自ら健康に、水から健康に。合言葉は「はやめに、こまめに」

ようこそいらっしゃいました。監督(管理人)の宏鈴法師です。当掲示板は全国どこの話題でもOKですのでどうぞ野球談義・よもやま話をお楽しみ下さい!なお、ご意見ご要望はメールでお願いします。悪しからずご了承くださいませ。


紀州レンジャーズ チーム結成以来全成績 175勝187敗35分け 42雨天中止  4新型インフルエンザ発生&流行中止1降雨ノーゲーム(OBチーム1試合)
⚾今日の和歌山大会新人戦試合結果(9日目 準決勝 田辺SP球場)
市和歌山23ー1神  島(5回)・日  高10-9桐  蔭

⚾今日の和歌山大会新人戦試合結果(初日 1回戦)
上富田球場・・・・和 智 弁11-0和 高 専(5回)・串本古座4-3海  南・粉  河12xー2和歌山北(5回)
田辺SP球場・・・向  陽1-0県和歌山

⚾明日の和歌山大会新人戦組み合わせ(最終日 決勝戦 紀三井寺球場)
    10:00~ 市和 歌山- 日 高

⚾明日の和歌山大会一次予選組み合わせ(2日目 1回戦 紀三井寺球場)
    13:00~  箕 島 -和歌 山商

📝持丸修一 78歳名将の高校野球論
宮城県高野連「野球用語見直し」のバカバカしさを徹底的に語ります。何より引っかかることは…
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/392600

もう勘弁してほしい。バカバカしいと思いませんか?ニュースを見て、驚き呆れました。

宮城県高野連が、野球用語の「見直し」を提起した一件。資料には、「試合中に『刺せ~』『殺せ~』『盗め~』という言葉が出るのは、『犠牲バント』『併殺』『死球』『盗塁』などの用語があるからだと思われる」とあり、「現代では相応しくない用語も含まれる」として、「代わる言葉を考えてみよう」というわけです。

もちろん、「すぐに変えると決めたわけではない」「今は議論する段階だ」という説明は承知していますが、やはり腑に落ちない。「議論することすらバカらしい」という本心をひとまず“押し殺し”、話を進めます。

わざわざ「問題化」する必要性があったのでしょうか。言葉尻を捕まえて、悪い方へ、悪い方へと持っていかれている気がしてならないのです。そもそも、試合中にそんな物騒な言葉が飛び交っているなんて信じがたい。私が指導してきた茨城、千葉では、試合中に「殺せ」なんて一度も聞いたことがありません。関東大会や全国大会でもそうです。まさか、宮城県では日常的に使われているのでしょうか。「初めて野球を見た子どもに影響がある」との主張にすら、違和感を覚えます。

仮に、グラウンドに「殺せ」が響いているのであれば、まず行うべきは「声援や指示の出し方を見直そう」という呼びかけではないか。
次に、野球用語について。私たち日本人は、日常で「息を殺す」や「刺身」といった言葉を、場面や文脈に応じて使い分け、誰もが理解しています。「現代では相応しくない」と槍玉に挙げられた「刺殺」にしても、野球というスポーツにおいては意味が確立された専門用語です。日常生活の「人を刺し殺す」と混同する人はまずいません。

何より引っかかるのは、県の高校野球を束ねる県高野連がわざわざ問題提起したことです。どこかの著名人が言い出したのならともかく、県高野連は大会を運営し、加盟校に通知を出し、高校野球のあり方に一定の基準を示す組織です。その組織が全国で使われてきた用語を「教育的配慮が必要」「現代では相応しくない」と位置付ければ、単なる意見交換では済まなくなる。禁止や罰則がなくても、指導者は「この言葉を使ったら……」と萎縮してしまうでしょう。「考えてみませんか」という柔らかな呼びかけでも、発信者が県高野連である以上、現場に余計な緊張感を押し付けることになるのです。

教育や指導現場はただでさえ制約が増えているのに、宮城県の指導者が気の毒です。指導者の野球離れにもつながるのでは。他県ではありますが、心配です。

宮城県高野連はなぜこのような提起をするに至ったのでしょうか。野球用語をわざわざ変えることで、いったい何が良くなるのか。社会にどんな変化をもたらすのか。何の根拠も説明もないままに、いきなり「野球用語を見直そう」というのは、いかがなものかと思ってしまいます。「何かを変えなきゃいけない」という思想に駆られているのではと、勘繰りたくもなってしまいます。

批判はこのくらいにしておきましょう。さて、来春センバツにつながる秋季千葉県大会は9月19日に開幕します。我々専大松戸は、攻撃では積極的に犠牲バントや盗塁を仕掛け、守備では併殺の機会を逃さず、一死、二死と着実にアウトを積み重ね、死に物狂いで勝利を目指します。

📝「どうしたらええんや...」 甲子園初采配で追い詰められた大阪桐蔭・西谷浩一を救った"スーパー1年生"
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2026/08/22/post_81/?utm_source=news.yahoo.co.jp&utm_campaign=%2Fclm%2Fbaseball%2Fhs_other%2F2026%2F08%2F22%2Fpost_80%2F&utm_medium=referral

名将たちの甲子園初出場物語 西谷浩一(後編)

2005年、大阪桐蔭の3年生にはその秋のドラフト1位でプロへ進むことになる辻内崇伸、平田良介がいた。そこに「無敵の1年生」中田翔が加わった。指揮官である西谷浩一が語る。

「どうしても甲子園に届かない、つかめないという流れが続いた時に、僕と違って"持ってる男"・中田が入ってきたんです。中田との出会いがなかったら、辻内、平田が3年でそろったあのタイミングでも、甲子園に行けてなかったんじゃないかと思います」

【"スーパー1年生"中田翔が開いた甲子園への扉】
 
"スーパー1年生"というフレーズが広く使われるようになったのは、この中田からだったように記憶している。それほど特有の華やかさ、オーラがあった。何より桁外れのパワーとエネルギーがチームを押し上げ、西谷の運命までも切り拓いていった。中田が桁違いの二刀流として颯爽と高校球界にデビューした2005年夏、大阪桐蔭は大阪大会を初戦から危なげなく勝ち上がった。
大阪市立に14対0、守口東に12対2、茨木に9対1、汎愛に10対0。そして迎えたPL学園戦。相手のマウンドには、2年生でエースとなった前田健太が上がっていた。

「万博でね。もちろん、ここが勝負と思って入っていったんですけど、マエケンに(死球を)当ててしまって......。『うわっ!』となったのはたしかでした。あれはね......」

1対0とPL学園リードで迎えた6回だった。前田は5回まで、強打の大阪桐蔭打線をわずか2安打に封じていた。ところが、辻内が投じた渾身のストレートが前田の右ヒジを直撃する。場内が騒然となるアクシデント。それでも前田は平然とその裏のマウンドへ上がった。だが、直後に平田が試合をひっくり返す2ラン。大阪桐蔭は7、8回にも追加点。前田も9回の最終打席で辻内から意地の一発を放ち、強烈なスピリットを見せつけたが、4対2で大阪桐蔭が勝利した。

「試合が終わって、藤原(弘介)監督のところへ謝りに行ったんです。『デッドボール、申し訳なかったです』と。さすがに無視はされなかったですけど、顔は真っ赤で、怒ってましたね。監督としたら、それはね......。あのPL戦が大きなポイントだったのはたしかで、よく覚えています」

その後、大阪桐蔭は準決勝で履正社を11対3、決勝では大商大堺を15対3と圧倒。ついに西谷は、監督として初めて甲子園への切符をつかんだ。
なかでも中田はおもに5番を打ち、大阪大会7試合で打率.458、2本塁打、チームトップの13打点。投げても14回2/3で17三振を奪うなど、投打でチームを牽引した。

【西谷を襲った甲子園初采配の重圧】
 
そして大きな注目を集めて迎えた甲子園初戦の春日部共栄との一戦。待っていたのは、思いもよらない展開だった。
先発・辻内の制球が定まらない。ストライクを取りにいったところを弾き返され、2回に3失点。3回にも1点、5回にも2点を追加され、降板した。試合後、辻内は「心臓がバクバクして......」「どう投げているのかもわからなかった」と振り返った。初回、スコアボードに「152キロ」と表示され、スタンドがどよめいた。その雰囲気にも「パニックになった」とも言った。

マウンド上では何度も頬を膨らませ、大きく息を吸っては吐いた。まさに青息吐息だった。エースの乱調に、攻撃もかみ合わない。5回表の春日部共栄の攻撃を終えたところで3対6。苦しい展開のなか、ベンチの西谷にも「甲子園初采配」の重圧がのしかかっていた。

「何をやってもうまくいかないなかで試合が進んで、気づいたら折り返しの5回。『どうしたらええんや。選手になんて声をかけたらええんや......』と。これだけみんなで頑張って、やっとつかんだ甲子園が初戦で終わるんか......。焦りしかなかったです」

そんなエースと指揮官の窮地を救ったのが、中田だった。5回表、3点差とされ、なおも満塁のピンチ。辻内を救援すると、1年生とは思えないボールと堂々たる投げっぷりで後続を断った。

「球場の雰囲気が変わった」西谷はそう振り返る。そして5回裏、甲子園に快音が響いた。

「先頭の謝敷(正吾)が右中間に強烈な当たりの二塁打を打ったんです。あれでハッと目が覚めたというか、『監督がこんな弱気じゃアカン』と気持ちが入り直したんです」

すると、大阪大会7試合で75得点、チーム打率.449を叩き出した打線も目を覚ます。一死後、平田が三塁打。中田が三塁強襲安打で続き、米川(千貴)が左翼へ二塁打。さらに辻内が四球を選び、川本(健人)がライトへ犠飛。一挙4点の猛攻で7対6。大阪桐蔭が試合をひっくり返した。

「どのタイミングだったかは、はっきり覚えてないですけど、ベンチで『この試合は絶対負けへんぞ!』みたいなことを言ったら、選手が『よっしゃー!』って応えて盛り上がったのは覚えています。ただ、戦術的なアドバイスは何もなくて、『頑張るぞ』『負けへんぞ!』としか言えなかった。
今の自分なら、もう少し何か言えると思うんですけど、当時は辻内が打たれて、5回になって、『アカン、アカン』『やばい、やばい』となっただけで......。まったく余裕がなかったですね」

【幻のウイニングボール】
 
7回に一度同点に追いつかれたが、その裏、中田が今度は自らのバットで左中間へ決勝本塁打を叩き込み、西谷に勝利をプレゼントした。
これが、今では意外に思えるほど遅かった、西谷浩一の甲子園初采配、初勝利だった。のちにその事実を伝えると、「そうだったんですか」と驚かれることも少なくないという。

「前に(春日部共栄の監督だった)本多(利治)さんと話をさせてもらった時に、『あれが甲子園初勝利だったの?』と意外そうに言われました。この間、東京ガスにいる中川卓也(2018年に春夏連覇を達成した時の主将)の結婚式に出た時も、『春日部共栄の時に大阪桐蔭戦で投げました』と難波(剛太)くんがあいさつに来てくれて、『覚えてもらっていますか?』と言うから、『よく覚えてるよ。あの試合に先発して、中田と同じ1年生で......』という話になったんです。それで『あの試合、俺の甲子園初戦やってん』と言うと、『本当ですか!?』と驚いてました」

じつは、この試合を前に選手たちは、ようやく甲子園初采配を迎える西谷のために「勝ってウイニングボールを渡そう」と話していた。ところが、苦しみながらその目標を達成した夜。西谷の部屋を訪ねてきた主将・小林晃徳の表情は沈んでいた。

「試合に負けたあとのような雰囲気で、『西谷先生に話があるんですけど......』と言うから、『どうした?』と聞いたんです。そしたら、『試合に勝ってウイニングボールを渡そうと、みんなで話して頑張ったんですけど、あんな試合になって、最後もバタバタで二死満塁。終わったあと、ボールがどこへ行ったかわからなくなって......』って。申し訳なさそうに言うから、『いやいや、ありがとう。次に勝ったら頼むわ』と言ったんです」

その5日後。別人のようになった辻内が、藤代(茨城)を相手に大会タイ記録となる19奪三振の快投を演じ、大阪桐蔭も勝利した。
試合後、西谷は満面の笑みを浮かべた小林から、ウイニングボールを受け取った。ところが帰りのバスに乗ると、西谷のうしろの席に辻内が座っていた。

「おまえ、タイ記録やったってなあ」
「はい」
「ウイニングボールをもらったけど、最後も三振で決めたし、おまえがもらったほうがいいんちゃうか」
「いいんですか?」

遠慮気味に答えた辻内に、西谷は記念球を渡した。

「それから、あとは誰もくれないんです(笑)」

【甲子園通算75勝の名将が語る原点】
 
今や通算75勝。堂々の甲子園歴代最多勝利監督である。しかも、最初の1勝からわずか21年で積み上げた75勝だ。あまりにもハイペースな勝利の積み重ねが、「西谷監督の初勝利はもっと前だろう」という錯覚を生むのかもしれない。こちらが持参した2005年夏の甲子園大会を特集した当時の雑誌を懐かしそうにめくりながら、西谷は小さく笑った。

「人のことなら『21年で75勝』と聞くと、すごいと思うんですけどね。自分のことだと思わないですねえ」

そして不思議なことに、甲子園初采配、初勝利の喜びや感慨を尋ねても、西谷の口から出てくるのは、自らの「未熟さ」だった。

「本当に『どうしよう、どうしよう』ばっかりで、何の策も打てない。言葉もかけてやれなかった。準決勝で負けた駒大苫小牧(南北海道)戦も、完全に監督の力の差で負けたと思っています。もちろん準備はしていたんですけど、試合が始まって動きだすと、駒大苫小牧戦も春日部共栄戦も何もできなかった。うまく選手たちを導いてやれなかった。初めての甲子園ということで思い出すのは、『何もできなかった』という、そのことばかりです」

話を聞いたのは、この夏の大阪大会前だった。その後、大阪桐蔭は4回戦で敗退。「波乱」と大きく報じられた一戦のあと、西谷はやはり「選手たちを導いてやれなかった」と、自らの力不足を繰り返し口にしていた。どれだけ勝っても、どれだけ結果を積み上げても、その思いは変わらない。いや、変わらないからこそ、勝ち続けてこられたのかもしれない。
大阪桐蔭を常勝軍団へと育てた名将の原点は、2005年夏、甲子園で何もできなかったと悔やんだ、あの日の姿にある。

☟18人中17人が甲子園経験者…U18侍ジャパンは「甲子園偏重」でいいのか? 現役監督からも漏れる“本音”
https://news.yahoo.co.jp/articles/c17a67468bbbe4bb36543cc72eed9e98241dc8f0?page=1

夏の甲子園は終わったが、選ばれた選手たちにはもう一つ大きな舞台が待っている。9月7日に台湾で開幕するU18アジア選手権だ。

高野連から話が来たら断ることは難しい
 
8月29日には壮行試合として大学日本代表との交流試合が行われ、会場となった明治神宮野球場には2万人を超える観客が詰めかけた。甲子園で活躍した高校生が、レベルの高い大学生に挑む。このイベントは2015年にスタートし、注目度も高まっている。これだけ注目されるイベントになった一方で、U18侍ジャパンのチーム運営には以前から気になる点がある。監督人事もその一つだ。

2015年以降の代表監督を見ると、いずれも甲子園で優勝、または準優勝を経験した指導者で、現役監督が起用されるケースも少なくない。2024年から2年間は日大三の監督を退いていた小倉全由氏が指揮を執った。2025年12月に就任した岡田龍生監督は東洋大姫路の現役監督である。コーチ陣にも高校の現役指導者が並び、今回の首脳陣で高校の現場を離れているのは、関大北陽の前監督、新納弘治ヘッドコーチ(日本高野連技術・振興委員)だけだ。

問題は代表活動の時期である。8月末から9月は各校の新チームが本格的に動き出し、全国各地で秋季大会が始まる。代表に参加する監督は、その間、自校の指導から離れざるを得ない。
2022年には花咲徳栄の岩井隆監督がU18侍ジャパンのヘッドコーチとして不在だった期間に、チームが秋季埼玉県大会の初戦となった2回戦で敗退。翌春の選抜出場を逃した。甲子園で十分な実績を持つ、ある監督に代表チームについて話を聞くと、率直な答えが返ってきた。

「正直、自分のチームのことを考えると、新チームがスタートする時期にチームを離れるのは避けたいですね。そう思う監督が大半ではないでしょうか」

さらにこう続けた。

「実際に高野連から話が来たら断ることは難しい。できればコーチも含めて、現役の監督以外で首脳陣を固められるのが理想だと思います」

本当にベストメンバーなのか
 
前任の小倉氏のように、直前まで高校野球の現場にいた指導者を毎回確保できるとは限らない。高校の現役監督に限定しなければ、人材の選択肢はもっと広がるだろう。U12やU15ではNPB経験者が代表監督を務めている。社会人野球にも監督経験者は数多く、NHKの高校野球中継で解説を担当するなど、高校野球への理解が深い人材もいる。代表チームの首脳陣を高校の現役監督を中心に編成する必要があるのかは、一度検討してもいいはずだ。監督人事だけではない。選手選考にも同じような問題を感じる。

今年のU18侍ジャパン18人のうち、今夏の甲子園に出場していないのは前田侑大(高岡第一・投手)と福島陽奈汰(東海大熊本星翔・内野手)の2人だけだ。福島は今夏こそ甲子園に出場していないが、2年夏に出場を経験している。つまり、甲子園未経験者は前田1人である。甲子園出場選手に実力者が多いのは当然だ。ただ、代表入りしても不思議ではない選手が他にいなかったわけではない。

代表選外となった選手を見ると、最速152キロ、高校通算39本塁打を誇る二刀流の菰田陽生(山梨学院・投手)、最速150キロ左腕の高部陸(聖隷クリストファー・投手)、夏の甲子園で151キロを計測した平田玲翔(大分商・投手)らがいる。菰田は春の選抜で左手首を骨折し、負傷の影響で4月の代表候補合宿メンバーから外れたが、夏には復帰していた。個々の能力だけで代表を編成できるわけではなく、ポジションやチーム全体のバランスも考える必要がある。それを踏まえても、18人中17人が甲子園経験者という顔ぶれを見ると、本当の意味で全国からベストメンバーを選べているのかという疑問は残る。

選考合宿が理想だが…
 
今年は末吉良丞(沖縄尚学)の選出についても、一部で疑問視する声が上がった。昨夏の甲子園で優勝投手となった左腕は、今年4月に左肘痛を発症して長く実戦登板から遠ざかった。夏の甲子園では横浜戦に先発したものの、3回3失点、最速143キロで降板している。

末吉は昨年、2年生で唯一U18侍ジャパンに選ばれた投手でもある。ただ、18人という限られた人数で戦う大会だけに、春から故障で登板機会が少なかった投手を招集することにリスクがないとは言えない。末吉の将来を考えても、選出について議論が起こるのは理解できる。

なぜ、甲子園出場選手に偏りやすいのか。過去に代表チームの選考に関わった関係者に話を聞くと、そもそも全国の候補選手を把握する難しさがあるという。

「代表チームを選考するといっても全国くまなく視察に行けるわけではありません。4月に行っている代表候補合宿についても各都道府県、各地区の高野連から推薦を募っていますが、正直、地区によって温度差があるのは確かです」

さらに難しいのが、夏の地方大会で敗退した選手のコンディション把握だ。

「国際大会は夏の甲子園が終わった9月に行われていますが、地方大会で敗れた選手は実戦からかなり遠ざかっており、どんな状態かが分かりづらい。そうなると、どうしても直前まで甲子園大会でプレーしていた選手が中心になります」

直前まで実戦を続けている選手は状態を把握しやすい。一方、甲子園を勝ち上がった選手ほど疲労が蓄積している恐れがある。

「甲子園での疲労が残っていて、パフォーマンスが落ちている選手もいます。本当は大会前に候補選手を多めに集めて、選考合宿をできると良いと思うのですが、スケジュール的にも難しいのが現状ですね」

より幅広く人材を集める仕組みを
 
甲子園に出場していない選手を増やせば解決するほど単純な話ではない。過去には夏の甲子園を逃した選手を選出したところ、調整不足が明らかで、本来の力を発揮できなかった例もあったという。
逆に、甲子園を勝ち上がった選手には疲労の問題がつきまとう。2018年のU18アジア選手権では、地方大会と甲子園で計11試合、1517球を投げた吉田輝星(金足農・現オリックス)が招集された。代表合宿では疲労を考慮して別メニューでの調整が続き、本大会では2試合に登板して2敗に終わっている。

日程上の制約が大きいのは確かだ。それでも、地方大会で敗れたチームの有力選手について、夏の大会終了後に候補者を集めて状態を確認する機会を設ける方法は考えられる。国際大会直前に人数を絞る選考合宿が実現すれば、甲子園での活躍だけに左右されないメンバー編成につながるだろう。

日本の高校野球で最大の舞台が甲子園であることに異論はない。国際大会はどうしても「甲子園後のおまけ」と見られがちである。しかし、同世代のトップ選手が集まり、一緒に練習し、海外の強豪と戦う経験は簡単に得られるものではない。実際、代表チームでレベルの高い選手と過ごした経験が、その後の成長につながったと話す選手を何人も取材してきた。

それだけ価値のある代表活動だからこそ、甲子園を中心に据えた現在の仕組みが最善なのかは考える必要がある。監督人事も選手選考も、甲子園という枠にとらわれず、より幅広く人材を集める仕組みを検討する時期に来ているのではないだろうか。

⚾岩手さんへ
本屋は僕の近所でも相次いで閉店しておりますね・・・。街(都会)に出ないと大型書店はあまりないかな?

和智弁は辯天宗ということもあってか?かなり球運に恵まれるタイプのチームですね。高嶋先生時代から窮地に追い込まれながらも、信じられない幸運がやってきて終盤猛打で大逆転勝ちを幾度も目にしました。猛打に霞んでしまいますが、打線爆発前にイレギュラーバウンドやベースに当たってただの内野ゴロがラッキーなヒットに変わることもしばしで。。。。。

あの決勝も僕は8回表の逆転2ランで負けを覚悟しましたね・・・。8回頭から抑えの久葉投手につないでも早すぎることはないと思ったが、2ラン浴びてさらにピンチを招いてから継投したので遅きに失したきらいはありましたが・・・・・。
8回裏スコア集計に手間取り初球のデッドボールを見逃してしまいましたが、球審によっては『避けていない』と判断され、ただのボール球と判定される可能性もあったし、5番打者が送りバント失敗し2ストライクと追い込まれ・・・バントはできそうにもなかったが、ああいうケースだったらしゃーなしに打たせて内野ゴロゲッツーという目も当てられない結果になりかねなかったが、運よく詰まった打球がセンター前に落ちたし、1死2・3塁で初球スクイズが相手捕手の急所直撃でツキがきましたね。

基本的に高嶋先生も相手が強ければ送りバント多用していたし、スクイズも結構やってきましたが外されるシーンもよくみてしまいました・・・。それ以上にスモールベースボールがナカタニ野球なんで。。。県大会でも格下相手に送りバントしてアウト1つ献上するシーンは何度も見ており、5-0や6-0でコールド一歩手前で手加減する?優しさは何度も見ましたね。

沖縄の子は以前から岡山県や滋賀学園に結構来ますね!
2026/09/06(日) 22時24分03秒 No.2604 編集 削除
 雑誌購入ですが中〃大変なりました。
 🚲で2,3分の本屋さんが、6月30日で閉店になり、🚲だと1H30~45分位かな?PC教室で利用する施設の近くにある本屋さんからの購入で、最後1冊でした。
 バス代が往復で640円だから結構な出費ですね、以前なら隣のコンビニのついでに立ち寄っていたのが640円かけて行くか、🚲で1H30余りかけて行くかになってしまいました!
 PC教室で情報収集も三カ月以上かな?管理人さんのアメブロだっけ?写真とか見ていたが、野球観戦も出来ないし施設利用もシフト休みの変更もあり。いつの間にか夏の甲子園大会も終わり時は秋季大会の季節になったんだね☺

 最後の最後ですが、夏の決勝戦は智弁和歌山のツキが凄かったね!
 8回表和気君から2ランで3-2になって和気君も疲れがあるんだねと思ったが、8回裏の智弁和歌山の攻撃は、山田君の死球が流れが変わる一因かな?
 テレビ観戦していたけど、ボールになっても違和感ないが、やはり流れが変わる一因だね!その後バント空振りだったけ?ファールだっけ?捕手の股間に直撃で悶絶!ベンチに下がって治療?頑張って戻ってくるもスクイズ警戒の投球が暴投になり3塁走者がホームインで決勝点!
 タラレバだが、股間直撃がなかったら体に当てて止めていたかもと思うがタラレバだね!
 中谷監督は送りバント、スクイズなどするんだね!中谷野球スタイルが変わった印象。
 部員も少し増やすとか!
少子化争奪戦!
 今でも大阪勢が各地に散らばるが、近年愛知勢が席巻しつつあるね。
 沖縄ではそろそろ中3生が硬球に慣れてもらう事や高校入学までの体力向上とかで各地域事でリーグ戦みたいにしていると聞いています。
 ここで本土の有力チームがスカウト活動しているらしい。
2026/09/06(日) 21時04分32秒 No.2603 編集 削除
⚾今日の近畿学生野球結果(大阪シティ信用金庫スタジアム)
第1試合 奈良学園大-大阪公立大 8:58~10:44
          一二三四五六七八九十計HE
      阪 公 大01000     152
      奈 学 大2262X     12140

第2試合 和歌山大-大阪工業大 11:29~13:53
          一二三四五六七八九十計HE
      大 工 大0010010   282
      和 歌 大0030051x   990

第3試合 神戸医療未来大-阪南大 14:35~16:34
          一二三四五六七八九十計HE
      阪 南 大000000000 040
      神 医 大00000111X 380

 先週金曜日の紀三井寺よろしく天気が非常に心配された本日・・・最悪、今週末がダメなら来週末それでもダメなら予備日の16日まで視野に入れていた舞洲行きですが、、、、、
フタを開けてみたら午前中を中心に晴天で風もきつく30度前後の熱さで程よい天候でした!

2020年夏のコロナ騒動での中止の代替企画で西九条~舞洲までどれだけ時間かかるか?往復できるだけの体力はあるか???と試したところ1時間強で行けるし、体力的にも問題ないことが分かり以来毎年駅リンくんを借りてましたが・・・・・。

今朝初めて知りましたがなんと・・・10月末で西九条の駐輪場は廃止と☟☟💢。。。あれは本当にショックでしたね。ある意味、宇治山田駅前の明倫商店街が火事にあった以上に心にポッカリと穴が開きつつ、舞洲までのラストランを楽しみ、最後なんで普段行かない海岸線やなぜかしら夢洲にまで・・・・・。


https://www.ekiren.com/ekirinkun
西九条店は2026年10月31日(土)をもって閉店させていただきます。


バスの混雑回避が主目的なんで、、、今度から夢洲駅から歩いて舞洲に行くか?北港ヨットハーバーのバス停まで歩いて移動し、JR大阪駅まで帰るか?????
自転車だからこそ楽に移動できたが、歩きとなるとあの橋の急斜面を昇り降りするのも一苦労で・・・・・。

そして、近畿学生野球に5回コールドが適用されるとも知らず京滋大学野球よろしく「せめて7回まで観戦させてくれ」という願いも虚しく・・・・・。
舞洲上陸しても自転車は最後かあとブルーだったし、新大阪から舞洲自転車移動は現実的ではないと思われるが、、、、、いっぺん試してみようかな???よほど最短ルートを発掘しなければ。

そんなわけで信金スタジアム入ってホームベース延長線上の前から3番目の座席確保してすぐにラジコで9/1の『ボックス火曜日』聴いてました。
ずっと独身貴族と信じて疑わなかった平井アナが実は女房子供持ちでお孫さんまでいるようなことを先週の放送で2度ほど話していたし、魔性系疑惑が浮上した関 陽菜子アナもハツラツと長野弁を隠して標準語で話し当初は声の震えが目立っていたが、「平井アナウンスセミナー」のおかげか?ずいぶん聞き取りやすくなったなあと3年目の夏に才能開花?!できれば和歌山に定住して欲しいが。。。

3試合中2試合がコールドで第3試合はずいぶんテンポよく16時34分終了と早すぎる終戦。ふと東側を見ると隣の『舞洲日本ハム桜グラウンド』でナイター点灯していたので、自転車漕いで移動したら   

高円宮杯 JFA U-18サッカープリンスリーグ2026 関西1部 第10節「セレッソ大阪U-18 vs 京都サンガF.C.U-18」  が17時キックオフと・・・。

球場外周反時計回りで歩いてから一応試合開始直前にスタンド入りして17時05分までナイター観てましたが、、、グラウンドと客席がすぐそばなんでサッカーボールが飛んで来る危険性が!!!

天気も問題なさそうなんで、1時間30分ほどサイクリング楽しんで西九条に自転車返しました。大阪大会もあるけど、年内舞洲に行く予定もないしあえてこさえようとも思わないので。。。
また、来春あらたなアクセスを地道に開拓して最善尽くせたらと思います!

⚾明日の和歌山大会新人戦組み合わせ(9日目 準決勝 田辺SP球場)
    09:00~  神 島 -市和 歌山
  ☆ 11:30~  日 高 - 桐 蔭 

⚾明日の和歌山大会一次予選組み合わせ(初日 1回戦)
上富田球場
  ☆ 09:00~ 和歌山高専-智弁和歌山
    11:30~  海 南 -串本 古座
    14:00~ 和歌 山北- 粉 河

田辺SP球場
    14:00~ 県和 歌山- 向 陽

👣青森山田高野球部監督の兜森氏退任、24年は全国4強 後任は中條氏
https://news.yahoo.co.jp/articles/2d06cf20c0c3234612014f5deb77f622faaa60db

青森山田(青森市)野球部の兜森崇朗監督(47)が4日までに退任したことが分かった。本人が取材に明らかにした。同校の教員は続けるという。後任は青森山田中野球部監督の中條純氏(35)。チームは6日に秋季東北地区青森県大会の初戦を迎える。

青森山田は今夏の青森大会で優勝し、全国選手権1回戦で遊学館(石川)に勝利。2回戦で東日大昌平(福島)に敗れた。

兜森氏は青森市生まれ。青森山田では2年夏からエースで、3年の青森大会で準優勝。青森大を卒業し、青森山田のコーチや副部長を務めた後、2015年8月に監督に就任。24年春の甲子園では全国8強、24年夏は全国4強に導いた。

📝「俺は甲子園に行かれへん男や...」大阪桐蔭・西谷浩一が"持ってない監督"だった頃 何度も閉ざされた聖地の扉
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名将たちの甲子園初出場物語 西谷浩一(前編)

西谷浩一は関西大学を卒業した1993年春、社会科教諭として大阪桐蔭に赴任し、同時に野球部のコーチとなった。出身高校は兵庫の報徳学園。その西谷を大阪桐蔭へとつないだのは、当時監督だった長澤和雄との縁だった。

【きっかけは「SSKのおっちゃん」との再会】

今春、関西大が54年ぶりの大学日本一に輝き話題になったが、前回日本一となった1972年、剛腕・山口高志を擁するチームで4番を務めていたのが長澤だった。西谷にとっては大学の大先輩にあたる。しかし、それ以上に西谷にとって長澤は、報徳学園時代にスポーツメーカーの担当者としてグラウンドに出入りしていた「SSKのおっちゃん」だった。

転機が訪れたのは、西谷が大学3年だった1991年春。関西学生野球連盟の独立10周年を祝うパーティーでふたりは再会する。かつての「SSKのおっちゃん」は高校野球の世界に身を転じ、直前の選抜大会に初出場し、ベスト8まで勝ち上がった大阪桐蔭の監督になっていた。

「すごいですね。びっくりしました」
「元気にやってるか?」

再会を喜んだふたり。その直後、春のリーグ戦で関西大は19年ぶりの優勝を果たし、大学選手権でも準優勝する。そして秋のリーグ戦後に開かれた祝勝会で、西谷は再び長澤と顔を合わせた。今度の長澤は、春夏連続出場を果たした甲子園で大阪桐蔭を日本一へ導いた「全国制覇監督」になっていた。その後、西谷のもとへ長澤から連絡が入る。

「卒業したら、ウチでコーチをやってみんか」

西谷が当時を振り返る。

「ただ、僕のなかではまだ野球がしたくて。まったく大した選手じゃなかったんですけど、30歳くらいまで社会人で現役を続けて、それから教員になって高校野球ができたら......という思いを持っていたんです。だから当初は、やんわりお断りさせてもらったんです」

ところが、4年生になっても社会人野球から声はかからないまま、時間だけが過ぎていった。そこへ、当時関西大のコーチだった豊島光男(のちに関大一校長などを歴任)と長澤が高校時代の同級生だった縁もあり、再び誘いを受ける。西谷もついに決断し、道は大阪桐蔭へとつながった。

【西谷の前に立ちはだかった巨大な壁】

1993年春、晴れて大阪桐蔭のコーチとなった西谷が足を踏み入れた大阪の高校野球界は、「まだまだPL、PLの時代でした」と振り返る。なによりPLの巨大な壁を感じたのが、選手集めだった。

「『コイツや!』と思った選手を見つけて、チームに何度も足を運んで誠意を見せたら来てくれると思っていたんです。でも、『見つけた!』と思ってチームの人にあいさつに行くと、ことごとく『PLに決まっています』と。もちろんPL以外にも上宮、近大附、県外の学校......と競争相手は多かった。いい選手を見つけさえすれば、あとは鍛えればいいと思っていたのが、そこまでいかない。まず、そこに気づかされたんです」

厳しい現実を突きつけられたコーチ生活のスタートだった。コーチ就任1年目の1993年夏は、阪南大高に敗れて初戦敗退(2回戦)。94年はPL学園、95年は上宮に、ともに4回戦で敗れた。96年は準決勝まで勝ち上がったものの、再びPLに屈した。

「甘くはない。勝てなかったですね」

宿敵PLに夏の大阪大会で初めて勝ったのは、1997年の準々決勝だった。大乱打戦の末、最後はサヨナラ本塁打。劇的な決着だった。すると試合後、新聞記者が西谷のもとへやってきた。

「中村(順司)監督が呼んでいます」

それまで中村とはほとんど言葉を交わしたことがない。呼ばれる理由に心当たりもなかった。「勝って、はしゃぎすぎたから怒られるんかな......」と、そんなことを考えながら急いで向かうと、中村は柔らかな表情で思いもよらない言葉をかけた。

「こういう試合を勝った次が、うまくいかんことが多いんや。今日は寮に帰って、選手全員を集めて引き締めなアカンぞ。それは監督の仕事じゃなく、コーチの仕事や。しっかり君がやって、頑張って甲子園に行けよ」

西谷は衝撃を受けた。

「負けた直後に、そんな言葉をかけてもらって。なんて器の大きい人なんだと感動しました。それと同時に、『絶対あと2つ勝って甲子園に行く!』と思ったんですけど......」

しかし翌日の準決勝、下馬評では優位と見られていた履正社に1対2で競り負けた。この夏、履正社は初の甲子園出場を果たす。さらに翌1998年。記念大会で大阪が南北に分かれ、代表校が2校となった。PLともブロックが分かれ、西谷たちは北大阪で選抜準優勝の関大一をターゲットに定めた。ところが、その関大一と対戦する直前の3回戦で、金光第一(現・金光大阪)に敗れた。

6年間のコーチ時代、大阪桐蔭は一度も甲子園に届かなかった。そして1998年秋、西谷は29歳で監督に就任することになる。

【中村剛也、岩田稔を擁しても届かなかった聖地】

それは校長からの突然の通達だった。西谷を大阪桐蔭へ誘った長澤について、校長からは「いったん相談役のような形でチームの外から野球を見てもらう」と説明された。同時に、西谷が結果を残しても1年後には長澤を監督に戻すという話だった。年上のコーチ、有友茂史(現・部長)もいるなかで複雑な思いはあったが、長澤本人に相談したうえで就任を受諾した。
しかし監督として初めて挑んだ1999年夏は、履正社に初戦敗退(2回戦)。秋が近づくと、西谷は「いつ交代になるのか」と校長のもとへ確認に向かった。すると、思わぬ答えが返ってきた。

「今、野球部がいい感じになっているように見える。あと2年やってくれ」

夏の結果とは別に、教員である西谷が監督になったことで、選手たちの学校生活にも落ち着きが出てきた。学校側は、そんな変化も感じとっていたようだった。監督続投は2年間。ただし、この時も「甲子園に行ったとしても、あと2年で長澤を戻す」と念を押され、西谷は「もちろんです」と即答した。

2000年秋、エースの岩田稔、4番の中村剛也が2年生、西岡剛が1年生ながら遊撃を守ったチームはPLを破り、大阪大会準優勝。近畿大会でもベスト8へ進んだ。近畿地区の選抜出場枠は6校。戦いぶりから見ても、通常なら選抜出場の可能性は十分にあった。ところが、この年は大阪のほかの2校、関西創価と浪速がそろって近畿大会ベスト4入り。大阪から3校目となる大阪桐蔭は選ばれなかった。またしても、甲子園が逃げていった。

そして、約束の上では西谷にとって監督最後の夏となる2001年。「ナニワのカブレラ」の異名をとった中村を軸とする打線は凄まじい破壊力で大阪を勝ち上がり、ついに決勝へ進出する。
上宮太子との決勝では初回に5点を奪われながら、土壇場で追いついた。しかし、エース岩田はその年の初めにI型糖尿病を発症。野手までマウンドへ送るなど、総動員でしのいできたが、延長11回、5対6と最後に力尽きた。

「これまでで一番練習したと思えるチームで、人間的にもいいヤツがそろっていた。でも、勝てない。これでもアカンのか、甲子園には届かんのか......と」

【なんでこんなに甲子園に嫌われるんや】

西岡が主将となった秋も大阪大会で敗退。ここで長澤が監督に復帰し、西谷はコーチへ戻った。すると翌年夏、戦力的には決して高い評価を受けていなかったチームが、あれよ、あれよと勝ち上がり11年ぶりの甲子園出場を果たした。西谷にとっては、強烈な光景だった。

「あのチームは、僕が監督をやっていたら絶対に勝たせてやれなかった。僕ならチームの力が足りないと思う分、『よそが3時間なら5時間やろう』と、ひたすら練習させていたはずです。でも長澤さんは、選手たちを普段は放牧させているように見せて、締めるところでは締める。手綱をうまくさばいて、気がつけば選手たちがその気になっていた。あそこで11年間遠ざかっていた甲子園への重い扉が開いたんです」

喜びはもちろんあったが、同時に自らの力不足を嫌というほど思い知らされた。ここから長澤監督の時代がしばらく続くかと思われた。しかし甲子園で初戦敗退すると、学校との話し合いのなかで長澤の退任が決まる。西谷が再び監督に戻ることになった。

「長澤さんが辞めるなら、僕も......」

そう伝えた西谷に、長澤は「それは違う」と諭した。そして2002年秋、西谷は2度目の監督生活をスタートさせる。
監督復帰後初めて迎えた2003年夏は、PLに敗れて5回戦敗退。しかし、1年生の平田良介が4番に座った秋は近畿大会を制覇し、神宮大会でも準優勝。翌春の選抜出場は確実だった。

あとは発表を待つだけ──。ところが1月半ば、過去の部員をめぐる案件が問題視され、その責任を取る形で、西谷は選抜出場校の発表を前に監督を辞任する。選抜はコーチだった田中公隆(現・聖隷クリストファー監督)が指揮を執り、2回戦で敗退した。ようやくたどり着いたと思った甲子園に、またしても立つことができなかった。

「落ち込みました。俺って、そんなに悪いことしてるか......。なんでこんなに甲子園に嫌われるんや、って......」

負の流れは、まだ終わらなかった。気持ちも新たに挑んだ2004年夏。2年生の平田を軸とした攻撃陣に投手陣もそろい、3年ぶりに決勝へ進出する。相手は宿敵PL。十分に勝算はあった。延長15回を戦い、4対4。大阪大会決勝として史上初の引き分け再試合となった。翌日の再試合では、PLの先発だった1年生・前田健太から7点を奪った。それでも勝てなかった。3年前に続いて決勝で敗れ、またも甲子園を逃した。

「縁がない、運がないというか、周りの人から『西谷はよう頑張ってるけど、持ってないな』と思われてるんやろうな、というのをすごく感じました。自分でも、『俺ってやっぱりそういう運命、そういう人生なんや』と。あの頃はずっとそんなことを思っていましたね」

【失意の西谷をさらにへこませた宮本慎也のひと言】

しかも、この決勝再試合には、西谷の傷口に塩を塗るような"後日談"までついてくる。

「再試合で負けた次の日、日体大のセレクションに、今コーチをしている橋本(翔太郎)を連れて前泊で行くことになっていたんです。僕は用事があって橋本を先に行かせて、最終近くの列車に乗った。そうしたら、車内の電光掲示板のニュースに『甲子園最後の一枠PL 激闘で大阪桐蔭を下す』って出て、それが繰り返しずっと流れてるんです。それを見て、『また俺は何をしてるんや......』と」

話は、まだ終わらない。

「東京行きの新幹線が名古屋に着いたところで、古田(敦也)さんと宮本(慎也)が乗ってきたんです。おそらくナイターが終わって、泊まらず東京へ帰るところだったんでしょう。向こうはグリーン車でしょうから、飛び乗って通路を歩いていたところで宮本が僕に気づいて、『おっ、ありがとう』って。年齢は僕がひとつ上ですけど、浪人しているので、大学では同志社の宮本と関大の僕は同学年で戦っていたんです。たぶん『PLを甲子園に行かせてくれてありがとう』という感じだったんでしょうけど、こっちは『なにがありがとうや......』という気分ですよ。それより『俺は甲子園に行かれへん男や......』と、新幹線の中で、そこからまたへこんでました」

今の大阪桐蔭を知る者からすれば、信じられないような言葉である。だが、試練はまだ続いた。辻内崇伸、平田良介が投打の軸となり、大きな期待を集めた2004年秋。大阪大会4回戦で上宮太子に、まさかのコールド負けを喫する。

「辻内が普通に打たれて、こっちは打てず。完敗でした」

まさに、ことごとく──。あと一歩まで行けば、逃げていく。手を伸ばせば、遠ざかっていく。「甲子園に嫌われている」と、西谷自身がそう思わずにはいられないほど、何度も何度も聖地への道を閉ざされてきたそんな西谷に、最後の一歩を越えさせたのは、16歳の怪物だった。

⚾岩手さんへ
お久しぶりです。9月に入り台風の影響などもあり長雨のせいで猛暑も一段落しつつありますが、晴れたら熱い今日この頃お元気でしょうか?

さて、僕は夏の甲子園総括の雑誌をまだ表紙すら観ずに過ごしておりますが、、、今日の帰り梅田の本屋に寄ったけど来年の手帳をもう置いているか?偵察しただけで帰りが遅くなるのでスポーツコーナーは割愛してました、、、

しかし和智弁が全国制覇するとは大会前(和歌山)県民は誰も想像できなかったでしょうね・・・・・。僕自身も、社は辛いなあ・・・明石商の方がもっとイヤやったけど、、、ああいう『柔よく剛を制す』タイプの細かい野球するところは和智弁苦手やから・・・と。
アナウンサー歴40年の平井 理弘アナも実は「う~~~ん。今年の智弁は甲子園に行っても、、、1つか2つ勝てるかどうかじゃないかなあ・・・」とクールに分析されてましたから。

最大の殊勲者は愛知から来た山田捕手でしょうね。僕は彼の打撃を全く信用していなかったので、彼が4番を任されている時点で打線に関しては歴代のチームでも下から数えた方が早いと見てましたが。初戦でナカタニの不可解な継投で2-0で逃げ切るはずが、1点差に迫られなおも1死3塁の大ピンチでまさかのエンドランをウエストして外し3塁走者封殺が大きなポイントかと。
あとは2戦目の敦賀気比戦でショートフライ落球で走塁放棄して不本意なアウトとなった94年春初優勝メンバーである川原選手の息子さんが8回表起死回生の2点タイムリーツーベースを打ったのが。もっと驚いたのは高嶋先生時代には考えられない平安よろしくブルドックシフトで延長10回無死1・2塁からのバント3塁封殺でピンチ脱出と。あんな守備は智弁じゃないと!!

あとの3試合はもう流れですね・・・。なぜかしら最後の最後にナカタニの優しさが出て相手主将に2ランホームランをプレゼントしてぬか喜びさせてからの地獄に突き落とすようなしつこいスクイズ攻勢で相手捕手の金玉破壊までして不幸のどん底にまで落とされましたね・・・・。ある意味3-11や1-7で完敗した方が「やはり相手の方が力が上だった」とサッパリできますが、1点差の敗戦は相当ダメージが残りますよ!

ジャンル云々と言われたら・・・ここをよく見てはる閲覧者の方々は大会期間中に歴代5位タイ甲子園51勝監督の逝去や巨人・西武で捕手として活躍し、現在は仙台六大学野球リーグ・東北学院大の監督を務める星孝典監督の娘で学生コーチ兼マネジャーをしてはるマスコミがやたら話題にしていた女の子の話題を一文字も書かなかったことでお察し通りとしか言いようがないかな(笑)

せやけど、彩星工科(村野工業)の監督をされている横浜高校平田前監督はそない悪い人には思えないし(今の監督の方がルポライターの柳川さんが再三告発しているようによほどいわくつきかと・・・)初代カンドクの淡路島サンズに横浜高校卒業して即入団した叶くん(たしか渡辺監督最後の夏に背番号20でベンチ入りし準優勝)は他球団ながら一目置いてお声がげさせていただきちゃっかりサインもらいました!

健康福祉大に関しては。。。今回も八幡商・天理が苦汁を舐めたし、天理はこれで1勝3敗・・・。他にも下関国際・神村学園・工大福井・明豊その他モロモロ苦境に追いやられたので・・・。
甲子園初戦突破率の高いチームはやはり好きにはなれないですね・・・。青柳監督が3年春に甲子園出た時には初戦で新田に1-9で完敗したようですが『こういうのがイイんだよ!』って感じですね。僕にとっては。

どういうわけか???昨夏は初戦敗退でクニに帰ったけれど今年は6試合やりましたね。相変わらず僕にご当地アイドルと間違えられた応援部が着物と袴着用してメガホン両手に目立ってましたが、2年前は6人でホノボノとしていたようですが、今では25名程度に増殖しそのうち48人揃えるのでは???と。
実際、昨春試合前に話してみたら謙虚なお嬢さんたちで、パインアメの差し入れとともにここのアドレスを手書きで添えてteacup.時代の掲示板の表紙渡してスカウトした手前、あんまり厳しいことは書けませんが、、、、、まあ。なんとか前橋育英や桐生一・樹徳どこでもエエから奮起を促したいですね。
2026/09/05(土) 23時18分51秒 No.2602 編集 削除
 報知高校野球9月号購入。
108回夏の甲子園大会は、智弁学園和歌山高等学校が、5年振り4回目の優勝しまたね。
 しかも、育英、横高、健大など東日本勢の関東、東北の管理人さん的には嫌いなジャンル?
 育英、横高はぐうの音も出ない位叩きのめしたね。

 夏の甲子園大会の7不思議とか言われているらしい?
 岩手Χ神奈川で岩手が夏負け🈚が、神奈川初勝利らしい。
 ただ横高には、春盛大が0ー10で今回0ー6で横高に18イニング無得点ですね。
 夏の愛媛負け🈚は継続中。

花巻東も横高に好機もあったようだけど好守備や走塁ミスで完敗でしたね。
 天理も、序盤に失点して苦しい展開が相手の四死球、失策、バッテリーミスを逃さず得点にする所は流石ですね。
 花巻東、育英、横高、健大などは関西人の管理人さんにとっては最高の負けっぷりじゃないの!
 これも日頃からの応援の賜物なんでしょうね。

 ただ秋季和歌山大会の初戦が、甲子園大会決勝戦の2日後になっていると、こちらで見て知っいましたが、あの時点ではね!
 流石にね!新チームのポジションも決まっていない中で試合だしね。
 各都道府県では、推薦で県大会出場が多いと思うが、地区予選からの出場となる県もあるが、和歌山は県大会2回やる感じだね。
 1回目の大会で優勝しても2回目大会でべスト8だと近畿大会に出られないの?

 元プロ野球選手監督は、勝つと流石だと言われるが、負けると何やってるんだと巷の者は騒ぐから大変だね!
 監督はドラ1位で将来有望捕手だったのに、OOで選手生命が絶たれけど、高校野球の監督では最多勝利監督になっているんじゃないの!
 智弁和歌山って落差凄いね!
那智の滝?和歌山じゃない!
 次があるからね。
こちらでも新聞記事になっていたから。
2026/09/05(土) 21時14分38秒 No.2601 編集 削除
第1話 雨中の激闘3時間!!! 波乱の幕開け・・・近鉄週末フリーきっぷで行く宿泊観戦ツアー

5/24 春季東海大会 初日開幕試合 津市営球場 津田学園(三重①)-中京(岐阜②) 10:03~13:03 

    一二三四五六七八九十計HE
津田学園010000024 7132 鈴木、丹羽、桑山-犬飼
中  京003010000 491 鈴木、西岡-古久保

 2025年の近畿大会は春秋ともに奈良・さとやくスタジアムでの開催となる。橿原は紀三井寺の次にお気に入りの場所なんでありがたいところだが、2025年はあいにく1週目が東海大会(三重)2週目が中国大会(岡山)とかち合ってしまったので、宿泊観戦優先で近畿大会をあきらめて2週連続旅に出た・・・・・。

1週目の東海大会は津と伊勢での開催。近鉄フリーきっぷを買えば土日月と3日間近鉄電車が乗り放題となるので、史上初の後泊で休養日の月曜日は養老鉄道に乗って桑名-大垣-揖斐を訪ねて岐阜モーニングを堪能したいと考えていた。しかしながら雨に振り回され旅程が大きく狂ってしまった↓↓

初日さえ乗り切れば後はなんとか・・・という天気予報だった。大いなる不安を抱いて旅立ちの朝となった初日。あるいは全試合雨天中止もあり得ると覚悟したが、意外と三重に入れば薄日も漏れて試合開始には問題なさそうだったが、、、、、
急ぎ足で津新町駅から津市営球場に到着したがそこで無情の通告が・・・・・すでに第2試合の豊川-桐陽の試合中止が決定し、本日は開幕試合のみと、、、、、💢
ここまで来たら「ああ、そうですか」とキビスを返して観光するわけにもいかず、屋根のないスタンドゆえになんとか雨が降らずに天気がもってくれたら。そして昼ご飯は津なぎさまち港まで歩いて雨露凌いで態勢を立て直して名張のスーパー温泉に湯治して久居のヤドに入らねばと・・・・・。

アルプスを見たら、東海大会出場したら地元三重でも岐阜にでもブラスバンドが駆け付ける津田学園だが、この日は悪天候予報ということもあってか?太鼓1つの応援。逆に岐阜・中京は遠路はるばる津までブラスバンドの応援がやってきた!
津田学園はエース・桑山の評判高いのだがあえて温存して背番号18の鈴木が先発。中京は2年生エース・鈴木の先発。この鈴木投手は翌年、東海NO1投手の称号を得る逸材となるのだがその片鱗を見せつけた試合だった。

太陽の位置が分かるくらいの天候でまだ雨の心配もなく定刻よりも3分遅いプレーボール。1回表津田は先頭の田中が3球三振を喫したが、2番・石井がショート内野安打。さらに3番・田北もショート内野安打にエラーも絡んで1・3塁。中京内野陣は深く守って1点は仕方ないという陣形だったが、4番・恵土はスライダーに三振。5番・犬飼サードゴロで無得点。
その裏、中京は1番・井之脇が四球で出塁。2番・花川送りたかったがファールで追い込まれ強打に切り替え8球粘るもライトフライ。1死1塁から3番・光安ライト前ヒットとチグハグな攻めになってしまい、津田学園同様4番・小原三振。5番・中島はセンターフライで無得点。お互い塁上を賑わせつつも0-0の立ち上がりで東海らしくノンビリしたペースで始まりこれが最後まで続き雨雲が迫ってきて・・・・・。

2回表6番・正木がレフト前ヒットで出塁すると佐川監督はいきなり盗塁のサインを出し成功。さらにファーストゴロで1死3塁。8番・鈴木投手は3球三振に倒れたが、9番・本田デッドボールで2死1・3塁。ここで1番・田中がライト前先制タイムリーヒットを放ち津田学園が先制。
その裏、中京も先頭の6番・下田が右中間ツーベース。藤本監督は手堅く送りバントで1死3塁。8番・笠木は1ストライクからサードゴロで3塁走者ホーム封殺など無得点。

3回表中京のエース・鈴木がようやくエンジン全開となったのか?津田学園のクリーンアップトリオを追い込んでスライダーで3者連続三振に打ち取り守りからリズムをつかみ、その裏1死から2番・花川センター前ヒット。3番・光安1-1からエンドランはファーストゴロで2死2塁とヒタヒタと追い上げる。ここで4番・小原が値千金のライトへの同点タイムリーツーベースを放ち1-1同点。さらにサードゴロ悪送球で傷口を広げ、盗塁も決まり2・3塁として6番・下田レフトへ2点タイムリーを放ち2死から一気に3-1と中京が試合をひっくり返し序盤を終えた。

まだ天気はかろうじて持っており中盤戦。願わくば開幕試合終了まで雨降らずに終わってくれたら・・・と思うが、近畿大会と違ってノンビリしたペースで試合が終始進んでいくので仕方がない。
鈴木投手は逆転してもらって気を良くして4回も三者連続三振で3・4回合わせて6者連続三振と手が付けられない!!代打の関係で津田は4回から2番手投手に背番号11の丹羽がリリーフ。佐川監督は最初からこの試合、エース・桑山の登板回避させるつもりなのか???いきなり先頭打者に四球を与えて送りバントで1死2塁。これ以上点差が開くともうどうしようもないところだが、中京の1・2番をショートゴロ・ライトフライに抑えて首の皮一枚残った。

津田学園はなりふり構わず5回先頭の9番・本田が7者連続三振を防ぐべくバントの構えで揺さぶってきた。初球はボール球だったし、フェイクかと思ったが、2球目ファールの後に本当にセーフティーをかましてバントヒット!しかし、鈴木投手が一枚上手で直後にけん制タッチアウト!!結果的に3イニング連続3人ずつで攻撃終了。
その裏、1死から4番・小原がツーベースで突破口を開き3連打で1点を追加して4-1と安全圏に入った。こうなると桑山投手を出しづらくなり丹羽投手続投で止むを得ない。7番・鈴木投手が中途半端にバットを出しファーストゴロ。2死2・3塁で代打・竹内が登場するもサードゴロに打ち取られ4-1と中京リードで折り返した。

試合開始前の青空は姿を消し、もういつ降りだしてもおかしくない状況でしかも本降りの雨が予想されている。。。。。5回まで1時間23分かかっておりコールドでなければ2時間30分ペース・・・。しかも中京の2年生エース・鈴木投手のデキを考えると3点差はあまりにも重すぎる、、、できたら評判高い津田学園・桑山投手を見たかったが、これからいつ雨が降ってもおかしくない状況で無理して投げさせて故障したら目も当てられない。。。
それにしても全く知らなかったが中京の2年生鈴木投手が5回まで津田学園を5安打1失点9奪三振とキレのよいスライダーを投げる剛腕がいたとは!その中京に勝って優勝した岐阜城北はもっと強いのだろうし、この夏ブレークしたのは県岐阜商で投手陣は全員2年生だったし、阪口監督が勇退しても強さを維持している大垣日大などなど岐阜のレベルはあまりにも高かった。

7分間の整備が終わった頃にいよいよ雨がパラついてきて折りたたみ傘の出番がやってきた。明日以降は無用の長物になりそうだが、この初日5/24は手放せない。。。
6回表津田は3番からの攻撃で反撃の糸口をつかみたかったが、この試合3度目の三者連続三振を喫しもどかしい展開。さらにその裏、先頭打者が死球をもらい送りバント失敗など走者釘付けでツーアウトまで来たが、雨が強くなりつつあるせいか?丹羽投手突如制球乱して連続四球で満塁。。。5番・中嶋にも2ボールと押し出し覚悟まで追いつめられたが、並行カウントまで戻し、並行カウントから2球ファールで粘られたが、7球目に高めのスライダー空振り三振でなんとか踏ん張ってくれた!

終盤3イニングは降りしきる雨の中、スコア付けという拷問に近いような観戦で難儀した↓↓コールドにはなってほしくないが点差からしてまだほど遠い。。。このペースだと3時間近く所要しかねないが予報も午後になればなるほど悪くなっていくというので、、、、、
7回表津田学園は空気を読んで???無抵抗主義で三者凡退。ただ、2死から丹羽投手に代打を送って投手交代が確定。そして7回裏ついに・・・3点ビハインドながら評判高いエース・桑山が登板。敗色濃厚の終盤で雨が降る悪コンディションで起用しなくても。。。とは思ったが、佐川監督はまだ試合を捨てていないという姿勢を選手に見せこれが終盤のドラマにつながる!
いきなり先頭打者をサードゴロ後逸によるエラーで出塁を許し、7番・鈴木投手は当初バントの構えだったが、1-1からバントファールで藤本監督はエンドラン多発してファールで粘りまくって9球目センター前ヒットで無死1・2塁。しかし、送りバント失敗・・・。それでも藤本監督は送りバントのサインを出し続け2死2・3塁と走者を進め1番・井之脇に託したが、外136km空振り三振で無得点。

これでコールドの可能性も限りなく0となり、8回表先頭の9番途中出場の井上が右中間にヒット。やはり3点ビハインドだけに無策で1番・田中は1ボールからセカンドゴロ2塁封殺。
しかし、2番・石井が8球粘ってライト前ヒット。ここで3番にはリリーフしたエース・桑山が打席に入り、初球右中間突破の2点タイムリースリーベースで重苦しい空気を振り払う会心の一撃であっという間に1点差に迫りなおも1死3塁と同点機を作る!4番・恵土に対して鈴木投手は100球を超えているが145kmの剛速球を立て続けに投げ込み終盤のスタミナも降りしきる雨も関係なく思いっきり闘争心を見せつけたが惜しくも四球で1死1・3塁と逆転の走者を出してしまった・・・。
中京内野陣は中間守備でセカンドゲッツー狙い。5番・犬飼は3打数ノーヒット2三振と鈴木投手に合っていなさそう。普通に打って攻略は難しいところで、佐川監督の采配は・・・1ボールから盗塁を仕掛け1死2・3塁で2ボール。1球様子を見てからの1-2から4球目ここで同点狙いのスクイズを敢行したが空振り・・・そして3塁走者封殺。。。2死2塁となって犬飼は粘って四球をもぎとるも6番・正木スライダーに空振り三振で後1点が届かない。。。
その裏、桑山投手は自分のバットで2点返して気を良くし、ボール球先行ながらも三者凡退に打ち取り1点差で最終回へ。

9回表津田学園は7番からの攻撃だったが、先頭の伊藤が1ボールからセンターオーバーのツーベースで出塁。8番・吉田は当然バントのシーンだが、1ストライクからなんとバントヒットで無死1・3塁。中京内野陣はここも中間守備で同点までは仕方がないといった布陣。9番・井上初球セカンドゴロでスクイズと同じ形で地味に4-4同点。
1番・田中がレフト前ヒットに盗塁を決めて2・3塁と攻め、2番・石井がレフト前逆転タイムリーヒットを放ちついに土壇場で津田学園が逆転に成功!ここまで引っ張った2年生エース・鈴木だが150球投げておりここが限界とみて同じく2年生・西岡投手にスイッチ。ところが、交代直後の1球目まさかのワイルドピッチで6点目。さらに2死から4番・恵土のサードフライを雨の影響と津市営球場の神風にかく乱され目測を誤りタイムリー内野安打で7点目。
雨もだんだん強くなる一方で9回裏中京はブラスバンドの応援団に応えたかったが、桑山投手の前に為すすべもなく三者凡退で試合終了。。。。。

なんと気が付けば試合時間3時間ちょうどでいかにも東海大会らしいスローテンポで試合終了。あまりにも早すぎる初日終了でガッカリしたが、このままおとなしく久居のヤドに行くつもりもなく、駅とは逆方向の津なぎさまち港まで約1km歩いて休憩所で昼ご飯。その頃、土砂降りに近い雨が降りだしそう考えると第2試合中止も妥当だったかなと。
しかし、明日の大会2日目は12時30分から津と伊勢で今日の中止分の試合のみ。月曜日に準決勝で水曜日が決勝と変則日程となった。

一応、ヤドは2日間取っているのだが、明日12時30分から1試合を伊勢で観るんだったら観光を前倒しして最終日に伊勢で準決勝2試合観戦できたらと。しかし、今日は久居にヤドを取っておりここから岐阜の揖斐まで長距離移動だし、明日は桑名にヤドを取っているのでここから伊勢までの大移動とは・・・・・。
しかも今夜のヤドは大浴場がないので名張のスーパー温泉で湯治を考えているので津~名張~久居と3日間フル移動ばかりとなってしまった・・・・・。

しかし2日目・3日目は天気の心配は全くなく、養老鉄道乗って揖斐駅付近の喫茶店モーニングも堪能し、大垣城~多度大社の観光を楽しみ、最終日にダイムスタジアム伊勢へ。
中止となった豊川-桐陽は17-7の7回コールドゲームながら2時間17分の試合だったらしい。
準決勝には三重高校も勝ち上がり津田学園とともに初戦突破したが、平日ということもあってか?応援団も来ないしスタンドはかなり寂しかった・・・。それは次回の講釈で。

チーム名 選手名 投球回 打者 投球数 安打 犠打 四球 死球 三振 暴投 失点 自責
津田学園 鈴 木  3  16   58   5  1  1  0  2  0  3  1
津田学園 丹 羽  3  16   60   3  1  3  1  1  0  1  1 
津田学園 桑 山  3  11   50   1  1  0  0  2  0  0  0 

中  京 鈴 木  8 1/3 38 150 12  0  2  1 14  0  7  5
中  京 西 岡   2/3   3   11  0  0  0  2  1  1  0  0

                         (完)  
                     
                       🌟次回予告🌟                    
5/26 春季東海大会 2日目第1試合 ダイムスタジアム伊勢 三重(三重②)-岐阜城北(岐阜①)
2026/09/04(金) 21時40分01秒 No.2600 編集 削除
宏鈴法師(管理人) MAIL URL

お知らせ

編集済
📣明日は、、、約4か月ぶりにレンタサイクルで舞洲上陸して近畿学生野球観戦してきます。しかし、先週金曜日の紀三井寺といい、明日の舞洲といい、、、絶望視された天気予報が急転直下快方に向かい観戦可能なコンディションになるとは・・・本当にありがたいことです!

💢令和8年度秋季近畿地区高等学校野球大会県一次予選の日程変更について(お知らせ)
https://www.whbf.jp/uploads/20260904165718_Vc1b.pdf

明日9月5日(土)から開催される、令和8年度秋季近畿地区高等学校野球大会県一次予選は悪天候が予想されるため、試合日程を下記の通り変更しましたのでお知らせします。

                   記

9月6日(日)上富田スポーツセンター野球場
第1試合 9:00 和歌山高専 ― 智辯和歌山(秋季県一次予選)
第2試合 11:30 海 南 ― 串本古座(秋季県一次予選)
第3試合 14:00 和歌山北 ― 粉 河(秋季県一次予選)

9月6日(日)田辺スポーツパーク野球場
第1試合 9:00 神 島 ― 市和歌山(新人戦準決勝戦)有料試合
第2試合 11:30 日 高 ― 桐 蔭(新人戦準決勝戦)有料試合
--------------------------------------
第3試合 14:00 県和歌山 ― 向 陽(秋季県一次予選)

9月7日(月)紀三井寺公園野球場
第1試合 10:00 県下高校野球新人戦決勝戦
--------------------------------------
第2試合 13:00 箕 島 ― 和歌山商業(秋季県一次予選)

9月8日(火)紀三井寺公園野球場
第1試合 9:00 田辺工 ― 紀北工(秋季県一次予選)
第2試合 11:30 南 部 ― 那 賀(秋季県一次予選)

※なお、明日以降も悪天候が予想されています。グラウンドコンディション不良により、大会日程が大幅に変更する場合があります。あしからずご了承ください。

                               以上

📝【近畿学生野球 9月5日開幕】和歌山大 橋本主将と“ミスターゼロ”一井がけん引
https://news.yahoo.co.jp/articles/1bf77a8aa4eb75130a2ee4fdc215a2d88c726e68

近畿学生野球連盟の秋季1部リーグ戦は5日、大阪市の大阪シティ信用金庫スタジアムで開幕する。1948年に創設され、国公立大、私立大合わせて18校で活動する連盟は「文武両道のリーグ」と呼ばれ、「フェアプレーの精神」を重んじる。4連覇中の奈良学園大にストップをかけるのは、どの大学か。各校の注目選手を中心に紹介し、展望した。

「覚悟」を示す秋となる。主将不在で戦った今春は2位も、「軸」不在が結果的に大きく響いた和歌山大。2年春から主力として出場する橋本は自ら志願し、チームを背負うと決めた。
「歴代の主将とはレベルが違うので、自信がなかった。ただ、腹をくくってやらないと勝てないと思った」

同期や先輩、歴代の主将にも相談。大原弘監督からはリーダーになるための参考書籍をもらい、主将像を模索する。今春まで2番を打ったが春9盗塁とチームNo.1の俊足を生かして秋は1番を打つ可能性もある。「やることは変わらないが、気持ち的に(チームに)勢いをつけたい。隙があれば走り、(相手に)プレッシャーをかけたい」。姿勢、プレー、存在感全てにおいて先頭に立つ。

右サイドの一井は、昨秋にリーグ戦デビューし今春は16回2/3を無失点。全6試合救援で3試合は得点圏に走者がいる場面で生還さえ許さなかった。通算20イニング無失点の「ミスターゼロ」だ。

「ゼロで抑えて(無失点を)伸ばしていくのがモチベーションになっている」

昨年7月のオープン戦でKOされ、大原監督から上手から横手への転向を打診された。「自分でも何かを変えないとダメだと思っていたが、怖さがあった」。1カ月で球速が3キロ増し、140キロだった最速は146キロまで上昇。変化球の曲がりも格段に良くなった。

秋は先発起用も視野に入れたフル回転が求められる。「無失点でリーグ戦を終えて、胴上げ投手になりたい」。24年春以来の頂点へスコアボードに「0」を刻んでいく。

📝「苦しかったな…というのもあります」PL学園“伝説の名将”の孫が甲子園後に明かしたホンネ…「どんな指導者になりたい?」質問への“納得の答え”
https://news.yahoo.co.jp/articles/ebc61f7d69234b6cce3d1de1dab60ca41282f3a8

キャプテンと血筋。佐野日大の中村盛汰にとって何よりも重要なのは前者だ。しかし、世間はどうしても後者をクローズアップしたくなる。

中村順司の孫。PL学園の監督として、1987年に達成した春夏連覇など6度の日本一。甲子園で通算58勝を挙げ、桑田真澄と清原和博の「KK」をはじめ多くの名選手をプロへと送り出した名将の血筋を継ぐ者が甲子園に出場したとなれば、否が応でも話題にされてしまう。

“レジェンド”の祖父に関する質問
 
センバツに続いて夏も甲子園に出た佐野日大のキャプテンは、試合後の囲み取材になると真っ先に祖父について記者の質問を受ける。やりとりは、だいたいがこんな具合だ。

――試合前に言われたことは? 

「『自分ではなくチームの結果を最優先に』と言われるので、その言葉通りのプレーをしたいな、と思います」

――高校野球のレジェンドでもある祖父は、どのような存在か? 

「甲子園で1勝するだけでも本当にきつく、大変だったんですけど、それを何度も続けてきたことが非常に偉大だと感じています」

囲み取材中の中村は表情を崩さない。それは、血筋を認めながらも自己証明を果たさんとする覚悟の表れでもあるようだった。福島から富山の新川で高校野球を過ごした3歳上の兄、貫汰の成長を目の当たりにし、中村も県外でのプレーを志した。日大東北で指導する父・猛安は、兄と同じ道を選んだ弟の決断を、このように尊重している。

「甲子園に行くために日大東北を捨てて、佐野日大に行ったわけではないんです。貫汰の自立に後押しされたこともあるでしょうけど、そこから家族ですごく話し合いましたし、盛汰の決意も固かったですからね」

父は息子に告げた。

「高校に入ったらおじいちゃんがいるからとか、いろんなことを言われるぞ。それはお前にとって宿命だからな」

息子は父の言葉を受け止め、背負った。佐野日大のBチームは、下級生の1年生をリーダーに据え、チームに残る2年生がバックアップする仕組みとなっている。同級生のみならず、上級生も牽引する立場となった中村は「道具の整理ができていない」など、細かいところまで指導者から指摘されてきた。Bチーム時代から苦難を知る吉沢悠は、中村の立ち振る舞いに敬意を払う。

「高校に入ってきたときから、ずっと家族のことを言われて苦しいことが多かったし、辛そうな姿もいっぱい見てきたんですけど、本当に弱音を吐かずにやっていました」

1年生の秋からベンチ入り。高校野球のキャリアとしては順調ながら、中村にとってはむしろ試練のほうが多かったくらいだ。猛安が今も心を痛めるほどに焼き付けているのが、昨夏の栃木大会の3回戦である。

「自分のせいで先輩を負けさせてしまった」
 
栃木工戦の8回、2点リードの場面でマウンドに上がったのが中村だった。内野手ながら制球力に優れていたことを評価されての登板だったが、9回に3点を奪われ逆転を許し、佐野日大は4-5で敗れた。猛安の回想だ。

「負けた瞬間の盛汰は、もう涙も出ないくらいの放心状態でした。本人は口に出しませんでしたが、そこから『自分のせいで先輩を負けさせてしまった。もうチームにこんな思いをさせたくない』という気持ちが、新チームになってすごく出るようになりましたね」

その中村の姿勢の根幹にある精神こそ、祖父の順司と父の猛安が、中村が幼いころから説いていた訓示「球道即人道」だった。PL学園の監督時代から多くの選手に影響を与えてきた格言を、中村は体現した。

「野球っていうのは技術も大切ですけど、それだけじゃなくて運や徳を積むことも大事で。新チームでキャプテンをやらせてもらい『もっと応援されるチームになろう』ということで、挨拶をする、ごみを拾う、室内ではスリッパを並べるとか、そういう細かい部分を詰めるというんですかね。それが『球道即人道』にも込められていまして。そういった小さいことをコツコツとやったことが、結果につながったと思っています」

苦しくとも弱みを見せないキャプテンは、チームメートの痛みにこそ寄り添った。12年ぶりのセンバツ出場と結果を出したのも束の間、苦楽をともに歩んできたショートの吉沢が左足を故障し、欠場を余儀なくされた。

「自分のペースでいいからな」

吉沢はキャプテンからかけられたこのひと言が支えとなったと、感謝を述べる。

「自分は副キャプテンだったので中村をサポートしなくちゃいけない立場だったんですけど、怪我をしたときは本当に自分のことで精いっぱいになってしまって。そこで中村がそう言ってくれて、焦りがなくなりました」

センバツでは初戦で三重に敗れた。春季大会から、それまでのサードから慣れないファーストを守ることになっても、中村は「勝利に直結するポジションだからやりがいがある」と、弱音を吐かずグラウンドに立ち続けた。そんな佇まいが、選手に勇気を与える。セカンドや三塁コーチャーと多岐にわたりチームを支えた千嶋紘史は、「中村がキャプテンだったから」と強調するように言う。

「練習でみんなが乗り気じゃないときも、ひとりで先陣を切って行動できるような真面目さがあって。キャプテンだからみんなにいろいろ言われることもあったんですけど、最後は本当に頼りにされるというか。チームとして彼を中心にまとまっていったなと思います」

夏の甲子園で「2勝」…確かな足跡
 
中村が「球道即人道」を貫きまとめ上げたチームが、夏に大きな成果を挙げる。

2年生の小島颯人の劇的すぎる逆転サヨナラホームランで決めた、16年ぶりとなる夏の甲子園。初戦で「大会屈指の左腕」と呼ばれた聖隷クリストファーの高部陸を攻略し、2回戦では優勝候補のダークホースに挙げられる神村学園も撃破した。「夏こそ校歌を」と一丸となったチームは、甲子園で2勝し爪痕を残したのである。
栃木大会で打率1割台と調子が上がらなかった中村は、甲子園でも3試合でノーヒットに終わった。健大高崎との3回戦では4回の守備から退いたが、代わりにファーストを守る吉沢に「自分らしく、落ち着いて!」と声を掛け、鼓舞し続けた。キャプテンは試合で劣勢でも、敗れてもなお顔を上げていた。監督の麦倉洋一が「あれだけ」と、宿命を引き合いに目を細める。

「自分の成績がどうであれ、チームのために動ける人間でした。よくまとめてくれたと思います。あれだけのプレッシャーを感じながらそれができるというのは大したものです。人間的に本当に素晴らしいことですよね」

監督だけではなく、吉沢も千嶋も、チームメートたちが中村を「最高のキャプテン」と述べ、感謝を口にしていた。それまで表情を崩すことのなかった最高のキャプテンの顔色は、健大高崎との試合後には少し穏やかになっていたように感じた。だから、少しだけ彼の心に触れてみた。

――「中村順司の孫」という宿命を背負ってきた高校野球はどうだったか? 

「なんて言うんですかね……」今までとは異なる空気感をまとい、中村が口を開いた。
「いろんな意味で注目されてしまって、そのなかで自分のプレーもできなくて。祖父の存在があったからこそここまでこられたんですけど、苦しかったなというのもあります」

表情が物語る。間違いなく、それまでの建前ではなく本音だ。だからこそ、もう一歩、彼の心に踏み込むことができた。

――苦しみとは、「中村順司の孫」ではなく「佐野日大の中村盛汰」として見てもらいたい、葛藤のようなものだったのか? 

中村は少し間をおいてから「はい」と軽く頷き、このように結んだ。

「父の『宿命だから』という言葉を思い返して、ここまでやってこられたので。この道を選んで、成長できたかなって感じています」

そして、中村家の遺伝子は育まれる。彼も「将来は指導者になりたい」と言った。

「どんな指導者になりたい?」質問への答えは…

――どんな指導者になりたいか? 

報道陣から質問が投げられる。彼らはきっと「祖父や父のような」という、理想的な答えを求めていたに違いない。だが、中村はきっぱりと宣言した。

「麦倉監督のような、選手一人ひとりを見て、攻めた采配ができる指導者になりたいです。いつか佐野日大を引っ張って、甲子園に帰ってこられたらいいなと思っています」

PL学園でも日大東北でもなく。そこには、佐野日大の中村盛汰がいた。

☝「夫は兄と同学年」NY留学、経営…妻・千保子さんの異色キャリアが【甲子園優勝校・智弁和歌山】の寮母に繋がるまで
https://news.yahoo.co.jp/articles/dc7544a3ff62ce7d0b2ae7c720963ce781ea4efb?page=1

子どもが野球やスポーツに携わったことがある世代ならば「甲子園優勝」は、ハードな練習を続けた本人の努力と周囲のサポート、そして強運が積み重なったのちに手にする『奇跡の栄光』と身をもって感じているはず。その奇跡を現実に変えた選手たちのメンタル面をサポートしているのが、智弁和歌山野球部寮の寮母を務めている中谷千保子さん(42歳)です。どうしたら、強くブレない気持ちで子ども達に接することができるのか。寮母となるまでの、千保子さんのキャリアと共にお伺いしました。

監督は兄の知り合い、子どもの頃から兄以上に兄のような存在でした

「監督との出会いは中学生の頃。私が育った家庭は野球一家で、私の一番上の兄が野球部で、それぞれ学校は異なりますが監督と同学年で交流があったんです。そんな関係で監督が高校生の頃から実家に頻繁に出入りしていたので、実の兄よりも兄みたいな存在でしたね。出会ってからもうすぐ30年。監督が高校卒業後プロに進んだ後も、兄との関係は続いていたので和歌山に戻った時には実家に遊びにきたり、兄を含めて食事をしたりという間柄でした。私自身は3歳からクラシックバレエを始め、その後、新体操やダンスを始めました。高校卒業後は単身ニューヨークに2年ほどダンス留学へ。帰国後は東京でダンスの仕事を数年したのちに、家族の都合もあり24歳で和歌山に戻りダンススクールとヨガスタジオの経営を始めました。現在も寮のすぐ近くに酵素浴とチョップドサラダの専門店、ヨガスタジオを備えた複合施設「和の酵素〜叶〜」と別の場所でも蓮舞ヨガスタジオを経営しています。」

監督が和歌山に戻るタイミングで、選手のコンディショニングを任されて

「監督との関係はその後もずっと変わらず続いていましたが、2018年から『選手たちの身体のコンディションとメンタルのケアして欲しい』と声をかけていただき、一緒に取り組むことになりました。
経営していたヨガスタジオでは、スポーツ選手の体のケアなどもフォローしていましたし、私とは子どもの頃からの知り合いでお互いに‘素’の部分を知っていたので、監督もやりやすかったのだと思います。その後、2019年に現在の寮「智翔館」が完成した時に「寮母になって欲しい」と請われた時も「いーよ」と即答でお受けしました。寮母となることに不安や抵抗がなかったのは、私自身小学校の頃から実家の近所に全国大会レベルの高校の柔道部の寮があり、そこの監督ご家族と家族ぐるみでお付き合いをしていた部分が大きいですね。小学校4年生の頃からその寮にお手伝いに行くことが楽しくて、食料の買い出しから料理まで様々なお手伝いしていたんです。そこの寮母である監督の奥様はものすごく丁寧な料理をする方で、高校生の寮なのに出汁取りから野菜の面取りまで全て手作りでなされていて。私の寮母としての料理の原点はその方にあります。そんな手の込んだ料理に触れて学び育ったので、寮母となってメンタル面でのサポートに加え、日々の料理を作ることに迷いや不安はありませんでした。結婚したのは2020年、お互い再婚同士です。それまでのお互いのキャリアの点と点が全て繋がった結婚でした。」

怪我の多い選手がきっかけで、酵素浴施設を開業

「私自身、失敗をあまり考えず、とにかくなんでもやってみよう!と走り出す性格で、たとえ失敗したとしても、やらなかったより後悔がないと思えるタイプ。今も監督から『こういうチームを作りたい』『身体作りのためにこんなサポートをしたい』など日々の会話の中に出てきたことをカタチにしていくことにやり甲斐を感じ、私の役目だと思っています。酵素浴のある施設を作ったのも、ちょっとした思いつきがきっかけ。以前に疲労骨折や肉離れを繰り返す選手がいたんです。その子をケアしつつ、いかに早く回復させてチームに復帰させるかが課題だったのですが、その時に自分自身も通っていて血液循環が良くなり治癒力を促すことを実感していた酵素風呂を取り入れたいと思い、実行に移しました。近辺の既存の施設は営業時間が合わなかったり女性限定だったりで選手を通わせることができず、こうなったら自分で作るしかないと思いたち、監督にも相談して2021年に今の施設を完成させました。きっかけとなった選手は卒業した後の完成となってしまったのは残念ですが、現在も選手たちの身体のケアに酵素浴を取り入れています。ちなみに酵素浴が役に立ったのか、完成の年に中谷智弁として1度目の甲子園優勝を果たしました。」

甲子園優勝は一つの通過点 自らこの先の人生を切り開く力をつけてほしい

常にポジティブな姿勢で自らの人生も、選手たちとも向き合ってきた千保子さん。甲子園優勝という『奇跡の栄光』を手にした選手たちが優勝旗を手に宿舎に戻った時にかけた声も、祝福だけではなくその先の人生に目を向かせる言葉でした。

「甲子園優勝は素晴らしい結果で、もちろん私も嬉しかったです。一方で優勝メンバーはこれから先の人生ずっと『甲子園優勝』という看板を背負って生きていくことになるんです。進学しても、就職しても、社会人やプロとして野球を続けても、それはずっとついてまわります。だから寮に戻った選手たちには『甲子園優勝した誰々という看板はずっとつきまとう、その価値を下げないようにこれから先の人生は更にアップデートが必要。ある意味、人生のハードルが上がったのだから気を引き締めて』と言葉をかけました。優勝は、あくまで2026年8月22日まで彼らが歩んできた道の答え合わせです。8月23日からは新しい道を歩んでいくという意識を持たないといけません。だって、彼らの人生先の方がはるかに長いのですから。私は日頃から、勝ちにも負けにも価値があると思っています。勝ったら「その理由」を考え学ぶことがありますし、負けた時も「その理由」を考えその時だから響く言葉や痛みの意味を知るという経験も人生には必要なこと。彼らがこれから先の人生、自分自身でどれだけ豊かで幸せな人生を切り開いていく力を持っているか、こちら方が重要なんです。私の目標は彼らが社会に出た時に「この子がいてよかった!」と言われる人間を育成すること。答えが出るのは今じゃなくていい。この先、彼らがどんな人生を歩んでいくのかそれを見守っていくのが私の寮母としての最大の楽しみです。」

甲子園優勝から2日後。8月24日に開かれた秋季和歌山大会新人戦に智弁和歌山は新チームで挑み、2回戦で和歌山東に2-5で敗れ、秋季県大会は一次戦に回ることになりました。新人戦で4強に入れば来春の選抜出場をかけた県大会に2次戦から出場できたところを、この黒星で1次戦から出場することに。

選手たちは今きっと、「勝ちにも負けにも意味がある」中谷千保子さんのこの言葉に支えられ、新しい道を歩んでいるに違いありません。
2026/09/04(金) 21時38分48秒 No.2599 編集 削除
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お知らせ

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👣高校野球の“名将”強力『ヒグマ打線』の指導者 クラーク国際記念高校・佐々木啓司監督(70)が勇退「すばらしい野球生活だった」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e4d2e47ccfe4e6d0a9b1f88b627a5c3b97de5cdc

高校野球、クラーク国際記念高校・硬式野球部の佐々木啓司監督(70)が、9月2日退任することを発表しました。

佐々木監督は、1978年から駒大岩見沢の監督や部長を務めたあと、2014年に、クラーク国際記念高校の監督に就任。春夏合わせて16度、甲子園出場に導きました。駒大岩見沢時代には「ヒグマ打線」と呼ばれる強力打線の指導者として名をはせました。

佐々木啓司監督「すばらしい野球生活を送らせてもらった。人からの思いを大切にしてきたのが、これまで頑張ってこれた原動力になった」

後任は、息子の達也さん(42)が監督となり、佐々木監督は、名誉監督に就任します。

📝“甲子園優勝”智弁和歌山を「最も苦しめた男」は何者だった?「甲子園、見に行ったんですよ」まさかの「夢は美容師」だった“公立校の151キロ右腕”の軌跡
https://news.yahoo.co.jp/articles/ae9330d5b1d0b752444c9e1bd1ed226fa0b528ba

持ち前の強打を活かし、夏の甲子園で頂点に立った智弁和歌山。だが、実は和歌山大会準々決勝では、ある右腕の前に最後の最後まで苦しめられた。果たして全国王者を追い詰めた公立校のエースとは何者だったのか?  その「意外な夢」と合わせて本人に話を聞いた。

8月末のある日。すでに秋の公式戦が始まっている市和歌山のグラウンドは、週末の一戦に向けた新チームの練習で活気にあふれていた。その傍らで髪の毛が伸びた練習着姿の3年生が野球道具を抱えてやってくると、軽く練習を開始。白いチームのTシャツに身を包んだ丹羽涼介も、その中で笑顔を見せながらグローブを手にした。細身ですらっとした立ち姿は相変わらずだ。高校野球を引退し、夏休みを経た3年生はこの時点で体型が少し変わっていることはあるが、丹羽は現役時代そのままだった。

夏休みは満喫できたのかを問うと、丹羽の口からこう返ってきた。

「甲子園、見に行っていたんですよ。智弁の試合を……2試合、見に行きました」

聞くと初戦の社戦、準決勝の横浜戦を現地観戦したという。これまでの丹羽のクールなイメージからすると、ライバル校の試合など、むしろ見たくないのではと勝手な印象を持っていた。だが、やはり県で何度も戦ったライバルの勇姿を見届けたかったのと、小・中学校でチームメイトだった背番号12の井戸本陽向の応援のため、聖地に駆けつけたのだという。

「(準決勝の横浜戦で)楠本(龍生)がホームランを打った時、スタンドが揺れていました。すごかったですよね」

智弁の打者は「生き生きとバットを振っていた」
 
当時の衝撃を丹羽はやや興奮気味に口にする。そして5年ぶりに全国制覇を成し遂げた智弁和歌山の打者について、こんな印象も持っていた。

「智弁和歌山のバッターは、甲子園に来てから生き生きとバットを振っているように見えました。そこが県大会とは違っていたような気がします」

県大会5試合、甲子園で5試合。智弁和歌山が今夏の全国制覇に至るまで戦った計10試合で、同校の打線を最も抑えたのは、実は丹羽だった。県大会準々決勝で対戦し先発。敗れはしたが、4回2死まで無安打投球など9回を投げ切り6安打2失点だった。

この試合以前に丹羽は3度、智弁和歌山打線に相対している。智弁和歌山打線には慣れていたのでは、と思いがちだが、この夏の快投に至るまでの道のりは決して平坦ではなかった。
丹羽は市和歌山では1年春からベンチ入り。秋には投手陣の一角を担い、秋季近畿大会に出場した。準決勝の智弁和歌山戦。1-6とリードされた8回に4番手投手として登板したのが智弁和歌山戦の初登板だった。結果は2安打を許すも無失点。直球は137キロをマークするなど1年生としては上々の内容だった。

丹羽は和歌山大会のメイン球場の紀三井寺球場近くで育った生粋の“和歌山っ子”だ。当然、智弁和歌山の県内での強さは、幼い頃から肌で感じてきた。

「とにかく名前負けはしないようにと。その思いだけは持ちながら投げるようにしてきました」

昨春のセンバツで好投…一躍「プロ注目」の投手に
 
その翌春、つまり昨春センバツは智弁和歌山とのアベック出場を果たした。市和歌山は初戦で横浜と対戦。先発したエースの土井源二郎から引き継いで3回途中から登板した丹羽は、のちに優勝することになった強力打線を相手に6回2/3を投げて2安打1失点。奪三振は8個を数えた。直球は秋から10キロアップの147キロをマークするなど上々の数字を残し、「あの2年生右腕は誰なんだ」と、丹羽の株は一気に跳ね上がった。

直後の春の県大会ではその直球の球速が150キロに届き、来秋のドラフト候補と言われるまでになったが、そこから丹羽の苦悩の日々が続くことになる。
2年夏は智弁和歌山と準々決勝で対戦し、先発のマウンドに立った。だが初回からボール先行のピッチングが続き、5回途中8安打5失点で降板している。5四死球も失点に絡んでおり、打たれた数字以上に自滅したという表現の方が合っていたかもしれない。試合は0-7(8回コールド)で完敗。ただ、センバツからの注目度は結果に全く関係はなかったという。

「あの頃、自分はまだ下級生でしたし、気楽に投げられていたので、センバツのことは特に気にはなりませんでした。でも秋に最上級生になって、エース番号をつけるようになったら自分がチームを勝たせられるようにならないといけない。そう思うほど、苦しんだこともありました」

エースとして臨んだ昨秋は近畿大会まで勝ち進むも初戦で大阪桐蔭に1-7で敗れた。そこから長い冬に突入。課題は明確だった。まず、どうしてもかさんでしまう球数の多さ。2年夏に敗れた試合は5回途中で球数がすでに100球超えだった。

「フォアボールを出してしまうと、どうしてもストライクを入れないと、という気持ちが一層強くなるんです。そこから余計に慎重になって、またボールになってしまって」

満を持して迎えた春大会で…「まさかの大乱調」
 
制球力を磨くことに時間をかけ、迎えた今春の県大会。初戦でいきなり智弁和歌山と激突することになった。昨夏に続く先発のマウンドに立ったが、やはり初回からボールが先行した。毎回走者を背負い、6回を投げ4安打5失点。7四死球を与えるなどスタンドに陣取ったNPBスカウトからも深い溜息が漏れるような内容だった。

夏までにもう時間はない。もう一度自分を見つめ直すべく、体幹を作り直すためのトレーニングやウエイトトレーニングを敢行した。だが、すぐに上手くいったわけではない。半田真一監督も当時の丹羽についてこう明かす。

「バランスが崩れて球速も落ちて、毎日フォームが違う。もう、もがいていましたね。丹羽自身、どこかこうイライラしているようにも見えました。でも、夏の話に触れると本人は“夏は絶対にやります”って言うんですよ。気持ちはちゃんと夏に向いてはいたと思うんです。夏こそは智弁を倒して甲子園に行くという覚悟はできていたと思うんですが、実際は気持ちと身体がなかなかマッチングしない。だから、見ていて痛々しかったですね」

「このまま野球をやっていていいのかな」
 
フォームに関して、丹羽はこんな話もしていた。

「(今年の)春くらいに、山本由伸投手(ドジャース)のフォームを参考にして投げていた時期があったんです。智弁和歌山戦後にそのフォームで投げてみようとか試したんですけど、うまくいかなくて。その後に去年のセンバツの時のフォームに戻してもダメで。何をやってもしっくり来なくて、このまま野球をやっていていいのかなと思ったこともありました」

小園健太(DeNA)ら主に投手を指導してきた舩津直也副部長(現・箕島高監督)がこの4月に異動したことも少なからず影響はあった。この時期が丹羽にとって「高校に入学して一番苦しかった時期」だったという。練習試合でも直球の球速は140キロはおろか、130キロ台後半まで落ち、NPBスカウトの中でも「丹羽が大変なことになっている」という言葉すら聞かれはじめていた。

               <次回へつづく>

📝「プロにするか、美容師の道に進むか…」“甲子園優勝”智弁和歌山を「最も苦しめた男」の進路はどうなった? 公立校151キロ右腕の“決意”のワケ
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プロ注目の151キロ右腕だった市立和歌山の丹羽涼介。だが、今春からはフォームを変更したことによるスランプに悩んでいた。
7月に入っても復調の兆しはなかなか見えてこなかった。やがて夏の大会が始まり、初戦(2回戦)の田辺工戦で先発した丹羽は、5安打1失点とまずまずの内容で夏の初戦を突破した。それでもその日のピッチングについて尋ねると、丹羽の表情は晴れなかった。

「全然ダメでした。やっぱりコントロールが良くなかったです(※与四死球は5個)。自分が思っていたような内容ではなかったです」

智弁和歌山戦まで中5日あったが、実はその間も何かが劇的に変わることもなく当日を迎えたのだという。

「智弁和歌山戦前日のブルペンも、あまり良くないままでした。思ったようなボールはほとんどなかったですね。でも、最後の夏やし明日はもう抑えるしかないと。開き直りというか。もう、やるしかないと思うようになって。あれこれ気にしていたら悪い方向にばかりいってしまうので、当たって砕けろみたいな気持ちになりました」

余計なことは考えず、腕を振ればいい。気持ちをフラットに臨んだ“決戦”。その姿勢が反対に無駄な力を抜き、丹羽らしさを出せたのかもしれない。

智弁和歌山の上位打線をわずか3球で…掴んだ手応え
 
初回。1番の長友悠成を遊ゴロ、2番の荒井優聖を中飛、3番の井本陽太を二ゴロ。あの脅威の上位打線を3球で仕留められた。思わぬ滑り出しとなり、今までにはなかった手応えを掴んだ気もした。

「自分はもともと立ち上がりが課題でした。全て初球を打ってくれたのもあったんですけれど、こういう形で初回を終われたことは自分に流れが来ているのかなと思いました」

3回までは無安打に抑え、4回、5回は安打を許すも後続を断った。6回には満塁のピンチを背負ったが、あと1本を許さなかった。練習試合ではなかなか球速が上がらなかった速球も、序盤には150キロをマーク。速球とカットボールとのコンビネーションで智弁和歌山打線を抑え込み、気づけば7回になっていた。

裏目に出た「賭け」…無安打での失点
 
だが8回、丹羽が挑んだ“ギャンブル”が裏目に出る。

「7回までに使っていなかったカーブを投げたんです。それが(長友への)死球になってしまって」

この日の丹羽は、変化球にカットボールが多かった。そのため、打者の目を惑わす意味でカーブを投げた。だが、それが指に引っかかってしまい、先頭打者の長友への死球となった。その後は暴投で一気に三塁を陥れられ、犠飛で1点を失った。9回は3連打でさらに1点を失った。0-2。終盤まで粘り切ったものの、最後は力尽きた。ただ、これまでの敗戦を思うと丹羽の心中は清々しかった。

「全部出し切れた、というのはあります。(9回の追加点の口火を切ることになった)二塁打を打たれたのが(小学校・中学校と同じチームだった)井戸本(陽向)だったので、あの場面はこうしておけば……というのはありますけど。今まで悔しいまま終わったことを思うと、最後の最後に力は出せたのかなと思いました」

甲子園優勝後の取材で、中谷仁監督は何度も「和歌山の良い投手とばかり対戦して、和歌山のピッチャーに育ててもらった」とコメントしていた。智弁和歌山ナインからは、甲子園の準決勝後に「これまで対戦した投手の中で横浜・織田翔希が断トツ凄かった」という声が聞かれる中で「丹羽のストレートのキレとカットボールが良かった」と口にする者もいた。

「智弁和歌山打線は初球からガンガン振ってくるので、そこをうまく利用しようと思いました。どんなバッターでも厳しいコースをしっかり攻めればそう簡単に打たれないと思ったので。ただ、智弁和歌山の打者はとにかく三振が少ないんです。三振を取りたい場面ほど三振をしない。そこに自分は何度も苦しめられました」

その快投でNPBスカウトからの評価が一気に変わるのか――。多くの可能性も残したまま丹羽の将来への話に繋がっていくはずだが、丹羽に関してもうひとつ気になっていたのが「美容師志望」という報道だった。その報道が出たのは今年の3月。あるセンバツ出場校との練習試合後の記事で、プロ注目とされながら実は美容師志望でもあることが明かされたのだ。これまでマークしてきたNPBスカウトからしても、まさに「寝耳に水」の話で、半田(真一)監督のもとにも多くの問い合わせがあったという。丹羽自身も「色んな人から(美容師のことを)たくさん聞かれました」としたうえで当時のことをこう明かす。

「親からは猛反対されました(苦笑)。色々な人から、『何で美容師?』とも言われましたけど、実はずっと進路に関しては悩んでいたんです」

なぜ美容師に興味を持ったのか?

初めて美容師という職業に興味を持ったのは、高校1年の冬だった。ちょうど野球シーズンがオフの時期で、実戦よりも地道な練習の日々でもあった。だが、野球に関して「実はうまくいかないことが多かった」時期でもあったという。

「地元の友達で美容師を目指す専門学校に通っている人が結構いて、美容師に関する話を聞いていくうちに、かっこいいなと思うようになったんです」

違った業界で活躍を夢見る同世代の友達が、時にはうらやましく思った。ただ、自分の目の前にあるのは野球。野球で頑張るしかないのは分かっていたが、この頃の丹羽は何をやってもうまくいかなかった。いっそのこと、野球のことは忘れて自分もそんな業界へ行った方が意外と合っているのではないか――。そんな気持ちになっていた。半田監督にとっても丹羽の美容師志望の話は寝耳に水だった。

「丹羽は中学時代に(世界少年野球大会の)西日本選抜チームに選ばれるようなピッチャーでしたし、プロの世界に送り出すために二人三脚でやりながら、どうプロデュースしていくか。そんなことをずっと考えていたので。美容師志望の話を聞いた時は本当に驚きました」

もちろん進路については何度も話し合った。それでも本人は「絶対にプロに行きたいです」とキッパリ言い切るわけではなく、迷っていることだけを口にしていたという。

「おそらく野球でうまくいかなかった時期に(美容師の)話を聞いて、心が揺れたんでしょうね。2年生になってからはどんどん注目されて、スカウトの方も見に来られるのに結果が出ない。自分が何をどうしていけばいいのか分からない。それは僕にも分からない彼のしんどさもあったと思うんです」

3年生になってからは投げることどころか、野球をこのまま続けて良いのか不安もあった。長いトンネルの中をさまよう中で、丹羽はある結論を出していた。

「プロ志望にするか、美容師の道に進むか、この夏の結果次第で決めようと思いました。この夏もダメだったら美容師を選んでいたかもしれません。でも、智弁和歌山を相手にああいうピッチングを最後に出来たことが(プロ志望の意思を固める)きっかけになりました」

「智弁和歌山が甲子園で優勝したことも…」

さらに丹羽はこう続ける。

「智弁和歌山が甲子園で優勝したことも要因のひとつです。あれだけの打線を抑えることができたので、自分にはまだ可能性があるかもしれないと思ったんです」

8月下旬にさしかかる頃、丹羽は自ら半田監督にメッセージを送信した。

「プロ志望届を出すことに決めました」

その言葉に安堵した指揮官だったが、丹羽のここまでの歩みについてこう口にした。

「今まではうまくいっていないことの方がほとんどだったと思います。プロに行きたいからと市和歌山に来てくれたのに、それからモチベーションや調子が落ちた時期もあって。それでも、センバツでは思わぬ形で登板が巡ってきて好投したり、最後の最後で良いピッチングで高校野球を終えることができたり……丹羽は“持っている”なと。そこは丹羽らしかったのかなと思うんです」

もちろん、プロは志望するだけがゴールではない。これから身体作り等の準備やプロで生きていくための心構えなども含め、様々な覚悟を持ってこそ挑戦できる。悔しさの分だけ成長できるとはよく言うが、悔しい思いをした時が多いからこそ、高校野球で明かせずに終わった未知数な部分も多い。

果たして丹羽のその“可能性”に賭ける球団は現れるのか――。土ぼこりが舞うグラウンドでキャッチボールに向かう右腕を、晩夏の太陽がいつまでも熱く照らし続けていた。

📝甲子園の常連「智辯学園和歌山高校」。進学でも実績を上げる仏教系新興勢力、その独自教育とは…
https://news.yahoo.co.jp/articles/e53807e587cbba1c4fc35f9a573dd20ed9655f6d

◆智辯学園和歌山高校 私立/共学/小中高一貫/和歌山県和歌山市冬野

進学でも高校野球でも実績を上げる仏教系新興勢力

智辯学園高校と智辯学園和歌山高校は甲子園の常連である。経営しているのは、辯天宗という高野山真言宗の流れを汲む仏教系新宗教の法人である。
宗祖の大森智辯は奈良県吉野町の出身だが、夫が和歌山市生まれで奈良県五條市の十輪寺の修行僧だったことが、奈良と和歌山での学校設立につながる。

昭和40年(1965)に智辯学園高校を開校し、その3年後に初の甲子園出場を果たした。そして昭和53年(1978)、和歌山県からの要請を受けて和歌山校を開設した。五條市の智辯学園では、和歌山県下からの通学生が3割にも上っていたことが動機だった。

智辯和歌山は、高校1期生にあたる昭和56年(1981)から京大合格者を出し、野球部も昭和60年(1985)に選抜に初出場。平成5年(1993)には東大合格者数が20名を突破、その翌年には選抜で優勝を遂げ、その後、夏の甲子園で3回の優勝を果たした。2026年には猛暑のなか圧倒的な攻撃力で打ち勝った。この2回の優勝時の監督は、OBで阪神タイガースなどで活躍した中谷仁。
また、平成14年(2002)には小学校を開校している。

◆学校がめざす重点目標

学校がめざす重点目標は、「一日一善、学力向上、挨拶励行」である。毎朝スピーカーから担当の教師が読み上げる真言、宝号を各クラスの生徒全員が唱和する。そして、日替わりの「宗祖様のお言葉」を聞く。

新興の学校なので著名人はまだすくないが、西川遥輝(プロ野球)、中谷仁(プロ野球)、泊幸秀(分子生物学)、宮野真生子(哲学者)、ZAZYの赤井俊之(お笑い芸人)。

JR和歌山駅から8キロほど南にあり、紀勢線の紀三井寺駅の次の駅である黒江駅から徒歩10分ほどである。岸和田など、大阪府下から通う生徒も二割ほどいる。

桐蔭高校の卒業生である、竹中平蔵と元の和歌山県知事の仁坂吉伸は同学年だったが、彼らが大学に進学した1970年頃は桐蔭高校から10名程度が東京大学に合格していた。

しかし、学区が細かく分かれて、しかも、和歌山市の学区が2分割されたので、公立高校の凋落が進み、智辯学園和歌山高校が伸びた。だが、その後の学区制の廃止や中高一貫制の導入もあって、再び桐蔭高校の復活も見られる。2026年度入試では、智辯学園和歌山高校は、東京大学に5名、京都大学に12名、大阪大学に16名だった。桐蔭高校が東京大学に2名、京都大学に4名、大阪大学に8名といった合格者数になっている。

私学では、近畿大学附属和歌山高校(和歌山市)も上昇傾向にある。
2026/09/03(木) 22時17分03秒 No.2598 編集 削除
📝令和8年度 秋季近畿地区高等学校野球大会 県一次予選 組み合わせ表
https://www.whbf.jp/uploads/20260902145508_HOrS.pdf

☟夏の甲子園ビデオ検証「1回では少ない」「明らかなボール球がストライクなのに」と話す監督も…「モヤモヤしなくていい」からこその“リアルな指摘”
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投手の球数制限、低反発バットの導入、DH制の採用。高校野球は近年、新たなルールが次々と設けられている。今夏の甲子園では初めて、ビデオ検証も取り入れられた。

ビデオ検証、その仕組みとは
 
ビデオ検証をめぐっては、2014年にメジャーリーグで「チャレンジ制度」が始まり、2018年にはNPBでも「リクエスト制度」が採用された。大学野球や社会人野球でも導入が進んでいる。
各団体によってビデオ検証の方法やルールには違いがある。日本高校野球連盟は、今年4月の理事会で承認された「大学及び高校野球におけるビデオ検証に関する特別規則」に基づいて運用した。

規則では、検証の対象となるプレーを定めている。例えば、「打球がファウルかフェアか」、「フライをキャッチしたかノーキャッチか」といった内容は対象となっている。一方、ストライクとボールの判定や、ハーフスイングなどに関しては対象から外れている。

ビデオ検証を求められる回数は、9イニングで各チーム1回とされている。検証の結果、判定が変わった時は1回に数えない。ただ、今夏の甲子園では、「判定が変わった場合は9イニングのうち、あと1回に限りビデオ検証を求めることができる」としている。つまり、9回までに最大で2回しか権利がない。また、試合の遅延を防ぐため、検証の時間を2分以内として、確証が得られない時は判定通りにする。

選手や監督は「プラスのルール」と歓迎
 
ビデオ検証が初めて適用されたのは、大会第3日の有明と立命館宇治の一戦だった。有明は7回2死一塁で盗塁を仕掛け、走者はアウトと判定された。それに対し、有明は検証を要望した。結果的には判定通りアウトとなったが、有明の高見一茂監督は「モヤモヤした気持ちが残らなくて良かったと思います」と話した。

ビデオ検証に対しては、好意的に受け止める選手や監督が多い。仙台育英の須江航監督は「ネットにさらされてしまう時代なので、審判や選手を守る上でとてもいいものだと思います。気持ちの切り替えができますし、誰にとってもプラスのルールでしかありません」と語っている。

準決勝の2試合は、ともに二塁走者へのタッチプレーでビデオ検証が求められた。どちらも最初はセーフと宣告されたが、検証によって判定はアウトに変わった。

選手の「確信」が判定を覆した準決勝
 
準決勝第1試合は智弁和歌山と横浜の一戦。8回無死二塁の場面で、智弁和歌山のショート・川原一将選手がゴロを捕球し、横浜の二塁ランナーにタッチした。しかし、グラブがランナーに当たっていないと判断されてセーフとなった。すかさず、川原は頭を触ってベンチを見た。智弁和歌山は、頭を触るジェスチャーがビデオ検証を求める合図となっていた。川原が語る。

「タッチした自信がありました。自分たちのチームは、ビデオ検証を要望するかどうか基本的に選手が決めます。選手がベンチに合図を送る形です。点差は開いていましたが、セーフのままだったら試合の流れが変わる可能性もありました。ビデオ検証はメリットとデメリット両方があると思いますが、納得してから試合を再開できるので、自分はメリットが大きいと感じています」

準決勝第二試合、天理と健大高崎の試合でも天理が検証を求めた。1点を追う4回2死二、三塁で、牽制に入ったショートの金本相有選手が二塁ランナーにタッチ。セーフの判定がアウトに覆った。金本は「アウトの確信がありました。二塁ランナーのリードが大きかったので狙えると思いました」と振り返った。

「回数が少ない」「ボール判定も」現場からの指摘
 
初めての試みである以上、何の不満や課題も出さずに運用するのは難しい。実際、こう指摘する監督もいた。

「9回までに回数が1回なのは少ない。判定が覆っているケースもあるのだから、3回は必要だと思います。人間が判断するので誤りがあるのは仕方ありません。その誤りを正す機会がなければ、モヤモヤした気持ちは解消されません」

さらに、ストライクとボールの判定についても、導入する必要性を訴えた。

「今大会でも明らかなボール球がストライクになっていました。投手の球速が上がり、変化球も多彩になっている中で、動体視力が衰えている年代が正確な判定をするのは限界があります。この暑さの中で集中力を持続するのは大変です。機械に頼った方がすべての人にとってプラスだと思います」

1球の判定で試合の流れが変わる可能性もあるからこその言及だった。

運用面の課題と、よりフェアな未来へ
 
運用面の課題も残った。天理と高川学園の一戦では、高川学園が打者走者の一塁アウトの判定に対して検証を要求した。だが、すでに高川学園の投球練習の準備に入っていたことなどを理由に認められなかった。規定では「速やかに球審に対してビデオ検証を求める」と記されており、要求のタイミングが遅いと判断された。早いか遅いかは、人によって感覚が異なる。明確な基準がなければ、混乱や不平等を招きかねない。

実際に運用して見えた課題もある。一方で、際どい判定を確認できる新たな取り組みに選手や監督から前向きな声が上がっているのも事実。ビデオ検証は今後改善を重ねながら、よりフェアな環境を支える欠かせない仕組みへと育っていくだろう。

📝桑田真澄は2安打完封、清原和博は公式戦初本塁打 中村順司が振り返る「KK伝説はあの試合から始まった」
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中村順司インタビュー(前編)

高校野球史に「KK」の名を刻んだ桑田真澄と清原和博。ふたりがPL学園の門を叩いたのは1983年春のことだった。1年夏から桑田はマウンドに立ち、清原は4番を任され、やがて甲子園を席巻していく。だが、当時の監督である中村順司氏は「ふたりを特別扱いしたことはなかった」と振り返る。そこには、才能を見極めながら将来を見据えて育てる指導、1年生を支えた上級生たちの存在、そして先輩の背中から後輩へと受け継がれていくPL独自の伝統があった。1年夏の全国制覇から、3年夏の日本一、さらに立浪和義ら次世代の春夏連覇へ──。最強時代のPL学園はいかにしてつくられたのか。中村氏に聞いた。

【仲田幸司から二塁打で4番確定】

── 1983年、PL学園には桑田真澄選手、清原和博選手をはじめ、中学時代から名を知られた将来性豊かな選手が数多く入部しました。

中村 私は、中学時代の実績はできるだけ考慮せずに部員を見るようにしていました。たしかに桑田や清原をはじめ、すでに実績のある選手が多く入ってきましたが、「常にフラットな状態で全部員を見る」というスタイルを崩すことはありませんでしたね。

── その夏の大阪大会では、1年生ながら桑田選手、清原選手、田口権一選手の3人がベンチ入りしました。当時のPLとしては珍しかったのではないでしょうか。

中村 前年の選抜は、エースの榎田健一郎を軸に優勝することができました。この学年には好投手が揃っていたので、下級生投手の出番はほとんどありませんでした。1学年下にも藤本耕らいい投手がいましたが、故障や調子が上がらない選手もいた。それで夏は、桑田や田口といった1年生投手もベンチに入れて、総力戦でいこうと考えました。

── 清原選手も中学時代は投手だったそうですね。

中村 岸和田シニアではエースで4番として全国大会でも活躍していましたから、本人にも投手を続けたいという気持ちはあったと思います。ただ、桑田や田口といった好投手がいた。それ以上に、清原の長打力がずば抜けていました。ですから、早い段階で野手として試合に出ることになりました。

── 入学直後から4番だったわけではなかった?

中村 いきなりスタメンで使ったわけでも、すぐに4番に据えたわけでもないんです。それで入学してしばらく経った頃、興南(沖縄)との練習試合があったんです。その試合で、当時「屈指の左腕」と言われていた仲田幸司くんから、清原が左中間へ痛烈な二塁打を打った。あの一打で、「4番でいこう」と決めました。

── そしてPL史上初めて、1年夏から4番を打つことになります。

中村 とにかく飛距離が抜群でした。「あそこまで飛ばす選手は清原しかいない」と、みんなが認める存在でした。飛ばす力に関しては、やはり別格でした。

【公式戦初先発で2安打完封】

── 一方、桑田選手の公式戦初先発は大阪大会4回戦の吹田戦でした。

中村 大阪球場での試合でした。前日、桑田に「大阪球場で投げたことあるか?」と聞いたら、「はい、あります」と言うので、「そうか。じゃあ、明日先発でいくぞ」と言って送り出しました。

── その試合で、桑田選手は2安打完封。そして清原が公式戦初本塁打を放ちました。1983年7月26日は「KK伝説」の始まりとも言える試合です。

中村 あの時に印象に残っているのは、主将の朝山憲重を中心とした上級生の姿です。1年生が伸び伸びとプレーできるよう、非常に気を配っていました。先発する桑田にも余計なプレッシャーを与えないように、「試合が始まるまでは、あえて声をかけないようにしよう」という感じでしたね。桑田や清原だけでなく、上級生がああいう空気をつくってくれたことが大きかったと思います。

── 吹田戦以降、投手陣の軸を桑田に移したのでしょうか。

中村 いや、まだ1年生ですから、無理をさせないことを第一に考えていました。将来のある高校生と向き合う以上、目先の勝利だけではいけない。バランスのいい体の使い方や、体の機能を考えながら指導することが大切だと思っていました。藤本をはじめ上級生にもいい投手がいましたから、桑田はリリーフに回しました。誰かひとりに負担をかけるのではなく、全員ができるだけいい状態で投げられるようにしたかったんです。

【3連覇を目指す池田に圧勝】

── 甲子園でも勝ち進み、準決勝では3季連続優勝を狙う池田(徳島)と対戦します。「やまびこ打線」を擁する池田が圧倒的有利と見られていました。

中村 私が考えたのは、「どうすれば選手たちを互角の気持ちでグラウンドに立たせられるか」ということでした。前日のミーティングで、選手たちにこう言いました。「実力的には6対4で向こうが上だ。しかし、君たちが気持ちを高め、一致団結すれば五分五分になる。勝負はどちらに転ぶかわからない」と。それともうひとつ、全力で挑んで試合に負けたとしても、「池田は強かった」「水野くんの球はすごかった」とは絶対に言うなと伝えました。戦う前から相手を必要以上に大きく見てほしくなかったんです。

── 水野雄仁投手の攻略については、どんな指示を出したのでしょうか。

中村 春の選抜を見ていて感じたことがありました。水野くんのような球威のある速球を逆方向へ流し打ちしようとすると、バットのヘッドが下がってしまう。それなら「内角のボールを思い切って引っ張ろう」と伝えました。

── その狙いが的中し、桑田選手、住田弘行選手、小島一晃選手の下位打線3人から本塁打が飛び出しました。

中村 普段から、私が感じたことをできるだけわかりやすく、簡潔に伝えることを大切にしていました。それと、試合後のことですが、池田の蔦文也監督から「PLには優勝してほしい」と言っていただいたんです。3連覇を逃した直後ですよ。それでも相手を称える。あの姿勢には本当に感銘を受けました。

── その池田戦では、清原選手は無安打でした。

中村 清原は甲子園に入ってから神経性の下痢もあって、本来の力を出せていませんでした。ただ、ライト前に落ちるポテンヒットをきっかけに少しずつ調子を取り戻し、池田戦を迎えていました。池田も「4番の1年生を徹底的にマークしよう」と考えていたようです。あの試合では結果が出ませんでしたが、清原は引きずらなかった。翌日の横浜商との決勝では、好投手の三浦将明くんから逆方向へ甲子園初本塁打を放ちました。そういう切り替えのできるところも、清原の強さだったと思います。

📝「KK最後の夏」が次の黄金時代をつくった 中村順司が語る、桑田真澄・清原和博から立浪和義らへ受け継がれたもの
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中村順司インタビュー(後編)

1年夏に全国制覇を果たした桑田真澄、清原和博らのPL学園は、その瞬間、「追う立場」から「追われる立場」へと変わった。そしてふたりが3年生となった1985年、周囲から向けられたのは「勝って当然」という厳しい視線だった。しかし、春の選抜では伊野商の渡辺智男の前に屈し、準決勝で敗退。その夜から、清原はひとり室内練習場でバットを振り込み、桑田は夏まで驚くほどの走り込みを続けた。その姿を間近で見ていたのが、1年生だった立浪和義、野村弘樹、橋本清、片岡篤史ら、のちにPLの黄金時代を担う選手たちだった。最後の夏の全国制覇と、その先へ受け継がれていった「PLの強さ」を、元監督の中村順司氏が振り返る。

【KKだけではない個性派軍団】

── 1年夏に全国制覇を果たし、桑田選手、清原選手が最上級生となった1985年は、「勝って当然」という目で見られるチームになりました。

中村 ただ、私自身は「自分たちは強い」と思って戦ったことは一度もありません。高校野球は何が起きるかわからない。それを教えてくれたのが、1年夏の池田戦でした。圧倒的に不利と言われた試合でも勝つことができた。ということは、逆のことだって起こるわけです。周囲から「勝って当然」と言われても、そんな簡単なものではないと思っていました。

── 最上級生のチームでは、松山秀明選手が主将を務めました。

中村 松山は兄貴分肌で、チームをよくまとめてくれました。選手はそれぞれ個性が強く、普段の考え方も違います。ただ、野球になれば全員が「自分は何をしなければいけないのか」をよく理解していた。そういう集団を松山がひとつにまとめてくれました。

── 投手陣には桑田だけでなく、左腕の小林克也選手、大型右腕の田口権一投手もいました。

中村 小林は縦のカーブがよかったですし、長身の田口はボールに角度がありました。桑田とはタイプの違う投手がいたことも大きかったですね。勝負どころでは桑田でいきましたが、練習試合などではひとりの投手に無理をさせないようにしていました。

── 野手陣も個性的でした。

中村 捕手は、打力があり、リードも攻撃的な杉本隆雄と、視野が広く、投手と献身的に向き合う今久留主成幸。それぞれ違ったよさがありました。内野では、強肩でフットワークのいい遊撃手・安本政弘が守備の要でした。清原は打撃ばかり注目されましたけど、一塁の守備もうまかったですよ。

三塁手の笹岡伸好は、派手さはありませんがしぶとい打者でしたし、松山も夏には3番を打つまでに成長しました。外野では黒木泰典が打撃センスのある選手でした。パンチ力があって左右に打ち分けることもできる。内匠政博は足が速く、肩も強くて、守備範囲が広かった。本間俊匠も俊足で勝負強かったですね。

【受け継がれたPLの強さ】

── 春の選抜では決勝進出を逃しました。準決勝で伊野商の渡辺智男投手に抑えられた試合です。

中村 渡辺くんは、私が高校野球で対戦した投手のなかでも、松坂大輔くん、水野雄仁くんと並んですばらしいと感じた投手のひとりです。清原は3三振でした。その日の夜からですよ。室内練習場で、最速に設定したピッチングマシンを相手に、遅くまでひとりで打ち込むようになったんです。桑田も伊野商に負けた日から夏まで、驚くほど走り込みました。

── 春の敗戦がふたりを、さらに変えたと。

中村 そう思います。清原はバットを振り、桑田は走る。もちろん彼らだけではありません。3年生全員が「夏は絶対に優勝するんだ」という強い気持ちを持っていました。だからこそ、夏の宇部商との決勝であれだけの試合をして、日本一になれたのだと思います。

── その姿を、後輩たちも見ていました。

中村 そうなんです。その年に入学してきたのが、立浪和義、野村弘樹、橋本清、片岡篤史らでした。入学していきなり、桑田や清原の練習を目の当たりにするわけです。あとになって彼らから聞きました。「寮に戻ってきた桑田さんを見て、雨が降ってきたのかと思った」と。それくらい汗びっしょりになるまで走っていたというんです。

そういう先輩たちの姿を見て、自分たちはもっとやらなければならないと思って練習する。立浪たちの代もほんとによく練習してきた。その積み重ねが、2年後の春夏連覇につながっていったのではないでしょうか。

── 桑田選手、清原選手と過ごした3年間を、今あらためてどう振り返りますか。

中村 もちろん、桑田、清原だけではありません。本当に練習熱心な選手が揃っていました。私は監督として、ずっと「勝てば選手の力、負ければ監督の責任」という考えで選手たちと向き合ってきました。1年夏に全国制覇したことで、彼らは高校生活のほとんどを「追われる立場」で過ごすことになった。周囲から勝って当然と思われるプレッシャーも相当あったでしょう。

それでも最後の夏にもう一度、頂点までたどり着いた。それは、松山主将を中心に、選手一人ひとりが自分の役割を理解し、日々努力を重ねた結果です。そして、その姿を次の世代が見ていた。先輩の背中を見て、後輩が育っていく。そうやってPLの野球が受け継がれていったのだと思います。

📝走り込みをやめ「ボディビル大会」を開催!? 仙台育英には初「女子部員」も…これが令和の高校野球!
https://news.yahoo.co.jp/articles/6919aef16dddfe836bbeb7a405c885f084958836

有望中学生の進学先が数年後の勢力図を占い、スカウティングの勝者が甲子園を制するのが令和の高校野球だ。

「このままでは高校野球が衰退する」(高知・明徳義塾、馬淵史郎監督)

過熱する高校野球のスカウティングに警鐘を鳴らす。令和の時代の中学生は、甲子園への行きやすさだけでなく、自分が一番成長できる環境であるかどうかで、進学先を選択する。グラウンドの広さや室内練習場の有無、トレーニング器具の充実度に加え、寮が何人部屋であるかも重要な要素だ。

走り込みよりサウナ

恵まれた環境の学校もあれば、西東京大会を制した八王子実践のように、内野ほどのグラウンドしかない野球部もある。同校の部長・恩田宣男(60)は言う。

「(強豪の)女子バレーボール部とは違って野球部は強化指定の部活動ではありませんし、練習も2時間しかできない。外野ノックもままなりませんし、平日は個人練習しかできません。全体練習や実戦練習は週末、私が運転するバスで出かけた遠征先でやります」

監督である河本ロバート(40)は同校を卒業後、亜細亜大を経て、ドジャースとマイナー契約を結び、帰国後も独立リーグを経験したジャーニーマンだ。ロバートは、ユニークな手法で強化を図った。

「(投手出身の)ロバートは走り込みが大嫌い。練習で選手を走らせるにしても短い距離のダッシュぐらい。夏のスタミナ対策は、サウナに入って毛穴を広げて血流量を上げたり……要するに根性論ではない形でやっています」(恩田)

選手たちから「ロバートさん」と呼ばれ親しまれる監督は、主に冬場、ウエイトトレーニングを選手に課し、とりわけ筋トレの「BIG3」と呼ばれるベンチプレス、スクワット、デッドリフトの重量に目標基準を設けている。昨冬には成果発表の場としてボディビル大会を実施した。ロバートがその狙いを語る。

「トレーニング意識を高め、人に見られるということも体感してもらいたかった。そのボディビル大会で一番輝いていたのが、金子でした」

昨秋までベンチ外だった金子侑樹はBIG3の数値がチーム1を記録し、最後の夏にベンチ入りを果たす。甲子園の初陣となる鳴門渦潮(徳島)戦では0対1で迎えた9回に代打で登場。同点打を放って、勝負をタイブレークにまで持ち込んだ。努力は裏切らないことを監督に、そして仲間に証明してみせた。

「身体がものすごく強いので。思い切り振らなくても打球は飛ぶ。『コンパクトに』とだけ伝えたところ、(逆方向となる)右中間に打ってくれました」

能力を数値化してアナライズ

この夏、開幕戦に登場し、甲子園に爽やかな風を吹き込んだのが、仙台育英の女子マネージャー兼学生コーチである星よつはだ。初戦から選手と同じユニフォームを着てベンチ入りしたが、役割は記録員にとどまらない。

「試合中に相手投手の配球の特徴などを打席に向かう選手たちに伝えています。相手の投手が交代したら、『前のピッチャーより○△km/h速いよ』とか……須江監督(43)に質問されても答えられるように備えています」

巨人や西武でプレーした孝典さんを父に持ち、父と同じ高校に進学し、同校史上初の女子部員として入部を果たした。父も立った甲子園を仲間と共に目指し、時には選手に嫌われるようなことも口にしなければならない。

高校時代にGMの経験を持ち、情報科の教師である須江は、野球の能力を数値化してアナライズ(分析する)ことに長け、それを″日本一の競争″と自負する部内競争に生かしてきた。そういうアナリストの役目も星は担う。

「投手ならストライク率や防御率など基本的な数字を出すのは自分の仕事ですし、打者なら打率、出塁率に加えて、須江監督は助進塁率を大事にされています。要は走者の進塁を助ける打撃ができたかどうか、ですね。日本一の競争において、こうした数値は評価を視覚化、可視化できる手段だと思います」

卒業後のことや将来の職業については今のところ考えていない。’22年夏以来2度目の甲子園制覇を果たすことしか彼女の頭の中にはなかった。

これが令和時代の高校野球だ。莫大な資金を投入してグラウンドや室内練習場を整え、一人部屋の寮を完備する学校も増えてきた。移りゆく時代によって高校球児の練習法や寮生活、戦術も多様に変化を遂げている。

⚾SHIONOMISAKIさんへ
そうなんですね。綾部は・・・舞鶴に2度観光に行った帰りしなに電車で通ったくらいですが。。。。。福知山球場には2度ほど足を運びましたが、今回限りになると思いますが僕も天気に問題なければ行く予定です!

しかし、天理・和智弁が3位となれば。。。10月3~6日まで青森国体行かなアカンし、県大会最終盤とかち合うので大変ですね!
2026/09/02(水) 22時09分24秒 No.2597 編集 削除
行きたいと思ってます。
2026/09/02(水) 19時51分15秒 No.2596 編集 削除
宏鈴法師(管理人) MAIL URL

お知らせ

編集済
💢令和8年度秋季近畿地区高等学校野球大会県一次予選について(お知らせ)
https://www.whbf.jp/uploads/20260901114653_CVWX.pdf

初芝橋本高等学校より、令和8年度秋季近畿地区高等学校野球大会県一次予選の出場辞退届が提出され、本日(9月1日)受理しました。

このことにより、令和8年度秋季近畿地区高等学校野球大会県一次予選は、32校29チームの参加となりました。
組み合わせ抽選会は、明日9月2日(水)に開催します。抽選結果につきましては決定次第、当連盟ホームページにアップロードします。

✌「こんな奇跡がおるのか!」智辯を〝最も追い詰めた高校〟でチア、第11代有田みかん大使・山野光希に脚光「チアの頃からひときわ光ってますね」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9ed1a1057fcca5c80837428c520e9631d8e4a8d3

▼「チアやってた時の思い出の写真」

甲子園を制した智辯学園和歌山高校を最も追い詰めた高校のOGに注目が集まっている。

「智弁和歌山優勝しましたね 和歌山出身として誇らしすぎる 母校の田辺高校もすごかった!!!」とXに投稿したのは、第11代有田みかん大使の山野光希。「野球応援でチアやってた時の思い出の写真」と田辺高校時代のチア姿を紹介した。

県立の田辺高校は和歌山県大会3回戦で智辯学園和歌山高校と対戦。敗れはしたものの7回までリードするなど大健闘を見せ「実質準優勝ですよね!」「かなりいい試合して追い詰めてましたね!!」などの声があがっていた。

エンジ色のユニフォームを着た山野の姿に「田辺にはこんな奇跡がおるのか!」「貴重な写真だ」「う、うわあ!」「チアの頃からひときわ光ってますね」といった感嘆の声が相次いでいる。

田辺高校は甲子園に春3度、夏1度出場。山野が卒業した2024年の第96回選抜高校野球大会に76年ぶりに出場し、話題となった。

☝元PL学園監督の中村順司氏が初の中学指導者に 兵庫加古川ヤングのスタッフとして本格始動
https://news.yahoo.co.jp/articles/fcbc5b2d9bf9a28b91f27fa8c123e8c383ce6ca4

PL学園(大阪)の監督として甲子園通算6度の優勝に輝いた中村順司氏(80)が中学生指導に本格着手した。

硬式野球ヤングリーグの兵庫加古川ヤングのアドバイザリースタッフに、このたび就任したことが判明した。8月29、30の両日にグラウンドで就任後初めて本格的な指導を行った。PL学園のほか、名古屋商科大でも指揮を執ったが、中学年代のチームで定期的に指導するのは初めて。以前から同チームの関係者を通じて不定期で選手を見ることがあったが、新型コロナで中断していた。今回は肩書もついて、自宅のある神奈川県から定期的に兵庫県を訪れることになる。同ヤングに創設された小学部も指導する。

指導方法もPL流。骨の作りなど根本的な体の仕組みを理解させるなど、当時と同様のノウハウを持ち込んでいる。
この2日間は自らノックバットも握って中学生、小学生とともに汗を流した。8月5日に80歳を迎えたが、情熱は衰えていない。

📣広陵高校 「甲子園至上主義」から決別 暴力事案めぐり検討委員会が提言
https://news.yahoo.co.jp/articles/7bb59dc49005d6a39da67a3542e091bf468917f1

硬式野球部の暴力事案を巡り広陵高校が設置した検討委員会が指導体制の見直しなどを求めました。
 
これは2025年1月に起きた広陵高校野球部の暴力事案を受けて設置された、弁護士などでつくる学校改善検討委員会が最終提言としてまとめたものです。提言では、閉鎖的な体質の原因につながった野球部OBのみでの指導をやめ、外部指導者の登用を求めたほか、指導者の目が行き届く適正な部員数の設定や甲子園至上主義との決別などを求めています。
 
また、集団暴行が発生した寮の運営にも触れ、上級生が規律違反に対応することをやめるほか、寮生の生活を管理する寮監には野球部関係者に限らず一般教職員も関わることなどを求めました。

📝「あの試合が終わって『夏も優勝しようや』と」高校野球“史上最高の試合”箕島-星稜延長18回の死闘で起きたこと「星稜の思いに報いたい」
https://news.yahoo.co.jp/articles/67d75ebe487b6d95bcfc274ac65999436f63df66

1979年、周囲の期待をよそに、箕島のエース・石井毅(現・木村竹志)は冷静だった。夏の甲子園出場が決まってから、春夏連覇に関する報道も増えたが、「今まで通り、淡々と」試合に臨んだ。
2回戦からの登場となった箕島は8月13日に札幌商業(南北海道)を7対3で破った。

「みんな、心のなかでは『夏も優勝しよう』と思っていたのかもしれませんが、それを口にする選手はいませんでした。それが変わったのはあの試合でした」

箕島ナインを変えた「あの試合」
 
石井が語る「あの試合」とは、8月16日に行われた星稜(石川)との3回戦だった。

「延長18回の試合が終わって、『夏も優勝しようや』となりました。そうすることで星稜の選手たちの思いに報いることができる、そういう思いが芽生えました。本気モードに変わりました」

当時は、延長戦は18回まで。同点のままで終われば再試合、またはじめから試合がスタートすることになる。

「その後ルールが変わって、延長は15回までになり、タイブレーク制が導入されたことで、もうあんな試合は二度とないでしょうね。僕たちの人生にとって、本当に大きな意味を持つ18回でした」

第4試合に組まれた箕島と星稜との一戦は16時06分にプレーボール。箕島の先発はアンダースローの石井、星稜はサウスポーの堅田外司昭だった。箕島の指揮をとるのは尾藤公監督、星稜は山下智茂監督が選手を鼓舞した。

高校野球史上最高の試合の攻防
 
星稜は1979(昭和54)年春のセンバツに出場したが、川之江(愛媛)に初戦で敗退。夏の甲子園では2回戦で宇治(京都)を下していた。北信越で頭角を現してきたチームだが、春夏連覇を目指す箕島が有利だと思われていた。両校の対戦がのちに「高校野球史上最高の試合」と呼ばれることになるとは、甲子園球場にいた選手、監督、観客の誰も思わなかったはずだ。

両校エースの好投により、1対1のまま、両チームともに譲らず、延長戦に突入した。ここで照明が点灯、ナイトゲームになったことで一層、特別なムードが高まった。30.6パーセントという驚異的な視聴率を記録するこの試合のひとつの山場が12回表に訪れた。

ワンアウトから星稜の六番打者、1年生の音重鎮(中日ドラゴンズ、広島東洋カープ)がヒットで出塁。フォアボールで一、二塁となったあと、箕島のセカンド・上野山善久がエラーをして1点が入る。その後、ワンアウト一、三塁で星稜がスクイズを仕掛けたが、失敗。追加点のチャンスは潰えた。

「ホームランを打ってきます」
 
その裏の攻撃、あとがなくなった箕島の打者が簡単に打ち取られてツーアウト。打席に向かう前に、一番打者の嶋田宗彦(阪神タイガース)が尾藤監督に「ホームランを打ってきます」と宣言した。キャッチャーとして石井を巧みにリードする嶋田は勝負強い打撃に定評があった。堅田が投じた2球目のカーブを力いっぱいに振り抜くと、打球は本当にレフトのラッキーゾーンに飛び込む同点ホームランとなった。

14回裏、また試合が動く。箕島の森川康弘がヒットで出塁。送りバントで二塁に進んだあと、相手のスキを突くディレードスティールを成功させた。ワンアウト、三塁。ヒットでも犠牲フライでもスクイズでも暴投でも、サヨナラとなる状況になった。しかし、ここでふたつ目の「まさか」が起こった。12回表にスクイズを失敗したサードの若狭徹がボールを持ったままベース近くに立っていた。堅田にボールが渡ったと思った三塁走者の森川がベースを離れた瞬間にタッチアウト!“隠し玉”でまたチャンスが消えた。

「今の高校野球だったら起こらないプレーですよね。タイムがかかる場面だし、そもそも隠し球を狙うような選手がいないから」

この試合の三塁の塁審をつとめたのは名アンパイヤとして知られた達磨省一だった。

「僕らも、サードがボールを持っていることを知りません。あとで聞いた話ですが、達磨さんは若狭がボールを持っていたことに気づいていたそうです。『変な動きをするなよ……』と念じていたと聞きました」

ピッチャーがボールを持っていない状態で投球動作を始めたり、マウンド付近にいると、ボークが宣告されるからだ。

「達磨さんは、そんな結末だけは避けたいと考えていたそうです」

それは塁審の杞憂に終わり、星稜の選手は「変な動き」をしなかった。

まさかの転倒からの同点弾…「明日、投げられるんかな」
 
次に試合が動いたのが16回表だ。星稜がデッドボールと五番・堅田のヒットでチャンスをつくり、七番・山下靖のタイムリーヒットで3対2と突き放した。
その裏の箕島の攻撃、二者が凡退して「あとひとり」まで追い込まれた。打席に立つのは六番の森川。14回裏に隠し玉でアウトになった選手だ。彼の打球は一塁のファウルゾーンに上がった。ところが、ファーストの加藤直樹が転倒して捕球できない。命拾いをした森川が5球目を叩くと打球は左中間スタンドに飛び込んだ。3対3の同点! 試合はまだ続く。

「あの時、森川は吹っ切れたんと違うかな? 何かが取りついたんかな(笑)。森川のホームランなんてあれくらいしか見たことがない。でも、追い詰められた場面であのバッティングができたのはやっぱり能力があったから」

17回は両チームとも三者凡退。18回表に星稜が満塁のチャンスをつくったが、得点することができなかった。この時点で星稜の勝ちはなくなった。

「18回表が始まる時に、『再試合になった場合は明日の8時30分にプレーボール』という場内アナウンスが聞こえました。僕は途中で右手中指の血豆がつぶれたままで投げていたから、体力的なことよりもそっちのほうが心配でした。『明日、投げられるんかな……』と」

史上3校目の春夏連覇
 
18回裏、箕島の最後の攻撃。箕島はふたりが続けてフォアボールを選び、五番・上野敬三のタイムリーでサヨナラ勝ち。時計の針は19時56分を指していた。試合時間は3時間50分だった。堅田が208球、石井が257球を投げた激闘は、センバツ王者の箕島の勝利で終わった。

「昔の甲子園の試合は1時間20分、30分で終わるのが普通でした。本当にいろいろなことを教えてくれた試合でした」

球審をつとめた永野元玄はホームベースを挟んで整列した両チームの選手に握手を促し、敗戦投手となった堅田にはボールをそっと手渡した。堅田は高校卒業後に社会人野球の松下電器でプレーしたあと、審判として甲子園に戻ってくることになる。

星稜との激闘を経て「本気で優勝したい」と思った箕島の選手たちは、準々決勝で城西(東東京)に4対1で勝利、準決勝では横浜商業(神奈川)に3対2で競り勝った。最後に、浪商(大阪)を下して決勝に進んだ池田(徳島)を4対3で倒して、史上3校目となる春夏連覇を果たした。

僕は甲子園の土を持っていない

「僕たちは本当に、甲子園での勝利にこだわってなかったというか、『勝ったら勝ったやし、負けたら負けたやし』という感じでした。優勝できてホッとしたというのが本当のところ。結果として春夏連覇を達成しましたけど、それを目指したというよりも『当たり前のことが起こった』ように感じていました。偉そうなことを言うようですけどね。負けないチームだったので、そういう感覚だったんですよ。でも、それが変わったのが星稜戦でしたね。延長18回を経験したことで勝利への意識は高くなりました」

箕島のエースとして甲子園で通算16試合に登板した石井の成績は14勝1敗だった。これは歴代2位の勝利数だ。

「僕は甲子園の土を持っていないんですよ。2年生の時には『来年がある』と思ったし、ありがたいことに3年生では負けることがなかった。甲子園の土は、負けた高校が持って帰るもんやと思っていました」

センバツ王者として夏の甲子園に戻ってきた箕島は無敗のまま聖地を去った。

               〈つづく〉

📝春夏連覇で「天狗になっていた。社会人で鍛えられました」伝説の“延長18回”投げぬいた石井毅のいま「箕島と星稜の縁はほんまにありがたい」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9c109fd034cd696d95c69dcce8004ddf2aa36ad5

浪商のエース・牛島和彦が中日ドラゴンズから1位指名、キャッチャーの香川伸行が南海ホークスから2位指名された1979(昭和54)年のドラフト会議。春夏連覇を果たした箕島からはショートの上野敬三が読売ジャイアンツから4位指名を受けた。しかし、石井毅(現・木村竹志)と嶋田宗彦のバッテリーは社会人野球の住友金属に進んだ。

「夏の和歌山大会の前に就職することが決まっていました。社会人野球もそうですけど、住友金属の野球部は厳しいと聞いていました。『箕島以上やぞ』と」(石井)

社会人野球の強豪での日々
 
和歌山市に本拠を置く住友金属野球団は、1965年と1966年に都市対抗野球で準優勝した社会人野球の強豪だ。1977年には全日本選手権で初優勝を飾っていた。

「入るまでは社会人野球がどういうものかわかりませんでしたが、住友金属は泥臭い野球をするところだと聞いていました。監督は松永玲一さん。甲子園の試合ではテレビ解説をされていて、僕のピッチングをものすごくほめてくださった方です。当時、プロに行くということは考えていませんでした。目標は都市対抗野球に出て優勝すること」

それまで住友金属で主戦投手をつとめていたのは、1976年ドラフト会議でロッテオリオンズの1位指名を拒否して入社した森繁和だった。森は1978年ドラフト会議で1位指名を受け、1979年は西武ライオンズで先発・リリーフとフル回転していた。石井にかかる期待は大きかった。

「ありがたいことに、どんどん試合で使ってもらいました。チームが目指すのは都市対抗の優勝。そこに向かってやっていました。自分の野球人生を振り返った時、住友金属に入ったことがプラスになったと思います。聞いていた以上に厳しい野球部で、人間的なところを鍛えてもらいました」

あくまで本業が社業である社会人野球であれば、求められるのは野球の技術だけではない。

「高校時代に春夏連覇をして、天下を取ったような気持ちでいましたから、きっと天狗になっていたと思う。先輩方が本当に厳しく接してくれました。社会人1年生として何をやるべきか、やってはいけないことは何かを教えてもらって本当にありがたかったですね。時には『なんでそんなこと言われるの……』ということもありましたが、のちのち、言葉の意味に気がつきました。チームメイトも、会社の人たちもそう。だから、今の自分があるんだと思います」

1982年に都市対抗野球で初優勝。4勝を挙げた石井は、最優秀選手賞に当たる橋戸賞を獲得し、その秋のドラフト会議で西武ライオンズから3位指名を受けた。
黄金時代の西武で1988年までプロ野球でプレーした。1986年には42試合に登板、5勝1敗2セーブを記録してチームの連覇に貢献した。

星稜と箕島、OBたちの再会

「プロでもプレーしましたけど、社会人時代の経験が僕には大きかった。松永さん、山中正竹さん(法政大学時代に歴代最多の48勝をマーク)との出会いもそうです。あの星稜戦で球審をされていた永野元玄さんも住友金属OBなんですよ。人の縁に恵まれ、先輩方にいろいろなことを教えていただきました。

誘惑に負けることなく、仕事をきちんとやったうえで野球に全力で取り組む。寮の名前が『克己寮』というんですけど、『己に克つ』ということの意味を知りました」
携帯電話もSNSもない時代、箕島と星稜の選手たちが再会したのは、石井がプロ野球を引退したあとだった。

「地元の和歌山に戻ってからラジオ番組に呼ばれる機会があって、『箕島-星稜戦をまたやりましょう』という話になりました。和歌山放送が後援してくれて、あの時のメンバーが箕島で集まることになりました」

そのあとに金沢で試合が行われ、最後の対戦は甲子園球場で実現することになった。

「あの試合をきっかけにして、箕島のある有田市と星稜のある金沢市でスポーツ交流が生まれました。それは今でも続いています」

2003(平成15)年に和歌山野球振興会・夢クラブを設立した。2014年には第2回IBAF 15Uワールドカップの日本代表コーチをつとめた。現在、石井は少年野球の指導を行っている。

「中体連の軟式野球のクラブチームを指導しているんです。5月には星稜中学に行ってきました。星稜中は全国優勝するほどの強豪ですからね。僕が指導している子たちにも見せたいと思いまして」

今も続く両校の縁
 
石井の恩師である尾藤公は2011年に病で世を去ったが、星稜の山下智茂は80歳を過ぎた今も、高校野球の指導を行っている。

「以前、星稜中に行った時に山下さんが来てくれましたし、星稜の山下靖や加藤直樹たちと石川県で野球教室をした時にも顔を出してくれました。僕たちが話すことを全部メモしているんですよ。何でも吸収してやろうという気持ちがすごいと思いました」

箕島が最後に甲子園に出場したのは2013年夏。それ以来、あのユニフォームを聖地で見ることができていない。一方の星稜は甲子園常連校として地歩を固め、奥川恭伸、内山壮真(ともに東京ヤクルトスワローズ)など多くの選手をプロ野球に送り出している。

「星稜は箕島に負けたあと、強いチームになりました。松井秀喜くん(読売ジャイアンツなど)をはじめ、いい選手をたくさん育ててきました」

夏の甲子園の100回記念大会となった2018年、功績のある元球児による「甲子園レジェンド始球式」が行われ、大会初日の松井秀喜に続き、2日目に石井が登場した。見事なストライクを投げ込み、観衆から大きな拍手を受けた。

「箕島と星稜との縁がいまだに続いていることはほんまにありがたいことだと思っています」

マウンドに立った石井のすぐそばにはアテンド役として、球審をつとめる星稜の元エース、堅田外司昭の姿があった——。
2026/09/01(火) 22時12分43秒 No.2595 編集 削除
5/5 春季兵庫大会準決勝 明石トーカロ球場 報徳学園-神戸国際大付 12:29~14:45 

    一二三四五六七八九十計HE
報徳学園000040100 590 岡田-降旗
神国大付020000101 493 黒川、中塩屋、豊岡-井本

        第一試合 
        東洋姫路10
        明 石 商0

 この日はゴールデンウィーク真っ只中ということもあり、なおかつ快晴で4強にセンバツ1勝の東洋大姫路・地元の明石商そして優勝候補筆頭格の報徳学園VS神戸国際大付の直接対決ということもあり、ある程度観客席の狭い明石トーカロ球場に観衆が押し寄せることは予想していたが、まさか明石城跡の入口付近まで試合開始1時間強という時点で行列が伸びているとは・・・・・。

いつもならば左中間後方の外野席入口でテント貼って入場券販売しているが、今日はいつもの窓口しか開いておらず混雑の一員となった・・・・。
なんとか開始9時25分に入場でき1塁側内野席前列に腰を下ろせたが、第1試合は東洋が序盤から明石商を圧倒し、なおかつ明石商の守備が乱れて火に油を注ぎまさかの0-105回コールド負けで一蹴されてしまった・・・・・。あれだけ長蛇の列に並んで1時間25分の5回コールドとは・・・・・。先日、激戦の末敗れた神戸学院大付の方がまだ良かったのかなと・・・・・。

幸い第2試合は定刻通り12時30分開始予定とアナウンスされ小一時間ほどゆっくりできたのだが、第三期長期改装工事中のために外野芝生席はバリケードで入れず、しゃーなしに一度外出して外のベンチで弁当食べてから体勢を立て直し第2試合に備える。
夏を見据えればどちらも第1シードを獲得しているので手の内を見せずに試合を終わらすこともできるが、勝てば夏の大会で決勝まで東洋大姫路と対戦しないメリットもあるので・・・・・。

先発は報徳が11番・岡田 神戸国際は12番のサウスポー黒川だった。どのタイミングで継投に踏み切るか?おそらくじゃんけんで負けたであろう報徳が先攻となり2試合連続5回表で試合終了とならないことを祈りつつ試合開始。

初回から明暗分かれ先攻の報徳はサウスポー黒川に手も足も出ず外野まで打球が飛ぶことなく三者凡退。その裏、岡田投手は神戸国際の1番・川口に三塁線を破られるツーベースと送りバントで早くも1死3塁のピンチ・・・。しかし、3番・竹田をチェンジアップで空振り三振。4番・中井に対してボール球を使わず2球で追い込みライトフライに抑えた。

2回表報徳は1死から5番・岸本がライト線を破るツーベースに四球で1・2塁と先生のチャンスを迎えたが、下位打線を任された2年生たちが相次いで倒れて無得点。その裏、1死から四球を与えて7番・林が両翼100mという広い明石トーカロ球場も低反発バットも関係ないと言わんばかりの先制2ランホームランを放ち力でねじ伏せる野球を体現し2点をもぎ取った。

早く追いつきたい報徳は3回1死から相手のエラーで出塁しすかさず盗塁を決め得点圏に走者を置く。2死後に四球そして暴投で2・3塁と詰め寄るが、4番・真栄田無念のセンターフライで惜しいチャンスを逃してしまった!その裏、国際も1死からデッドボールで塁に出ると盗塁を決めて同じような展開となったが、岡田投手が神戸国際の3・4番を連続フライアウトに打ち取りまだまだ試合の行方は分からない。

早く反撃したい報徳は4回1死から6番・藤本がセンター前ヒットを放つも7番・降旗セカンドゴロゲッツー・・・・・。その裏、岡田投手が3球で2アウトとしたが、打席には先制2ランの林。ここは最悪くさいところを突いて四球でも構わないと思ったが、まともに勝負を挑みフルカウントからセンター前ヒット。まだ単打なんで良かったし、8番・井本サードゴロに倒れ一安心。

そして5回ここまで空回りしていた報徳だが、なりふり構わず先頭打者が初球セーフティーバントをかまし、アウトになったが1死後9番・岡田投手が打ちに行った打球がピッチャー前のボテボテのゴロとなりこれが内野安打で球運が変わった!
1番・橋本がレフト前ヒットでつなぎ、2番・金本のバントヒットで満塁の大チャンス!あえて国際内野陣は中間守備を敷いてきたが、3番・山岡まさかのピッチャーゴロ・・・1-2-3のダブルプレーを覚悟したが、なんと・・・黒川投手がホームに大暴投を投げて3アウトチェンジのはずが、2-2同点となりさらに1死1・3塁とタナボタのチャンスに4番・真栄田が初球レフトオーバーの目の覚めるような会心の一撃を放ち2者生還のタイムリースリーベースで4-2と一気に試合をひっくり返した!!これで黒川投手をKOし、2番手は同じくサウスポー中塩屋がリリーフ。なおも続く1死3塁のピンチをスライダーで連続三振に打ち取り火消しに成功。
その裏、国際も1死から四球とヒットで1・2塁のチャンスを作りクリーンアップトリオにつないだが、岡田投手がセカンドフライ・ショートゴロに抑え整備に入った。

序盤は2ランホームランを浴びて劣勢に立たされた報徳だったが、5回相手のミスに乗じて一気に逆転に成功!これがいわゆる“逆転の報徳”と言われる伝統なのか?肝心なところで守備が崩壊し勝てる試合を落とす神戸国際の勝負弱さが嚙み合ってか4-2と報徳が2点リードでの折り返し。だが、神戸国際は終盤に怒涛の猛追をかましてくるので何点リードしていても気が抜けないし、ましてや後攻なんで勢いそのままに逆転サヨナラという試合をこの明石トーカロで何度も展開しているだけに侮れない。
神戸国際はすでに継投に入ったが、報徳はどこまで岡田投手を辛抱するか?エース・山岡はセカンドを守っているが登板はあるのか?もちろん両チームともに決勝進出して夏の大会で東洋と決勝まで当たらない権利を獲得したいところだろうが・・・・・。

6回表報徳は2死から連続四球でまたチャンスをもらい、2番・金本が左中間に痛烈な打球を放つもセンター田中の守備範囲内だった・・・・・。その裏、1死から6番・山本にレフトへツーベースを浴び、先制2ランの林が打席に。ここは申告敬遠で塁を詰めても不思議ではなかったが、勝負を挑みセカンドフライ。8番・井本もセンターフライに抑え背番号11の岡田投手が躍動する!
 
追加点が欲しい報徳は7回先頭の3番・山岡が右中間にヒットを放ち4番・真栄田が送りバントを決めて手堅く進め、5番・岸本が10球粘ってショートゴロの間に3塁へ。そして神戸国際は昨秋エースナンバーをつけていた背番号10の豊岡を3番手投手として送り出すも初球まさかのワイルドピッチで致命的な5点目・・・・・。
普通だったら3点リードとなって安穏としていられるが、神戸国際は終盤怒涛の猛追劇を幾度も演じて来ておるので全く気が抜けない。1点でも返されたらケツに火が点くといった状況でその裏1死から1番・川口がライトへスリーベースヒット。やはり点差を考えれば報徳の内野陣が深く守るのもセオリーだが、2番・福田のショートゴロで1点を献上し非常にイヤな予感が漂う。。。

報徳はダメ押しすべく8・9回と得点圏に走者を送り続けるもあと1本が出ず逃げ切れるか?????やはり神戸国際は簡単にコケてはくれなかった・・・。
8回裏先頭の4番・中井がレフトへツーベース。2点差で無死2塁ゆえにまず送りバントで3塁を進めて1点差に迫って、、、とは青木監督は考えず、一気に試合をひっくり返して9回裏を戦わずして勝つもくろみなのか?代打・平林を起用して1ボールからファーストゴロで1死3塁。6番・松本を迎えて内野はここも深く守って1点OKの陣容。しかし四球で歩かせて1・3塁。ここで先制2ランを放った林が打席に立ち報徳も継投しても不思議ではないが、大角監督は岡田続投で初球まさかのキャッチャーフライ・・・。8番・井本もセカンドゴロに抑え出口が見えてきた。

そして9回裏先頭の豊岡投手に代打・比嘉起用も内ストレートに見逃しの三振。ところが1番・川口が左中間にツーベースを放ちやはり簡単には終わらせてくれない・・・・・・。
さらに暴投で1死3塁と傷口を広げ、2番・福田のセカンドゴロの間に1点入り5-4ながら2死ランナーなし。さすがに神戸国際の猛追もここまでだろうと思っていたら、、、3番・竹田ライト線を破るスリーベースで2死3塁そして4番・中井を迎えた。大角監督は最初から岡田投手を代える気がなかったのか?最後まで任せて初球快心の打球を放たれたがショート正面のライナーに終わり試合終了。

まだ5月GWだがどっと汗が噴き出すような終盤の攻防で冷や汗拭って試合終了。第1試合があまりにも味気ない5回コールドだったが、それを取り返す2時間16分の好ゲームだった。
結局、要所でエラーや暴投などやらずもが名の点を与えてしまった大味な神戸国際の野球が顔を出し、終盤粘るも後1点が届かず3位決定戦に回ったと。
報徳はノーエラーで背番号11の岡田投手を盛り立て決勝進出し、夏の兵庫大会も決勝まで東洋大姫路とぶつかることはなくなった。この代は圧倒的に東洋1強と思われたが、約2か月半後には7-6の大熱戦で兵庫の高校野球ファンを大いに熱くさせた試合を展開した。

さて、次回は本来ならばさとやくスタジアムの春季近畿大会観戦記だが、運悪く三重の東海大会と岡山の中国大会が同時期にかち合い2週連続宿泊観戦となり近畿は1試合も見ることなく終わってしまったので・・・・・。津と伊勢で開催された春季東海大会観戦記。最初から旅程2泊3日とって試合翌日の月曜日の休養日に近鉄週末フリーきっぷと養老鉄道1日乗車券を組み合わせて観光を考えていたが、初日まさかの雨に祟られ日程が大幅に変更され屋根のない津で悲劇が、、、、それは次回の講釈で。

チーム名 選手名 投球回 打者 投球数 安打 本塁打 犠打 四球 死球 三振 暴投 失点 自責
報徳学園 岡 田  9  40  123  9   1   1  2  1  3  1  4  4

神国大付 黒 川  4 1/3 22  76  5  0   0  2  0  3  1  4  4
神国大付 中塩屋  2 1/3 10   45  2  0   1  2  0  2  0  1  0
神国大付 豊 岡  1 1/3  9   34  2  0   0  0  0  1  0  0  0

                    (完)  
                     
               🌟新シリーズのお知らせ🌟   
     【り ん🌟】美し国 清楚な女(ひと)春季東海大会in津【かれん👧】                  
   5/24 春季東海大会 初日開幕試合 津田学園(三重①)-中京(岐阜②)
2026/08/31(月) 22時25分29秒 No.2594 編集 削除
宏鈴法師(管理人) MAIL URL

お知らせ

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☟伊勢神宮近く、高く立ち上る黒煙 商店街焼け落ち、漂う焦げ臭さ
https://news.yahoo.co.jp/articles/28a94e944972cbd9324cd36b5a8a9890c6210972

黒煙が空高く立ち上り、焦げ臭さが漂った。伊勢神宮に近い三重県伊勢市の明倫商店街で31日に発生した火災。火の勢いは強く、周辺には避難も呼びかけられた。地域に親しまれてきた明倫商店街が炎に包まれるのを、住民らは規制線の外から心配そうに見つめた。勢いが収まると、建物は焼け落ち、骨組みがあらわになっていた。

商店街から約100メートルの場所で飲食店を営む男性(78)は、消防車のサイレンが鳴り響くのを聞いて火災を知った。外に出て見ていると、みるみるうちに火の手が広がり、ガスボンベが爆発するような「ポン」という音が聞こえた。商店街は近鉄宇治山田駅近くで「駅前の通りはほぼ焼けてしまった」と落胆した。

📝第155回北信越地区高等学校野球福井県大会(令和8年秋季)組合せ表
https://291fki.sakura.ne.jp/wp2019/wp-content/uploads/2026/08/1552026%E7%A7%8B%E5%AD%A3%E7%B5%84%E3%81%BF%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B.pdf

📝「小さな町で、近所の子どもが集まったような野球部」箕島はなぜ70年代屈指の強豪校になったか「尾藤公さんが監督になってすべてが始まった」
https://news.yahoo.co.jp/articles/395696341c2583bbd10511b4b708737e312b3435

小さな町の県立高である箕島がここまで活躍できたのはなぜだったのか。エース・石井毅にその生い立ちから訊いた。

人口3万ほどの小さな町にある県立高校の野球部が、なぜ1970年代の高校野球で黄金時代を築くことができたのか。現在の強豪私立校のような豪華な設備も寮も整っておらず、また、県外から越境してくる野球留学生がいなかったのにもかかわらず。箕島高校のある有田市は和歌山県の中部に位置する。1970年代の人口は35,000人ほどだった(現在の人口は23,727人)。100年を超える高校野球の歴史を見ても、人口10万人足らずの市から甲子園優勝校が出ることは稀だ(池田高校のある徳島県三好市の現在の人口は23,927人)。

近所のお兄さんの活躍で野球に興味を持った
 
エースとして箕島をけん引した石井毅に少年時代の話を聞こう。

「尾藤公さんが箕島の監督になり、エースの東尾修さん(西武ライオンズなど)と初めて甲子園に出てから箕島の野球が始まりました」

のちに甲子園で35勝を挙げることになる尾藤は1942(昭和17)年生まれ。箕島の監督に就任したのは1966年だった。23歳で監督になった尾藤が初めて甲子園の土を踏んだのは1968年春のこと。1970年春のセンバツではエースで四番の島本講平を中心に戦い、日本一にのぼりつめた。1961年生まれの石井は当時8歳だった。

「島本さんのチームに中谷正さんというキャッチャーがおられて、うちの近所に住んでいました。ある時、中谷さんのお宅に島本さんが遊びにきていたので、サインをもらったことがありました」
「近所のお兄ちゃん」の活躍を見て、石井は野球というスポーツに興味を持った。しかし、その頃、地域に野球チームは存在しなかった。
「友達が6人くらい集まったら、空き地や田んぼで2チームに分かれて野球ごっこをするくらいでした。人数が増えれば野球っぽくなりますけど、あくまで遊びの延長でしたね」

学校の体操着で大会に挑戦
 
そのうち、ごっこ遊びで飽き足らなくなった。

「軟式の少年野球チームが箕島にはなかった。僕たちが通う保田小学校の生徒を中心にチームをつくって大会に出ることにしました」

しかし、ユニフォームはなく、学校の体操着での出場だった。

「体育の授業の時に着る、白いトレパン、トレシャツですね。それに背番号をつけて、帽子にマークを貼って。人数が足りないと近くの小学校に通う友達を誘って『バットを振るふりだけでええよ』という感じでした」

大会の時には選手の父親に監督を任せたが、基本的には子どもたちが楽しむ野球だった。

「指導を受けるということもなくて、『こんなふうに投げたら? 』『こうやって打ったらボールがよく飛ぶぞ』とかみんなでワイワイ言い合いながらやっていましたね」

そんな時、高校野球で有名な監督が練習にやってきた。それが20代で日本一監督になった尾藤だった。

「センバツで優勝したあと、尾藤さんが一時期、監督から離れた時期でした。ふらっと顔を出して、ボールの捕り方や投げ方を教えてくれました。怖いとも優しそうとも感じませんでした。『箕島の尾藤監督や!』というだけ。

おそらく、本人にスカウトする気持ちなんかなかったと思いますよ。野球をしている子どもたちを見て、『ちょっと教えてやろうか』というくらいで。硬球を渡してくれて『これで遊んだらええぞ』と言ってくれました」

1974年、尾藤は箕島の監督に復帰。3年後に2度目のセンバツ優勝を果たし、その瞬間を石井は甲子園のアルプススタンドで見ることになる。

尾藤監督との出会いは運命だった?
 
運命的な出会いと思えるが、同じ地域に住む石井にとっては不思議でもなんでもなかった。

「本当に小さな町で、みんなが知り合いみたいなものでしたから」

南海ホークスの名監督だった鶴岡一人の呼びかけで「リトルホークス」が誕生したのが1967年。少年硬式野球リーグである「リトルリーグ」も活動していたが、全国的な広がりはまだまだだった。

「僕は中学の野球部に入って、軟式野球を続けました。箕島でチームメイトになる嶋田宗彦は和歌山市の近くにある硬式のクラブチームに所属していて、中学の部活と並行してやっていましたね」

石井は保田中学、嶋田は箕島中学。ふたりは主力選手として何度も対戦したことがあった。

「近くに住む野球好きな子どもたちがそのまま大きくなって、箕島の野球部に集まったという感じでした。箕島には普通科と商業科と機械科があって、ほかの地域から入ってくる子もいましたけど」

箕島の黄金時代を支えたのは地域の力だった。

「自分の親やじいちゃん、ばあちゃんが育ったところで野球をやって、そこで勝つというのは高校野球の魅力だと思います。地域の人たちの応援が力になったことは間違いありません。だから、頑張れたということだと思います」

公立高校を支えていた「地域の力」
 
それまで高校野球をリードしてきた四国四商(松山商業、高松商業、徳島商業、高知商業)をはじめとする公立の強豪校は、21世紀に入ってから日本一から遠ざかった。練習場や寮などの設備を充実させ、野球エリートを全国から集める私立高校でなければ勝てない時代に突入している。

「高嶋仁監督が強豪校に育てた智辯和歌山は以前、学年で10人程度しかいなくて、地元の選手だけでチームをつくっていました。それで3度も日本一になれたのはそういう力があったからではないでしょうか」

15歳で親元を離れ、甲子園を目指す少年の覚悟を否定するわけではない。だが、高校野球は、エースや四番打者を集めれば勝てるというわけではない。

「中学時代に実績を残して、強豪校から勧誘を受けた選手たちは当然レギュラーになれると思って入ってくるけど、みんながみんな、活躍できるわけではない。チャンスをつかめない選手が違う方向に行ってしまうこともあるでしょう」

小さな町から日本一になった箕島の野球部員は、みんなが同じ方向を見ながら野球に打ち込んでいた。それができたのは、カリスマ監督である尾藤の存在が大きい。

「僕たちが高校生だった頃、練習中に笑う監督なんかどこにもいませんでした。尾藤さんはバックネットの前に椅子を置いて、ガーンと座っていました。サングラスをかけているので、どこを見ているのかわからない」

鉄拳指導が当たり前だった時代
 
昭和の高校野球ではスパルタ練習と暴力的な指導が当たり前だった。

「どこの高校でも、鉄拳が飛ぶのは珍しくない。練習試合中に相手の監督が選手をぶっ飛ばすのを当たり前のように見ていました。ミスをしたらケツバット。それが体罰だとは、選手も親も思っていなかったでしょうね」

石井よりも6学年下の筆者は愛媛県のいたって穏やかな町で生まれ育ったが、学校で教師が生徒に暴力をふるうシーンを何度も目撃している。昭和50年代、教育現場に暴力が蔓延していたのは事実だ。野球部だけが特別ではなかった。

「だから、ミスをしたら自分たちから『お願いします』と言って尻を出していましたよ。まあ、いつものことでした」

暴力的な指導が正しいはずはない。令和になった今、それを「よし」とする野球関係者はもういない。だが、怖い監督のもとで厳しい練習を積むことが日本一への近道だと当時は本気で考えられていた。甲子園で上位まで勝ち上がる名門、強豪で日常的に暴力的な指導が行われていたことは多くの元球児が証言している。

「練習試合でミスをした選手が、ファンの人たちの前で正座させられたり、はたかれたりということが普通にありました」

しかし、昔のことを現在のルールで批判するのはフェアではない。

「今では『なかったこと』にされていますけど、ね。暴力的な指導のおかげで勝てたとも思わないし、恨んでいるということもありません」

そういう前提の上で、高校野球の強豪校が練習を積み、腕を磨いたという事実があるだけだ。

「僕たちは、そういう時代を生きたんだと思います」

               〈つづく〉

📝「水分補給もして、ドクターもいた」ど根性野球の昭和に甲子園連覇した公立高の“先進性”「県大会は勝って当然…校歌をちゃんと歌え、とクレームも」
https://news.yahoo.co.jp/articles/cf2e933394cfd487f211d7c6c2521a8c75f72ab4

甲子園出場を目指す高校、日本一を狙う強豪では日々、休むことなく猛練習が続けられていた。それは箕島だけではなかったはずだ。だが、彼らがほかを圧倒する強さを身につけることができたのはなぜだろうか。箕島野球部を支えるものがあったからだ。エースだった石井毅(現・木村竹志)が回想する。

箕島は練習中も適度に水分補給をしていた

「あの頃、スポーツ界では『練習中に水を飲んではいけない』という常識がありましたよね。でも、箕島はそうじゃなかった。ベンチに水筒が置いてあって、適度に水分補給をしていました。夏場は、午前中に練習をしたら、暑い時間帯は休憩に充てて、少し気温が下がってから練習を再開する。ただ闇雲に猛練習をしていたわけではありません」

半世紀前にそうした体制を敷いた野球部は多くなかった。強豪となればなおさらだ。そういう方針を立てたのは、尾藤公監督に専門家の意見を取り入れる度量があったからだろう。

「箕島のチームドクターのような形で、楠本博一先生という内科の先生がおられました。その方に、人体模型を見ながら人間の体の構造を教えてもらいました。『どうすれば速いボールを投げられるのか』『故障を防ぐためにどうすればいいのか』を知ることができました」

楠本との会話のなかから石井はピッチングのヒントも得た。

「人間の目の構造をもとに、どんな配球をすれば打ちにくいかということもわかりました。インコース高めのボールのあとにアウトコース低めに投げると遠く感じるというようなことですね。あとはバッターの体型によって、打ちやすいコースやバットを出しにくいコースがあるということも」

医者から聞く話を参考に、ピッチングに関する引き出しを増やしていったのだ。 

「練習後に先生の自宅におじゃまして、ご飯をごちそうになることも多かったですね。その時に、トレーニング方法や体調管理についてもアドバイスしてもらいました」

エアコンで就寝、血液検査や栄養管理も
 
当時からすれば、常識的とは言えないものもあった。

「真夏に寝苦しい時にはエアコンを入れてちゃんと寝るようにと指導を受けました。だから、僕の部屋にだけクーラーがあって。タイマーをかけて就寝することで、十分な睡眠がとれました」

根性、根性、ど根性の昭和の野球で、「ピッチャーは肩を冷やすべきではない」という指導が多かった。しかし、先進的な考え方を取り入れていたから箕島は強かった——石井はそう証言する。
現在の高校野球では休養、栄養を重視するようになっているが、箕島はそれを早くから実践していたということだ。

「選手が血液検査を受けて、『ビタミンが足りない』などと教えてもらいました。僕の姉が食物科で学んでいたこともあって、楠本先生のアドバイスを参考にしながら、栄養管理をしてくれました。『朝はこれ、夜はこういうものを食べなさい』と。もし体重が落ちるようなら、寝る前にアンパンを食べたほうがいいというように」

身長172センチ、体重60キロ台の石井が、連投に耐えられたのは普段からの体力づくり、コンディショニングの賜物だろう。

「アイスノンってあるじゃないですか、患部を冷やすものが。箕島ではそれをお湯で温めて、ピッチング練習が終わったあと、ピッチャーのひじや肩に当てていました。酷使した部分の血行をよくして回復を促すという方法ですね。おかげで僕は、ひじも肩も痛めたことがありませんでした」

とても、50年前のこととは思えない。

「今の高校生がやっていることをその当時から箕島でやってもらっていたということですね。ケガをした場合の医療体制も整っていましたから、安心してプレーできました。もちろん、故障の予防法も教えてもらっていました」

ちなみに1979年夏の甲子園の3回戦。星稜(石川)との延長18回の戦いのあとにも、その強みが発揮されたという。

「外科の先生にもチームドクターとしてついてもらっていました。僕は試合中に中指に血豆ができて、それを潰してしまったんですが、すぐに処置してもらいました。セカンドの上野山善久が高熱を出していたので、20時に試合が終わったあと食事をしてから先生の車で箕島まで戻り、栄養剤を打ってもらいました」

20代の若さで日本一にのぼりつめた尾藤の懐の深さ、厳しい練習とチームの一体感、先輩たちから受け継がれた勝者のメンタリティ、そしてスポーツ医学の活用。これらがうまくミックスされていたからこそ、箕島は強かったのだ。

和歌山大会、初戦のピンチにメンバーは……
 
しかし、監督も選手も学校関係者も「勝って当たり前」と思っていたその夏の和歌山大会。1回戦でいきなりピンチが訪れた。

「和歌山大会の1回戦、開会式直後の試合で市立和歌山商業(現・市立和歌山)と対戦したんです」

市立和歌山商業は、1960年代に3度も甲子園に出場した名門のひとつ。藤田平(阪神タイガース)、正田耕三(広島東洋カープ)など名選手をプロ野球に送り込んでいる。

「和歌山大会の事実上の決勝戦と騒がれていました。市和商のセカンドは同じ3年生の正田が守っていました。4回に正田のエラーから箕島が1点を取って、そのまま1対0で9回まで進んだんですけど、最後にピンチになりました」

9回裏、市和商の攻撃はツーアウト満塁、一打サヨナラの場面だ。

「内野手とキャッチャーがマウンドに集まってくれたんですけど、みんなが口々にいろいろなことを言うんですよ。『負けたら丸々、夏休みやな、海で遊ぼうや』とか。『打たれろ』とかね(笑)。サードの浦野泰之は『俺んところに飛んできたら絶対にエラーするけど、文句言わんでくれよ』と言う」

市和商のバッターの打球はサードにふらふらと上がり、浦野が捕って試合終了となった。

淡々と勝利し「校歌をちゃんと歌ってないやないか!」
 
誰もが緊張する大会の初戦、強敵に競り勝った箕島。その後はいつも通り、淡々と勝ち上がっていった。

「和歌山大会は全試合、テレビ中継があったんですけど、試合を見た視聴者から『試合後の校歌斉唱の時、箕島の選手は歌ってないやないか! 』というクレームがあったそうです」

勝って当たり前という意識が悪い方向に出たのかもしれない。

「あとで『そのへんはちゃんとせいよ』と注意を受けたことを覚えています」

強敵を退けた箕島は準決勝で桐蔭を4対0、決勝で田辺商業を5対1で撃破し、2年連続の夏の甲子園出場を決めた。

「優勝が決まった瞬間、普通なら選手たちがマウンドに集まってワーッとなるんでしょうけど、キャッチャーの嶋田宗彦と握手をして終わり。ほかの選手たちも喜んで抱き合うみたいなことはありませんでした」

センバツ王者が当然のようにつかんだ夏の甲子園への出場権だった。

               〈つづく〉
2026/08/31(月) 22時24分50秒 No.2593 編集 削除