、万全とは言えない状況で挑んだ大阪大会3回戦で浪速高に4対11と大敗。「やり残した部分はありました」と、悔しさを胸に高校野球を引退した。
その後、関西学院大学で野球部に所属。そして同大学院での修士課程を修了し、教員となった村田さんが最初に赴任したのは、高校最後に敗れた浪速高だった。
「浪速で野球部の部長として過ごした2年間は僕の指導者人生においてすごく大きいです。高校野球における心遣いやグラウンドでのあり方、先輩後輩の上下関係といった人間的な部分を当時の監督さんから徹底的に教わりました」
浪速での日々は充実しており、選手たちとともに本気で甲子園を目指していた。しかし2012年夏、舞洲で観戦していた母校の上宮とPL学園の一戦を見て、心が震えた。
もう一度、母校で
あの、夢にまで見た上宮のユニフォームにもう一度袖を通したい——。そこから母校の教員試験にチャレンジし、2013年春から慣れ親しんだ学び舎へと戻った。
「グラウンドに初めて足を踏み入れた時に、並大抵の覚悟ではできないと胸が熱くなりました。現役時代の無念を晴らすために、何とかやっていきたいなという思いになりました」
そして2014年秋から監督に就任。大阪桐蔭や履正社をはじめとする強豪に挑み続けた。ただ、その壁は高く、大阪大会は2017年夏、2022年夏の4強が最高。2022年は同年センバツ覇者の大阪桐蔭に0対8と完敗し、その後、監督の座を退いた。ただ、ここからの空白期間が、指導者としての引き出しを大きく増やす転機となった。
「最初は『結果を出さなければ』という思いが強すぎて、視野がすごく狭くなっていたんです。勝利への執念から生徒を追い詰めるようなプレッシャーをかけてしまっていた部分もありました」
現場を離れたことで、客観的な視点からチームや指導法を見つめ直す余裕が生まれたという。
「今夏の大阪大会2回戦、岸和田産業さんとの試合でタイブレークになりましたが、あの空白期間がなければ、気持ちの余裕は持てなかったと思います。それまでは昭和の匂いがプンプンする雰囲気でさせてもらっていましたが、熱中症対策も含め、時代は平成、そして令和へと変わっています。古き良き熱い雰囲気を引き継ぎつつも、柔軟に変えていくべき部分は変えていく。その重要性に気づけた大きな時間でした」
伝統のユニフォームの意味を継承したい
今年4月から、再び監督としてベンチに立ち、指揮を執る。復帰初年度となった今夏は、個々の能力の高さに期待がかかるチームだった。しかし4回戦、東淀川高に1対2と逆転負けを喫してしまう。
「練習試合を重ねる中で、どうしてもここ一番での勝負弱さが課題として見えていました。プレッシャーがかかった場面を設定して臨んだ夏でしたが、最後もチャンスを作りながら打ち切れなかった。個々の能力が高かっただけに、課題が浮き彫りになった夏でした」
敗北の悔しさを噛み締めながらも、指揮官の視線はすでに未来を見据えている。
「歴史があるからこそ、今の自分たちがあると思っています。『温故知新』、故きを温(たず)ねて新しきを知る、という言葉通り、過去の先輩方が築き上げた栄光を子供たちにしっかりと伝え、この伝統のユニフォームを着て戦う意味を継承していきたいと思っています」 歴史を紐解けば、上宮の栄光の陰には、代々語り継がれる痛恨の1プレーが存在していた。昭和から平成へと時代が変わった1989年春の甲子園決勝。あの日の教訓こそが、「上宮野球」の原点だった。
📝「ボールが逃げていく!」球史に残る痛恨のワンプレーを今も胸に…30年遠ざかる甲子園をめざす上宮高の挑戦「大阪“2強”に団結力で挑む」
https://news.yahoo.co.jp/articles/c666cc8d373592f9e4d66754df48d4d6bd7778c7
大阪の伝統校である上宮高は、大阪南東部にある上宮学園グラウンドを、兄弟校である上宮太子高と共有しながら日々練習を行っている。バックネット裏の観覧席を見上げると、青々としたツタが網目を覆うように力強く茂っている。これはかつて、甲子園に生い茂っていたツタの苗木が、年月をかけて育ったものだと伝わる。
「私が現役時代の2000年代前半にはありました。観覧席も古いのですが、簡単に改修できないんですよ」
上宮を率いる村田侑右(ゆうすけ)監督はそう言って笑う。何十年も前から変わらず、聖地の息吹を宿したツタの葉が、部員たちを静かに見守り続けているのだ。
「ボールが逃げていく!」
その上宮野球部には、時代を超えて語り継がれる「教訓」がある。平成最初の甲子園となった1989年春のセンバツ。東邦高(愛知)との決勝は、誰もが予期せぬ結末が待ち構えていた。1対1の同点で迎えた延長10回表に1点を勝ち越し、その裏も2死と、悲願の初優勝にあと1死まで迫った。ただ、ここから四球、内野安打で一、二塁とされると、次打者の安打で同点とされてしまう。ここからの数十秒が悲劇の始まりだった。
二、三塁間で挟まれた走者をアウトにしようと、捕手の塩路厚(関西大―河合楽器)から三塁手の種田仁(中日など)、二塁手の内藤秀之(明治大―日本生命)へと転送されるも、種田の送球がショートバウンドする。内藤はおろか、バックアップに入った右翼手の岩﨑勝己(東京農業大―三菱自動車岡崎)も、芝の切れ目でイレギュラーバウンドしたボールを後逸。無人の右翼最深部まで転々と転がっていった。
「ボールが、ボールが逃げていく!」
甲子園の歴史に残るシーンの教訓
実況の声がかき消されんばかりに、甲子園を歓喜と絶叫が渦巻いた。逆転サヨナラの生還を果たした高木幸雄(愛知学院大)を中心に、本塁付近で喜ぶ東邦ナインとは対照的に、2年生エースの宮田正直(元ダイエー)や元木大介(元巨人)ら上宮ナインがグラウンドに突っ伏して泣きじゃくるシーンは、今なお高校野球ファンの脳裏に深く刻まれている。
「あの決勝戦の映像は、テレビなどでもよく流れますが、我々の大きな教訓となっています」
村田監督は「凡事徹底」の大切さを説く。
「100回あって、バックアップが実際に生きる場面はおそらく1、2回しかないでしょう。3年間で何万回とバットを振っても、最後の大会で結果が出ないこともあります。でも、その1プレー、1打席に背景があるわけで、日々の準備がある。あの試合の結果があったからこそ、やらなければいけないんだよ、と選手に言い続けています」
一見地味に見えるプレーを徹底してやり続けることが、土壇場での勝敗を分ける。先輩たちの涙を単なる悲劇で終わらせず、勝負の真理としてナインに伝承している。
“兄弟校”との関係
上宮を語る上で欠かせないのが上宮太子との関係性だ。両校が月ごとに話し合い、共有する上宮学園グラウンドと隣接する室内練習場を使い分けている。同じ敷地内で汗を流す兄弟校だが、グラウンド上の関係について村田監督の態度はすこぶる明快だ。
「いくら兄弟校といえども、同じ大阪で戦うライバルですから、一緒に練習をしたり、練習試合をやることはありません。互いに手の内は見せないですし、バチバチとした緊張感があります。もちろん指導者同士の交流はありますが、グラウンドに立てば譲れないものがあります」
過去に、上宮で元木や薮田安彦(元ロッテ、ロイヤルズ)、黒田博樹(元広島、ヤンキースなど)らを指導した山上烈元監督が1998年、上宮太子の初代監督に就任。翌1999年夏の大阪大会準決勝で激突し、1、2年生のみの「弟分」に4対7で負けた苦い記憶がある。同じルーツを持ちながらも、グラウンドに一歩足を踏み入れれば互いに負けられないライバルとしてしのぎを削る。この独特の緊張感も、上宮の日常を支えるエネルギーとなっている。また、通学環境やマナーに対する指導も厳格だ。部員たちは授業後、大阪市天王寺区の学校から近鉄線を乗り継ぎ、喜志駅から自転車で15分ほどかけてグラウンドに通う際、近隣住民との関係性を何より大切にしている。
「かつては通学マナーについて厳しいご指摘をいただいた時期もありました。だからこそ今、地域の方々にご理解いただき、応援していただけるようなチームでありたい。挨拶やマナーを徹底し、愛される存在になることが第一です」
ただ、今夏の大阪大会は4回戦で敗退し、チームは新体制へと移行。村田監督が「すごく真面目で一生懸命できる子」と評する新主将の西川立真(たつま)内野手を中心に、秋へ向けて粘り強いチーム作りが進んでいる。「最初は不安もありましたが、毎日1000スイングをやり込んで新チーム初戦の練習試合に臨んだら、結果が出たんです。チームとしての共通認識は、チャンスでは右打ち意識で、フライを上げないこと。守備では2死から四球や死球を出さないということを徹底しています。打力やパワーは大阪桐蔭や履正社に及ばない部分はありますが、チームの団結力で勝負していきたいです」
「2強」の牙城を崩せるか
西川主将の言う通り、大阪の高校野球界は、大阪桐蔭、履正社の「2強」が君臨している。しかし、村田監督は決して諦めることはない。今春から元木氏がOB会長に就任。上宮の全盛期を知るレジェンドの協力も得て、一丸となって1997年春以来の甲子園出場を目指す。
「OBの方もたくさん指導にきてくださいますし、学校側もすごく協力体制に入ってくれています。選手には『伝統を継承していこう』と言っていますが、部室には『俺らで伝統を作っていこう』というキャッチフレーズも貼っています。上宮のユニフォームを着ている以上、負けていいゲームはありません。どんな相手にも立ち向かっていく気持ちは絶対に忘れず、甲子園に必ず出場するために、子供たちと頑張っていきたいと思います」
かつて甲子園を彩ったアイボリーのユニフォームが、再び聖地に映えるその日まで——。上宮の意地と誇りをかけた挑戦は、これからも続いていく。
和歌山ウエイブス-姫路イーグレッターズ 17:00~19:43 17:36点灯 3回裏から 48人
一二三四五六七八九十11計HE
姫 路 E00000000000052
和歌山W00000000000051
深夜から明け方にかけて宝塚界隈は雷鳴と稲光そして豪雨で4時頃目が覚めずいぶん悩まされましたが、、、、、和歌山は前線の影響を受けることなく、15時過ぎに紀三井寺駅到着したら入道雲に青い空が見え、球場に着いたらちょうど散水が終わる頃合いでした。
結局、折り畳み傘の出番が今日もなく、オークワで仕入れたかき氷でクールダウンしたおかげで17時試合開始からは熱さも感じず快適だったかなと。
しかし両軍の投手が本当に良かった。姫路の前田投手は11回完封して最後まで147kmなど剛速球を披露。中継ぎ登板した和歌山の野口投手はなんと157km!!
僕の眼勘定では20人程度しかお客さんがいないように見えたが48人もいたとは、、、、、せやけど9回で終わっていたら2時間13分と味気なかったし、2代目カンドクは延長11回までやってくれるのでこれは嬉しかった!
もうタイブレークの無い延長生観戦なんて5年ぶりあるいはそれ以上ブランクあったかも!?今年最初で最後の紀三井寺ナイターも堪能できました。
⚾明日の和歌山大会新人戦組み合わせ(7日目 準々決勝 紀三井寺球場)
09:00~ 近大 新宮- 神 島
11:30~ 和歌 山工-市和 歌山
📝ベンチ見ずに「自らタイム」を取る3年生捕手 智弁和歌山が日本一になったわけ
https://news.yahoo.co.jp/articles/8b91b02f71367581741a504246158398182df4bf?page=1
8月5日に開幕した第108回全国高校野球選手権は智弁和歌山(和歌山)の5年ぶり4度目の優勝で幕を閉じた。和歌山大会では苦戦が多かったこともあって、前評判は決して高くなかったが、試合を重ねるごとに成長を見せていった印象だ。
では、智弁和歌山の優勝の要因はどこにあったのだろうか。チームを語るうえでよく使われるのが強力打線だが、今年は決して打ち勝ったわけではない。初戦の社戦では好投手の岩井秀耶(3年)に2点に抑え込まれ、続く敦賀気比戦もタイブレークとなった延長11回に一挙5点を奪っているが、9回までは2得点だった。この2試合を見ても、打線の力で押し切るだけのチームではないことがよく分かるだろう。
まず大きかったのが投手陣の成長だ。エースの和気匠太(3年)は和歌山大会では3試合、14回1/3を投げて被安打24、自責点6、防御率3.77と不安定な投球が目立ったが、甲子園初戦の社戦では6回を投げて無失点と先発の役割を果たし、その後も大きく崩れることはなかった。仮に和気が和歌山大会のような状態であれば、初戦で敗れていた可能性も高かったのではないだろうか。さらに、エースの和気以外にも力のある投手を揃えていたのも強みとなっていた。チームを指揮する中谷仁監督も、継投のパターンについては82通りくらいあると話していたように、今大会の5試合は全て違う投手起用で勝利している。
決勝の健大高崎(群馬)との試合では、それまで2試合にリリーフ登板していた長井心海(2年)を先発に起用したが、それまで一度も先発していない投手が決勝の先発マウンドに上がるのはこれまでになかったことだ。ちなみに長井は和歌山大会の決勝戦でも先発を任されており、大舞台でも力を発揮できるところを買ってこのような抜擢となったと考えられる。
長井はその期待に応えて、健大高崎打線を5回まで1点に抑えてみせた。他にも登板した3試合全てで抑えを任せられ、胴上げ投手となった久葉亮太(3年)も、合計8回2/3を投げて自責点0と緊迫した場面で力を発揮している。敦賀気比戦で先発として登板した左腕の米原佑真(2年)も、5回途中まで投げて2失点と試合を作った。
多くの投手を抱え、様々なパターンで継投することはなかなか付け焼き刃でできることではない。決勝戦でも好投していた長井からエースの和気につなぎ、さらに和気が失点すると久葉を投入するなど、投手交代に迷いがなかったのは、これまでの練習試合も含めてあらゆるパターンの継投で戦ってきた証拠と言えるだろう。
また近年は高校野球でも相手のデータを分析し、対策を練って戦うのが一般的になっているが、これだけ異なる投手を抱えているチームに対してはそれが難しくなることも確かだ。準決勝で智弁和歌山に敗れた横浜(神奈川)も多くの力のある投手を抱えていたが、織田翔希(3年)と小林鉄三郎(2年)の二人に対する依存度が高かったことも、勝ち上がれなかった要因と言えそうだ。そして最も大きかったのが、そのようなタイプの異なる多くの投手を巧みにリードした捕手の山田凜虎(3年)の存在だ。
山田は東海中央ボーイズ時代から評判のキャッチャーで、智弁和歌山でも1年秋から不動の正捕手として活躍している。2年春の選抜で初めて甲子園に出場し、決勝で横浜に敗れたものの準優勝に大きく貢献。この大会で中谷監督に山田について話を聞いたが、下級生でも大きな信頼を寄せていることが分かる話しぶりだった。
安定したキャッチング、スローイング、4番を打つ打撃などももちろん高レベルだが、それ以上に光っていたのがインサイドワークの部分だ。試合のポイントとなりそうな場面ではベンチの様子をうかがうことなく、自らタイムを取ってマウンドに向かうシーンが今大会では度々見られた。今大会の智弁和歌山が1イニングで最も多く失点したのは「2点」であり、そういった山田の試合を読む力が相手にビッグイニングを作らせなかった大きな要因と言えるだろう。
そんな智弁和歌山も昨年秋は県大会で敗れて近畿大会に進むことができず、選抜出場を逃している。また冒頭でも触れたように夏の和歌山大会の戦いぶりも決して盤石なものではなかった。ただ、それでも全国優勝を果たしているように、高校生は短期間で大きく成長を遂げるということを改めて証明したと言えるだろう。来年以降も今年の智弁和歌山のように急成長を遂げるチーム、選手が出てくることを期待したい。
☝“高校野球7回制”の導入にブレーキ!? 止まない反対意見 甲子園は2部制で熱中症大幅減、高校球児のほとんどが「NO」の現状
https://news.yahoo.co.jp/articles/59a874f7ac7932525aab782e1e4b1259aadc2b37
加速するはずだった「高校野球7回制」導入に、この夏の甲子園を経た今、「待った」がかかったとの話が、高校野球関係者の間で流れています。
これまで、「高校野球7回制」の導入は不可避とされてきました。昨年12月5日に行われた日本高野連の「7イニング制等高校野球の諸課題検討会議」では、猛暑対策や障害予防を理由に「2028年の第100回記念選抜高等学校野球大会ならびに各都道府県高等学校野球連盟の春季大会から採用することが望ましい」と最終報告書に記載したからです。
力強い言葉で、導入のメドが綴られた以上、「現行の9回制は風前の灯火か」と囁かれていたものですが、ここに来て「9回制でよいのでは」「他に変えるべき点があるのでは」といった球界有識者の意見が噴出。7回制導入に“ブレーキ”がかかったような状態になっているのです。甲子園取材歴の長いスポーツライターは言います。
「これはある意味、日本高野連や大会運営サイドによる酷暑対策が上手くいったからでもあるんです。今夏の甲子園大会は『2部制』が2回戦終了までの10日間、33試合に拡大されましたが、これが効果てきめんでした。ナイター開催によって涼しい中で球児たちがプレーすることができた。我々の取材環境も快適でした。新聞記者の方々は締め切りに追われて泣きそうでしたけど(笑)。最終報告では熱中症の件数が、昨年に比べて大幅に減ったとされていましたからね」
このように運営方法を変えれば、7回制にしなくても、やりようはいくらでもある。もっと知恵を出すべきではないかとの声が、インフルエンサーからも発信され、世論は「9回制維持」に傾いているというのが、偽らざる現状でしょう。
「桑田真澄さんやイチローさんといった、球界の未来を真剣に考える人々が7回制導入に疑問を唱えている現状は、決して無視できません。現場からも大阪桐蔭の西谷浩一監督が『断固反対』と口にして、大きな話題になりました。現役監督が日本高野連の意向に『NO』を訴えるのは、大変勇気のあること。今の枠組みを変えたくないという意見は、それほど切実であるということです」(前述のスポーツライター)
そして何よりも「主役」となるべき高校球児のほとんどが、「7回制反対」を求めている現状も、導入への大きなハードルになるでしょう。もちろん、日本高野連が7回制導入を健闘しているのは、猛暑から球児や関係者を守り、安心安全な大会運営を志しているからこそ、といった視座も必要です。この問題、解決にはまだまだ議論が必要なようです。
📝「とんでもないところに来てしまった」意外にも30年甲子園なし…元木大介・黒田博樹を輩出した大阪の雄・上宮高のいま「令和に変えるべきは変えて」
https://news.yahoo.co.jp/articles/870295d25a6ab52eca3f534e24b4609b9c937178
多くのプロ野球選手を輩出し、春夏通算9度の甲子園出場を誇る大阪の雄、上宮高校。しかし意外にもこの30年近く、聖地に登場していない。今、名門はどんな挑戦をしているのか、現地を訪ねた。
「上宮のユニフォームは、甲子園で本当によく映えますね」
今年5月、阪神甲子園球場で行われた審判講習会。モデル校として聖地に招かれた大阪の伝統校・上宮高野球部の選手たちを眺めながら、高野連の関係者がふと漏らした言葉だ。
胸に赤の縁取りで大きく刻まれた「上宮」の文字、そして伝統のアイボリーのユニフォーム。その洗練された佇まいは、令和の時代を迎えてもなお色あせることはない。
約30年遠ざかる聖地
元木大介(元巨人)、黒田博樹(元広島、ヤンキースなど)をはじめ、数多のプロ野球選手を輩出。春夏通算9度の甲子園出場を誇り、春のセンバツでは1989年準優勝、1993年優勝、1997年ベスト4と、甲子園の歴史にその名を刻んできた。しかし、その輝かしい実績の裏で、意外な事実が存在する。これほどの強豪でありながら、夏の甲子園出場は1989年の1度のみ。そして何より、1997年春を最後に、約30年もの間、甲子園の土を踏んでいないのだ。
大阪の高校野球勢力図がPL学園(2016年休部)から、大阪桐蔭、履正社の「2強」を中心に塗り替えられていく中で、かつての王者は長い沈黙を余儀なくされてきた。
上宮には専用の寮がなく、全員が大阪や奈良などの近郊から、かつて司馬遼太郎も学んだ大阪市天王寺区の校舎まで通う。放課後は電車と自転車を乗り継ぎ、約1時間をかけ、大阪南東部の上宮太子高内にある上宮学園グラウンドに移動。宮内庁が治定する天皇陵4基(30代敏達天皇陵、31代用明天皇陵、33代推古天皇陵、36代孝徳天皇陵)と聖徳太子廟を含む「磯長谷(しながだに)古墳群」に囲まれながら日々汗を流す。 その伝統校の再建という重責を担い、今年4月から再び指揮をとるのが村田侑右(ゆうすけ)監督だ。 村田監督自身、上宮の黄金期に魅せられた一人だ。1997年春、山田真介(元巨人など)、渡辺正人(元ロッテ)、OBで三木肇(元楽天監督)の弟である三木仁(元近鉄、オリックス)らを擁して甲子園4強入りした勇姿を、当時小学5年生になったばかりの村田少年はテレビ越しに食い入るように見つめた。
「やっぱり、あのアイボリーのユニフォームへの憧れですよね。僕らが子供の頃、甲子園で輝いていたのをずっと見ていましたから。最初は本当に憧れから入りました」
それから、上宮に入りたい一心で必死に腕を磨いた。しかし、上宮が監督交代のタイミングで、スポーツ推薦枠を一時的に設けていなかった時期と、中3の受験期が重なってしまう。強豪校からの誘いもあったが、上宮への進学にこだわり、グラブとバットをペンに持ち替えて猛勉強。難関の一般入試を突破した。
とんでもないところに来てしまった
意気揚々と伝統校の門を叩いたが、待っていたのは圧倒されるような現実だった。
「とんでもないところに来てしまったなというのが最初の本音でした。私は中学では軟式出身で、すごい先輩方がプレーしている中でやっていけるんだろうかと、不安でいっぱいでした。夜の9時、10時まで練習して家に帰るという文化も自分にはなかった。でも、必死になればなんとか食らいついていけるものなんだと知りました」
当時の大阪は依然PL学園が強かった。PLの敷地はグラウンドの最寄り駅である喜志駅を挟んだ向こう側にある。顔見知りの同級生も何人かおり、そのライバルたちに負けまいと過酷な練習を必死で耐え抜いた。そして最高学年となった村田さんは主将、そして「4番・一塁」の重責を担う選手へと成長する。
しかし、2004年、最後の夏は、思わぬ試練に見舞われた。不祥事によって1カ月間の練習自粛を余儀なくされ、万全とは言えない状況で挑んだ大阪大会3回戦で浪速高に4対11と大敗。「やり残した部分はありました」と、悔しさを胸に高校野球を引退した。
その後、関西学院大学で野球部に所属。そして同大学院での修士課程を修了し、教員となった村田さんが最初に赴任したのは、高校最後に敗れた浪速高だった。
「浪速で野球部の部長として過ごした2年間は僕の指導者人生においてすごく大きいです。高校野球における心遣いやグラウンドでのあり方、先輩後輩の上下関係といった人間的な部分を当時の監督さんから徹底的に教わりました」
浪速での日々は充実しており、選手たちとともに本気で甲子園を目指していた。しかし2012年夏、舞洲で観戦していた母校の上宮とPL学園の一戦を見て、心が震えた。
もう一度、母校で
あの、夢にまで見た上宮のユニフォームにもう一度袖を通したい——。そこから母校の教員試験にチャレンジし、2013年春から慣れ親しんだ学び舎へと戻った。
「グラウンドに初めて足を踏み入れた時に、並大抵の覚悟ではできないと胸が熱くなりました。現役時代の無念を晴らすために、何とかやっていきたいなという思いになりました」
そして2014年秋から監督に就任。大阪桐蔭や履正社をはじめとする強豪に挑み続けた。ただ、その壁は高く、大阪大会は2017年夏、2022年夏の4強が最高。2022年は同年センバツ覇者の大阪桐蔭に0対8と完敗し、その後、監督の座を退いた。ただ、ここからの空白期間が、指導者としての引き出しを大きく増やす転機となった。
「最初は『結果を出さなければ』という思いが強すぎて、視野がすごく狭くなっていたんです。勝利への執念から生徒を追い詰めるようなプレッシャーをかけてしまっていた部分もありました」
現場を離れたことで、客観的な視点からチームや指導法を見つめ直す余裕が生まれたという。
「今夏の大阪大会2回戦、岸和田産業さんとの試合でタイブレークになりましたが、あの空白期間がなければ、気持ちの余裕は持てなかったと思います。それまでは昭和の匂いがプンプンする雰囲気でさせてもらっていましたが、熱中症対策も含め、時代は平成、そして令和へと変わっています。古き良き熱い雰囲気を引き継ぎつつも、柔軟に変えていくべき部分は変えていく。その重要性に気づけた大きな時間でした」
伝統のユニフォームの意味を継承したい
今年4月から、再び監督としてベンチに立ち、指揮を執る。復帰初年度となった今夏は、個々の能力の高さに期待がかかるチームだった。しかし4回戦、東淀川高に1対2と逆転負けを喫してしまう。
「練習試合を重ねる中で、どうしてもここ一番での勝負弱さが課題として見えていました。プレッシャーがかかった場面を設定して臨んだ夏でしたが、最後もチャンスを作りながら打ち切れなかった。個々の能力が高かっただけに、課題が浮き彫りになった夏でした」
敗北の悔しさを噛み締めながらも、指揮官の視線はすでに未来を見据えている。
「歴史があるからこそ、今の自分たちがあると思っています。『温故知新』、故きを温(たず)ねて新しきを知る、という言葉通り、過去の先輩方が築き上げた栄光を子供たちにしっかりと伝え、この伝統のユニフォームを着て戦う意味を継承していきたいと思っています」 歴史を紐解けば、上宮の栄光の陰には、代々語り継がれる痛恨の1プレーが存在していた。昭和から平成へと時代が変わった1989年春の甲子園決勝。あの日の教訓こそが、「上宮野球」の原点だった。
📝「ボールが逃げていく!」球史に残る痛恨のワンプレーを今も胸に…30年遠ざかる甲子園をめざす上宮高の挑戦「大阪“2強”に団結力で挑む」
https://news.yahoo.co.jp/articles/c666cc8d373592f9e4d66754df48d4d6bd7778c7
大阪の伝統校である上宮高は、大阪南東部にある上宮学園グラウンドを、兄弟校である上宮太子高と共有しながら日々練習を行っている。バックネット裏の観覧席を見上げると、青々としたツタが網目を覆うように力強く茂っている。これはかつて、甲子園に生い茂っていたツタの苗木が、年月をかけて育ったものだと伝わる。
「私が現役時代の2000年代前半にはありました。観覧席も古いのですが、簡単に改修できないんですよ」
上宮を率いる村田侑右(ゆうすけ)監督はそう言って笑う。何十年も前から変わらず、聖地の息吹を宿したツタの葉が、部員たちを静かに見守り続けているのだ。
「ボールが逃げていく!」
その上宮野球部には、時代を超えて語り継がれる「教訓」がある。平成最初の甲子園となった1989年春のセンバツ。東邦高(愛知)との決勝は、誰もが予期せぬ結末が待ち構えていた。1対1の同点で迎えた延長10回表に1点を勝ち越し、その裏も2死と、悲願の初優勝にあと1死まで迫った。ただ、ここから四球、内野安打で一、二塁とされると、次打者の安打で同点とされてしまう。ここからの数十秒が悲劇の始まりだった。
二、三塁間で挟まれた走者をアウトにしようと、捕手の塩路厚(関西大―河合楽器)から三塁手の種田仁(中日など)、二塁手の内藤秀之(明治大―日本生命)へと転送されるも、種田の送球がショートバウンドする。内藤はおろか、バックアップに入った右翼手の岩﨑勝己(東京農業大―三菱自動車岡崎)も、芝の切れ目でイレギュラーバウンドしたボールを後逸。無人の右翼最深部まで転々と転がっていった。
「ボールが、ボールが逃げていく!」
甲子園の歴史に残るシーンの教訓
実況の声がかき消されんばかりに、甲子園を歓喜と絶叫が渦巻いた。逆転サヨナラの生還を果たした高木幸雄(愛知学院大)を中心に、本塁付近で喜ぶ東邦ナインとは対照的に、2年生エースの宮田正直(元ダイエー)や元木大介(元巨人)ら上宮ナインがグラウンドに突っ伏して泣きじゃくるシーンは、今なお高校野球ファンの脳裏に深く刻まれている。
「あの決勝戦の映像は、テレビなどでもよく流れますが、我々の大きな教訓となっています」
村田監督は「凡事徹底」の大切さを説く。
「100回あって、バックアップが実際に生きる場面はおそらく1、2回しかないでしょう。3年間で何万回とバットを振っても、最後の大会で結果が出ないこともあります。でも、その1プレー、1打席に背景があるわけで、日々の準備がある。あの試合の結果があったからこそ、やらなければいけないんだよ、と選手に言い続けています」
一見地味に見えるプレーを徹底してやり続けることが、土壇場での勝敗を分ける。先輩たちの涙を単なる悲劇で終わらせず、勝負の真理としてナインに伝承している。
“兄弟校”との関係
上宮を語る上で欠かせないのが上宮太子との関係性だ。両校が月ごとに話し合い、共有する上宮学園グラウンドと隣接する室内練習場を使い分けている。同じ敷地内で汗を流す兄弟校だが、グラウンド上の関係について村田監督の態度はすこぶる明快だ。
「いくら兄弟校といえども、同じ大阪で戦うライバルですから、一緒に練習をしたり、練習試合をやることはありません。互いに手の内は見せないですし、バチバチとした緊張感があります。もちろん指導者同士の交流はありますが、グラウンドに立てば譲れないものがあります」
過去に、上宮で元木や薮田安彦(元ロッテ、ロイヤルズ)、黒田博樹(元広島、ヤンキースなど)らを指導した山上烈元監督が1998年、上宮太子の初代監督に就任。翌1999年夏の大阪大会準決勝で激突し、1、2年生のみの「弟分」に4対7で負けた苦い記憶がある。同じルーツを持ちながらも、グラウンドに一歩足を踏み入れれば互いに負けられないライバルとしてしのぎを削る。この独特の緊張感も、上宮の日常を支えるエネルギーとなっている。また、通学環境やマナーに対する指導も厳格だ。部員たちは授業後、大阪市天王寺区の学校から近鉄線を乗り継ぎ、喜志駅から自転車で15分ほどかけてグラウンドに通う際、近隣住民との関係性を何より大切にしている。
「かつては通学マナーについて厳しいご指摘をいただいた時期もありました。だからこそ今、地域の方々にご理解いただき、応援していただけるようなチームでありたい。挨拶やマナーを徹底し、愛される存在になることが第一です」
ただ、今夏の大阪大会は4回戦で敗退し、チームは新体制へと移行。村田監督が「すごく真面目で一生懸命できる子」と評する新主将の西川立真(たつま)内野手を中心に、秋へ向けて粘り強いチーム作りが進んでいる。「最初は不安もありましたが、毎日1000スイングをやり込んで新チーム初戦の練習試合に臨んだら、結果が出たんです。チームとしての共通認識は、チャンスでは右打ち意識で、フライを上げないこと。守備では2死から四球や死球を出さないということを徹底しています。打力やパワーは大阪桐蔭や履正社に及ばない部分はありますが、チームの団結力で勝負していきたいです」
「2強」の牙城を崩せるか
西川主将の言う通り、大阪の高校野球界は、大阪桐蔭、履正社の「2強」が君臨している。しかし、村田監督は決して諦めることはない。今春から元木氏がOB会長に就任。上宮の全盛期を知るレジェンドの協力も得て、一丸となって1997年春以来の甲子園出場を目指す。
「OBの方もたくさん指導にきてくださいますし、学校側もすごく協力体制に入ってくれています。選手には『伝統を継承していこう』と言っていますが、部室には『俺らで伝統を作っていこう』というキャッチフレーズも貼っています。上宮のユニフォームを着ている以上、負けていいゲームはありません。どんな相手にも立ち向かっていく気持ちは絶対に忘れず、甲子園に必ず出場するために、子供たちと頑張っていきたいと思います」
かつて甲子園を彩ったアイボリーのユニフォームが、再び聖地に映えるその日まで——。上宮の意地と誇りをかけた挑戦は、これからも続いていく。
4/29 春季兵庫大会3回戦 ウインク球場 篠山産-東洋大姫路 12:32~14:15
一二三四五六七八九十計HE
篠 山 産000000000 031 西山-安井
東洋姫路10010101X 4100 西垣、木下-桒原
第一試合
六 ア イ4
網 干2
中1日で4月29日も姫路のウインク球場に到着。この日は朝に新大阪駅の信号トラブルで電車の到着が遅れてしまい、9時ちょうど発のバスに乗り損ねて必死に早歩きしてなんとか9時25分に球場入りしてバタバタしたスタートだった・・・・・。
第1試合は六甲アイランドがワンチャンスを活かして網干に逆転勝ち。そしてお目当てがセンバツ出場して優勝候補筆頭格と言われながらもエース・阪下の故障で暗雲漂い結局21世紀枠の壱岐に対して1勝したものの2回戦敗退で出直しを図る東洋大姫路相手に篠山産業が挑戦する。
篠山産には神村学園と創志学園の初代監督でいずれも甲子園常連校に育て上げた長澤監督が就任して、県大会にたまに出場するレベルのチームがレベルアップしてどこまで旋風を起こすか?を楽しみにしていた。ただ、この数か月後に夏の大会で加古川西に大逆転サヨナラ負けを喫し、その後学校に帰って練習中に部員を叱咤激励???した折に頭をはたいたとかどうとかで、問題視され結局高野連から2年間の謹慎処分を言い渡され丹波篠山を後にされたのかどうかは知らないけれど、僕が長澤監督の采配を見る事実上のラストゲームとなってしまった・・・・・。
東洋大姫路は藤田監督が勇退し、東京に帰ってしまったのでその後釜に履正社から岡田監督を招聘し3年目。3年計画の集大成だけにエース・阪下が復活すれば鬼に金棒となるが・・・。今大会は木下投手がエースのようだ。篠山産はエース・西山を先発に東洋は10番・西垣が先発だった。いつも先攻を好む長澤監督が今日も先攻となりプレーボール。
1回表いきなり先頭打者に3ボールと西垣投手の立ち上がりが不安定だった。4球目でようやくストライクが入ったがこれを1番・松本潤が空振り。5球目にセンター前に抜けそうなゴロを放ちショート内野安打で出塁。すると長澤監督がいきなり仕掛け、送りバントではなく2番・松本憲1-1からエンドランを仕掛けセンターフライ。3番・酒井もバントのそぶりなくスライダーで三振。4番・森本も2-2からエンドランを仕掛けショートゴロに終わり無得点だったが、長澤監督らしく老獪な戦術で相手をかく乱しようという意図が良く見えてきた。
その裏、東洋も先頭打者が内野安打で出塁。すると渡辺拓がすかさず盗塁を決めそれから送りバントで1死3塁。岡田監督は無類のスクイズ好きなんで初回からセーフティ―スクイズでもやるかと思ったが、正攻法で3番・高畑初球から振り抜きカウント2-1からライト前タイムリーヒットで先制。しかし、4番・青木4-6-3のダブルプレーに倒れ1点止まり。
長澤監督は2回も1死から6番・澤がライト前ポテンヒットを放ち出塁すると7番・木村1ボールからエンドランを仕掛けるもサードゴロで結果的にバントと同じ2死2塁の形を作るも8番・安井ライトフライで無得点。しかし、その裏エース・西山が連続三振を奪うなど三者凡退に抑えロースコアの接戦に勝機を見出す野球ができそうな期待が持てた。
3回表篠山産は1死から1番・松本潤が2打席連続ヒットを放ち、ノーバント野球のイケイケドンドンですかさず盗塁を決め2番・松本憲も四球をもらい1・2塁とビッグチャンス!最低でも同点に追いつきたかったが、3番・酒井1ストライクから止めたバットにボールが当たりセカンドフライダブルプレーと中途半端な攻撃、、、あるいはエンドランのサインが出て強引に転がそうとしたのかもしれないが。それでも西山投手はめげずに4者連続三振と下位打線には圧巻のピッチング!しかし2死から連続内野安打を喰らい危険を察知した長澤監督はタイムを要求し、3番・高畑初球打ちはサードゴロで無得点。創志時代も絶妙のタイミングでタイムを要求し幾度もピンチを切り抜けてきただけに長澤監督の勝負勘には恐れ入る。
早く追いつきたい篠山産だが、4回わずか6球で攻撃終了し初の三者凡退に終わった。守りからリズムをつかむ野球の東洋はその裏すかさず、先頭の4番・青木がセンター前ヒットを放ちこれを送って1死2塁。6番・白鳥のファーストゴロエラーで1死1・3塁とチャンス拡大し、スクイズがダイスキな岡田監督は7番・桒原が初球からスクイズのそぶりを見せてボール球を見逃す。あるいはセーフティ―スクイズのサインがずっと出続けていたのかもしれないが、、、、2球目は強振して空振り。これもわざと演技でやったのかもしれない。3球目もスクイズのそぶりを見せボールゆえにバットを引きカウント1-2からの4球目今度こそスクイズ敢行しマンマと成功で2点目!
尻上がりに状態が上がってきた東洋の西垣投手は5回も相手打線を三者凡退に退け2点あれば充分という神ピッチ。その裏2死から2番・木本が左中間ツーベースを放ち攻撃の手を緩めず、3番・高畑も2ボールから強振したがこれはセンターフライに倒れ2-0で整備に入った。
一応、ロースコアの接戦に持ち込みコールド負けの心配もないので篠山産のペースと言いたいところだが、2点があまりにも重すぎる展開だった。。。。。序盤から長澤監督が動きまくってエンドランを仕掛けるも機能せず東洋が効果的に加点し差を広げてきた。果たして残り4イニングで西垣投手から2点以上取れるのか???そして西山投手がどれだけ持ちこたえて6~8回を最少失点で凌げるのか???長澤監督の采配で完封阻止を観たいところだが、序盤で得点できず先行逃げ切りの展開に持ち込めなかったのが苦しいところ。
6回表1番からの攻撃だったがここも2三振など3イニング連続パーフェクトに抑え込まれてしまった・・・。その裏、東洋はアッサリ2死となったがここから粘り腰で6番・白鳥ライト前ヒット。7番・桒原に対し2ボールとなったところで2度目のタイムが取られ長澤監督独特の間合いで相手をかく乱しようとするも西山投手がかき乱されて???四球。ここで8番・見村が初球ライト前タイムリーヒットでダメ押しとなる3点目。しかし、西山投手はなおも続くピンチをセカンドフライに抑え孤軍奮闘で9回までできる希望を胸に終盤へ。
7回表なすすべもなく淡々とアウトを積み重ねている篠山産だが1死後に5番・千葉が初球セーフティーの構えをして長澤野球の老獪な一面を少し垣間見せ、ボール球ゆえにバットを引いたが、2球目本当にセーフティーをかますもアウト・・・。2死から四球をもぎとり久しぶりの走者が出たが、3点ビハインドの2死1塁では策もなくショートゴロで無得点。
残り2イニング最後まで気持ち切らさず西山投手の意地に賭けたい。7回裏は1番からの攻撃ゆえに2点までに抑えてくれたら・・・と祈っていたが、3連続外野フライで凌ぎきった!
そして8回から東洋はなぜかしらエース・木下がリリーフ登板。まだ西垣投手は83球しか投げておらず充分に完投・完封できるだけの余力はあると思うのだが、、、、、岡田監督が石橋をたたいて勝ちにこだわったのか?単なる新エースの調整登板かは分からないが、阪下投手の代役エースがここで登場し代わりっぱなどうなるか見ていたらストライク先行で付け入るスキもなく三者凡退。
8回裏3点までに抑えられたらコールド回避となる最後の守り。もともと長澤監督はエースと心中する傾向にあるので当然西山投手が最後までマウンドを守り抜いた。
1死後5番・鈴木にレフトへツーベースを浴びたが、6番・白鳥はサードフライ。2死後にストレートの四球を与え暗雲漂い、8番・見村が2ボールから手を出した打球がキャッチャー安井の左ヒザに直撃し1分間中断後にライト前タイムリーを喰らい4点目。エース・木下がそのまま打席に立ち3球三振で9回まで野球ができた!
最後9回表は2番からの攻撃で一矢報いたいが、先頭の2番・松本憲3球三振しかも見逃し、、、ここで代打・藤本起用も同じように見逃しの三振。最後は4番・森本がショートゴロに倒れ0-4で完封負け。。。。。
やはりセンバツ1勝した東洋が長澤監督率いる篠山産を一蹴したという感じだった。東洋にすればコールドで勝てなかったことに悔いが残りかもしれないが、篠山産の西山投手が10安打喰らいながらも1イニング1点ずつに抑えて孤軍奮闘した。だが打線が公立高校ゆえに手も足も出なかった・・・・・。創志も決して打力が強いとは言えずに老獪な野球で相手をかく乱して得点を積み重ねて勝利を重ねて行ったイメージが強いので。
ただ、めったに県大会出場することがなかった無名の公立高校を春の16強まで押し上げ夏の第1シード獲得した長澤監督の手腕は今後も目が離せないと思ったのだが、、、、、
夏の大会で加古川西に大逆転サヨナラ負けを喫し学校に帰って練習していた折に部員に鉄拳制裁を喰らわせたのが問題視され高野連から2年間謹慎処分を喰らってしまったのが。。。。。
思えば神村学園の監督時代も同じような案件で処分を喰らい鹿児島から姿を消しいつの間にか環太平洋大学野球部監督に就任したわけで、、、、、謹慎解けたら門馬監督の後釜に座るのだろうか???
さて、次回は兵庫大会準決勝。明石トーカロ球場が会場だったが、この日は超満員の観客が訪れ試合開始50分ほど前に球場到着したらなんと球場から明石公園入口近くまで長蛇の列が延びてなかなか球場に入れない・・・・・。近畿大会レベルだと近年これくらいの行列ができるがまさか春の準決勝でここまで客が来るとはと油断してしまった↓↓それは次回の講釈で。
チーム名 選手名 投球回 打者 投球数 安打 犠打 四球 三振 失点 自責
篠 山 産 西 山 8 36 132 10 3 2 6 4 4
東洋姫路 西 垣 7 25 83 3 0 2 4 0 0
東洋姫路 木 下 2 6 25 0 0 0 3 0 0
(完)
🌟次回予告🌟
R7年度春季近畿地区高校野球大会兵庫予選観戦記④ 以徳報徳 報徳学園観戦記
5/5 春季兵庫大会準決勝 明石トーカロ球場 報徳学園-神戸国際大付
一二三四五六七八九十計HE
篠 山 産000000000 031 西山-安井
東洋姫路10010101X 4100 西垣、木下-桒原
第一試合
六 ア イ4
網 干2
中1日で4月29日も姫路のウインク球場に到着。この日は朝に新大阪駅の信号トラブルで電車の到着が遅れてしまい、9時ちょうど発のバスに乗り損ねて必死に早歩きしてなんとか9時25分に球場入りしてバタバタしたスタートだった・・・・・。
第1試合は六甲アイランドがワンチャンスを活かして網干に逆転勝ち。そしてお目当てがセンバツ出場して優勝候補筆頭格と言われながらもエース・阪下の故障で暗雲漂い結局21世紀枠の壱岐に対して1勝したものの2回戦敗退で出直しを図る東洋大姫路相手に篠山産業が挑戦する。
篠山産には神村学園と創志学園の初代監督でいずれも甲子園常連校に育て上げた長澤監督が就任して、県大会にたまに出場するレベルのチームがレベルアップしてどこまで旋風を起こすか?を楽しみにしていた。ただ、この数か月後に夏の大会で加古川西に大逆転サヨナラ負けを喫し、その後学校に帰って練習中に部員を叱咤激励???した折に頭をはたいたとかどうとかで、問題視され結局高野連から2年間の謹慎処分を言い渡され丹波篠山を後にされたのかどうかは知らないけれど、僕が長澤監督の采配を見る事実上のラストゲームとなってしまった・・・・・。
東洋大姫路は藤田監督が勇退し、東京に帰ってしまったのでその後釜に履正社から岡田監督を招聘し3年目。3年計画の集大成だけにエース・阪下が復活すれば鬼に金棒となるが・・・。今大会は木下投手がエースのようだ。篠山産はエース・西山を先発に東洋は10番・西垣が先発だった。いつも先攻を好む長澤監督が今日も先攻となりプレーボール。
1回表いきなり先頭打者に3ボールと西垣投手の立ち上がりが不安定だった。4球目でようやくストライクが入ったがこれを1番・松本潤が空振り。5球目にセンター前に抜けそうなゴロを放ちショート内野安打で出塁。すると長澤監督がいきなり仕掛け、送りバントではなく2番・松本憲1-1からエンドランを仕掛けセンターフライ。3番・酒井もバントのそぶりなくスライダーで三振。4番・森本も2-2からエンドランを仕掛けショートゴロに終わり無得点だったが、長澤監督らしく老獪な戦術で相手をかく乱しようという意図が良く見えてきた。
その裏、東洋も先頭打者が内野安打で出塁。すると渡辺拓がすかさず盗塁を決めそれから送りバントで1死3塁。岡田監督は無類のスクイズ好きなんで初回からセーフティ―スクイズでもやるかと思ったが、正攻法で3番・高畑初球から振り抜きカウント2-1からライト前タイムリーヒットで先制。しかし、4番・青木4-6-3のダブルプレーに倒れ1点止まり。
長澤監督は2回も1死から6番・澤がライト前ポテンヒットを放ち出塁すると7番・木村1ボールからエンドランを仕掛けるもサードゴロで結果的にバントと同じ2死2塁の形を作るも8番・安井ライトフライで無得点。しかし、その裏エース・西山が連続三振を奪うなど三者凡退に抑えロースコアの接戦に勝機を見出す野球ができそうな期待が持てた。
3回表篠山産は1死から1番・松本潤が2打席連続ヒットを放ち、ノーバント野球のイケイケドンドンですかさず盗塁を決め2番・松本憲も四球をもらい1・2塁とビッグチャンス!最低でも同点に追いつきたかったが、3番・酒井1ストライクから止めたバットにボールが当たりセカンドフライダブルプレーと中途半端な攻撃、、、あるいはエンドランのサインが出て強引に転がそうとしたのかもしれないが。それでも西山投手はめげずに4者連続三振と下位打線には圧巻のピッチング!しかし2死から連続内野安打を喰らい危険を察知した長澤監督はタイムを要求し、3番・高畑初球打ちはサードゴロで無得点。創志時代も絶妙のタイミングでタイムを要求し幾度もピンチを切り抜けてきただけに長澤監督の勝負勘には恐れ入る。
早く追いつきたい篠山産だが、4回わずか6球で攻撃終了し初の三者凡退に終わった。守りからリズムをつかむ野球の東洋はその裏すかさず、先頭の4番・青木がセンター前ヒットを放ちこれを送って1死2塁。6番・白鳥のファーストゴロエラーで1死1・3塁とチャンス拡大し、スクイズがダイスキな岡田監督は7番・桒原が初球からスクイズのそぶりを見せてボール球を見逃す。あるいはセーフティ―スクイズのサインがずっと出続けていたのかもしれないが、、、、2球目は強振して空振り。これもわざと演技でやったのかもしれない。3球目もスクイズのそぶりを見せボールゆえにバットを引きカウント1-2からの4球目今度こそスクイズ敢行しマンマと成功で2点目!
尻上がりに状態が上がってきた東洋の西垣投手は5回も相手打線を三者凡退に退け2点あれば充分という神ピッチ。その裏2死から2番・木本が左中間ツーベースを放ち攻撃の手を緩めず、3番・高畑も2ボールから強振したがこれはセンターフライに倒れ2-0で整備に入った。
一応、ロースコアの接戦に持ち込みコールド負けの心配もないので篠山産のペースと言いたいところだが、2点があまりにも重すぎる展開だった。。。。。序盤から長澤監督が動きまくってエンドランを仕掛けるも機能せず東洋が効果的に加点し差を広げてきた。果たして残り4イニングで西垣投手から2点以上取れるのか???そして西山投手がどれだけ持ちこたえて6~8回を最少失点で凌げるのか???長澤監督の采配で完封阻止を観たいところだが、序盤で得点できず先行逃げ切りの展開に持ち込めなかったのが苦しいところ。
6回表1番からの攻撃だったがここも2三振など3イニング連続パーフェクトに抑え込まれてしまった・・・。その裏、東洋はアッサリ2死となったがここから粘り腰で6番・白鳥ライト前ヒット。7番・桒原に対し2ボールとなったところで2度目のタイムが取られ長澤監督独特の間合いで相手をかく乱しようとするも西山投手がかき乱されて???四球。ここで8番・見村が初球ライト前タイムリーヒットでダメ押しとなる3点目。しかし、西山投手はなおも続くピンチをセカンドフライに抑え孤軍奮闘で9回までできる希望を胸に終盤へ。
7回表なすすべもなく淡々とアウトを積み重ねている篠山産だが1死後に5番・千葉が初球セーフティーの構えをして長澤野球の老獪な一面を少し垣間見せ、ボール球ゆえにバットを引いたが、2球目本当にセーフティーをかますもアウト・・・。2死から四球をもぎとり久しぶりの走者が出たが、3点ビハインドの2死1塁では策もなくショートゴロで無得点。
残り2イニング最後まで気持ち切らさず西山投手の意地に賭けたい。7回裏は1番からの攻撃ゆえに2点までに抑えてくれたら・・・と祈っていたが、3連続外野フライで凌ぎきった!
そして8回から東洋はなぜかしらエース・木下がリリーフ登板。まだ西垣投手は83球しか投げておらず充分に完投・完封できるだけの余力はあると思うのだが、、、、、岡田監督が石橋をたたいて勝ちにこだわったのか?単なる新エースの調整登板かは分からないが、阪下投手の代役エースがここで登場し代わりっぱなどうなるか見ていたらストライク先行で付け入るスキもなく三者凡退。
8回裏3点までに抑えられたらコールド回避となる最後の守り。もともと長澤監督はエースと心中する傾向にあるので当然西山投手が最後までマウンドを守り抜いた。
1死後5番・鈴木にレフトへツーベースを浴びたが、6番・白鳥はサードフライ。2死後にストレートの四球を与え暗雲漂い、8番・見村が2ボールから手を出した打球がキャッチャー安井の左ヒザに直撃し1分間中断後にライト前タイムリーを喰らい4点目。エース・木下がそのまま打席に立ち3球三振で9回まで野球ができた!
最後9回表は2番からの攻撃で一矢報いたいが、先頭の2番・松本憲3球三振しかも見逃し、、、ここで代打・藤本起用も同じように見逃しの三振。最後は4番・森本がショートゴロに倒れ0-4で完封負け。。。。。
やはりセンバツ1勝した東洋が長澤監督率いる篠山産を一蹴したという感じだった。東洋にすればコールドで勝てなかったことに悔いが残りかもしれないが、篠山産の西山投手が10安打喰らいながらも1イニング1点ずつに抑えて孤軍奮闘した。だが打線が公立高校ゆえに手も足も出なかった・・・・・。創志も決して打力が強いとは言えずに老獪な野球で相手をかく乱して得点を積み重ねて勝利を重ねて行ったイメージが強いので。
ただ、めったに県大会出場することがなかった無名の公立高校を春の16強まで押し上げ夏の第1シード獲得した長澤監督の手腕は今後も目が離せないと思ったのだが、、、、、
夏の大会で加古川西に大逆転サヨナラ負けを喫し学校に帰って練習していた折に部員に鉄拳制裁を喰らわせたのが問題視され高野連から2年間謹慎処分を喰らってしまったのが。。。。。
思えば神村学園の監督時代も同じような案件で処分を喰らい鹿児島から姿を消しいつの間にか環太平洋大学野球部監督に就任したわけで、、、、、謹慎解けたら門馬監督の後釜に座るのだろうか???
さて、次回は兵庫大会準決勝。明石トーカロ球場が会場だったが、この日は超満員の観客が訪れ試合開始50分ほど前に球場到着したらなんと球場から明石公園入口近くまで長蛇の列が延びてなかなか球場に入れない・・・・・。近畿大会レベルだと近年これくらいの行列ができるがまさか春の準決勝でここまで客が来るとはと油断してしまった↓↓それは次回の講釈で。
チーム名 選手名 投球回 打者 投球数 安打 犠打 四球 三振 失点 自責
篠 山 産 西 山 8 36 132 10 3 2 6 4 4
東洋姫路 西 垣 7 25 83 3 0 2 4 0 0
東洋姫路 木 下 2 6 25 0 0 0 3 0 0
(完)
🌟次回予告🌟
R7年度春季近畿地区高校野球大会兵庫予選観戦記④ 以徳報徳 報徳学園観戦記
5/5 春季兵庫大会準決勝 明石トーカロ球場 報徳学園-神戸国際大付